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2014年10月

2014年10月30日 (木)

島津、岩崎、前田…洋館旧邸めぐり

旧島津公爵邸

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旧島津公爵(元薩摩藩主)邸は五反田駅から徒歩10分、清泉女子大学キャンパス内にあります。
通常は非公開ですが、東京文化財ウィーク2014の一環で10月29日のみ、一般に公開されていました。

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玄関のステンドグラス。あれはやはり、島津家の家紋だよね…(≧▽≦)

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元々この地には仙台藩伊達家の下屋敷がありましたが、明治初年に島津家の所有に移ったそうです。
その後しばらくは伊達家下屋敷の建物を使用していましたが老朽化が進み、大正6年にご覧の通りの洋館に建て替えられました。
同年5月には大正天皇・皇后が行幸啓され、時の寺内首相や松方正義、山本権兵衛、東郷平八郎らも参列したと云います。

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数年前の大河ドラマ「龍馬伝」のロケにも使われたとか。

毎正時には邸内を見学できるツアーも組まれていますが、予想外の混雑ぶりで直近のツアーは既に満員、更にその次まで1時間半も待たなくてはならなかったので諦めました。


旧岩崎邸

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さて、お次は湯島駅から徒歩すぐにあるこちら、、、

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言わずと知れた三菱財閥創始者、岩崎弥太郎の旧邸(明治29年築)です。

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邸内は撮影禁止なので写真はありませんが、それはまぁ見事なものでした。暖炉だけでも一体いくつあったんだろう…?

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和館も併設されています。

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ビリヤード場(撞球室)
洋館と地下通路で繋がっているそうです。

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土佐の地下浪人の倅が、まさかこれほどの邸宅を構えるまでになろうとは、当の本人もきっと想像すらできなかったでしょうね…(;^ω^)


旧前田侯爵邸

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最後に駒場公園内に建つ旧前田侯爵(元加賀藩主)邸へ。

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第16代当主・前田利為の本邸として、昭和4年に築かれています。
元々は文京区本郷(赤門で有名なあそこですね♪)にありましたが、関東大震災後の復興計画で当地に移転してきました。

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こちらは邸内も撮影OKだったので、、、

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とっても素敵ですが、自分で住むとなると広過ぎて落ち着かないなぁ…(;・∀・)

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利為の書斎

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そして寝室

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さすがに当時、東洋一の邸宅と称されただけあって、とても立派なお屋敷でした。

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2014年10月29日 (水)

企画展 「江戸城本丸大広間 -権力の舞台装置-」

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東京文化財ウィーク2014の一環で10月25日~11月9日の期間、東京都立中央図書館では江戸城本丸大広間 -権力の舞台装置-」と銘打った企画展を開催し、同館が所蔵する重要文化財「江戸城造営関係資料(甲良家伝来)」の中から本丸大広間に関する貴重な資料を公開しています。

甲良家
とは、現在の滋賀県甲良町にその出自を持つ江戸幕府大棟梁を務めた一族。日光東照宮造営や、大地震で度々倒壊した江戸城の修復に力を発揮しました。
新選組局長、近藤勇の天然理心流道場・試衛館があったことでも有名な市谷甲良屋敷に住していました。

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展示スペース自体はさほど広くもないですが、
御本丸大広間地絵図
に代表される豊富な間取図や設計図の類の他、向い棚駕籠をつける台の図面まであったりして、「ここまであれば完全復元も可能では」と思わせる充実ぶりでした。

※先日、高幡不動尊大日堂の展示で知った楊洲(橋本)周延の浮世絵が多数展示されていました。本当に凄い絵師だったんですねぇ…つくづく宮古湾海戦で生き残って良かった…(;^ω^)

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2014年10月12日 (日)

特別展「関東三国志」と、比企の城巡り

3連休中日の10月12日は比企方面へ。
前日の夜、共に日野の新選組史跡を巡った後に立川でサイガさんと飲んでいた際、翌日にフォロワーののんさんと杉山城へ行くことになった旨を聞き、元々鉢形へ行くつもりだった私も同行させていただくことになりました。

という訳で、午前8時に上福岡駅で待ち合わせ、まず最初に向かったのは杉山城です。

◆杉山城
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南郭群から見た東郭群

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お馴染のアングル、本郭から見た南郭群

相変わらず素晴らしい遺構の数々で、何度も来ているのに興奮の連続!
しかし杉山城のことは過去にもblogに上げているし、今回は詳細を省きます。
※この後に訪れる鉢形城・菅谷館も同様。


◆鉢形城

次に向かったのは鉢形城。
私の個人的な本日一番の目的は、鉢形城歴史館で2014年11月24日まで開催されている特別展「関東三国志 越相同盟と北条氏那」です。

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展示スペースはさして広くもない1室のみの小規模なものでしたが、書状類の展示が特に充実していました。

越相同盟締結に向け、あれやこれやと心を砕く北条氏康氏政氏照氏那らの書状(主に上杉謙信やその家臣、或いは交渉の仲介役=手筋だった由良成繁宛)の数々や起請文、
更には越相同盟が事実上破たんした時、北条方に対する憤りや後悔を書き綴った上杉謙信の書状(北条高広宛)も・・・。
中には越相接近に警戒感を抱く武田信玄が北条挟撃の為、常陸の佐竹氏への接近を模索するかのような書状もあり、それぞれの思惑・立場が生々しく現出して大変興味深い内容でした。

その他では、老中・松平定信が寛政7年に明珍宗政・宗妙に命じて模造させた楯無鎧写なるものもありました。
楯無鎧(小桜韋威鎧)とは言わずと知れた、御旗と並ぶ武田家伝来の家宝。甲州市の菅田天神社に奉納されていますが、宗政・宗妙の2人は寛政4年にこの菅田天神社の楯無鎧の修復も手掛けているそうです。

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そのまま城跡も散策します。

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普段スル―しがちな伝逸見曲輪方向・・・

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以前は立入れなかった本曲輪北西端の櫓台?にもアタック!

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本曲輪から見下ろす荒川
鉢形城が何故この地に築かれたのか、がよく分かる地形です。

◆菅谷館
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最後は菅谷館へ。
ご存じ、畠山重忠像。傾いているのは相変わらずですが、ワイヤーが消えている…大丈夫なのか?(^_^;)

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菅谷館といえば?の、出枡形土塁

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先週の台風(18号)の影響か、空堀だった筈の堀が水濠に…(・・;)

この日訪れた3城とも整備が行き届いていて、今まで藪で見え辛かった部分も確認できたので良かった。同じお城に何度も訪れてみるのも大事なんですね…(笑)

最後は川越駅で解散して帰路へ。
サイガさん、のんさん、楽しい一日をありがとうございました♪

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2014年10月10日 (金)

斎藤一 終焉の地

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「春日町」交差点を春日通り沿いに東へ。東富坂を少し登った先にある、、、

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こちらの階段の上は、、、

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文京区本郷4丁目13、かつての住所は本郷真砂町30番地といいました。
・・・元新選組・斎藤一こと、藤田五郎が晩年を過ごした住居跡です。

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軽く周辺を歩いてみましたが、静かな住宅地といった趣です。

明治10年の西南戦争からの帰還後は、根津宮永町31番地(現文京区根津2丁目14。コチラ を参照)に住んでいましたが、いつの頃か本郷へ移り住みました。

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この地で妻の時尾は自宅を使い、東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)の寄宿舎を営んでいたのだとか。
・・・なんとなく雰囲気ありますね♪(*'ω'*)

斎藤一(藤田五郎)も一時期、同校の庶務掛兼会計掛として勤務していたようです。

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大正4年9月28日、幕末の京都を震撼させ、明治の世を生き抜いた剣豪はこの本郷の居宅で床の間に端座し、両手を膝の上に置いたまま息を引き取りました。享年72。
遺言により、会津の阿弥陀寺(→コチラ )で静かに眠っています。

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2014年10月 8日 (水)

天王寺の戦い

元亀4年(天正元年)の武田信玄の死~朝倉・浅井の滅亡以降、小康状態を保っていた織田 vs 大坂本願寺の石山合戦
しかし天正4年(1576)に入り、足利義昭の呼び掛けに応じた毛利家の支援を受けるようになった本願寺は、再び兵を集めて織田家との対決姿勢を強めます。
これに危機感を抱いた織田信長は同年4月、荒木村重を野田に配置して砦を3つ構えさせ、明智光秀・細川藤孝には大坂の東南、守口・森河内にそれぞれ砦を築かせて本願寺への包囲を強めます。これが天王寺の戦いの始まりです。
そして;

原田備中は、天王寺に要害丈夫に相構へられ、御敵、ろうの岸木津両所を拘へ、難波口より海上通路仕り侯。木津を取り侯へば、御敵の通路一切止め侯の間、彼の在所を取り侯へと、仰せ出ださる。
(信長公記 巻九「原田備中、御津寺へ取出だし討死の事」より抜粋。以下同)

原田(塙)直政には天王寺に砦を丈夫に構えさせ、更に
「敵はろうの岸(楼の岸)・木津に砦を構えて難波口からの海上交通を確保している。これを遮断するために木津砦を奪え」
と命じました。
命を受けた直政は、天王寺砦には明智光秀らを置き;

五月三日、早朝、先は三好笑岩、根来・和泉衆、二段は原田備中、大和・山城衆同心致し、彼の木津へ取り寄り侯のところ、大坂ろうの岸より罷り出で、一万計りにて推しつゝみ、数千挺の鉄炮を以て、散ゝに打ち立て、上方の人数くづれ、原田備中手前にて請止め、数刻相戦ふと雖も、猛勢に取り籠められ、既に、原田備中、(以下4名略)枕を並べて討死なり

5月3日早朝、木津砦へ攻め掛かったところ、ろうの岸砦から出撃した本願寺勢の後詰に逆に包囲され、鉄砲を散々に撃ちたてられて総大将の原田直政は討ち死に、織田勢は天王寺砦へ敗走しました。
勢いに乗じた本願寺勢は敗走する織田軍を追い、そのまま天王寺砦へ攻め寄せてこれを包囲します。

地図
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現在の地図に手書きで上町台地の地形を描き込みました。
フィーリングで描いていますので、多少のズレや形状の歪みはご容赦ください…(^_^;)

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新今宮駅の西に位置する出城公園。原田らが攻め掛かった木津砦があった辺りと云われる場所です。

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この辺りは現在の地名も「出城」。交差点も・・・

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木津砦跡から東、天王寺方面を見た様子。
写りが悪くて見辛いですが、道路が少し先で急に落ち込んでいるのが分かりますか?「花園北」という交差点(地図地点)の辺りで気になる窪みを確認できました。
後世の地形改変かもしれませんが、であれば何のために?という不自然さも残り、或いはこの辺りが織田方の天王寺砦に対する木津砦の防衛ラインだったのかもしれないな、などと想像を膨らませました。
いずれにしても、原田直政が討ち死にしたのもこの付近でしょう・・・。

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こちらは木津砦救援の為、10,000の本願寺勢が出撃したろうの岸砦跡。
現在は大阪城になっている本願寺跡の西方1km程の場所です。

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ろうの岸砦のすぐ横を熊野古道が通り、北側には川が流れていました。
写真は熊野古道が川を渡り、再び上陸する船着き場だった場所。まさに「岸」の名残ですね。
熊野古道はこの先ずっと上町台地上を南下し、天王寺~阿倍野を経由して住吉方面へと続きます。
実はこの熊野古道、天王寺の戦いとも深く関わると考えていますが、それはまた追々・・・

京都で3日の敗報に接した信長は;

五月五日、後詰として、御馬を出だされ、明衣の仕立纔か百騎ばかりにて、若江に至りて御参陣。次の日、御逗留あつて、先手の様子をもきかせられ、御人数をも揃へられ侯と雖も、俄懸の事に侯問、相調はず。下ゝの者、人足以下、中ゝ相続かず、首ゝばかり着陣侯。
(信長公記 巻九「御後巻再三御合戦の事」より抜粋。以下同)

湯帷子のまま京都の宿所(この時は妙覚寺に滞在)を飛び出し、僅か百騎ばかりの供回りと共に対本願寺戦の拠点、若江城に入ります。
この辺りの行動力は、永禄12年正月に足利義昭の六条本圀寺が三好三人衆らの襲撃を受けた際、岐阜城を飛び出して大急ぎで駆けつけた時のエピソードとそっくりですね。

若江城で細作を放ち、天王寺や大坂表の様子を調べつつ兵の集合を待ちますが、急なことで足軽以下の準備が調わず、武官クラス以上の3,000程しか集まりません。

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若江城跡の碑
近鉄奈良線若江岩田駅から南へ1km強にあります。

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発掘調査の結果、若江公民分館(緑の外階段が付いている建物)を中心に、周辺から二重の堀や土塁・井戸などの他、瓦や土器類・建物の廃材なども見つかったそうです。
公民分館や隣の幼稚園に残る地形の高低差がとても気になります。

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その高低差。
目の前を通る道路も堀だったらしいので、一段高くなっている側は曲輪跡ではないでしょうか。

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公民分館に併設する施設の敷地内にある若江城址碑。
ちょうど施設の方がいらしたので、断って写真を撮らせていただきました。

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周辺にも堀跡では?と思わせる雰囲気の路地がそこかしこに通っていました。
※少し南に行った若江鏡神社には、若江城のものと思われる土塁も残っているそうですが、私は訪問時に情報を得ていなかったので見落としました。

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そうそう、若江城跡に向かって歩いている途中、商店街を抜けた辺りで偶然見かけて足を止めました。飯島三郎右衛門の墓
織田信長、豊臣秀吉、秀頼に仕え、大坂夏の陣に於ける若江・八尾口の戦いで大坂方の木村重成隊に属して戦い、討ち死にを遂げています。お墓の建つこの地がまさに、その戦死の場所なのだそうです。

天王寺の戦いでは大坂(本願寺)を攻める(第一目標は天王寺砦の救援だが)信長が拠点とし、大坂夏の陣では逆に大坂(城)を守る側がその防衛拠点の一つとした場所。それだけ若江という地が大坂にとって重要な位置を占めていることを物語っています。
※後日、藤井尚夫先生にご教授いただく機会を得たのですが、大坂夏の陣の折、木村隊は若江で「土手に上って戦った」という記録が残っているそうです。ところが当時、この辺りに堤防の様なものが築かれていたとは考え難く、この「土手」とは当時既に廃城になっていた若江城の土塁を指しているのではないか、とのことでした。
(後に知ったのですが、この「土手」とは「若江合戦図屏風」に描かれている「玉串川堤」のことだったかもしれません)


然りと雖も、五、三日の間をも拘へがたきの旨、度々注進侯間、攻め殺させ侯ては、都鄙の口難、御無念の由、上意なされ、


兵が集まらないとは言っても、天王寺の明智光秀方からは、
「3、5日も持ち堪えられそうにない」
との注進、後詰(後巻)要請が度々舞い込んで来ており、信長は
「このままみすみす攻め殺させては世間の評判、面目を失ってしまい無念である」
と言い;

五月七日、御馬を寄せられ、一万五千計りの御敵に、纔か三干計りにて打ち向はせられ、御人数三段に御備へなされ、住吉口より懸からせられ侯。

天王寺砦を包囲する15,000の本願寺勢(5,000増えている)に対し、僅か3,000で攻め掛かる決断を下します。

若江城を出た信長軍は南方の住吉方面まで迂回し、そこから上町台地上を北上して天王寺砦救援に向かいます。
(地図青ライン

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住吉神社
前述しましたが、このすぐ近くを熊野古道が通っています。そのルートから察するに、信長軍もこの道を使って北上したと思われます。

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北上した阿倍野付近の西側から上町台地の斜面を見上げた様子。

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登り切って反対に西の方角を見下ろす。想像していた以上に地形は残っていました。

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空を見上げると…あべのハルカスww

天王寺方面へ北上する織田軍は;
先陣:佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝・若江衆
二陣:滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉良通・氏家直昌・安藤守就(伊賀伊賀守)
三陣:馬廻衆
の三段に分け、そして;

かくの如く仰せつけられ、信長は先手の足軽に打ちまじらせられ、懸け廻り、爰かしこと、御下知なされ、薄手を負はせられ、御足に鉄炮あたり申し侯へども、されども天道照覧にて、苦しからず、御敵、数千挺の鉄炮を以て、はなつ事、降雨の如く、相防ぐと雖も、撞と懸かり崩し、一揆ども切り捨て、天王寺へ懸け入り、御一手に御なり侯

信長はなんと、自ら先陣の足軽に交って本願寺勢と戦い、足に鉄砲玉を受けながらも敵を切り崩して天王寺砦への入城を果たします。

※最初、信長は荒木村重に先陣を命じますが、村重は「私は木津砦の押さえに回る」と言って辞退します。合戦後、結果的に勝利を得て信長は
「戦意の無い村重なんかに先陣を任せなくて良かった」
と言った、というエピソードが残されています。この辺りから村重謀反のプロローグが始まっていたのでしょうか…

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あべのハルカスの足元から、熊野古道の南方
信長率いる3,000の軍勢はこの彼方から向かって来て、15,000で天王寺砦を包囲する本願寺勢に攻め掛かりました。
その激戦の最中、前線で鉄砲傷を受けています。その場所は地理的な条件を考えると、阿倍野駅周辺の府道30号線(あべの筋)辺りではないかと思います。

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茶臼山
大坂冬の陣に於ける徳川家康本陣、夏の陣では真田幸村最後の出撃地として有名ですが、石山合戦に於ける天王寺砦の候補地の一つとも考えています。

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茶臼山と一心寺の間を通るこの道は、切り通している形状から堀跡と推察

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茶臼山から北へ進んだ先にある月江寺
一般にはこちらが天王寺砦跡として認識されており、その昔は目の前の道路も堀だったとも云われています。

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月江寺付近から西の方角を見ると…あの先で道がストンと落ち込んでいます。茶臼山であれ月江寺であれ、天王寺砦が上町台地の西崖付近に築かれていたことがよく分かります。

果たして天王寺砦は何処であったのか。
茶臼山は元々、大塚城と呼ばれる1546年に築かれた城跡だったのだとか。その後いつの頃か廃城になっていたのでしょうが、1576年の天王寺の戦いを跨いで1614~15年の大坂の陣で軍事的に利用されていることを考えると、天王寺の戦い時点でもその軍事的機能・形状、そして意義・価値は失われていなかったことが分かります。
そんな場所を利用しない手はないですし、月江寺では北、本願寺側に寄り過ぎており、木津砦に背後を取られて挟まれてしまう位置になります。
それらの条件を考え合わせ、天王寺砦の中心は茶臼山に置かれていたのではないかと考えています。もし月江寺にも何かしらの遺構があったのであれば、天王寺砦の出城だったのかもしれません。
※あくまでも個人的な推論です。

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四天王寺
この天王寺の戦いで戦火に巻き込まれ、焼失しています。
位置関係からすると、天王寺砦を包囲する本願寺方が布陣していた可能性もあるかと。
その後、天下人となった豊臣秀吉が再建。最近、文禄七年に秀吉が寄進した厨子が発見されていますね。

激戦の末、本願寺勢の包囲を切り崩して天王寺砦への入城を果たした信長ですが、本願寺勢が退却せずに引き続き砦を包囲しているのを見るや;

重ねて御一戦に及ばるべきの趣、上意侯。

もう一度出撃する、と言い出します。
重臣たちは;

御身方無勢に侯間、此の度は御合戦御延慮尤も

と言って止めようとしますが、信長は重ねて;

今度間近く寄り合ひ侯事、天の与ふる所

と言って聞かず出陣、瞬く間に本願寺勢を北へ追い崩し、本願寺の城戸口(木戸口?)まで追い立てて多数を討ち取りました。
こうと決めたら断固として貫く姿勢は桶狭間合戦の際、中島砦を出撃すると決断した時のスタンスと変わっていません。

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本願寺が置かれていた大阪城。上町台地の先端部分に築かれていました。
だからこそ、天王寺の戦いに於ける信長然り、大坂の陣に於ける家康然り、この地を攻める者は南側から台地上を寄せて来るのです。

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城内に建てられている「南無阿弥陀仏」の石柱
この裏に、、、

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蓮如上人袈裟懸の松(の根)
実際には徳川大坂城の地表面にあることから、あくまでも伝説に過ぎないと考えられていますが、確かにこの地に本願寺があったことを偲ばせます。

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石山本願寺推定地

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私が訪れた時には、本丸金蔵近くで大坂城の発掘現場が公開されていました。
※発掘現場公開、調査状況等については関係機関のサイト等をご参照ください。

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こちらは少し前に発掘・公開され、今は埋め戻された石垣の頭頂部。
この日、偶然城内でお会いしたフォロワーのポリさんに教えていただきました。


敵勢をここ本願寺まで敗走させ、天王寺砦救援に成功した信長は本願寺包囲網を厳重に申し付け、若江経由で安土へと帰っていきました。
こうして天正4年5月の天王寺の戦いは織田側の勝利に終わり、本願寺は追い詰められていきます。

これがやがて、本願寺からの救援依頼を受けた毛利家の要請を受け、村上水軍が乗り出してくる木津川沖海戦(第1次:天正4年7月、第2次:天正6年11月)へと繋がっていくのでした。

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2014年10月 6日 (月)

明智光秀肖像画と、岸和田城下町

10月3日はだんじりで有名な岸和田へ。
岸和田市観光振興協会が主催する岸和田まち歩き周遊キャンペーン「まつり前岸和田城下町」のプランの一つ、
「本徳寺和尚さんに、語っていただく明智光秀公肖像画」
に参加させていただきます!

昨年この企画の存在を知り、今年こそは参加したい!と密かに狙い続けていました。後で聞いたところによると参加倍率は約3倍。当選して良かった♪

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午後3時30分、駅前に集合。

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参加証となるバッジを着けたら出発です♪

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まずは駅前通商店街から。

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日本一高いというアーケード。高さは約12m。
何故かって?それは勿論、だんじりを通すためです☆

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下に目を移すと...だんじりと見物客との境界線。
祭りが完全に町の一部になっています。

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商店街を抜け、石畳の寺町筋の一角に、、、

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本徳寺。いよいよです。

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本堂でお抹茶のおもてなしを受けてから・・・

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念願のご対面☆
実はご住職、坐骨神経痛を患ってしまわれたそうで、ちょっと大変そうでした。
それでも軽いジョークを交えながらのお話はとても楽しく、有意義な時間でした。ありがとうございます。

この肖像画が本徳寺にある由縁ですが、それは本徳寺は元々現在の貝塚市にあった海雲寺がその前身で、寛文2年に岸和田城下へ移転すると共に寺号を本徳寺と改めました。
その海雲寺の開基こそ、光秀の子息と云われる南国梵珪だったのです。梵珪が絵師に描かせた父の肖像画がこちらになります。

※後でスタッフの方から聞いた話や過去の公開状況を調べてみたところ、今回拝観させていただいたものは精巧に作られたレプリカの方だったのかもしれません。「本物」を拝観できる、との認識だったからこそ応募して東京から駆けつけた訳で、もしそうであったならば残念。。。
まぁ真贋はともかく、写真も撮らせていただけて大変感謝なのですが、参加者の中にはこれほど貴重な文化財(少なくともその時点では誰もが「本物」との確信で拝観していた)に向けて無神経にもフラッシュを焚き、しかも至近距離から撮りまくる無遠慮な人が数人いました。
この会に参加しているということは少なからず歴史好きなのかもしれませんが、こんな最低限のルールすら知らない・守れないような方は、どうぞ
歴史から離れていただきた

さて本徳寺を辞去した後は、そのまま解散するグループと別れて城下町散策です。

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欄干橋
江戸期にはこの地方の道路元票となっていました。

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このクランクは堺口門跡…素敵です。

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ここも祭りの時はだんじりが通るので、住宅の壁には疵痕が・・・

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こなから坂
漢字で書くと「小半坂」となります。
「小半刻」が「一刻の1/4」を意味するように、「小半」とは1/4を示します。
で、ここは90度の1/4勾配の坂だから「小半坂」。

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さすが、だんじりの町。こんなところにも・・・

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そして岸和田城
既に午後5時を過ぎていたため、堀端から眺めるだけです…(。´・ω・)

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岸和田では有名?な寺田財閥の邸宅、五風荘。
岸和田藩主の新御茶屋跡に建てられています。

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最後に蛸地蔵駅へ。
岸和田合戦の模様を描いたステンドグラスが素敵です。

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こちらも・・・

このまま蛸地蔵駅で解散。
夜は岸和田駅前に宿を取り、翌日に予定している天王寺合戦跡地めぐりに備えました。

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2014年10月 2日 (木)

相国寺

京都旅、最後は島原から再びバスで烏丸今出川まで移動し、、、

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薩摩藩邸跡(現同志社大学。八重の兄・山本覚馬が幽閉された場所でもある)の石碑を眺めつつ、、、

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相国寺
足利幕府三代将軍・義満の創建。
相国」とは太政大臣の唐名で、寺号は創建者の義満が太政大臣だったことに由来します。
ちなみに、同じく太政大臣だった平清盛のことを「相国入道」「大相国さま」と呼ぶのもこのためです。

官職の唐名では他に;

「黄門」:中納言(※水戸黄門=水戸中納言)
「典厩」:馬頭

などが有名ですかね。

二月廿七日、御上洛、捶井まで御出で。翌日、雨降り、御滞留。廿九日、佐和山丹羽五郎左衛門所に御座なさる。
三月三日、永原に御泊り。次の日、御出京、相国寺に御寄宿

(信長公記 巻八「御分国道作り仰せ付けらるゝ事」より抜粋)

織田信長も天正2~3年にかけての一時期、幾度となく上洛の折の宿所として相国寺を利用していました。

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相国寺方丈

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方丈から見る法堂

残念ながら伽藍は度重なる戦乱・火災に巻き込まれ、最も古い法堂でもその創建は1605年。
信長の時代から残るものはありませんが、法堂天井の「鳴龍」(狩野光信作)は見事でした。
(特別拝観:2014年12月15日まで)

三月十六日、今川氏真御出仕、百瑞帆を御進上。以前も千鳥の香爐・宗祗香爐を御進献のところ、宗祗香爐は御返シなされ、千鳥の香爐は止め置かせられ候ひき。今川殿を遊ばさるるの由、聞こしめし及ばれ、
三月廿日、相国寺において御所望。御人数、三条殿父子、藤宰相殿父子、飛鳥井殿父子、弘橋殿、五辻殿、庭田殿、烏丸殿。信長は御見物。


しかも興味深いことに、ここ相国寺で信長は今川氏真と対面し、蹴鞠を見物しているのです。
永禄3年の桶狭間合戦で父・義元を信長に討たれて15年。その間に駿河も追われて大名の座から没落していた氏真。この時、彼の胸に去来したものは果たして・・・

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さて、これにて今回の旅の行程も無事に終了です。
1日ご一緒頂いたみかんさん、すばるちゃん、ありがとうございました (^o^)丿

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