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2014年11月29日 (土)

虎御前山砦 (城友会2014…⑤)

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城友会2014、最後の城攻めは虎御前山砦です。

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天気がいいので伊吹山も綺麗に見えています♪

(元亀三年)七月廿七日より、虎後前山御取出の御要害仰せつけらる。
(信長公記 巻五「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」より)

それ以前も小谷城攻めの折に陣を布いたことはあったようですが、元亀3年(1572)7月27日、織田信長は浅井長政が籠る小谷城の目と鼻の先にある虎御前山に本格的な砦、付城を構えさせます。

至近距離で築城を始められ、焦った浅井長政は、
「一揆が蜂起して尾張・美濃への通路を遮断したから、今が織田を潰すチャンス」
と偽りの情報を伝え、朝倉の援軍を引きずり出します。
偽情報を真に受けた朝倉は当主・義景自らが出陣して来ますが、現地の状況を目にすると戦うでもなく、大嶽城に引き籠りました。

結局、浅井・朝倉方からの妨害もなく(それどころか、朝倉方からは前波吉継ら数人の部将が寝返ってくる有様)、虎御前山砦は程なく完成します。

信長は堀秀政を使者に立てて朝倉義景に対し、
「折角義景殿自らお出ましなのだから、日時を決めて一戦交えよう」
と申し入れますが、朝倉義景はこれを黙殺。大嶽城に籠ったまま動かなかったので、信長は帰国を決め、砦には城番として秀吉(この時点では木下)が置かれました。
これ以降、一年後の浅井・朝倉滅亡まで、この虎御前山砦が小谷城攻略の最前線拠点となりました。

我々は小谷城からは反対側となる、南から城攻めを開始します。

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虎御前山には元々数多くの古墳があり、砦もこの古墳を曲輪などに利用する形で築かれていました。
それにしても「信長馬場古墳群」って…(;^ω^) いや、馬場には不向きでしょ、古墳は(笑)

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虎ごぜ山より横山までの間三里なり。程遠く候間、其の繋ぎとして八相山・宮部郷両所に御要害仰せつけらる。(中略)虎後前山より宮部まで路次一段あしく候。武者の出入りのため、道のひろさ三間間中に高々とつかせられ、其のへりに敵の方に高さ一丈に五十町の間、築地をつかせ、水を関入れ、往還たやすき様に仰せつけらる。事もおびただしき御要害、申すも愚かに候。
(同)

虎御前山から横山城までの間に、繋ぎとして八相山・宮部にも砦が築かれました。
そして虎御前山から宮部までの間が一段と悪路だったので、兵の往来のために道幅を約6.4mに広げ、更に約5.5㎞に渡って道の敵側のへりに高さ約3mの築地を築かせて水を堰き入れさせたと云うのです。
宮部砦とは現在の長浜市宮部町に築かれていた砦で、宮部神社が建つ一帯がその跡地と考えられています。
私は初め、この道とは北国脇往還のことかなとも思いましたが、それでは小谷城側に寄り過ぎてしまうし、当時から主要な街道で小谷城の城下町も築かれていたような道が「路次一段あしく」と形容されるほどの悪路であったとも考えられません。
改めて地図をじっくり見ていると・・・虎御前山と宮部町の間の田園地帯に一ヶ所、周囲の区画を無視するかのように斜めに走る道があることに気づきました。(写真で→で示した部分)
その道と、そこから手前に続く川のラインが、信長が築かせた道の名残ではなかろうか?と考えています。
しかし、牛一が記す通り築地が五十町もあったのなら、距離的に宮部砦を簡単に通り越してしまいますので、この辺りをどう考えるか・・・自らへの今後の課題にしたいと思います。(;・∀・)

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さて、虎御前山を南から進むと最初に出るのが伝滝川一益陣地址

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この辺りにも古墳が密集しており、あまり陣地址という感じはしません。

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ちょっと薄いですが堀切。

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北へ進むにつれ、砦跡らしさが出てきました。

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お、この横堀はしっかり掘れているね(笑)

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更に竪堀も。この竪堀はざっくり切れていて見応えがありました。
仙石秀久贔屓のしろうさぎさんが「きっと権兵衛さんが頑張って掘ったに違いない」と言って、
「権兵衛堀」
と名付けていたとか、いないとか、、、(;・∀・) 確かに権兵衛さんはこの頃、秀吉の配下。有り得なくはない(笑)

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あの先、こばたかさんらしき人物が立っている一番高い位置が、、、

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伝堀秀政陣地址
朝倉への決戦申し入れの使者に立った人物です。「名人久太郎」

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背後(南)を横堀で固めています。

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伝堀秀政陣地址を振り返りつつ、、、

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北へ進むにつれて、曲輪を階段状に上っていく構造になっています。中心部が近付いている証ですね。

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あっぴん。さんが登ろうとしているあの先こそ、、、

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虎御前山砦の主郭、伝織田信長陣地址です。

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伝織田信長陣地址周辺の推定復元図
虎御前山の切り立った尾根上に、幾段にも曲輪を配した構造になっています。

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伝織田信長陣地址の長枡形虎口
先ほどの推定復元図で「現在地」と示されている箇所です。

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両脇は切り立った絶壁になっています。この周辺一帯に;

御巧を以て、当山の景気、興ある仕立、生便敷御要害見聞に及ばざるの由にて、各耳目を驚かされ候。
(同)

と謳われた威容が現出していたのでしょう。

御座敷より北を御覧ぜられ侯へば、浅井・朝倉、高山大づくへ取り上り、入城し、難堪の峠に及ぶ。
(同)

実際のところ信長は虎御前山砦築城からの1ヶ月半ほどと、一年後の小谷城包囲~朝倉追撃・殲滅~小谷城攻略へと至る朝倉・浅井を滅亡に追い込む戦いの間の僅かな期間しか虎御前山には滞在していませんが、その折にはこの場所から目と鼻の先の小谷城や、朝倉勢が籠る大嶽城を睨めつけていたのでしょうか。
御座敷が築けるほどの広さかと問われれば、唸らざるを得ませんが・・・

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伝織田信長陣地址の北側も切り立った切岸状になっています。その高低差。

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同じ箇所を下からも。
南側に比べて明らかに一段の高低差が大きいのは、北に対峙する小谷城を意識してのことでしょうか。

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更に北へ進みます。「信長馬場」の看板。
まぁ、こちらの方がまだ「馬場」として理解できるけど…(^_^;)

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両サイドを土塁でガードされた通路を抜けた先に、、、

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伝木下秀吉陣地址

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さすがに小谷城に対して最前線に位置することから一段と複雑な構造で、二段目の曲輪はご覧のように横矢を掛けるかの如く、▲に突き出しています。それも二方向に。
こちらがその一つで、、、

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もう一方も。
こちらは土塁も確認できますね。

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その土塁

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「かざし堀」
詳しい説明はなかったのですが、その名称から恐らくは塹壕のようなものと解釈しましたがどうでしょうか。

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ここも土塁、堀切とありますが、雰囲気的には塹壕に近いかな~

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こっちなんか完全にそんな雰囲気ですよね。
上記3点、いずれも小谷城側に築かれていますし。


実は、ほぼ最前線と言ってもいい伝木下秀吉陣地址の更に北(つまり小谷城側)、しかも斜面を少し下って行った先に実は、、、

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伝柴田勝家陣地址があるのです。
(実はこれも前方後円墳。藪で分かり辛いですが、奥が円形部分で手前に方形)

ここで問題なのは、果たしてここが柴田勝家の陣地址でいいのか?という点。
虎御前山砦の中で対小谷城の最前線に位置し、しかも伝木下秀吉陣地址より低地にあります。
元亀年間の両者の身分、立場を考えてもこれはあり得ない布陣。小谷城攻めの責任者は長く横山城で対峙してきた秀吉であり、事実、虎御前山砦もすぐに彼に預けられています。
従い、伝柴田勝家陣地址と伝わるこの場所には、実際は秀吉軍の先方部隊が入っていたのではないでしょうか。

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そして、虎御前山からの小谷城(右)。最高所が大嶽城。
元亀騒乱と呼ばれる織田 vs 浅井(朝倉)の、最後の1年の距離

天正元年8月12日夜半、ここ虎御前山を出陣した信長は豪雨(以ての外の風雨)の中、馬廻のみを率いて大嶽山を駆け登り、瞬く間に朝倉勢が籠る大嶽城を攻略するのです。これが朝倉、そして浅井家滅亡の端緒となりました。

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小谷城(右)と虎御前山砦(左)遠景

さて、城友会もいよいよ大詰め。
解散前にちょっと寄り道、龍ヶ鼻陣所跡に向かいます。

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