古高俊太郎と池田屋事件の関連地

滋賀県守山市古高町、福寿院境内に建つ古高俊太郎顕彰碑
父が大津代官の手代を勤めていたこともあり、俊太郎自身は大津で生まれたとも云われていますが、古高家は代々この古高郷を領する郷士でした。
長じて京都へ上り、養子として枡屋を継いで枡屋喜右衛門(七代目)を名乗り、長州系の志士と倒幕派公卿らの橋渡しをするなど、彼らを支援する働きを見せました。

京都四条小橋真町、古高俊太郎邸址

ここに枡屋がありました。
元治元年六月五日の朝、突如として新選組に踏み込まれ、枡屋喜右衛門こと古高俊太郎は連行されます。
俊太郎を屯所である壬生の前川邸で拷問にかけ、その口から倒幕派志士たちの恐ろしい計画のあることを知った新選組は直ちに会津藩にも諮り、当日の夜に祇園会所に集結して市内探索に出動します。
これが有名な「池田屋事件」の端緒となったのでした。。。

当時の位置関係図
こうして見ると、古高邸と池田屋は目と鼻の先だったのですね。

古高奪還を狙う倒幕派志士らが集い、新選組の近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助が踏み込んだ三条小橋の池田屋址。

三条小橋

三条大橋

三条大橋の擬宝珠に残る刀疵
一説に、池田屋事件の際につけられたものとも云われているようですが…それはどうでしょうか。
それならむしろ、三条制札事件の時の方が可能性が高いようにも思えます。

ちなみに制札場は三条大橋西詰、あのスタバ付近に設けられていました。
近江の古高郷、古高俊太郎顕彰碑を訪れた筈なのにすっかり京都・池田屋事件巡りみたいになってしまいました…(^_^;)
次は再び時代を戦国へ移し、近江一向一揆の拠点へ向かいます。
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