観音寺城 (城友会2014…④)
11月24日(月) 城友会2日目、今回の旅も最終日です。

なんとなく前日の疲れ(城攻めよりもむしろカラオケのせい?!)が抜けていない感じもありましたが、朝の散歩から1日のスタート。

朝陽を浴びる彦根城天守、美しいです。

さぁ、それでは出発しますか!
まずは前日に渋滞で回避した観音寺城へ向かいます。
観音寺城は言わずと知れた南近江守護・六角氏の居城。標高433m、比高約330mの繖山の山腹に築かれた巨城です。
ところが永禄11年、織田信長が足利義昭を奉じての上洛戦を開始し、電光石火の攻撃で支城の箕作城が落とされると、六角承禎・義治父子は城を捨てて逃亡します。これ以降、観音寺城は主を失い、そのまま廃城となりました。

有料の林道を通り、観音正寺の駐車場までは車で登れます。

参拝者用の林道を歩き始めてすぐ、林道脇の眼下に曲輪跡の削平地が見えてきます。(写真は伝目賀田丸)
何せ確認されているだけでも、大小合わせ約1000もの曲輪を有する観音寺城。とても全城域を巡ることなど出来ませんので、今回は3時間ほどかけて主だった曲輪のみを見て回ることにします。

まずは伝布施淡路丸から。
…なんですか一体、いきなりのこの素敵な石垣は☆

伝布施淡路丸の曲輪内部
左は石垣、正面には高い土塁が見えます。

曲輪内には市田義恒という方のお墓がありました。
詳細は分かりませんが墓石に刻まれた漢文の略歴を読む限り、家系を遡ると六角氏と同じ佐々木氏に連なる近江源氏の出のようです。
近江商人の中に、元六角家臣だったという市田清兵衛なる人物がいますが、何か繋がりがあるのでしょうかね。
そして墓石の奥に見えている土塁、どれくらいの高さかと言うと・・・

これくらい。土塁の上から見下ろしています。

藪って写真では分かり辛いですが、堀切も結構な規模です。

面積も広いし、遺構も見事☆…いきなり凄過ぎるんですけど、観音寺城。
否が応にもテンション・期待は高まるばかりです。

ルートに沿ってそのまま観音正寺へ

城攻めの無事を祈願しつつ、、、

そのまま伝本丸方面を目指します。

この大石段を上った先に伝本丸があります。

大石段には水路も設けられ、結構大きめな暗渠も。

伝本丸に到着。広い・・・

伝本丸の土塁

そして石垣

伝本丸北側に設けられた食い違い虎口
この虎口外側の、、、

石垣もまたいい感じ♪

同じく北側から見た伝本丸の切岸。高い・・・
左手には崩れかけた石垣も。

井戸跡もありました。
比高300m以上でも、井戸を掘って水が出るんだから凄いよね。

こちらは伝平井丸
これまた広い曲輪ですねぇ~

伝平井丸の虎口
この虎口の外側も、、、

石垣でガッチリ固められています。

更には埋門まで☆

伝落合丸
正面の土塁上にこばたかさんが立っているので、土塁の高さが推し量れると思います。

伝池田丸

伝池田丸の虎口

どこもかしこも、本当に石垣が見事!

伝池田丸の先からは急な斜面を下って行きます。

女郎岩…意味や由来は知りませんww

そしてようやく、目指すものが足元に、、、もうお分かりですね?

おぉ…!
斜面が一段と急で下りるのに苦労したけど、頑張った甲斐がありました。

伝池田丸斜面下の大石垣
その後、縄張図片手にあっちじゃない、こっちでもない…と探し回り、、、

ようやく尋ね当てた伝木村丸

ここにも埋門が☆

切岸にも石垣が配されています。

結構な斜面を這いずり回って尋ね当てただけに、これだけの広さの曲輪を造成した凄さには驚き入るばかりです。

伝木村丸北側から伸びる竪堀はかなりのスケール!見応えありました。
さて、ここまで急な斜面をだいぶ下ってきたので、、、

帰りは当然、登らなくてはなりません!www

ゼェゼェと息を切らしながらも登り切り、どうにか観音正寺まで辿り着いて一休み。。。
今回はほんの一部を見て回ったに過ぎないはずなのに、スケール感と遺構の見事さに終始圧倒されっ放し!
凄過ぎるぞ、観音寺城・・・もう何度でも繰り返し訪れたいお城になりました♪

なんとなく前日の疲れ(城攻めよりもむしろカラオケのせい?!)が抜けていない感じもありましたが、朝の散歩から1日のスタート。

朝陽を浴びる彦根城天守、美しいです。

さぁ、それでは出発しますか!
まずは前日に渋滞で回避した観音寺城へ向かいます。
観音寺城は言わずと知れた南近江守護・六角氏の居城。標高433m、比高約330mの繖山の山腹に築かれた巨城です。
ところが永禄11年、織田信長が足利義昭を奉じての上洛戦を開始し、電光石火の攻撃で支城の箕作城が落とされると、六角承禎・義治父子は城を捨てて逃亡します。これ以降、観音寺城は主を失い、そのまま廃城となりました。

有料の林道を通り、観音正寺の駐車場までは車で登れます。

参拝者用の林道を歩き始めてすぐ、林道脇の眼下に曲輪跡の削平地が見えてきます。(写真は伝目賀田丸)
何せ確認されているだけでも、大小合わせ約1000もの曲輪を有する観音寺城。とても全城域を巡ることなど出来ませんので、今回は3時間ほどかけて主だった曲輪のみを見て回ることにします。

まずは伝布施淡路丸から。
…なんですか一体、いきなりのこの素敵な石垣は☆

伝布施淡路丸の曲輪内部
左は石垣、正面には高い土塁が見えます。

曲輪内には市田義恒という方のお墓がありました。
詳細は分かりませんが墓石に刻まれた漢文の略歴を読む限り、家系を遡ると六角氏と同じ佐々木氏に連なる近江源氏の出のようです。
近江商人の中に、元六角家臣だったという市田清兵衛なる人物がいますが、何か繋がりがあるのでしょうかね。
そして墓石の奥に見えている土塁、どれくらいの高さかと言うと・・・

これくらい。土塁の上から見下ろしています。

藪って写真では分かり辛いですが、堀切も結構な規模です。

面積も広いし、遺構も見事☆…いきなり凄過ぎるんですけど、観音寺城。
否が応にもテンション・期待は高まるばかりです。

ルートに沿ってそのまま観音正寺へ

城攻めの無事を祈願しつつ、、、

そのまま伝本丸方面を目指します。

この大石段を上った先に伝本丸があります。

大石段には水路も設けられ、結構大きめな暗渠も。

伝本丸に到着。広い・・・

伝本丸の土塁

そして石垣

伝本丸北側に設けられた食い違い虎口
この虎口外側の、、、

石垣もまたいい感じ♪

同じく北側から見た伝本丸の切岸。高い・・・
左手には崩れかけた石垣も。

井戸跡もありました。
比高300m以上でも、井戸を掘って水が出るんだから凄いよね。

こちらは伝平井丸
これまた広い曲輪ですねぇ~

伝平井丸の虎口
この虎口の外側も、、、

石垣でガッチリ固められています。

更には埋門まで☆

伝落合丸
正面の土塁上にこばたかさんが立っているので、土塁の高さが推し量れると思います。

伝池田丸

伝池田丸の虎口

どこもかしこも、本当に石垣が見事!

伝池田丸の先からは急な斜面を下って行きます。

女郎岩…意味や由来は知りませんww

そしてようやく、目指すものが足元に、、、もうお分かりですね?

おぉ…!
斜面が一段と急で下りるのに苦労したけど、頑張った甲斐がありました。

伝池田丸斜面下の大石垣
その後、縄張図片手にあっちじゃない、こっちでもない…と探し回り、、、

ようやく尋ね当てた伝木村丸

ここにも埋門が☆

切岸にも石垣が配されています。

結構な斜面を這いずり回って尋ね当てただけに、これだけの広さの曲輪を造成した凄さには驚き入るばかりです。

伝木村丸北側から伸びる竪堀はかなりのスケール!見応えありました。
さて、ここまで急な斜面をだいぶ下ってきたので、、、

帰りは当然、登らなくてはなりません!www

ゼェゼェと息を切らしながらも登り切り、どうにか観音正寺まで辿り着いて一休み。。。
今回はほんの一部を見て回ったに過ぎないはずなのに、スケール感と遺構の見事さに終始圧倒されっ放し!
凄過ぎるぞ、観音寺城・・・もう何度でも繰り返し訪れたいお城になりました♪
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コメント
突然失礼します。淡路丸跡に在るお墓の市田義恒の子孫の者です 市田家は佐々木三郎盛綱子孫で備前倉田荘より佐々木六角家に仕官した。右衛門佐重定 後市田兵部少輔重定が曾祖です。義恒は北町屋の市田本家からの分家 三代目伴右衛門です。近江商人で歌人でもありました 歌名は義輔 号は菴と名乗っていたようです。
投稿: 市田伴右衛門家 | 2015年7月19日 (日) 03時46分
市田伴右衛門家様>
詳細情報ありがとうございます。ご子孫の方でいらっしゃいますか!
観音寺城再訪の折には、またお参りさせていただきます。
投稿: しみず@管理人 | 2015年7月21日 (火) 23時59分