元亀4年(天正元年)の武田信玄の死~朝倉・浅井の滅亡以降、小康状態を保っていた織田 vs 大坂本願寺の
石山合戦。
しかし天正4年(1576)に入り、足利義昭の呼び掛けに応じた毛利家の支援を受けるようになった本願寺は、再び兵を集めて織田家との対決姿勢を強めます。
これに危機感を抱いた
織田信長は同年4月、荒木村重を野田に配置して砦を3つ構えさせ、明智光秀・細川藤孝には大坂の東南、守口・森河内にそれぞれ砦を築かせて本願寺への包囲を強めます。これが
天王寺の戦いの始まりです。
そして;
原田備中は、天王寺に要害丈夫に相構へられ、御敵、ろうの岸・木津両所を拘へ、難波口より海上通路仕り侯。木津を取り侯へば、御敵の通路一切止め侯の間、彼の在所を取り侯へと、仰せ出ださる。(信長公記 巻九「原田備中、御津寺へ取出だし討死の事」より抜粋。以下同)
原田(塙)直政には天王寺に砦を丈夫に構えさせ、更に
「敵はろうの岸(楼の岸)・木津に砦を構えて難波口からの海上交通を確保している。これを遮断するために木津砦を奪え」
と命じました。
命を受けた直政は、天王寺砦には明智光秀らを置き;
五月三日、早朝、先は三好笑岩、根来・和泉衆、二段は原田備中、大和・山城衆同心致し、彼の木津へ取り寄り侯のところ、大坂ろうの岸より罷り出で、一万計りにて推しつゝみ、数千挺の鉄炮を以て、散ゝに打ち立て、上方の人数くづれ、原田備中手前にて請止め、数刻相戦ふと雖も、猛勢に取り籠められ、既に、原田備中、(以下4名略)枕を並べて討死なり。5月3日早朝、木津砦へ攻め掛かったところ、ろうの岸砦から出撃した本願寺勢の後詰に逆に包囲され、鉄砲を散々に撃ちたてられて総大将の
原田直政は討ち死に、織田勢は天王寺砦へ敗走しました。
勢いに乗じた本願寺勢は敗走する織田軍を追い、そのまま天王寺砦へ攻め寄せてこれを包囲します。
地図

現在の地図に手書きで
上町台地の地形を描き込みました。
フィーリングで描いていますので、多少のズレや形状の歪みはご容赦ください…(^_^;)

新今宮駅の西に位置する
出城公園。原田らが攻め掛かった
木津砦があった辺りと云われる場所です。

この辺りは現在の地名も「出城」。交差点も・・・

木津砦跡から東、天王寺方面を見た様子。
写りが悪くて見辛いですが、道路が少し先で
急に落ち込んでいるのが分かりますか?「花園北」という交差点(地図
○地点)の辺りで気になる窪みを確認できました。
後世の地形改変かもしれませんが、であれば何のために?という不自然さも残り、或いはこの辺りが織田方の天王寺砦に対する
木津砦の防衛ラインだったのかもしれないな、などと想像を膨らませました。
いずれにしても、原田直政が討ち死にしたのもこの付近でしょう・・・。

こちらは木津砦救援の為、10,000の本願寺勢が出撃した
ろうの岸砦跡。
現在は大阪城になっている本願寺跡の西方1km程の場所です。

ろうの岸砦のすぐ横を
熊野古道が通り、北側には
川が流れていました。
写真は熊野古道が川を渡り、再び上陸する
船着き場だった場所。まさに
「岸」の名残ですね。
熊野古道はこの先ずっと上町台地上を南下し、天王寺~阿倍野を経由して住吉方面へと続きます。
実はこの熊野古道、
天王寺の戦いとも深く関わると考えていますが、それはまた追々・・・
京都で3日の敗報に接した信長は;
五月五日、後詰として、御馬を出だされ、明衣の仕立纔か百騎ばかりにて、若江に至りて御参陣。次の日、御逗留あつて、先手の様子をもきかせられ、御人数をも揃へられ侯と雖も、俄懸の事に侯問、相調はず。下ゝの者、人足以下、中ゝ相続かず、首ゝばかり着陣侯。(信長公記 巻九「御後巻再三御合戦の事」より抜粋。以下同)
湯帷子のまま京都の宿所(この時は妙覚寺に滞在)を飛び出し、僅か百騎ばかりの供回りと共に対本願寺戦の拠点、
若江城に入ります。
この辺りの行動力は、永禄12年正月に足利義昭の六条本圀寺が三好三人衆らの襲撃を受けた際、岐阜城を飛び出して大急ぎで駆けつけた時のエピソードとそっくりですね。
若江城で細作を放ち、天王寺や大坂表の様子を調べつつ兵の集合を待ちますが、急なことで足軽以下の準備が調わず、武官クラス以上の3,000程しか集まりません。
若江城跡の碑
近鉄奈良線若江岩田駅から南へ1km強にあります。

発掘調査の結果、
若江公民分館(緑の外階段が付いている建物)を中心に、周辺から二重の堀や土塁・井戸などの他、瓦や土器類・建物の廃材なども見つかったそうです。
公民分館や隣の幼稚園に残る
地形の高低差がとても気になります。

その高低差。
目の前を通る道路も堀だったらしいので、一段高くなっている側は曲輪跡ではないでしょうか。

公民分館に併設する施設の敷地内にある
若江城址碑。
ちょうど施設の方がいらしたので、断って写真を撮らせていただきました。

周辺にも堀跡では?と思わせる雰囲気の路地がそこかしこに通っていました。
※少し南に行った
若江鏡神社には、
若江城のものと思われる土塁も残っているそうですが、私は訪問時に情報を得ていなかったので見落としました。

そうそう、若江城跡に向かって歩いている途中、商店街を抜けた辺りで偶然見かけて足を止めました。
飯島三郎右衛門の墓。
織田信長、豊臣秀吉、秀頼に仕え、
大坂夏の陣に於ける
若江・八尾口の戦いで大坂方の木村重成隊に属して戦い、討ち死にを遂げています。お墓の建つこの地がまさに、その
戦死の場所なのだそうです。
天王寺の戦いでは大坂(本願寺)を攻める(第一目標は天王寺砦の救援だが)信長が拠点とし、大坂夏の陣では逆に大坂(城)を守る側がその防衛拠点の一つとした場所。それだけ
若江という地が
大坂にとって重要な位置を占めていることを物語っています。
※後日、藤井尚夫先生にご教授いただく機会を得たのですが、大坂夏の陣の折、木村隊は若江で「土手に上って戦った」という記録が残っているそうです。ところが当時、この辺りに堤防の様なものが築かれていたとは考え難く、この「土手」とは当時既に廃城になっていた
若江城の土塁を指しているのではないか、とのことでした。
(後に知ったのですが、この「土手」とは「若江合戦図屏風」に描かれている「玉串川堤」のことだったかもしれません)
然りと雖も、五、三日の間をも拘へがたきの旨、度々注進侯間、攻め殺させ侯ては、都鄙の口難、御無念の由、上意なされ、兵が集まらないとは言っても、天王寺の明智光秀方からは、
「3、5日も持ち堪えられそうにない」
との注進、後詰(後巻)要請が度々舞い込んで来ており、信長は
「このままみすみす攻め殺させては世間の評判、面目を失ってしまい無念である」
と言い;
五月七日、御馬を寄せられ、一万五千計りの御敵に、纔か三干計りにて打ち向はせられ、御人数三段に御備へなされ、住吉口より懸からせられ侯。天王寺砦を包囲する15,000の本願寺勢(5,000増えている)に対し、僅か3,000で攻め掛かる決断を下します。
若江城を出た信長軍は南方の
住吉方面まで迂回し、そこから
上町台地上を北上して天王寺砦救援に向かいます。
(地図
青ライン)
住吉神社前述しましたが、このすぐ近くを
熊野古道が通っています。そのルートから察するに、
信長軍もこの道を使って北上したと思われます。

北上した阿倍野付近の西側から
上町台地の斜面を見上げた様子。

登り切って反対に西の方角を見下ろす。想像していた以上に地形は残っていました。

空を見上げると…あべのハルカスww
天王寺方面へ北上する織田軍は;
先陣:佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝・若江衆
二陣:滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉良通・氏家直昌・安藤守就(伊賀伊賀守)
三陣:馬廻衆
の三段に分け、そして;
かくの如く仰せつけられ、信長は先手の足軽に打ちまじらせられ、懸け廻り、爰かしこと、御下知なされ、薄手を負はせられ、御足に鉄炮あたり申し侯へども、されども天道照覧にて、苦しからず、御敵、数千挺の鉄炮を以て、はなつ事、降雨の如く、相防ぐと雖も、撞と懸かり崩し、一揆ども切り捨て、天王寺へ懸け入り、御一手に御なり侯。信長はなんと、
自ら先陣の足軽に交って本願寺勢と戦い、足に鉄砲玉を受けながらも敵を切り崩して天王寺砦への入城を果たします。
※最初、信長は荒木村重に先陣を命じますが、村重は「私は木津砦の押さえに回る」と言って辞退します。合戦後、結果的に勝利を得て信長は
「戦意の無い村重なんかに先陣を任せなくて良かった」
と言った、というエピソードが残されています。この辺りから村重謀反のプロローグが始まっていたのでしょうか…

あべのハルカスの足元から、
熊野古道の南方。
信長率いる3,000の軍勢はこの彼方から向かって来て、15,000で天王寺砦を包囲する本願寺勢に攻め掛かりました。
その激戦の最中、前線で
鉄砲傷を受けています。その場所は地理的な条件を考えると、
阿倍野駅周辺の府道30号線(あべの筋)辺りではないかと思います。
茶臼山
大坂冬の陣に於ける徳川家康本陣、夏の陣では真田幸村最後の出撃地として有名ですが、石山合戦に於ける
天王寺砦の候補地の一つとも考えています。

茶臼山と一心寺の間を通るこの道は、切り通している形状から
堀跡と推察。

茶臼山から北へ進んだ先にある
月江寺。
一般にはこちらが
天王寺砦跡として認識されており、その昔は目の前の道路も堀だったとも云われています。

月江寺付近から西の方角を見ると…あの先で
道がストンと落ち込んでいます。茶臼山であれ月江寺であれ、天王寺砦が
上町台地の西崖付近に築かれていたことがよく分かります。
果たして
天王寺砦は何処であったのか。
茶臼山は元々、大塚城と呼ばれる
1546年に築かれた城跡だったのだとか。その後いつの頃か廃城になっていたのでしょうが、
1576年の天王寺の戦いを跨いで
1614~15年の大坂の陣で軍事的に利用されていることを考えると、天王寺の戦い時点でもその軍事的機能・形状、そして意義・価値は
失われていなかったことが分かります。
そんな場所を利用しない手はないですし、月江寺では北、本願寺側に寄り過ぎており、木津砦に背後を取られて挟まれてしまう位置になります。
それらの条件を考え合わせ、
天王寺砦の中心は茶臼山に置かれていたのではないかと考えています。もし月江寺にも何かしらの遺構があったのであれば、天王寺砦の出城だったのかもしれません。
※あくまでも個人的な推論です。
四天王寺この天王寺の戦いで戦火に巻き込まれ、焼失しています。
位置関係からすると、天王寺砦を包囲する本願寺方が布陣していた可能性もあるかと。
その後、天下人となった豊臣秀吉が再建。最近、文禄七年に
秀吉が寄進した厨子が発見されていますね。
激戦の末、本願寺勢の包囲を切り崩して天王寺砦への入城を果たした信長ですが、本願寺勢が退却せずに引き続き砦を包囲しているのを見るや;
重ねて御一戦に及ばるべきの趣、上意侯。もう一度出撃する、と言い出します。
重臣たちは;
御身方無勢に侯間、此の度は御合戦御延慮尤もと言って止めようとしますが、信長は重ねて;
今度間近く寄り合ひ侯事、天の与ふる所と言って聞かず出陣、
瞬く間に本願寺勢を北へ追い崩し、本願寺の城戸口(木戸口?)まで追い立てて多数を討ち取りました。
こうと決めたら断固として貫く姿勢は桶狭間合戦の際、中島砦を出撃すると決断した時のスタンスと変わっていません。
本願寺が置かれていた大阪城。
上町台地の先端部分に築かれていました。
だからこそ、天王寺の戦いに於ける信長然り、大坂の陣に於ける家康然り、この地を攻める者は
南側から台地上を寄せて来るのです。

城内に建てられている「南無阿弥陀仏」の石柱
この裏に、、、
蓮如上人袈裟懸の松(の根)
実際には徳川大坂城の地表面にあることから、あくまでも伝説に過ぎないと考えられていますが、確かにこの地に本願寺があったことを偲ばせます。
石山本願寺推定地碑

私が訪れた時には、本丸金蔵近くで大坂城の発掘現場が公開されていました。
※発掘現場公開、調査状況等については関係機関のサイト等をご参照ください。

こちらは少し前に発掘・公開され、今は埋め戻された石垣の頭頂部。
この日、偶然城内でお会いしたフォロワーのポリさんに教えていただきました。
敵勢をここ本願寺まで敗走させ、天王寺砦救援に成功した信長は本願寺包囲網を厳重に申し付け、若江経由で安土へと帰っていきました。
こうして天正4年5月の
天王寺の戦いは織田側の勝利に終わり、本願寺は追い詰められていきます。
これがやがて、本願寺からの救援依頼を受けた毛利家の要請を受け、村上水軍が乗り出してくる
木津川沖海戦(第1次:天正4年7月、第2次:天正6年11月)へと繋がっていくのでした。