相国寺
京都旅、最後は島原から再びバスで烏丸今出川まで移動し、、、

薩摩藩邸跡(現同志社大学。八重の兄・山本覚馬が幽閉された場所でもある)の石碑を眺めつつ、、、

相国寺へ
足利幕府三代将軍・義満の創建。
「相国」とは太政大臣の唐名で、寺号は創建者の義満が太政大臣だったことに由来します。
ちなみに、同じく太政大臣だった平清盛のことを「相国入道」「大相国さま」と呼ぶのもこのためです。
官職の唐名では他に;
「黄門」:中納言(※水戸黄門=水戸中納言)
「典厩」:馬頭
などが有名ですかね。
二月廿七日、御上洛、捶井まで御出で。翌日、雨降り、御滞留。廿九日、佐和山丹羽五郎左衛門所に御座なさる。
三月三日、永原に御泊り。次の日、御出京、相国寺に御寄宿。
(信長公記 巻八「御分国道作り仰せ付けらるゝ事」より抜粋)
織田信長も天正2~3年にかけての一時期、幾度となく上洛の折の宿所として相国寺を利用していました。

相国寺方丈

方丈から見る法堂
残念ながら伽藍は度重なる戦乱・火災に巻き込まれ、最も古い法堂でもその創建は1605年。
信長の時代から残るものはありませんが、法堂天井の「鳴龍」(狩野光信作)は見事でした。
(特別拝観:2014年12月15日まで)
三月十六日、今川氏真御出仕、百瑞帆を御進上。以前も千鳥の香爐・宗祗香爐を御進献のところ、宗祗香爐は御返シなされ、千鳥の香爐は止め置かせられ候ひき。今川殿鞠を遊ばさるるの由、聞こしめし及ばれ、
三月廿日、相国寺において御所望。御人数、三条殿父子、藤宰相殿父子、飛鳥井殿父子、弘橋殿、五辻殿、庭田殿、烏丸殿。信長は御見物。
しかも興味深いことに、ここ相国寺で信長は今川氏真と対面し、蹴鞠を見物しているのです。
永禄3年の桶狭間合戦で父・義元を信長に討たれて15年。その間に駿河も追われて大名の座から没落していた氏真。この時、彼の胸に去来したものは果たして・・・

さて、これにて今回の旅の行程も無事に終了です。
1日ご一緒頂いたみかんさん、すばるちゃん、ありがとうございました (^o^)丿

薩摩藩邸跡(現同志社大学。八重の兄・山本覚馬が幽閉された場所でもある)の石碑を眺めつつ、、、

相国寺へ
足利幕府三代将軍・義満の創建。
「相国」とは太政大臣の唐名で、寺号は創建者の義満が太政大臣だったことに由来します。
ちなみに、同じく太政大臣だった平清盛のことを「相国入道」「大相国さま」と呼ぶのもこのためです。
官職の唐名では他に;
「黄門」:中納言(※水戸黄門=水戸中納言)
「典厩」:馬頭
などが有名ですかね。
二月廿七日、御上洛、捶井まで御出で。翌日、雨降り、御滞留。廿九日、佐和山丹羽五郎左衛門所に御座なさる。
三月三日、永原に御泊り。次の日、御出京、相国寺に御寄宿。
(信長公記 巻八「御分国道作り仰せ付けらるゝ事」より抜粋)
織田信長も天正2~3年にかけての一時期、幾度となく上洛の折の宿所として相国寺を利用していました。

相国寺方丈

方丈から見る法堂
残念ながら伽藍は度重なる戦乱・火災に巻き込まれ、最も古い法堂でもその創建は1605年。
信長の時代から残るものはありませんが、法堂天井の「鳴龍」(狩野光信作)は見事でした。
(特別拝観:2014年12月15日まで)
三月十六日、今川氏真御出仕、百瑞帆を御進上。以前も千鳥の香爐・宗祗香爐を御進献のところ、宗祗香爐は御返シなされ、千鳥の香爐は止め置かせられ候ひき。今川殿鞠を遊ばさるるの由、聞こしめし及ばれ、
三月廿日、相国寺において御所望。御人数、三条殿父子、藤宰相殿父子、飛鳥井殿父子、弘橋殿、五辻殿、庭田殿、烏丸殿。信長は御見物。
しかも興味深いことに、ここ相国寺で信長は今川氏真と対面し、蹴鞠を見物しているのです。
永禄3年の桶狭間合戦で父・義元を信長に討たれて15年。その間に駿河も追われて大名の座から没落していた氏真。この時、彼の胸に去来したものは果たして・・・

さて、これにて今回の旅の行程も無事に終了です。
1日ご一緒頂いたみかんさん、すばるちゃん、ありがとうございました (^o^)丿
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