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2014年9月

2014年9月30日 (火)

旧前川邸の蔵、輪違屋、etc...

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二日目の朝、京都駅前でみかんさんと合流し、バスで集合場所の四条大宮へ向かいます。

そう、今回京都へ来た一番の目的は、朝日カルチャーセンターさんが主催する講座「霊山歴史館学芸課長といく、新選組結成の地・壬生」(講師:木村武仁先生)に参加することだったのです☆
この講座への参加を決めた理由、それは何と言っても普段は絶対に拝むことのできない旧前川邸の蔵を見学できるからです!

さすがに参加者も多く、総勢55名。それでも締め切った後も参加希望者が絶えなかったのだとか…(;・∀・)

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まずは光林寺から。新選組隊士たちの墓所がある光縁寺のお向かいです。
幕末の志士たちが愛読したという「日本外史」の著者・頼山陽の遺髪をおさめたお墓があります。葬儀もこちらで執り行われたそうです。

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そして光縁寺山南敬助をはじめとする隊士たちの墓所にもお参り。

ちなみに隊務中の戦闘や病気で亡くなった隊士は壬生寺に葬られており、こちらの光縁寺には主に法度違反などで切腹、粛清された隊士たちが葬られているそうです。
じゃあ、芹沢鴨は何故壬生寺にお墓があるの?と思ってしまいますが、芹沢や平山五郎らの粛清(暗殺)は表向きは「長州の仕業」ということにしたためでしょうね。
ちなみに山南さんらのお墓、元々は墓地のすぐ北を通る嵐山本線の線路辺りにありました。
線路敷設に伴い、墓石だけを現在地に移しています。

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という訳で、今も山南さんらが眠っていると思われる場所・・・

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さあ、いよいよ旧前川邸です。胸の高鳴りを抑えきれません!
参加者が55名と多かったため、3グループに分かれて順番に蔵を見学させていただきました。
そう、池田屋事件の朝、土方歳三らが古高俊太郎を拷問にかけたと云う、あのです…(≧▽≦)
※写真撮影は許可されていましたが、blog、twitter、Facebook等への掲載は一切禁止とのことでしたので、私の拙い文章だけであしからず。

天保年間に建てられた旧前川邸の蔵。勿論、手入れされているお蔭もあるでしょうが老朽化をあまり感じさせず、今でも堅牢な佇まいでした。
現在の家主である田野家が越してきたのは昭和20年。当初はそこが新選組の屯所だったことすら知らなかったのだとか。以来、古高俊太郎を吊るしたと思しき滑車の縄はその時のまま、一度も変えていないそうです。
…まぁ昭和20年とはいえ、その時点で既に池田屋事件から80年が経過していますけどね。

興奮しながらシャッターを切るのに夢中で、何が何だか分からないうちに見学時間は終了してしまいました。
しかし、取り外された出窓(車に引っ掛けられて壊れたのだとか…)に残る刀疵も観れたし、とにかく大満足☆

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八木邸前から振り仰ぐ旧前川邸の蔵。
あの左奥の窓が見学させて頂いた蔵の二階。あの窓から八木邸方向を覗いてみたりもしました (^^)v


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新徳寺本堂(手前)
文久3年、上洛した浪士組の面々を集めて清河八郎が尊王攘夷、東帰の演説をぶった場所です。
この時に反対して京に残ったのが芹沢鴨、そして近藤勇らの一派でした。

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壬生寺
新選組が軍事演習をしていた境内。屯所を西本願寺へ移した後も、大砲の演習をする時はわざわざこちらへ来て行っていました。
折角壬生から出て行ったと思ったのに…とんだぬか喜びだったでしょうね(笑)

最後に壬生塚にお参りしてから、講座は解散になりました。
貴重な体験をさせていただいた木村先生や主催者の方々には本当に感謝☆

※壬生塚に、芹沢鴨らの墓に並んで河合耆三郎の立派な墓石があります。
彼は原因ははっきりしませんが、法度違反のかどで切腹させられています。その為、本来であれば光縁寺に葬られるべきであり、実際に光縁寺の連名墓にもその名が刻まれています。
ところが河合の切腹を知った彼の父は大変怒り、供養のために別に立派な墓を壬生寺に建てたのでした。


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講座解散後、昼食を挟んでみかんさん、すばるちゃんと一緒に島原へ。

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こちらも9月30日までの特別公開(しかも10年ぶり!)、輪違屋へ♪

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襖に貼られているのは、太夫さんたちの恋文や逢状です…(´艸`*)

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キリシタン灯篭の置かれた庭

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屏風に仕立てられた近藤勇の書!(  ・`д・´)

そして、メインとなる二階部分は撮影禁止で写真はありませんが、「傘の間」も「紅葉の間」もしっかりと拝観いたしました!

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これまた貴重な体験ができて幸せな時間でした♪

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大雲院、建勲神社、下鴨神社

9月最後の週末、今年(2014)になって早くも4度目の京都入りです…(^_^;)

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まずは東山の大雲院へ。
9月末まで祇園閣が特別公開されていました。金閣・銀閣に次ぐ「銅閣」とも呼ばれたりします。

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祇園閣
現在大雲院が建つ場所には元々、大倉喜八郎という人物の別荘があり、祇園閣はその大倉が昭和初期に祇園祭の鉾を模して建てたものです。

そもそも大雲院は天正15年(1587)、安土宗論でも有名な貞安上人が、二条御所で非業の最期を遂げた織田信忠の菩提を弔うため、その二条御所跡地(烏丸御池)に創建したのが始まりです。
その後、豊臣秀吉による都市改造で寺町四条下ルへ移り、更に昭和47年に高島屋京都店の増床に伴い、大倉喜八郎の旧邸跡を買収して移転、現在に至ります。

大雲院の寺号も織田信忠の戒名「大雲院三品羽林仙巖大居士」に由来しています。
安土宗論についてはコチラ の記事をご参照ください。

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従って境内には信忠と、その父・織田信長を供養する墓所があります。

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本能寺の変に散った織田信長・信忠父子の供養墓

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大雲院には他に、こんな方のお墓もあります…石川五右衛門
これは彼が処刑される前、京都市中を引き回された際に大雲院前に差し掛かり、貞安上人が引導を渡した縁によるものだそうです。


さて、バスで少々移動して次に向かったのは、、、

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洛北、船岡山に建つ建勲神社

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明治2年、時の明治天皇の御下命により創建された織田信長公を祀る神社です。

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狛犬の台座にも織田木瓜

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「敦盛」の一節

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神門(祝詞舎)越しに本殿

歴史は浅い神社ですが、織田信長を祀るだけあって;

義元左文字
→桶狭間合戦で討ち取った今川義元が帯びていた差料。「永禄三年五月十九日義元討補刻彼所持持刀織田尾張守信長」の刻印があります。

信長公記
太田牛一自筆本の巻一~巻十五

が奉納されています。

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境内に蔵のようなもの(写真は祭器庫)があったので、或はここに保管されているのかも…?などと想像しながら参拝いたしました♪


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糺の森参道を抜け、、、

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この日最後は下鴨神社へ。
こちらでも大炊殿神服殿が特別公開されていました。(9月30日まで)

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神様へのお供え物を調理する台所、大炊殿

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こちらは神服殿(殿内撮影禁止のため外観のみ)
夏と冬、御神服を奉製する御殿であったため、この名がついています。

殿内には天皇行幸の際の玉座の間があり、普段は御簾が下りているので「開ずの間」とも呼ばれていますが、今回は特別拝観に合わせて上げてありました。

また、その隣の一間には今上天皇・皇后両陛下がお渡りになり、祝詞奏上をお受けになる際にお掛けいただくためにと、神社側が用意した菊の御門入りのそれは立派な椅子が置かれていました。
ところが両陛下は「祝詞奏上を受けるのに腰を掛けたままとは、とんでもないこと」と直立不動の姿勢のままお受けになったそうです。
そんな訳で、その立派な椅子には未だかつて誰も座ったことがないのだとか…(;・∀・)

貴重な空間を拝観できてよかったです☆

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最後はバスで京都駅まで戻り、ホテルにチェックイン。
翌日に控えた、今回の旅のメイン・イベントに備えます。

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2014年9月23日 (火)

拝島大師、大日堂 - 武田信玄の本陣跡?

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本日は自宅から車で10分足らずの場所にある拝島大師へお参りしてきました。

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拝島大師本覚院
慈恵大師良源を祀る天台宗の寺院で、尊像は慈恵大師が生前自ら彫ったとも云われます。
永く比叡山に伝わっていましたが、元亀2年9月の織田信長による延暦寺焼き討ちの難を逃れ、諸国を転々とした後にこの地へ伝わりました。

周囲には古刹大日堂や、天台宗の守護社である日吉神社などが建ち並び、ちょっとした天台宗境域(寺域)を形成しています。

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この上に建つのが大日堂

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大日堂
元々の創建は952年と伝えられます。
戦国期、滝山城築城の際にその鬼門除けとする為、この地に移されたと云います。ところが・・・

永禄12年(1569)、関東へ侵攻した甲斐武田軍は小田原への途次、その滝山城を攻めます。この時、総大将の武田信玄が本陣を布いた場所こそ、この大日堂の辺りだったとの伝承が残っているのです。
つまり、お城の守りの筈が敵将の本陣に利用されちゃったということ。

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大日堂から仁王門越しに滝山城方面(正面奥に見える尾根)
信玄もこの場所から戦況を見守ったのでしょうか。。。

ちなみに、城攻めの大将は勝頼に命じています。
勝頼の布陣位置攻城ルートについても自分なりの考察を書いたことがあるので、よろしければコチラ を参考までに…。

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2014年9月20日 (土)

特別展「高須四兄弟」と、高須藩上屋敷跡

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とある昼下がり、ふらりと新宿歴史博物館へ。
お目当ては勿論、平成26年度の特別展「高須四兄弟 新宿・荒木町に生まれた幕末維新」です。

高須四兄弟とは一般に、美濃高須藩10代目・松平義建の子息のうち;

◆次男:慶勝
尾張藩14代藩主(尾張徳川家14、17代当主)

◆五男:茂栄
高須藩主(義比)~尾張藩15代藩主(茂徳)~一橋家当主(茂栄)

◆七男(会津松平家系図では六男):容保
会津藩主(京都守護職)

◆八男:定敬
桑名藩主(京都所司代)

以上の4名を指します。
高須藩自体は3万石の小藩ですが、御三家尾張藩2代目の光友の次男・義行が立藩しており、尾張の支藩的な存在として宗家に嗣子なき時は養子に入ってこれを相続してきました。

小さな博物館の割には思いの外(と言っては失礼ですが…)充実の展示内容で、特に;

・孝明天皇宸翰写「一橋徳川家文書」
・孝明天皇御製
・松平容保宸翰添書
・緋色地唐草葵紋錦袋
・会津藩家訓…松平容保、山川浩筆

などを拝観できて良かったです。
変わったところでは、鳥羽伏見戦後、徳川慶喜が大坂城を脱して江戸へ無事帰還したことを祝った(皮肉った?)慶勝の書状も興味深かったです…(;^ω^)
この頃の慶勝は明治新政府の議定に任ぜられ、小御所会議において決定した慶喜に対する辞官納地催告の通告役にも指名されており、慶喜(旧幕府軍)が退去した後の大坂城受け取りの大役も果たしています。

1000円で販売している図録もgood!


ところで、新宿歴史博物館のすぐ近くには新宿区荒木町(江戸期は四谷荒木町)という町名があり、ここにはかつて高須藩の上屋敷がありました。
江戸期の古地図だと「松平範次郎」と表記されていることもあります。「範次郎」は四兄弟の父・義建の通称です。
現在の地図に当てはめるとこのようになります。

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「高須四兄弟」展で展示されていた図面を参考にしました。
薄くグリーンをひいた部分が屋敷地で、青いのは庭園の池、茶色は御殿があったと云われる部分です。手書きなので多少の位置のズレはご容赦願います。
この庭園の風景を描写した絵図も展示されていました。(「松平摂津守様御庭之図」)

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津の守坂通り
高須松平家は代々「摂津守」を称しており(一部例外あり)、摂津(の)守の屋敷があったで、津の守坂

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天和3年(1683)、高須藩主の守護神たるべく、この地に祀られた金丸稲荷神社
(地図

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車力門通り
車力門は高須藩上屋敷の門の一つ。説明文には;

江戸時代、荒木町が松平摂津守の屋敷だった頃、「車力門横丁」と呼ばれ、物資が屋敷へ荷車で持ち込まれていた。

とあります。

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上屋敷跡地を歩いていると所々、極端な地形の高低差に出くわします。
これは位置的に、庭園の池(津の守池)の名残かなぁと思いますが…確信は持てません。

実はこの付近からは、池の排水用として設けられていた石組みの暗渠が見つかっています。この暗渠、なんと現在でも公共下水道として充分に機能を発揮していたとかで殆どをそのままに残し、再構築する必要のあった一部を撤去して落合水再生センターの敷地内に復元・展示されているそうです。

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この付近は御殿があったと推定される位置
すなわち・・・松平容保らが生まれた場所。(地図

美濃高須藩上屋敷。
石垣や堀、塀といった明確な遺構が残っているわけではないですが、暗渠のことを知った時は正直驚きましたし、紛れもなく幕末の歴史にその名を深く刻んだ四兄弟が生まれ育った場所
特別展示と合わせて、とてもいい歴史散策になりました。


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ちなみに荒木町のお隣の舟町には、天然理心流宗家を養子で後の新選組局長・近藤勇に譲って隠居した周斎先生(三代目近藤周平)の隠居宅がありました。


【参考】高須(岐阜県海津市)を訪れた時の記事はコチラ

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2014年9月18日 (木)

来島

しまなみ海道・村上水軍をめぐる旅も大詰め。
ラストは三島村上水軍の残る一つ、来島へ渡ります。

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来島へは今治の波止浜港から出ているこちらの渡船を利用します。
所要僅か5分、しかも往復で280円という安さ!(2014年9月現在)

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大型タンカーが居並ぶ港を抜けると、すぐに来島が見えてきます。
いよいよ上陸です。


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来島城図

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来島南端、西防波堤近くにある八千矛神社

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同じく南西側から北東方向を見上げる。
この左手の高台の上に、図でいうなどの郭が築かれていました。

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とっても長閑な雰囲気が漂います。

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では、来島城の郭群に取り付きます。

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早速出迎えてくれたのは、郭下に残る石垣。

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島のほぼ中央、やや東寄りに位置する心月庵城主屋形跡と推定されています。

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心月庵の背後、Ⅹ郭との間に残る石積み

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城主館跡の心月庵より一段高くなっており、東側の眺望が開けています。
恐らく館を守り、且つ見張り台の役割をも担った郭だったのではないでしょうか。

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郭の石積み
ちょっと見え辛いですが、ずっと奥まで続いています。

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切岸で段を構成しながら、幾重にも連なる郭の数々。
ちなみに、これら郭群の西側は切り立った断崖になっていました。

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来島北寄り、登り詰めた所に本丸と比定される郭。

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とても細長く、不思議な形をしています。

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本丸から北方の眺め。

さて、一通り郭遺構を見て回ったところで時刻は午後3時前。
帰りの渡船は午後4時15分まで来ないので、満潮で無駄とは知りつつも、岩礁ピット(柱穴)を求めて北東側の岩礁地帯へ向かうことにしました。
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図で「地蔵堂」と書かれた辺りから。鉄塔の立っている場所が本丸になります。

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来てはみたものの、、、やっぱり岩礁帯は海面の下(;´・ω・)

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それでもどうにか、波の被らない位置で一つだけ見つけました♪

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念の為、北西側にも回り込んでみましたが、、、やっぱり無理ですね。

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仕方ないので皆、港でまったりと引き潮(&帰りの渡船)待ち。。。

帰りの渡船時刻も迫る午後4時、港で見ている限りはだいぶ潮も引いてきたようなので、最後の望みをかけて再び岩礁帯へ・・・

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確かに潮は引いていたものの岩礁帯に降り立てる程ではなく、これといったピットの確認には至らず…。
写真中央、小さな潮溜まりになっている部分も四角いピット痕に見えましたが、、、果たしてどうでしょう?

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ま、ピットはまた今後のモチベーションってことですかね☆

渡船で波止浜に戻った後は松山へ。
道の駅に寄ったりしながらも、予定時刻通りの午後6時、松山駅前で解散いたしました。

オフの2日間を通して天候にも恵まれたし、能島・因島・来島を初めとして予定していた行程もきっちりこなせて本当に良かった♪
これも参加者皆のお陰。改めて感謝です☆

今回初めて直に触れた瀬戸内海の雄・村上水軍。とは言っても、まだまだその端緒に触れただけ。
彼らの築いた海城や、活躍した瀬戸内の潮の激しさを実際に目の当りにして、改めてその“凄み”に魅きずり込まれる思いです。
何度でも訪れてみたい場所の一つになりました♪

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亀老山展望台、村上水軍博物館、そして能島へ・・・

9月14日(日)、旅の3日目(オフ会2日目)を迎えました。

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朝陽に輝く尾道水道
※この2日前、羽田から松山へ向かう飛行機からもハッキリ見えていました。

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午前7時過ぎ、全員揃ったところで尾道を出発です。
結局、尾道観光は全く出来なかったなぁ~

しまなみ海道を一気に大島まで南下し、まずは亀老山展望台へ。
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それにしても複雑怪奇な展望台だ…(^_^;)

・・・しかし!
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眺めはもう最高!!
前日の青陰城からの眺めと言い、これぞしまなみ!という景観を堪能できたので天候にも感謝☆海が青い!!

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ところで、亀老山中腹で偶然発見した看板・・・

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車を停めて暫く徒歩で登っていくと・・・

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南北朝期に活躍した村上水軍中興の祖、村上義弘のお墓。
彼の三代後に能島・来島・因島の、いわゆる三島村上へと派生していきます。

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次に向かったのは村上水軍博物館

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戦国後期、最盛期を迎えた村上水軍を束ねた能島村上家の村上武吉像。
他に武吉の長男・元吉、次男・景親の石像もありました。まさに小説「村上海賊の娘」で活躍している連中ですね。

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博物館3階の展望デッキより、能島を望む。
博物館の展示も能島村上水軍を中心に、とても充実した内容でした。

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マンホールも…♪

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能島上陸クルーズまでの時間に、博物館向かいの村上水軍で早めの昼食をとりました。
ちなみにクルーズもこちらから出航します。

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さぁいよいよ!
我々の他には夫婦1組がいるだけの、ほぼ貸切状態

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潮流も楽しみつつ・・・
(海底から湧き出るように渦を巻いていました)

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能島が近付いてきました。



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能島城跡の図
今回はガイドさんからいただいた案内図を元に見ていきます。

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遂に能島へ上陸を果たしました!
図で南部平坦地と書かれているポイントです。奥に東屋が見えている所は三之丸になります。
発掘調査の結果、この南部平坦地からは特に建物の痕跡を示すものは発見されず、調練をするような場所だったのでは?とも考えられているそうです。
なお、能島全体では17~18の建物跡が確認されています。

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残念ながら満潮につき、400にも及ぶ岩礁ピット(柱穴)痕は観られません…(;・∀・)
奥に鯛崎出丸(島)

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史跡能島城跡

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三之丸

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三之丸からは鍛冶場の痕跡が発見され、恐らくは船の修理にも使ったであろう釘が数多く出土しています。

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三之丸から南部平坦地越しに東南出丸鯛崎出丸を・・・

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三之丸北側は船だまりと推定されています。
確かに周囲は潮の流れがとても速いのに、ここだけはご覧の穏やかさ。

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この切岸の上が二之丸

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その二之丸から。左上は本丸
二之丸本丸の周囲をグルッと360度取り囲むように築かれていました。

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本丸
本丸からは井楼のものと思われる二間四方の掘立柱跡が発見されています。
それよりも凄いのはかわらけ。なんと1万点にも及ぶかわらけの破片が、この本丸から発見されました。
※なお、井楼(と思しき)掘立柱跡は二之丸三之丸矢びつからも発見されています(図の部分)。

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再び二之丸に下りて、東側へ。
紅白の細いポールが2本立っている位置からは、固い壁土の井戸のような遺構が発掘されているそうです。
しかし調べていくと井戸という程深くはなく、諸説ありますが水瓶ではないかとも考えられているようです。

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この先に伸びているのは、図で矢びつと書かれている部分。
対岸に向けて弓矢の練習をしていた場所、との伝承もあったそうですが、調査の結果、それを裏付けるような発見はなかったとのことです。

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矢びつから。
如何に周囲の潮流が速いか、一目瞭然ですね。

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矢びつから東部海岸越しに東南出丸鯛崎出丸を見た様子。

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矢びつ
実際のところは、能島城の北東側を警戒・監視する見張り台のような役割だったのではないでしょうか。

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ちなみに矢びつ付近にはの木がたくさん自生しています。
上陸される方は幹(枝)の部分が赤い木には充分にご注意ください。

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二之丸東側をてくてく・・・
右上が本丸になります。

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上陸ポイントの南部平坦地を見下ろす。
あの置かれているロープ、実は能島と鯛崎島を表していました。

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二之丸から見る東南出丸

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反対に東南出丸から見る(右から)本丸二之丸三之丸
こうして見ると、郭毎に綺麗に段差が築かれている様子がよく分かります。

これにて約1時間の能島滞在は終了。
ピットを見ることが出来なかったのは残念ですが、予想以上の遺構、そして何より「能島に降り立った」という喜び☆
とても楽しく、有意義な時間でした。改めてガイドさんや、クルージングを予約・手配していただいたあむさんに感謝です♪


さて、旅もいよいよ大詰め。
最後に三島村上水軍残る一つ、来島へ向かいます。

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2014年9月17日 (水)

因島水軍城、金蓮寺、青陰城

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因島到着後、まずは因島村上家菩提寺の金蓮寺へ。

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山門の瓦にも…♪

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村上水軍墓地
金蓮寺が現在地に移転した際、それまで各所に分散していた墓石・石塔類を集めたものと伝わります。
そのため、どの石塔が誰の墓石にあたるのかは分からなくなっていますが、因島村上一族とその家臣団のものと云われています。

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墓地から振り仰ぐと、因島水軍城の雄姿が・・・
※実際に村上水軍の城があった場所ではなく、資料館に併設された観光用の模擬天守です。

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早速行ってみましょう。

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現在、資料館ではご覧の特別展が開催されています。
書状や甲冑などの他、海中に逃れた敵を引っ掛けて捕獲するための熊手(やがらもがら)や、織田水軍を第一次木津川沖海戦で散々に苦しめた焙烙玉のレプリカなど、水軍独特の武器類も展示されていて楽しめました。

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水軍戦法会議の様子


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車で少し移動し、次は因島村上家の居城でもあった青陰城址へ。
青影山の中腹まで車で上がり、山頂の城域までは20分ほどの登山になります。


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青陰城址図

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登城(登山)路を登っていくと、まずは図でいう郭に出ます。

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そして

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このⅡ郭からの眺めが素晴らしかった・・・

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Ⅱ郭から、本丸と推定されるⅠ郭へと続く尾根道。

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郭にて

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ここからは、先程までいた因島水軍城を眼下に収めることが出来ます。
写真やや左寄りの尾根上。分かります?

因島村上水軍の居城にしてはこじんまりとした印象ですが、郭の遺構が分かり易くてよかったです。
何と言っても、これぞしまなみ!な絶景を拝むこともできたしね♪


青陰城(青影山)下山後は今夜の宿泊地、尾道へ。

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最近、城好きの間で何かと話題?の、、、尾道城(;・∀・)
天守閣風の建築物というだけで、歴史的根拠はありません。しかも、もはや廃墟といった風情・・・

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一旦ホテルに入った後は、尾道水道沿いのこちらのお店で懇親会♪
美味しい海の幸とお酒で時間が過ぎるのも忘れ、楽しく盛り上がりました☆

…お蔭で〆に狙っていた尾道ラーメンを食べそびれてしまいましたとさ(笑)

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2014年9月16日 (火)

甘﨑城、大山祗神社

9月13日(土)、旅の2日目。
いよいよ、しまなみ海道・村上水軍めぐりオフのスタートです。

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朝、宿の近くで見かけた松山城を乗っけた郵便ポスト。

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路面電車に乗って集合番所の松山駅へ。

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午前10時に全員集合し、車2台に分乗していざ出発!
1時間30分ほど海沿いの国道を北上し、今治ICから西瀬戸自動車道、いわゆる「しまなみ海道」に突入します!

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来島海峡大橋を快走中~♪

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大三島ICで下り、まずは道の駅「多々羅しまなみ公園」で昼食。
幻の高級魚マハタ×伯方の塩がコラボしたラーメン、美味しかったなぁ~♪

写真は写真は多々羅大橋と生口島の眺め。
大三島までが愛媛県で、あちらの生口島からは広島県になります。

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昼食後は道の駅からすぐ近くの甘﨑城へ。
日本最古の水軍城とされ、村上水軍の拠点の一つです。

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甘﨑城想像復元画
この甘﨑城、大潮の干潮時には道が出現して渡れるらしいのですが、、、

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残念ながら訪問時はほぼ満潮…(;^ω^)

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渡船が出ている訳でもないし、結構レア度の高い城跡ですね。
いつかチャンスがあれば・・・


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さて、次は同じ大三島にある大山祗神社へ。

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御神木、乎知命御手植の楠。なんと樹齢2600年!

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大山祗神社は、日本全国にある三島神社や大山祗神社の総本社とされ、古来より山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めてきました。

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こちらは河野通有兜掛の楠

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大山祗神社に参拝したら、こちらの宝物館に寄らない手はありません。
源平期を中心に、数多くの部将たちが武具を奉納して武運長久を祈ってきたため、特に甲冑に至ってはなんと、全国の国宝・重要文化財の指定を受けたものの約4割が大山祗神社に集まっているのだそうです。
特に;

・源義経奉納「赤糸威鎧大袖付」(八艘飛びの鎧
・鶴姫所用「紺糸裾素懸威胴丸

には感動しました☆
私が日本史にハマるキッカケとなったのは、小学校2年生の時に祖母から贈られた「まんが日本の歴史 全20巻」。
その中で紹介されていた大山祗神社宝物館にも憧れを抱いてきました。今回、期せずして30年越しの念願も叶って感無量です。

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神社境内脇には鶴姫ロードなるものがあり、鶴姫の銅像が何体か設置されていました。


さて、この後は因島へ。
三島村上の一つ、因島村上水軍関連地を巡ります。

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2014年9月15日 (月)

伊予松山城

9月13~14日の2日間は珍しく私自身が幹事役となり、能島上陸をメインとしたしまなみ海道・村上水軍めぐりのオフ会を開催いたしました☆

その前日の9月12日、私は単身オフ会の集合場所である松山へ前乗り。折角なので3年ぶりの松山城を堪能してきました♪
※3年前のレポはコチラ (旧HP)

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行きの飛行機から撮影した関ヶ原上空。

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その関ヶ原を中山道が抜けた先、琵琶湖米原・彦根の上空。

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こちらの一枚には、佐和山城も彦根城も、安土城、観音寺城、八幡山城もぜ~んぶ写っています♪どれがどれだか、分かりますか?
上空から古戦場などの歴史の舞台を見るのも、空旅の密かな醍醐味です♪

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松山が近付くにつれ雲が多くなってきました。
着陸態勢に入った頃の、空と雲の見事なコントラスト☆

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さ、やってきましたよ!

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松山城案内図
前回は二之丸史跡公園経由で本丸へと登ったので、今回は登り石垣伝いに攻めてみます。

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登り石垣
本当に規模と言い長さと言い、素晴らしいんですけどね・・・

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如何せん藪が凄くてマトモに見える箇所が少ない・・・

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たまにこうして開けても・・・

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すぐにまた・・・
木を全部伐採しろなどと言うつもりはありませんが、細々とした藪を払うだけでも全然違うと思うんですよね。折角のこれだけの遺構なんですから。

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さて、本丸に到達しました。

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筒井門

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筒井門を本丸内側から。左に隠門が見えます。

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前回も思ったことだけど、手前の管理棟?が…(^_^;)

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石垣も立派だね~

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天守

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この複雑に入り組んだ感じが好き。

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小天守から天守を・・・

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そして天守最上階からの眺め。
この本丸越しに見下ろす松山市街の眺めが特に好きです。

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あのNHKドラマ「坂の上の雲」で有名なこのワンシーン。
秋山兄弟や、のぼさん(正岡子規)役の彼らを撮影したのは・・・

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ここ。

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乾門の外から振り返って・・・

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やっぱりいいね、松山城は♪

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今回はこの辺で。きっとまた来る!

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リフトで下山後は秋山兄弟生家跡に立ち寄りつつ、大街道に取った宿へ向かい、、、

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夜は一献♪
懐かしくなって3年前と同じ店に入ってみました。
鯛の刺身を丼に乗せ、だし汁を混ぜてといた卵をかけて食す「ひゅうが飯」に、地物の刺し盛り4種、伊予牛のタタキ♪

次回からいよいよオフ会スタートです☆

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