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2014年11月

2014年11月29日 (土)

龍ヶ鼻陣所跡 (城友会2014…⑥)

虎御前山砦で城友会の行程は終了でしたが、帰りの新幹線までの余った時間を使い、、、

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姉川古戦場にも立ち寄っていただきました。
現在の姉川と、奥に横山城。

姉川の戦いに先立つ元亀元年(1570)6月24日、織田信長は小谷城の南方にある浅井方の重要拠点、あの横山城を包囲します。

よこ山の城、高坂・三田村・野村肥後楯籠り、相拘へ侯。廿四日に四方より取り詰め、信長公は、たつがはなに御陣取り。家康公も御出陣侯て、同じ龍が鼻に御陣取り。
(信長公記 巻三「あね川合戦の事」より)

横山城を四方から包囲する織田軍。信長自身は、横山城から尾根続きに北へ行った龍ヶ鼻に陣取り、合流してきた家康も同陣しました。

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龍ヶ鼻陣所跡への登り口
獣除けの柵が…きっと熊だよね?そうだよね・・・(;^ω^)

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包囲された横山城跡
龍ヶ鼻陣所はこの尾根続き、北(写真左手前)の方角にあります。

然るところ、朝倉孫三郎、後巻として八千ばかりにて罷り立つ。(中略)同浅井備前人数五千ぱかり相加はり、都合一万三千の人数。六月廿七日の暁、陣払ひ仕り、罷り退き侯と存じ侯のところ、廿八日未明に三十町ばかりかゝり来たり、姉川を前にあて、野村の郷・三田村両郷へ移り、二手の備へ侯。西は三田村口、一番合戦、家康公むかはせられ、東は野村の郷、そなへの手へ信長御馬廻、又、東は美濃三人衆諸手一度に諸合す。
(同)

龍ヶ鼻に本陣を据え、横山城を包囲する織田・徳川連合軍。
そこへ朝倉・浅井連合軍13,000の後詰めが近くの山に着陣します。ところが6月27日の早朝に陣を払ったので「退却したのだろう」と思っていたところ、28日未明になって再び進軍し、姉川を挟んで対岸の野村郷(浅井)、三田村郷(朝倉)の二手に分かれて布陣してきました。
西の三田村口、朝倉勢へは徳川軍が先陣として向かい、東の野村郷、浅井勢には信長が馬廻や美濃三人衆を率いて対陣します。

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姉川古戦場図。両軍の布陣位置を書き加えました。
姉川の戦いはそれぞれが陣を布いて戦った地名から、織田や浅井の記録には「野村合戦」、朝倉の記録には「三田村合戦」とも記されています。

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龍ヶ鼻陣所跡から望む姉川古戦場
両軍の布陣地も、小谷城、虎御前山砦も一望の下です♪

六月廿八日、卯の刻、丑寅へむかつて御一戦に及ばる。
(同)

元亀元年6月28日の午前6時頃、遂に姉川の戦いの火蓋が切って落とされます。
丑寅とは北東の方角。しかし、浅井勢に向かう織田軍も朝倉勢に向かう徳川軍も、いずれも開戦時の布陣位置からして北東の方角にはなりません
この辺りは機会を改めて、姉川古戦場をじっくり踏査した時に検証したいと思います。

信長軍の戦闘方向について(2016年7月)

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浅井家の将、遠藤直経のお墓。姉川の戦いで命を落しています。

遠藤喜右衛門、此の頸、竹中久作是れを討ちとる。兼ねて此の首を取るべしと高言あり。
(同)

一説には敗色濃厚になった際、味方(浅井方)の将の首を持って織田家臣になりすまし、信長の前に出て刺し違えようとしますが、竹中半兵衛重治の弟・久作重矩に見破られて討ち取られたとも伝わります。
竹中兄弟は一時、客分として浅井家にいた時期があり、顔を見知っていたためとか…。


さぁ、これで今年の城友会も無事終了です。

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最後に米原駅近くの大谷吉継さんの首塚へお参りしてから解散となりました。

今年も楽しい仲間との城攻め、本当に楽しい時間でした☆
blog更新の大変さを思うと、逃げ出したくなるくらいに充実していました(笑)

お世話になった皆様、本当にありがとうございます!

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虎御前山砦 (城友会2014…⑤)

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城友会2014、最後の城攻めは虎御前山砦です。

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天気がいいので伊吹山も綺麗に見えています♪

(元亀三年)七月廿七日より、虎後前山御取出の御要害仰せつけらる。
(信長公記 巻五「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」より)

それ以前も小谷城攻めの折に陣を布いたことはあったようですが、元亀3年(1572)7月27日、織田信長は浅井長政が籠る小谷城の目と鼻の先にある虎御前山に本格的な砦、付城を構えさせます。

至近距離で築城を始められ、焦った浅井長政は、
「一揆が蜂起して尾張・美濃への通路を遮断したから、今が織田を潰すチャンス」
と偽りの情報を伝え、朝倉の援軍を引きずり出します。
偽情報を真に受けた朝倉は当主・義景自らが出陣して来ますが、現地の状況を目にすると戦うでもなく、大嶽城に引き籠りました。

結局、浅井・朝倉方からの妨害もなく(それどころか、朝倉方からは前波吉継ら数人の部将が寝返ってくる有様)、虎御前山砦は程なく完成します。

信長は堀秀政を使者に立てて朝倉義景に対し、
「折角義景殿自らお出ましなのだから、日時を決めて一戦交えよう」
と申し入れますが、朝倉義景はこれを黙殺。大嶽城に籠ったまま動かなかったので、信長は帰国を決め、砦には城番として秀吉(この時点では木下)が置かれました。
これ以降、一年後の浅井・朝倉滅亡まで、この虎御前山砦が小谷城攻略の最前線拠点となりました。

我々は小谷城からは反対側となる、南から城攻めを開始します。

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虎御前山には元々数多くの古墳があり、砦もこの古墳を曲輪などに利用する形で築かれていました。
それにしても「信長馬場古墳群」って…(;^ω^) いや、馬場には不向きでしょ、古墳は(笑)

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虎ごぜ山より横山までの間三里なり。程遠く候間、其の繋ぎとして八相山・宮部郷両所に御要害仰せつけらる。(中略)虎後前山より宮部まで路次一段あしく候。武者の出入りのため、道のひろさ三間間中に高々とつかせられ、其のへりに敵の方に高さ一丈に五十町の間、築地をつかせ、水を関入れ、往還たやすき様に仰せつけらる。事もおびただしき御要害、申すも愚かに候。
(同)

虎御前山から横山城までの間に、繋ぎとして八相山・宮部にも砦が築かれました。
そして虎御前山から宮部までの間が一段と悪路だったので、兵の往来のために道幅を約6.4mに広げ、更に約5.5㎞に渡って道の敵側のへりに高さ約3mの築地を築かせて水を堰き入れさせたと云うのです。
宮部砦とは現在の長浜市宮部町に築かれていた砦で、宮部神社が建つ一帯がその跡地と考えられています。
私は初め、この道とは北国脇往還のことかなとも思いましたが、それでは小谷城側に寄り過ぎてしまうし、当時から主要な街道で小谷城の城下町も築かれていたような道が「路次一段あしく」と形容されるほどの悪路であったとも考えられません。
改めて地図をじっくり見ていると・・・虎御前山と宮部町の間の田園地帯に一ヶ所、周囲の区画を無視するかのように斜めに走る道があることに気づきました。(写真で→で示した部分)
その道と、そこから手前に続く川のラインが、信長が築かせた道の名残ではなかろうか?と考えています。
しかし、牛一が記す通り築地が五十町もあったのなら、距離的に宮部砦を簡単に通り越してしまいますので、この辺りをどう考えるか・・・自らへの今後の課題にしたいと思います。(;・∀・)

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さて、虎御前山を南から進むと最初に出るのが伝滝川一益陣地址

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この辺りにも古墳が密集しており、あまり陣地址という感じはしません。

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ちょっと薄いですが堀切。

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北へ進むにつれ、砦跡らしさが出てきました。

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お、この横堀はしっかり掘れているね(笑)

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更に竪堀も。この竪堀はざっくり切れていて見応えがありました。
仙石秀久贔屓のしろうさぎさんが「きっと権兵衛さんが頑張って掘ったに違いない」と言って、
「権兵衛堀」
と名付けていたとか、いないとか、、、(;・∀・) 確かに権兵衛さんはこの頃、秀吉の配下。有り得なくはない(笑)

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あの先、こばたかさんらしき人物が立っている一番高い位置が、、、

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伝堀秀政陣地址
朝倉への決戦申し入れの使者に立った人物です。「名人久太郎」

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背後(南)を横堀で固めています。

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伝堀秀政陣地址を振り返りつつ、、、

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北へ進むにつれて、曲輪を階段状に上っていく構造になっています。中心部が近付いている証ですね。

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あっぴん。さんが登ろうとしているあの先こそ、、、

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虎御前山砦の主郭、伝織田信長陣地址です。

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伝織田信長陣地址周辺の推定復元図
虎御前山の切り立った尾根上に、幾段にも曲輪を配した構造になっています。

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伝織田信長陣地址の長枡形虎口
先ほどの推定復元図で「現在地」と示されている箇所です。

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両脇は切り立った絶壁になっています。この周辺一帯に;

御巧を以て、当山の景気、興ある仕立、生便敷御要害見聞に及ばざるの由にて、各耳目を驚かされ候。
(同)

と謳われた威容が現出していたのでしょう。

御座敷より北を御覧ぜられ侯へば、浅井・朝倉、高山大づくへ取り上り、入城し、難堪の峠に及ぶ。
(同)

実際のところ信長は虎御前山砦築城からの1ヶ月半ほどと、一年後の小谷城包囲~朝倉追撃・殲滅~小谷城攻略へと至る朝倉・浅井を滅亡に追い込む戦いの間の僅かな期間しか虎御前山には滞在していませんが、その折にはこの場所から目と鼻の先の小谷城や、朝倉勢が籠る大嶽城を睨めつけていたのでしょうか。
御座敷が築けるほどの広さかと問われれば、唸らざるを得ませんが・・・

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伝織田信長陣地址の北側も切り立った切岸状になっています。その高低差。

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同じ箇所を下からも。
南側に比べて明らかに一段の高低差が大きいのは、北に対峙する小谷城を意識してのことでしょうか。

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更に北へ進みます。「信長馬場」の看板。
まぁ、こちらの方がまだ「馬場」として理解できるけど…(^_^;)

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両サイドを土塁でガードされた通路を抜けた先に、、、

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伝木下秀吉陣地址

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さすがに小谷城に対して最前線に位置することから一段と複雑な構造で、二段目の曲輪はご覧のように横矢を掛けるかの如く、▲に突き出しています。それも二方向に。
こちらがその一つで、、、

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もう一方も。
こちらは土塁も確認できますね。

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その土塁

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「かざし堀」
詳しい説明はなかったのですが、その名称から恐らくは塹壕のようなものと解釈しましたがどうでしょうか。

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ここも土塁、堀切とありますが、雰囲気的には塹壕に近いかな~

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こっちなんか完全にそんな雰囲気ですよね。
上記3点、いずれも小谷城側に築かれていますし。


実は、ほぼ最前線と言ってもいい伝木下秀吉陣地址の更に北(つまり小谷城側)、しかも斜面を少し下って行った先に実は、、、

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伝柴田勝家陣地址があるのです。
(実はこれも前方後円墳。藪で分かり辛いですが、奥が円形部分で手前に方形)

ここで問題なのは、果たしてここが柴田勝家の陣地址でいいのか?という点。
虎御前山砦の中で対小谷城の最前線に位置し、しかも伝木下秀吉陣地址より低地にあります。
元亀年間の両者の身分、立場を考えてもこれはあり得ない布陣。小谷城攻めの責任者は長く横山城で対峙してきた秀吉であり、事実、虎御前山砦もすぐに彼に預けられています。
従い、伝柴田勝家陣地址と伝わるこの場所には、実際は秀吉軍の先方部隊が入っていたのではないでしょうか。

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そして、虎御前山からの小谷城(右)。最高所が大嶽城。
元亀騒乱と呼ばれる織田 vs 浅井(朝倉)の、最後の1年の距離

天正元年8月12日夜半、ここ虎御前山を出陣した信長は豪雨(以ての外の風雨)の中、馬廻のみを率いて大嶽山を駆け登り、瞬く間に朝倉勢が籠る大嶽城を攻略するのです。これが朝倉、そして浅井家滅亡の端緒となりました。

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小谷城(右)と虎御前山砦(左)遠景

さて、城友会もいよいよ大詰め。
解散前にちょっと寄り道、龍ヶ鼻陣所跡に向かいます。

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観音寺城 (城友会2014…④)

11月24日(月) 城友会2日目、今回の旅も最終日です。

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なんとなく前日の疲れ(城攻めよりもむしろカラオケのせい?!)が抜けていない感じもありましたが、朝の散歩から1日のスタート。

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朝陽を浴びる彦根城天守、美しいです。

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さぁ、それでは出発しますか!

まずは前日に渋滞で回避した観音寺城へ向かいます。
観音寺城は言わずと知れた南近江守護・六角氏の居城。標高433m、比高約330mの繖山の山腹に築かれた巨城です。
ところが永禄11年、織田信長が足利義昭を奉じての上洛戦を開始し、電光石火の攻撃で支城の箕作城が落とされると、六角承禎・義治父子は城を捨てて逃亡します。これ以降、観音寺城は主を失い、そのまま廃城となりました。

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有料の林道を通り、観音正寺の駐車場までは車で登れます。

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参拝者用の林道を歩き始めてすぐ、林道脇の眼下に曲輪跡の削平地が見えてきます。(写真は伝目賀田丸
何せ確認されているだけでも、大小合わせ約1000もの曲輪を有する観音寺城。とても全城域を巡ることなど出来ませんので、今回は3時間ほどかけて主だった曲輪のみを見て回ることにします。

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まずは伝布施淡路丸から。
…なんですか一体、いきなりのこの素敵な石垣は☆

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伝布施淡路丸の曲輪内部
左は石垣、正面には高い土塁が見えます。

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曲輪内には市田義恒という方のお墓がありました。
詳細は分かりませんが墓石に刻まれた漢文の略歴を読む限り、家系を遡ると六角氏と同じ佐々木氏に連なる近江源氏の出のようです。
近江商人の中に、元六角家臣だったという市田清兵衛なる人物がいますが、何か繋がりがあるのでしょうかね。

そして墓石の奥に見えている土塁、どれくらいの高さかと言うと・・・

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これくらい。土塁の上から見下ろしています。

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藪って写真では分かり辛いですが、堀切も結構な規模です。

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面積も広いし、遺構も見事☆…いきなり凄過ぎるんですけど、観音寺城。
否が応にもテンション・期待は高まるばかりです。

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ルートに沿ってそのまま観音正寺

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城攻めの無事を祈願しつつ、、、

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そのまま伝本丸方面を目指します。

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この大石段を上った先に伝本丸があります。

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大石段には水路も設けられ、結構大きめな暗渠も。

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伝本丸に到着。広い・・・

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伝本丸の土塁

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そして石垣

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伝本丸北側に設けられた食い違い虎口
この虎口外側の、、、

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石垣もまたいい感じ♪

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同じく北側から見た伝本丸の切岸。高い・・・
左手には崩れかけた石垣も。

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井戸跡もありました。
比高300m以上でも、井戸を掘って水が出るんだから凄いよね。

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こちらは伝平井丸
これまた広い曲輪ですねぇ~

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伝平井丸の虎口
この虎口の外側も、、、

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石垣でガッチリ固められています。

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更には埋門まで☆

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伝落合丸
正面の土塁上にこばたかさんが立っているので、土塁の高さが推し量れると思います。

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伝池田丸

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伝池田丸の虎口

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どこもかしこも、本当に石垣が見事!

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伝池田丸の先からは急な斜面を下って行きます。

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女郎岩…意味や由来は知りませんww

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そしてようやく、目指すものが足元に、、、もうお分かりですね?

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おぉ…!
斜面が一段と急で下りるのに苦労したけど、頑張った甲斐がありました。

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伝池田丸斜面下の大石垣

その後、縄張図片手にあっちじゃない、こっちでもない…と探し回り、、、

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ようやく尋ね当てた伝木村丸

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ここにも埋門が☆

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切岸にも石垣が配されています。

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結構な斜面を這いずり回って尋ね当てただけに、これだけの広さの曲輪を造成した凄さには驚き入るばかりです。

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伝木村丸北側から伸びる竪堀はかなりのスケール!見応えありました。

さて、ここまで急な斜面をだいぶ下ってきたので、、、

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帰りは当然、登らなくてはなりません!www

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ゼェゼェと息を切らしながらも登り切り、どうにか観音正寺まで辿り着いて一休み。。。

今回はほんの一部を見て回ったに過ぎないはずなのに、スケール感と遺構の見事さに終始圧倒されっ放し!
凄過ぎるぞ、観音寺城・・・もう何度でも繰り返し訪れたいお城になりました♪

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八幡山城 (城友会2014…③)

城友会2014、初日のラストは渋滞の観音寺城を回避して八幡山城へ向かいます。
ロープウェイでサクッと八幡山を登り、まずは主郭部へ。

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ここの石垣もいい味を出しています。

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しかし、前回来た時には問題なく行けた出丸は、石垣の崩落が進んだのか立入禁止に…(>_<)
※2013年3月の記事→コチラ

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八幡山から望む西の湖越しの安土山♪
八幡山からの眺めは360度、本当に素敵です。

…ただ、それがためもあるのでしょう、「恋人の聖地」化が急ピッチで推進されているようで、山頂曲輪群の随所にハート型や「LOVE」の文字のオブジェが設置されていました・・・。
観光施設でもある以上は人を呼びたいのは当然だし、それぞれに考えがあってやっていることなので私のような門外漢が口を挟むべきではありませんが、「恋人の聖地」「天空の城」などと謳っては安易な客寄せに走った結果、折角の遺構や景観を損なってしまったという事例もある訳で、、、
城跡は文化財である
とうことを決して忘れずに、今後も計画を進めていただければと切に願います。

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こんなに素晴らしい遺構が、400年以上もの時を超えて現代の私たちに歴史を伝えてくれているのですからね。

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村雲瑞龍寺の山門は、本丸虎口。紅葉がいい感じ。
そういえば瑞龍寺も「縁結び」の御利益を謳い、境内にも地面に四葉のクローバーを描いた「誓いのスポット」なるものが出来ていました…(;・∀・)

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再びロープウェイで下山後は、築城主・豊臣秀次の居館跡へ

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いつ見ても山麓居館跡の石垣は見事です。

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枡形も重厚感が漂います。

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荒々しいまでの野面積みが薄暗い竹藪の奥にひっそりと、それでいて重々しく根を張っているのです。

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石垣の隅から
深い竹藪でなかなか全体を見渡すことは出来ませんが、石垣と竹藪のコラボが生み出す静謐な雰囲気…嫌いじゃないです♪

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さ、日も落ちてきたので撤収です。
この日は近隣の城跡などで狼煙リレーが行われていたそうで、空には何処からか上げられた狼煙が夕陽を浴びてたなびいていました。

日牟禮八幡宮前の「CLUB HARIE」でバウムクーヘンをお土産に仕込み、、、

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「たねや」で名物の焼きたて「つぶら餅」を頬張ってから彦根へ。

夜は彦根駅前で懇親会♪
ひとしきり楽しく盛り上がった後は…城友会恒例のカラオケへ☆
いやぁ~今年も、お城への愛と情熱、それをご家族になかなか理解してもらえないちょっぴり切ない気持ちが詰まったこばたか替え歌ショー、思う存分楽しませていただきました☆
年々磨きがかかっているね♪

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2014年11月28日 (金)

安土城 (城友会2014…②)

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佐生城(前の記事)の次は安土城へ。
言うまでもなく、織田信長最後の居城です。

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山麓の未整備部分にも、まだまだ興味を惹かれる遺構が散見されます。

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これは虎口でしょ? 枡形になっています。

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今まで、あの奥の面は樹木が生い茂って見えていなかったような…。
だいぶ崩れてはいるけど、部分的に石垣も残っていました。

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さ、それでは☆

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伝前田利家邸址
初めて安土城を訪れた2005年当時は、ここも樹木が生い茂っていたけど…綺麗になったものです。

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伝前田邸、蔀の石塁と石段

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石段の脇には細い水路もありました。

さて日曜日は、現在では伝徳川家康邸址に建つ摠見寺を拝観出来る日。
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・・・という訳で勿論、立寄ります♪

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信長公の木像や、安土城天主址から出土した金箔瓦などを拝観し、お抹茶で一休み☆

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伝徳川家康邸址から大手道越しに望む伝羽柴秀吉邸址

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大手道を振り返る・・・

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黒金門址の枡形虎口
ここからいよいよ、安土城の中心部に入ります。

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二ノ丸東溜まり
こちらの石垣に沿って礎石列焼け残った柱の一部が発掘されたため、奈良大学の千田先生はその著書「信長の城」で、ここには天主に連なるテラスの様なものが懸け造りで築かれていた、との説を唱えられています。
天主は天正10年の本能寺の変直後に焼失していますが、確かにこの面の石垣には焼けた痕跡が見受けられます。

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伝本丸址を経由して、、、

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天主へ・・・

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ところで、この天主への石段には板状に加工された切石が敷き詰められている箇所があります。(写真提供:あっぴん。さん)

城内には他にも同じような切石が使われている箇所もありますが(伝前田邸址など)、天主石段の切石のみ笏谷石という種類の石が使われているそうです。
笏谷石は主に越前で産する石で、朝倉氏の一乗谷でも笏谷石で作られた石仏などが多く見つかっているそうですが、、、

(天正九年)七月十一日、越前より、柴田修理亮、黄鷹六連上せ、進上。並びに、切石数百、是れ又、進上申され候ひしなり。
(信長公記 巻十四「因幡国取鳥(ママ)城取り詰めの事」より)

或いはこの時、柴田勝家が献上した切石こそが、天主石段に使われているものかもしれませんね♪

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安土城天主址
結構他の観光客も多かったのですが、ちょうど誰もいないタイミングで撮影できました♪
…え、敦盛? 衆人環視の下でやる訳ないでしょ(笑)

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天主址から琵琶湖(搦手)方面
往時はこの周辺一帯、全て湖面に覆われていたのですねぇ・・・

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天主台の石垣を眺めつつ、、、

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信長が創建した摠見寺址へ。
西の湖を望む。銀杏も綺麗です☆

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築城時、甲賀の長寿寺より移築されたと考えられている三重塔。
建立はなんと1454年!

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二王門
こちらも甲賀から移築されたもので、建立は1571年。

三重塔、二王門共に重要文化財に指定されています。


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さて、一通りルートに沿って安土城見学を終えた後は、安土駅前にある安土城郭資料館へ。

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安土城天主模型
こちらの模型、係の人が時々・・・

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御開帳してくれます(笑)

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おや?信長公もおわしますね!

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駅前に建つ織田信長公の銅像
実は私、安土城には何度か訪れているのに電車を利用したことがなかったので、こちらの銅像には初めて拝謁させていただきました☆

この後は安土城考古博物館の食堂で昼食を摂り、観音寺城へ☆
・・・のはずでしたが、紅葉シーズンともあって観音正寺へ向かう林道が大渋滞!急遽観音寺城攻めを翌日に回し、近江八幡の八幡山城へ向かうことにしました。

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2014年11月27日 (木)

佐生城 (城友会2014…①)

11月23日(日)
さて、いよいよ年1回の城友会がスタート。
今年は前夜祭からのメンバーに、当日合流組のあっぴん。さん、しろうさぎさんを加えた計6名での開催です。

今回の1城目は東近江市にある佐生城
南近江守護・六角氏の観音寺城がある繖山から北に伸びた尾根の先端部分に築かれていた城で、六角家臣の後藤但馬守(賢豊?)が城主を務めていました。

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岩屋十一面観音の駐車場まで車で登り、そこからは徒歩で尾根をゆっくりと下っていきます。

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歩き始めてから10分ほどで到着。いきなり素敵な石垣がお出迎え♪

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ほぼ単郭式の規模の小さな城で、その立地からしても観音寺城の出城という認識でよさそうですが、それでも南面のこの石垣は壮観☆

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後藤但馬守城址

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郭の周囲を土塁が取り囲みます。

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東側の虎口の先には竪堀も。

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北西面に残る石垣。覆い被さっていた土を取り除いた痕跡のようなものが確認できました。
南側に比べて北東や北西側の面(郭は北を頂点に三角形のような形をしています)には一部しか石垣が見受けられませんでしたが、こうして見るとそれは石垣がなかったのではなく、実はまだ土砂の下に埋もれているだけなのかもしれませんね。

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佐生城の南側には街道(後の中山道)が通っており、街道を押さえる(見張る)役割も担っていたのでしょう。
石材の一つ一つも大きいし、石垣の見事さにすっかり魅了されました♪

城友会2014…②へつづく

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大津城、義仲寺、瀬田の唐橋

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日吉大社からは京阪電車で移動し、浜大津へ。

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浜大津駅前に建つ大津城跡の碑
大津城といえば、関ケ原の戦い(1600年)の直前に繰り広げられた籠城戦で有名ですね。
浜大津駅周辺はかつて、大津城の本丸でした。

縄張推定復元図
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これを見てもお分かりの通り、開発によって今となっては跡形もありませんが…(;´・ω・)

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駅から少し南へ歩いた先、大津祭曳山展示館の敷地に残る石垣。
復元図と照らし合わせる限り、位置的に外堀の石垣ということになるのかな?ほぼ唯一と言ってもいい大津城の遺構。


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さて、お次は京阪膳所で下車して義仲寺へ。
その名の通り、木曽(源)義仲ゆかりのお寺です。目の前は旧東海道

義仲寺の立つこの地はかつて、粟津ヶ原といって義仲が討ち死にした地であり、彼の塚が築かれていました。
そこへある時、見目麗しき尼僧が訪れて小さな草庵を結び、義仲の塚を懇ろに供養するようになります。その様子に里人が訝しんで訊ねても
「われは名も無き女性」
と答えるのみでしたが、この尼僧こそ巴御前であったのだとか。
彼女の死後、庵は無名庵、巴寺などと呼ばれ、これが現在に至る義仲寺の始まりでした。
鎌倉時代後期には既に木曽寺、木曽塚、義仲寺などと呼び慣わされていたことが文献からも確認できるそうです。

また、江戸時代には俳人・松尾芭蕉も度々訪れては滞在しました。
芭蕉は大坂で最期を迎えますが、
「骸は木曽塚に送るべし」
との遺言に従い、亡骸は義仲寺に運ばれて葬られました。

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山門脇には巴地蔵尊

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義仲寺境内

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史料館には芭蕉の「椿の杖」など、貴重な品々も。
※撮影許可を頂いています。

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義仲寺本堂は「朝日堂」
朝日将軍と謳われた義仲にちなんでいるのは言うまでもありません。

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巴塚

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木曽義仲墓所

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松尾芭蕉墓所
義仲と芭蕉のお墓は隣り合わせにありました。

木曽殿と 背中合わせの 寒さかな
           
又玄(芭蕉弟子)

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翁堂

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翁堂の天井絵は伊藤若冲の作

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芭蕉の句碑
古池や 蛙飛びこむ 水の音


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この日最後の行程は瀬田の唐橋へ。
近江八景の一つ「瀬田夕照」の今を撮りたくて、しばし瀬田川の畔に座り込んで夕陽待ち。。。

 

 

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近江八景「瀬田夕照」

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もう少し赤くなって欲しかったけど目的は達したし、満足。


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夜は2泊滞在する彦根へ移動し、ホテルにチェックイン。

駅前の居酒屋で、翌日からの城友会に参加するメンバーの内、前乗りしている流星☆さんやゆっきー、東京での仕事を終えてから駆けつけたこばたかさんらと前夜祭で盛り上がりました♪

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2014年11月26日 (水)

西教寺、日吉大社

11月22日(土)、翌日からの城友会に備えて今年の開催地である滋賀県へ前乗り。
京都で在来線に乗り換え、まず最初に向かったのは、、、

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比叡山の麓、坂本の西教寺
あの聖徳太子が開基との説もあるお寺で、室町期の中興の祖・真盛上人を宗祖とする天台真盛宗の総本山です。
そしてこちらの山門は、明智光秀が築いた坂本城からの移築門なのだそうです。

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紅葉がとても綺麗でした。

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織田信長による延暦寺焼き討ち(1571年)の際、西教寺も焼失しました。
坂本を含む近江志賀郡が明智光秀に与えられ、彼が坂本城を築くはこの直後です。

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さすがは穴太衆を生んだ坂本。随所に素敵な石垣が積まれています。

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まずは本堂(10年ぶりに聖徳太子座像や元三大師座像も公開)や、、、

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客殿などを拝観しました。

坂本城を築いた明智光秀は、きっと焼失した西教寺の復興にも寄与したのでしょう。
後に西教寺は明智一族の菩提寺ともなりました。

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明智光秀のお墓

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こちらは光秀の妻・煕子のお墓
ガイドの方のお話によりますと、煕子の葬儀では光秀が自ら喪主を務めたとのことでした。

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彼らの墓所が並ぶ境内から坂本の街、そして琵琶湖の眺め。

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ところで西教寺を訪れた一番の目的は、こちらの収蔵庫で;

聖観音立像(平安期/国重文)
石灯籠(鎌倉期/国重文)

と共に保管されている・・・

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坂本城陣鐘(明智光秀寄進/国重文)
を拝観することだったのです!なんと初公開!!
※公開期間は2014年10月4日~12月7日までの週末のみ

綺麗な紅葉に包まれつつ、貴重な品を拝観して明智光秀の歴史に触れることができ、有意義なひと時でした。

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西教寺をあとにして、比叡山を右手にのんびりと歩き、、、

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日吉大社
2100年の歴史を持つ、全国3800以上の日吉・日枝・山王神社の総本宮です。
写真は東本宮の楼門。

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東本宮
日吉大社もやはり、元亀2年(1571)の延暦寺焼き討ちで焼失しています。

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そのまま西本宮へ

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西本宮本殿

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やはり歴史ある大社の神域は、どこか身の引き締まる思いが致しました。

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比叡山を振り仰ぐと、延暦寺の伽藍が見えていました。
※訂正:八王子山と日吉大社の奥宮です。

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さて、この後は少し電車で移動します。

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2014年11月16日 (日)

松姫の足跡を訪ねて…

松姫(於松)
永禄4年(1561)、武田信玄の五女(他に四女、六女説もあり)として生を受けました。ちょうど第4次川中島合戦に出兵していて信玄が留守にしている間と云います。母は油川氏。同母の兄弟としては仁科五郎盛信菊姫(上杉景勝正室)らがいます。(木曽義昌に嫁した真理姫もか?)
7歳の時、織田信長の嫡男・奇妙丸(後の信忠。当時11歳)と婚約しますが、元亀3年(1572)に信玄が西上作戦を開始して遠江~三河へ侵攻し、信長が徳川方へ援軍を出したことで織田家との関係は手切れとなり、婚約は事実上解消されました。

信玄死して勝頼の代になり、いつの頃からか兄・仁科盛信が城代を務める高遠城で過ごしていましたが、天正10年(1582)2月、信長の号令一下甲州征伐が開始されると、かつての婚約者・信忠率いる織田の大軍が高遠城に迫って来たため、松姫は高遠を逃れます。この時、盛信から娘の督姫(小督)を託されました。
一旦新府城へ入った松姫一行は勝頼の娘・貞姫、小山田信茂の娘・香具姫をも連れて更に東へ逃れ、案下峠を越えて八王子に辿り着きます。
※案下峠越えの道中、上案下には武田旧臣の家が現在もあり、松姫一行をもてなしたという伝承が残されているそうです。

八王子に入った松姫一行はまず、上恩方の金照庵に入ります。天正10年4月のことです。
この時既に、勝頼らは田野で果てて武田家は滅亡していました。

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金照庵
現在は恩方第二小学校の校庭になっています。

これより21年後の慶長8年(1603)には、松姫の姉で穴山信君(梅雪)未亡人の見性院もここ、金照庵に移り住んできます。
見性院は松姫と共に、内々に託された将軍秀忠の子・幸松を養育します。言うまでもなく、後の初代会津藩主・保科正之です。高遠藩主・保科正光に預けられるまでの一時を過ごした場所・・・更に言えば彼の生誕地には諸説ありますが、或いは金照庵がその地であるやもしれず、感慨は一入です。

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松姫らが通って来たであろう、案下道(現在は陣馬街道)

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こちらは案下道に設置されていた口留番所跡の碑。

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その口留番所跡碑に並ぶように、松姫之碑や、、、

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こんな石碑?道標??もありました。
金昇(照)庵跡
是より北西 一五〇メートル
恩方第二小学校用地東端
と書かれています。

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関所(番所)が置かれていた関係で、この辺りは現在も「関場」と呼ばれています。

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少し離れた場所に街道之碑

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案下道の脇には綺麗な沢も流れていました。

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また、これも案下道沿いの小山に建つ宮尾神社は、、、

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童謡「夕焼小焼」の作詞者・中村雨紅の生家跡です。(雨紅は宮尾神社宮司の三男)
それにちなんで境内には夕焼小焼の歌碑も建てられています。

・・・話を戻します。

金照庵でしばらく時日を過ごした松姫は、同年暮れ頃に案下道を更に東へ下った下恩方の心源院へと移りました。
この間、京都では本能寺の変(6月2日)が勃発し、かつての婚約者であった織田信忠も非業の死を遂げています。
※信忠の使者が松姫の元を訪れ、松姫が信忠に会いに行く道中で本能寺の変報に接する、という逸話も残されていますが、ここではあえて詳しく触れません。

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深沢山心源院
松姫は当時の住職だった隋翁舜悦和尚(卜山禅師。以下「卜山」に統一)に師事して仏門に入り、信松尼と号します。22歳の時でした。

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本堂前に建つこちらの記念碑には、心源院の縁起が以下のように刻まれています。
深澤山心源院は遠江国榛原郡高尾村曹洞宗龍門山石雲院末にして文明年間季雲永缶大和尚を以て開山に拝譜し武州柚井の城主大石源左エ門尉道俊開基とせしものにして天正年間八王子城主北條陸奥守氏照の祈願所となり巨刹の内に属せしが天正庚寅年北條氏滅亡後は徳川氏御朱印二十石賜り代々寺領とせり
たまゝ慶安庚寅年七月寺中より出火し七堂伽藍残らづ灰燼に帰せしを諸星政之と言える者之を中興し以来連綿たりしが昭和十六年十二月大東亜戦宣せられるや当山も国難に応じたり  昭和二十年八月一日空襲による戦火にあい諸堂を再び焼失せり
然るに昭和四十五年春当山檀信徒相謀り本堂建設の運びと成り満二ヶ年の歳月を要し茲に落慶を見る事を得たり
佛天の照鑑をこい偏にその加護あらん事を祈り之を記念し茲に銘記す
昭和四十七年十月二十八日

話は少し逸れますが、“由井”城主の大石氏が開基となっていることからしても、この辺り一帯が「由井領」であり、「由井城」とは即ち浄福寺城のことではないかと思います。
その後、天正年間に氏照によって八王子城の出城として改変され、現在に残る遺構からは「大石色」が薄れているとしても。

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山号を「深沢山」というくらいなので八王子城に近く、境内裏山の秋葉神社(左手前の山の上)から八王子城の搦手口へ通じる道が通っています。

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卜山も時折、この道を通って弟子であった北条氏照に会いに行っていたとか…。

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本堂を眼下に収める眺め。
この先を写真の左右に案下道が横切っており、それを押さえるように左奥方向(圏央道の白いラインが見えている辺り)に浄福寺城が築かれていました。
八王子城は左に切れて写っていませんが、こうして見ると甲州道中と案下道の双方を押さえる立地だったことが分かります。

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秋葉神社本殿奥に伸びる道。
八王子城までは何kmあるのかな?・・・今回は目的が違うので行きませんが(笑)

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心源院山門
一説には室町期の創建とも・・・とすると、松姫も潜ったということになりますね。

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小谷田子寅の碑
八王子千人同心の一人で医学に明るく、薬や診療を求める人々があとをたたず、大変慕われたと云います。
この功績を称え、同じ千人同心の塩野適斎が撰文、植田孟縉が揮毫して建立されました。


心源院での修行の日々が8年程に及んだ天正18年、またも信松尼に戦火が迫ります。
豊臣秀吉による北条征伐が開始され、八王子城は前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの攻撃を受けて落城しました。
※攻城軍の中に妹・菊姫の嫁ぎ先である上杉景勝がいたのも、何かの運命か…。

おそらく避難していたであろう信松尼はこの後、御所水の里(現八王子市台町)に庵を結んで移り住みます。
御所水では侍女たちと共に養蚕機織りに勤しみ、これが現在に伝わる八王子の織物の元になったとの説もあるのです。

御所水の里は心源院から案下道を更に東へ進み、追分(現在の「追分町」交差点)で甲州道中に合流した先にあります。徳川家康によって組織された武田旧臣から成る千人同心たちの屋敷地のすぐ近くで、代官を務めた大久保長安の陣屋(八王子市小門町)からも近く、おそらくは彼らの庇護を受け、また交流を重ねながらの日々だったのではないでしょうか。
大久保長安陣屋跡については、コチラ の記事を参照
追分については、コチラ の記事を参照

また、追分に至るずっと手前(西)の案下道沿いには、やはり千人同心の出だった中島登(新選組隊士)の生家跡もあります。
案下道は甲州道中の裏街道的な位置づけの道ですので、やはり江戸防衛のために配されたのでしょうね。
中島登生家跡については、コチラ の記事を参照


そして元和2年(1616)4月16日、信松尼こと松姫は56歳でその生涯を終えました。枕辺には見性院や幸松が侍っていたと云います。
遺言により、信松尼が過ごした草庵は彼女の師であった卜山を開基に迎え、信松院として創建されました。

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信松院
手前に御所水観音の石碑も。
※但し信松尼が過ごした草庵は、現在の信松院より500mほど南に行った場所との説もあります。

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門前に建つ旅装姿の松姫像

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松姫お手植えの松の碑

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そして・・・松姫のお墓
運命に翻弄され、苦労の絶えない人生だったかとは思いますが、八王子に移り住み、旧家臣団の千人同心や幸松らと過ごした日々が穏やかで幸せであったことを祈らずにはいられません。


ところで、甲斐から連れてきた3人の幼い姫たちのその後ですが、貞姫と香具姫はそれぞれ嫁ぎ先で幸せに暮らして長寿を全うしたようですが、盛信の娘・督姫は仏門に入って大久保長安から寄贈された横山宿の寺で過ごしていました。
…が、生来病弱だったらしく、病を得て29歳の若さで世を去ります。

督姫の過ごした寺は彼女の戒名にちなんで「玉田院」と呼ばれるようになり、お墓も同地にありました。
しかし元禄年間に廃寺となって荒れ果てていたところへ、信松尼の百回忌法要で八王子を訪れた仁科家の子孫・仁科資真がその様子を見かね、極楽寺に改葬しました。

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寶樹山極楽寺
(八王子市大横町)

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山門に大きく葵紋

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こちらが督姫のお墓
周囲を取り巻くように建ち並ぶのは、侍女たちのものでしょうか。
29歳と短い生涯ではありましたが、平穏な日々であったことを祈念しつつ合掌。

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極楽寺本堂
当寺には他に、、、

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北条氏照や前田利家に仕え、後に横山宿をつくって今日に続く八王子市発展の礎を築いた長田作左衛門のお墓や、、、

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八王子千人同心の一人で「新編武蔵風土記稿」の編纂にも携わった塩野適斎のお墓もありました。
心源院にあった小谷田子寅の石碑の撰文をした人でもあります。

今回、松姫の足跡を辿って訪れた先々で、千人同心たちの歴史にも遭遇しました。
以前、興岳寺を訪れて幕末の石坂弥次右衛門を紹介したことはありますが(→コチラ )、千人同心の歴史ももっともっと勉強しなくてはなりませんね。

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2014年11月15日 (土)

横山塔 -医王山妙薬寺-

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八王子市元横山町にある妙薬寺
文和4年(1355)に清遍が開山した薬師堂の別当寺として、清承により明徳2年(1391)に創建されたと伝わるお寺です。本尊は大日如来。

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江戸期には薬師堂領として、幕府より7石を拝領しています。

薬師堂
(元横山)村の東の方にあり、三間四面、御朱印堂領七石を賜へり、別當寺しばしば回禄にあひて、記録なければ詳ならず。
別當妙薬寺。新義真言宗にて、宇津木村龍光寺末、醫王山聖天院と號す、開山のこと詳ならず、本堂六間に四間、本尊大日は立像にして、長三尺許。

(新編武蔵風土記稿より)

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昭和20年8月2日の空襲で焼かれていますので、現在の堂宇は戦後の再建です。
…それにしても極彩色で派手な作り(^_^;)

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この妙薬寺境内の一角にひっそりと祀られているのが・・・

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横山塔
武蔵七党の一つ、横山党を供養する宝篋印塔。
永禄3年5月の作だそうです…ちょうど桶狭間の戦いがあった時ですね。

横山氏石塔。薬師堂の前にたてり、昔は境内より十四五歩へだてし字木の下屋敷と云所の百姓かまへの内にありしを、百五十年前にここへ移せしと云、高さ五間ばかり、五輪のごとき塔なり、第二層に梵字あり、第一層には四方に文字あれども滅してよむべからず、ただ横山殿の墓とのみつたへて、その名をつたへず、この墓の舊蹟には、土中に石函ありと云ふ、されどそれを動すときは殃ありとて、近くものだになし。
(新編武蔵風土記稿より)

確かに梵字は確認できますね。
この元横山町一帯が横山党の本拠地とされていて、町内にある八幡八雲神社周辺がその居館跡と考えられているようです。

横山党をはじめ、武蔵七党の歴史はまだまだ不勉強で今はこれ以上の事を書けませんが、大切な地元の歴史。少しずつ理解を深めていきたいと思います。

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2014年11月 7日 (金)

桑折西山城、梁川城 - 福島に残る伊達の城

11月3日、福島の旅も最終日。
午前9時に福島駅近くで集合し、まず最初の目的地・桑折西山城へ向けて出発。

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途中、素敵な建物が目に入ってきたので寄り道…旧伊達郡役所
明治16年に建設された建物です。

更に旧伊達郡役所内に設置されていた観光案内マップで、ゆっきーがみつけてくれたので、、、

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旧奥州街道と旧羽州街道の追分♪

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たかが道、されど道、、、テンション上がるわぁ~(笑)


桑折西山城

図面
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桑折西山城は伊達政宗の曽祖父・伊達稙宗の居城
稙宗の三男・実元の越後上杉氏への入嗣問題を巡り、稙宗と嫡男・晴宗が家中を割って対立した天文の乱では、稙宗は一時、晴宗によってここ桑折西山城で幽閉されています。
(その後、家臣によって救出されている)

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大手門跡
この辺りまで、細くて未舗装ながら車で上がれる道があります・・・が、この日は前夜から未明にかけて降った雨のせいでぬかるみ、大変な思いをする羽目に・・・。
細い道の右側は切り立った斜面なのですが、地盤が緩んでいてそちらへ“のめって”いくような感触がするし、タイヤが空転して動かなくなるしで、、、登り切った時にはタイヤで跳ね上げた泥で、我が愛車は無残な姿に…(;´・ω・)
ま、無事でよかった。

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一部、発掘調査中の箇所もありました。
図面にはまだ郭として書き込まれていない位置(中舘と二ノ丸の間の窪地部分)ですが、柱穴などが検出されているようなので今後追加されるかもしれませんね。

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その発掘現場付近から見上げる中舘方向。
さすがに伊達家当主の居城だっただけのことはあり、かなり規模の大きな縄張です。

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中舘に残る外枡形・・・格好いい♪

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この枡形、外側にももう1本土塁が渡してあり、複雑な構造をしていました。

※この中舘には、熊のでーっかい「落し物」もありました…(;^ω^) 遭遇しなくて本当によかった。

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中舘と西舘の間の空堀。ここもいい☆

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西舘には石積みがあり、一瞬テンションが上がりましたが、どうやらこれは昭和の初め頃、この郭跡を畑として利用していた時期に積まれたものらしいのです。
ただ周辺には他にも石材がゴロゴロしており、写真部分も含めて往時にも実際に石が積まれていた可能性はあるとは思います。

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西舘の枡形虎口。
この虎口付近にも石材がたくさん転がっており、石積みの枡形だったものと思われます。

この虎口の先、郭を一段下ると、、、
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更にもう一つ、立派な枡形が!
枡形を連続させて組み合わせる堅牢な虎口、お見事☆

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二ノ丸へ移動し、本丸方面を見る。
兎に角このお城、郭がやたらに広い。

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二ノ丸と本丸の間の堀に架かるこれは土橋か、畝の一つか…?

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本丸に建つ石碑
桑折西山城、それほど期待してはいなかったのですが、なかなかどうして見事な城跡でした。

登りは散々に苦労した未舗装の山道も、帰りは何とか無事に下りられました…(;^ω^)

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次の目的地である梁川城へと移動する道中、とても綺麗な虹が見送りしてくれました♪
こんなに低い位置に架かる虹は、ちょっとお目にかかったことないなぁ~。虹に包まれるようにして見えているのは阿津賀志山です。
(写真提供:ゆっきー)


梁川城

福島県伊達市梁川町に残る梁川城は、伊達稙宗によってその居城が桑折西山城へと移されるまで、約300年間に渡って伊達氏の居城だったと考えられているお城です。
その後も政宗の初陣となった相馬氏との戦いでは伊達軍の拠点となり、また政宗の正室・愛姫輿入れの際には、花嫁の受け渡しがされたのも梁川城でした。

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城跡の中心部には学校などが建てられて遺構の多くが失われていますが、それでも北側の郭跡には今も立派な枡形の土塁が残っていました。

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この枡形の先には堀跡も。

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あちらにも土塁が。

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城域の最北端と推定される位置の堀。

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これも堀の跡ですね。

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街中とはいえ、よ~く見ていれば他にも随所に遺構が残っていました。

さて、これにて2泊3日に渡る今回の福島旅も終了です。
福島駅まで参加者の皆さんを送り、愛車と共に帰路へ。少し早目に解散したものの、宇都宮を過ぎた辺りから何度も渋滞にハマりました…。
行きは4時間だった道のりも、帰りは結局6時間…それでも無事に帰ってこれたので良しとしなくては!
参加者の皆さん、楽しい時間をありがとうございました☆ 我が愛車もお疲れさま♪

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2014年11月 6日 (木)

石母田城

11月2日、阿津賀志山防塁めぐりの合間に石母田城跡にも立ち寄りました。


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石母田城は伊達家の重臣・石母田氏の本拠だった館城で、伊達稙宗と晴宗が争った天文の乱では稙宗方の拠点にもなりました。

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からの方角を見た本郭の土塁。
奥で右に折れている様子も見て取れますが、結構な規模の遺構です。

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の堀は道路になっていました。

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本郭は果樹園に・・・

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こちらは写真では分かり辛いですが、図地点から本郭の外側を見た様子です。
右に藪の隙間から内堀が覗き、左側の藪の先は馬出のようになっていました。

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の空堀
町中に何気なく残るこうした遺構、結構好きです。

※本郭、及びその周辺は私有地となっており、我々は地元の方にお声掛けしてご厚意で見学させていただきました。
訪問の際は充分に地元の方への配慮をお願いします。

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阿津賀志山防塁

福島の旅、2日目。
いよいよ阿津賀志山防塁へ向かいます。

阿津賀志山防塁とは
文治5年(1189)の奥州合戦に於いて、平泉に本拠を置く藤原泰衡が異母兄の国衡を将として派遣し、源頼朝率いる鎌倉軍を迎え撃つために阿津賀志山(厚樫山)の中腹から山麓を経て阿武隈川(旧流域)に至る総延長3.2㎞に渡って築かせた防塁遺構です。
吾妻鏡にも「口五丈堀」と記録されています。


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既に800年以上もの月日が流れ、開発などによって失われている遺構も多いですが、赤・黄色のラインに沿ってそれは築かれていました。
今回はその中でも残存状態が良く、史跡指定されている赤ライン部分をめぐります。

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まずは阿津賀志山々頂の展望台から。
霞んでしまっていますが、遠くに阿武隈川が見えています。
防塁は写真中央辺りを縦に、阿武隈川付近まで築かれていました。

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この爪痕は・・・(;´・ω・)
まだあまり時間経っていないよね…周辺の木々にもたくさん痕跡があったし、展望台周辺は熊の縄張りになっているのかも…訪問する際は充分にご注意ください。

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阿津賀志山中腹、防塁開始地点から(図地点)
山麓に向けて真っ直ぐ下っています。

これを下から見上げると、、、
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地点から見上げた様子・・・凄い!!
某地図アプリの航空写真で確認すると、阿津賀志山の山中に残る防塁跡はハッキリと写っています。それほどの規模。
※この後は石母田城跡へ立ち寄ったのですが、それはまた別の記事でご紹介するとして、防塁レポを続けます。

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山を出て図地点にて。
真っ直ぐに伸びる土塁と空堀が綺麗に残っています。

ここから先、防塁は更に、、、
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平地部へ向けて真っ直ぐ駆け下っていきます。

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800年もの歳月を乗り越えた土の遺構…見事としか言いようのない姿です。
ちなみにこの防塁はその後、旧石母田村と旧大木戸村の境界線にもなっていました。

この付近には防塁の他にもいろいろな史跡が遺されています。

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石母田供養石塔
徳治3年(1308)に僧・智せんが先祖の追善供養のために建立した板碑で、梵字と功徳文が刻まれています。
銘文は元の帰化僧・寧一山の筆跡で、地元では俗に蒙古の碑とも呼ばれているそうです。

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奥州藤原氏といえば、この人も忘れてはならない…源義経腰掛松。
源氏再興を期して鞍馬寺を出た幼い義経は、金売り吉次同道のもと、藤原秀衡を頼るべく奥州平泉を目指しました。
その道中、腰を下ろして休息したとの逸話が残る松です。

文政4年(1823)、松に巣を作った蜂を駆除するために修験者が焚火をしたところ、その火が松に燃え移って枯らしてしまいました。
これを惜しんだ村人がよく似た赤松を植樹(二代目腰掛松)しましたが、こちらも平成25年に枯れてしまったそうです。現在はこの2代目から接ぎ穂した幼木が植えられています。

ちなみに、あの小屋に覆われている古木は初代のものになります。

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更には、旧奥州道中国見峠長坂跡・・・これまた凄い!

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奥羽地方の幹線道として、近世には仙台や盛岡、松前などの諸藩が参勤交代で江戸と国元を往復する際にも使用されました。
しかしいくら幹線道とはいえ、これほどの道幅を誇る峠の古道が存在しているとは・・・感動です。

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松尾芭蕉も「奥の細道」で;
路縦横に踏で伊達の大木戸をこす
と記しており、間違いなくこの道を通っています。
大木戸とは前出の(旧)大木戸村のことです。

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古道を少し登った先に経ヶ岡。
奥州合戦に頼朝の配下として参戦した御家人の伊佐為宗やその父・常陸入道念西が、自ら挙げた敵将の首を晒した場所。
この時の戦功により伊佐一族は伊達郡を賜り、為宗は元の領地である伊佐郡に戻りますが、念西は土着して伊達姓を名乗るようになりました。
これが奥州伊達氏の祖となります。

さて、引き続き防塁めぐりへ戻ります。

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の高橋地区にて
写真左隅にも土塁が通っており、二重の土塁が確認できました。

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阿津賀志山(正面)からずーっと伸びてきた防塁・・・この先もまだ続いていきます。

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最後に図の下二重堀地区へ。
この光景、早くもワクワクしてきますね☆

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こちらでは三重の堀が綺麗に残っていました。

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凄いよねぇ・・・

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きちんと整備されていて、とても見易いです♪

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阿津賀志山から延々と続いてきた防塁は、いよいよ終点に差し掛かります。
写真は微かに痕跡を留める堀の跡。この先で防塁は、、、

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阿武隈川(現在は滝川という支流)に到達します。写真右奥が滝川の堤。往時はここまでが阿武隈川の流域だったと思われます。
写真左、柿の木の奥に見える土盛りも土塁の一部ではないでしょうか。

阿津賀志山防塁、そのスケールと遺構の良好な残存状況にすっかり魅せられてしまいました。
しかもこれが、鎌倉時代も室町時代も、戦国、江戸、明治、、、と800年以上もの時を越えて、現代の私たちの前にその威容を誇っている遺構だなんて・・・信じられますか?
これほどの歴史遺産に出会えた奇跡に、ただただ感謝あるのみです♪

この後は福島駅前に戻り、阿津賀志山防塁の感動を共有したオフ会参加者たちと懇親会☆
最終日は福島に残る伊達の城めぐりへ♪…おっと、その前に石母田城跡も記事にしないと!

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2014年11月 5日 (水)

二本松城と粟ノ須古戦場

11月1~3日の3連休は福島県へ。
メインの目的は国見町に残る阿津賀志山防塁をめぐるオフへの参加で、初日の11/1は移動のための前乗り。
宿は郡山に確保していましたが、折角なので愛車を飛ばして二本松城まで足を延ばしました。

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4時間ほどのドライブを経て午後2時半過ぎ、二本松城に到着。
山麓の箕輪門。

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二本松といえば忘れてはならない存在、二本松少年隊群像
今回は下準備が出来ていないので詳しくは触れませんが、いずれまた別の機会に彼らの歴史にきちんと向き合いたいと思います。

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この日は菊祭りが開催されていて、山麓は多くの人出で賑わっていました。

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枡形の石垣に食いついて離れない人が…(;・∀・)

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二本松藩士自尽の地碑
戊辰戦争で新政府軍の攻撃を受けて落城した際、二本松藩内の主戦論者であった家老・丹羽一学、城代・服部久左衛門、小城代・丹羽新十郎の3名が責任を負って切腹した地です。

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日影の井戸
千葉県印西市の月影の井、神奈川県鎌倉市の星影の井と並び日本の三井と称されているそうです。

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しばらく登ると、本丸高石垣が見えてきました。

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本丸下南面に残る大石垣
本丸の高石垣は平成5~7年の整備・復元ですが、こちらは現存。

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本丸の枡形

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天守台

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天守台脇に建つ丹羽和左衛門(城代)、安部井又之丞(勘定奉行)自尽の碑
この両名もやはり、戊辰戦争での二本松城落城に際し、割腹して果てました。

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天守台からの眺め・・・

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天守台からの眺め・・・その2

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あちらは復元展示されている天守台の石垣。
移築復元とはいえ、オリジナルの石材が使われています。

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天守台の西面下に残る二段石垣。こちらも現存。
犬走りも遺構です。

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空堀

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土井晩翠歌碑
昭和24年に当地を訪れ、花吹雪の中を散策した情景を詠みました。

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二合田用水
城の防備強化を目的に、安達太良山麓から約18㎞も引いてきた用水。なんと幕府には内密だったそうです。

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智恵子抄詩碑
高村光太郎の直筆で「樹下の二人」「あどけない話」の一節を刻んだ銅板をはめ込んでいます。

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少年隊の丘
戊辰戦争直前まで砲術道場があった場所とされ、少年たちが稽古をしていたと伝えられています。

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「二本松少年隊奮戦の図」レリーフ

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二本松少年隊顕彰碑

駆け足で二本松城散策を終えた後は車で少し移動して、、、

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粟ノ須古戦場跡
天正13年、伊達政宗との間で和議が成立し、その仲立ちをとった政宗の父・輝宗への御礼言上に宮森城を訪れていた畠山義継は帰り際、あろうことか見送りに出た輝宗を拉致して自らの居城であった二本松城へ連れ去ろうと画策します。
急を聞いて駆けつけた政宗が義継一行を追い詰め、殲滅した場所です。

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畠山義継主従陣没碑
この時の戦いで畠山義継は無論のこと、伊達輝宗もその命を落としました。

さて、ここいらで日も落ちて暗くなってきたので、ホテルへ引き上げます。
夜は翌日からの阿津賀志山防塁オフ参加者たちと郡山で合流して前夜祭♪楽しく盛り上がりました☆

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