特別展「高須四兄弟」と、高須藩上屋敷跡

とある昼下がり、ふらりと新宿歴史博物館へ。
お目当ては勿論、平成26年度の特別展「高須四兄弟 新宿・荒木町に生まれた幕末維新」です。
高須四兄弟とは一般に、美濃高須藩10代目・松平義建の子息のうち;
◆次男:慶勝
尾張藩14代藩主(尾張徳川家14、17代当主)
◆五男:茂栄
高須藩主(義比)~尾張藩15代藩主(茂徳)~一橋家当主(茂栄)
◆七男(会津松平家系図では六男):容保
会津藩主(京都守護職)
◆八男:定敬
桑名藩主(京都所司代)
以上の4名を指します。
高須藩自体は3万石の小藩ですが、御三家尾張藩2代目の光友の次男・義行が立藩しており、尾張の支藩的な存在として宗家に嗣子なき時は養子に入ってこれを相続してきました。
小さな博物館の割には思いの外(と言っては失礼ですが…)充実の展示内容で、特に;
・孝明天皇宸翰写「一橋徳川家文書」
・孝明天皇御製
・松平容保宸翰添書
・緋色地唐草葵紋錦袋
・会津藩家訓…松平容保、山川浩筆
などを拝観できて良かったです。
変わったところでは、鳥羽伏見戦後、徳川慶喜が大坂城を脱して江戸へ無事帰還したことを祝った(皮肉った?)慶勝の書状も興味深かったです…(;^ω^)
この頃の慶勝は明治新政府の議定に任ぜられ、小御所会議において決定した慶喜に対する辞官納地催告の通告役にも指名されており、慶喜(旧幕府軍)が退去した後の大坂城受け取りの大役も果たしています。
1000円で販売している図録もgood!
ところで、新宿歴史博物館のすぐ近くには新宿区荒木町(江戸期は四谷荒木町)という町名があり、ここにはかつて高須藩の上屋敷がありました。
江戸期の古地図だと「松平範次郎」と表記されていることもあります。「範次郎」は四兄弟の父・義建の通称です。
現在の地図に当てはめるとこのようになります。

「高須四兄弟」展で展示されていた図面を参考にしました。
薄くグリーンをひいた部分が屋敷地で、青いのは庭園の池、茶色は御殿があったと云われる部分です。手書きなので多少の位置のズレはご容赦願います。
この庭園の風景を描写した絵図も展示されていました。(「松平摂津守様御庭之図」)

津の守坂通り
高須松平家は代々「摂津守」を称しており(一部例外あり)、摂津(の)守の屋敷があった坂で、津の守坂。

天和3年(1683)、高須藩主の守護神たるべく、この地に祀られた金丸稲荷神社
(地図●)

車力門通り
車力門は高須藩上屋敷の門の一つ。説明文には;
江戸時代、荒木町が松平摂津守の屋敷だった頃、「車力門横丁」と呼ばれ、物資が屋敷へ荷車で持ち込まれていた。
とあります。

上屋敷跡地を歩いていると所々、極端な地形の高低差に出くわします。
これは位置的に、庭園の池(津の守池)の名残かなぁと思いますが…確信は持てません。
実はこの付近からは、池の排水用として設けられていた石組みの暗渠が見つかっています。この暗渠、なんと現在でも公共下水道として充分に機能を発揮していたとかで殆どをそのままに残し、再構築する必要のあった一部を撤去して落合水再生センターの敷地内に復元・展示されているそうです。

この付近は御殿があったと推定される位置。
すなわち・・・松平容保らが生まれた場所。(地図■)
美濃高須藩上屋敷。
石垣や堀、塀といった明確な遺構が残っているわけではないですが、暗渠のことを知った時は正直驚きましたし、紛れもなく幕末の歴史にその名を深く刻んだ四兄弟が生まれ育った場所。
特別展示と合わせて、とてもいい歴史散策になりました。

ちなみに荒木町のお隣の舟町には、天然理心流宗家を養子で後の新選組局長・近藤勇に譲って隠居した周斎先生(三代目近藤周平)の隠居宅がありました。
【参考】高須(岐阜県海津市)を訪れた時の記事はコチラ
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