永原御殿 -徳川三代の御茶屋御殿-

永原御殿跡(野洲市)に到着。
江戸時代初期、家康・秀忠・家光の将軍三代上洛時の休憩・宿泊所として築かれた御茶屋御殿です。
御殿とは言っても、そこは権勢を欲しいままにした徳川三代。本丸・二之丸・三之丸から成り、堅固な堀や土塁を廻らせた豪壮な城郭建築でした。
ところが、家光の上洛を最後に幕末の十四代将軍・家茂の時まで徳川将軍の上洛は途絶え、役目を失った永原御殿は次第に荒れ果て、現在ではご覧のような藪と化してしまいました。
図面

永原御殿の図面
現在地と書かれたポイントから三之丸と二ノ丸の間を抜け、時計回りに二ノ丸と本丸の外側から観ていきます。

図面に緑のラインをひいたポイント。
この舗装路の形がそのまま堀のラインを象っていました。右の田圃は堀跡となります。

藪(樹木)の切れ目を境に、左が二之丸で右は本丸。
訪問時は伸びた稲でよく見えませんでしたが、本丸側には石垣も一部残っています。

ほら、稲が刈り取られている状態の写真を見ると一目瞭然☆
(図面1ポイント/写真提供:あっぴん。さん)

図面2から→の方向を見た様子。
右が二之丸で左は本丸、間の切れ目はお堀でした。

図面3の堀跡
ここも稲刈り後であれば結構、分かり易いんじゃないかな。地表面にはっきりと堀の痕跡が窺えます。

全く整備の手が入っていない現状で、本丸や二之丸跡には足を踏み入れることも叶いませんが、あの藪の中には結構状態の良い遺構が眠っているんじゃないかな?と期待を抱かせるものがありました。
(三之丸跡には住宅が数軒建っています)

近くにある銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館)には、永原御殿の立派なジオラマが展示されています。
全体像や規模が分かり易いので、御殿跡訪問前に見学しておくことをお勧めします♪
ところで、この永原の地は織田信長にも関わりがあります。
元亀元年四月、朝倉攻めの最中に妹婿で同盟者の浅井長政の裏切りに遭い、即座に京へ撤退した「金ヶ崎の退き口」の直後、信長は京⇔岐阜間の連絡路確保のため、永原に佐久間信盛を配しているのです。
これにて初日の行程は終了。
この後は近江八幡で軽く食事した後、あっぴん。さんと別れてホテルにチェックイン。
あっぴん。さん、今回もお世話になりました。ありがとうございます♪
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