旧前川邸の蔵、輪違屋、etc...
二日目の朝、京都駅前でみかんさんと合流し、バスで集合場所の四条大宮へ向かいます。
そう、今回京都へ来た一番の目的は、朝日カルチャーセンターさんが主催する講座「霊山歴史館学芸課長といく、新選組結成の地・壬生」(講師:木村武仁先生)に参加することだったのです☆
この講座への参加を決めた理由、それは何と言っても普段は絶対に拝むことのできない旧前川邸の蔵を見学できるからです!
さすがに参加者も多く、総勢55名。それでも締め切った後も参加希望者が絶えなかったのだとか…(;・∀・)
まずは光林寺から。新選組隊士たちの墓所がある光縁寺のお向かいです。
幕末の志士たちが愛読したという「日本外史」の著者・頼山陽の遺髪をおさめたお墓があります。葬儀もこちらで執り行われたそうです。
そして光縁寺、山南敬助をはじめとする隊士たちの墓所にもお参り。
ちなみに隊務中の戦闘や病気で亡くなった隊士は壬生寺に葬られており、こちらの光縁寺には主に法度違反などで切腹、粛清された隊士たちが葬られているそうです。
じゃあ、芹沢鴨は何故壬生寺にお墓があるの?と思ってしまいますが、芹沢や平山五郎らの粛清(暗殺)は表向きは「長州の仕業」ということにしたためでしょうね。
ちなみに山南さんらのお墓、元々は墓地のすぐ北を通る嵐山本線の線路辺りにありました。
線路敷設に伴い、墓石だけを現在地に移しています。
という訳で、今も山南さんらが眠っていると思われる場所・・・
さあ、いよいよ旧前川邸です。胸の高鳴りを抑えきれません!
参加者が55名と多かったため、3グループに分かれて順番に蔵を見学させていただきました。
そう、池田屋事件の朝、土方歳三らが古高俊太郎を拷問にかけたと云う、あの蔵です…(≧▽≦)
※写真撮影は許可されていましたが、blog、twitter、Facebook等への掲載は一切禁止とのことでしたので、私の拙い文章だけであしからず。
天保年間に建てられた旧前川邸の蔵。勿論、手入れされているお蔭もあるでしょうが老朽化をあまり感じさせず、今でも堅牢な佇まいでした。
現在の家主である田野家が越してきたのは昭和20年。当初はそこが新選組の屯所だったことすら知らなかったのだとか。以来、古高俊太郎を吊るしたと思しき滑車の縄はその時のまま、一度も変えていないそうです。
…まぁ昭和20年とはいえ、その時点で既に池田屋事件から80年が経過していますけどね。
興奮しながらシャッターを切るのに夢中で、何が何だか分からないうちに見学時間は終了してしまいました。
しかし、取り外された出窓(車に引っ掛けられて壊れたのだとか…)に残る刀疵も観れたし、とにかく大満足☆
八木邸前から振り仰ぐ旧前川邸の蔵。
あの左奥の窓が見学させて頂いた蔵の二階。あの窓から八木邸方向を覗いてみたりもしました (^^)v
新徳寺本堂(手前)
文久3年、上洛した浪士組の面々を集めて清河八郎が尊王攘夷、東帰の演説をぶった場所です。
この時に反対して京に残ったのが芹沢鴨、そして近藤勇らの一派でした。
壬生寺
新選組が軍事演習をしていた境内。屯所を西本願寺へ移した後も、大砲の演習をする時はわざわざこちらへ来て行っていました。
折角壬生から出て行ったと思ったのに…とんだぬか喜びだったでしょうね(笑)
最後に壬生塚にお参りしてから、講座は解散になりました。
貴重な体験をさせていただいた木村先生や主催者の方々には本当に感謝☆
※壬生塚に、芹沢鴨らの墓に並んで河合耆三郎の立派な墓石があります。
彼は原因ははっきりしませんが、法度違反のかどで切腹させられています。その為、本来であれば光縁寺に葬られるべきであり、実際に光縁寺の連名墓にもその名が刻まれています。
ところが河合の切腹を知った彼の父は大変怒り、供養のために別に立派な墓を壬生寺に建てたのでした。
講座解散後、昼食を挟んでみかんさん、すばるちゃんと一緒に島原へ。
こちらも9月30日までの特別公開(しかも10年ぶり!)、輪違屋へ♪
襖に貼られているのは、太夫さんたちの恋文や逢状です…(´艸`*)
キリシタン灯篭の置かれた庭
屏風に仕立てられた近藤勇の書!( ・`д・´)
そして、メインとなる二階部分は撮影禁止で写真はありませんが、「傘の間」も「紅葉の間」もしっかりと拝観いたしました!
これまた貴重な体験ができて幸せな時間でした♪
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