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2014年11月16日 (日)

松姫の足跡を訪ねて…

松姫(於松)
永禄4年(1561)、武田信玄の五女(他に四女、六女説もあり)として生を受けました。ちょうど第4次川中島合戦に出兵していて信玄が留守にしている間と云います。母は油川氏。同母の兄弟としては仁科五郎盛信菊姫(上杉景勝正室)らがいます。(木曽義昌に嫁した真理姫もか?)
7歳の時、織田信長の嫡男・奇妙丸(後の信忠。当時11歳)と婚約しますが、元亀3年(1572)に信玄が西上作戦を開始して遠江~三河へ侵攻し、信長が徳川方へ援軍を出したことで織田家との関係は手切れとなり、婚約は事実上解消されました。

信玄死して勝頼の代になり、いつの頃からか兄・仁科盛信が城代を務める高遠城で過ごしていましたが、天正10年(1582)2月、信長の号令一下甲州征伐が開始されると、かつての婚約者・信忠率いる織田の大軍が高遠城に迫って来たため、松姫は高遠を逃れます。この時、盛信から娘の督姫(小督)を託されました。
一旦新府城へ入った松姫一行は勝頼の娘・貞姫、小山田信茂の娘・香具姫をも連れて更に東へ逃れ、案下峠を越えて八王子に辿り着きます。
※案下峠越えの道中、上案下には武田旧臣の家が現在もあり、松姫一行をもてなしたという伝承が残されているそうです。

八王子に入った松姫一行はまず、上恩方の金照庵に入ります。天正10年4月のことです。
この時既に、勝頼らは田野で果てて武田家は滅亡していました。

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金照庵
現在は恩方第二小学校の校庭になっています。

これより21年後の慶長8年(1603)には、松姫の姉で穴山信君(梅雪)未亡人の見性院もここ、金照庵に移り住んできます。
見性院は松姫と共に、内々に託された将軍秀忠の子・幸松を養育します。言うまでもなく、後の初代会津藩主・保科正之です。高遠藩主・保科正光に預けられるまでの一時を過ごした場所・・・更に言えば彼の生誕地には諸説ありますが、或いは金照庵がその地であるやもしれず、感慨は一入です。

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松姫らが通って来たであろう、案下道(現在は陣馬街道)

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こちらは案下道に設置されていた口留番所跡の碑。

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その口留番所跡碑に並ぶように、松姫之碑や、、、

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こんな石碑?道標??もありました。
金昇(照)庵跡
是より北西 一五〇メートル
恩方第二小学校用地東端
と書かれています。

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関所(番所)が置かれていた関係で、この辺りは現在も「関場」と呼ばれています。

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少し離れた場所に街道之碑

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案下道の脇には綺麗な沢も流れていました。

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また、これも案下道沿いの小山に建つ宮尾神社は、、、

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童謡「夕焼小焼」の作詞者・中村雨紅の生家跡です。(雨紅は宮尾神社宮司の三男)
それにちなんで境内には夕焼小焼の歌碑も建てられています。

・・・話を戻します。

金照庵でしばらく時日を過ごした松姫は、同年暮れ頃に案下道を更に東へ下った下恩方の心源院へと移りました。
この間、京都では本能寺の変(6月2日)が勃発し、かつての婚約者であった織田信忠も非業の死を遂げています。
※信忠の使者が松姫の元を訪れ、松姫が信忠に会いに行く道中で本能寺の変報に接する、という逸話も残されていますが、ここではあえて詳しく触れません。

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深沢山心源院
松姫は当時の住職だった隋翁舜悦和尚(卜山禅師。以下「卜山」に統一)に師事して仏門に入り、信松尼と号します。22歳の時でした。

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本堂前に建つこちらの記念碑には、心源院の縁起が以下のように刻まれています。
深澤山心源院は遠江国榛原郡高尾村曹洞宗龍門山石雲院末にして文明年間季雲永缶大和尚を以て開山に拝譜し武州柚井の城主大石源左エ門尉道俊開基とせしものにして天正年間八王子城主北條陸奥守氏照の祈願所となり巨刹の内に属せしが天正庚寅年北條氏滅亡後は徳川氏御朱印二十石賜り代々寺領とせり
たまゝ慶安庚寅年七月寺中より出火し七堂伽藍残らづ灰燼に帰せしを諸星政之と言える者之を中興し以来連綿たりしが昭和十六年十二月大東亜戦宣せられるや当山も国難に応じたり  昭和二十年八月一日空襲による戦火にあい諸堂を再び焼失せり
然るに昭和四十五年春当山檀信徒相謀り本堂建設の運びと成り満二ヶ年の歳月を要し茲に落慶を見る事を得たり
佛天の照鑑をこい偏にその加護あらん事を祈り之を記念し茲に銘記す
昭和四十七年十月二十八日

話は少し逸れますが、“由井”城主の大石氏が開基となっていることからしても、この辺り一帯が「由井領」であり、「由井城」とは即ち浄福寺城のことではないかと思います。
その後、天正年間に氏照によって八王子城の出城として改変され、現在に残る遺構からは「大石色」が薄れているとしても。

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山号を「深沢山」というくらいなので八王子城に近く、境内裏山の秋葉神社(左手前の山の上)から八王子城の搦手口へ通じる道が通っています。

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卜山も時折、この道を通って弟子であった北条氏照に会いに行っていたとか…。

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本堂を眼下に収める眺め。
この先を写真の左右に案下道が横切っており、それを押さえるように左奥方向(圏央道の白いラインが見えている辺り)に浄福寺城が築かれていました。
八王子城は左に切れて写っていませんが、こうして見ると甲州道中と案下道の双方を押さえる立地だったことが分かります。

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秋葉神社本殿奥に伸びる道。
八王子城までは何kmあるのかな?・・・今回は目的が違うので行きませんが(笑)

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心源院山門
一説には室町期の創建とも・・・とすると、松姫も潜ったということになりますね。

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小谷田子寅の碑
八王子千人同心の一人で医学に明るく、薬や診療を求める人々があとをたたず、大変慕われたと云います。
この功績を称え、同じ千人同心の塩野適斎が撰文、植田孟縉が揮毫して建立されました。


心源院での修行の日々が8年程に及んだ天正18年、またも信松尼に戦火が迫ります。
豊臣秀吉による北条征伐が開始され、八王子城は前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの攻撃を受けて落城しました。
※攻城軍の中に妹・菊姫の嫁ぎ先である上杉景勝がいたのも、何かの運命か…。

おそらく避難していたであろう信松尼はこの後、御所水の里(現八王子市台町)に庵を結んで移り住みます。
御所水では侍女たちと共に養蚕機織りに勤しみ、これが現在に伝わる八王子の織物の元になったとの説もあるのです。

御所水の里は心源院から案下道を更に東へ進み、追分(現在の「追分町」交差点)で甲州道中に合流した先にあります。徳川家康によって組織された武田旧臣から成る千人同心たちの屋敷地のすぐ近くで、代官を務めた大久保長安の陣屋(八王子市小門町)からも近く、おそらくは彼らの庇護を受け、また交流を重ねながらの日々だったのではないでしょうか。
大久保長安陣屋跡については、コチラ の記事を参照
追分については、コチラ の記事を参照

また、追分に至るずっと手前(西)の案下道沿いには、やはり千人同心の出だった中島登(新選組隊士)の生家跡もあります。
案下道は甲州道中の裏街道的な位置づけの道ですので、やはり江戸防衛のために配されたのでしょうね。
中島登生家跡については、コチラ の記事を参照


そして元和2年(1616)4月16日、信松尼こと松姫は56歳でその生涯を終えました。枕辺には見性院や幸松が侍っていたと云います。
遺言により、信松尼が過ごした草庵は彼女の師であった卜山を開基に迎え、信松院として創建されました。

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信松院
手前に御所水観音の石碑も。
※但し信松尼が過ごした草庵は、現在の信松院より500mほど南に行った場所との説もあります。

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門前に建つ旅装姿の松姫像

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松姫お手植えの松の碑

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そして・・・松姫のお墓
運命に翻弄され、苦労の絶えない人生だったかとは思いますが、八王子に移り住み、旧家臣団の千人同心や幸松らと過ごした日々が穏やかで幸せであったことを祈らずにはいられません。


ところで、甲斐から連れてきた3人の幼い姫たちのその後ですが、貞姫と香具姫はそれぞれ嫁ぎ先で幸せに暮らして長寿を全うしたようですが、盛信の娘・督姫は仏門に入って大久保長安から寄贈された横山宿の寺で過ごしていました。
…が、生来病弱だったらしく、病を得て29歳の若さで世を去ります。

督姫の過ごした寺は彼女の戒名にちなんで「玉田院」と呼ばれるようになり、お墓も同地にありました。
しかし元禄年間に廃寺となって荒れ果てていたところへ、信松尼の百回忌法要で八王子を訪れた仁科家の子孫・仁科資真がその様子を見かね、極楽寺に改葬しました。

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寶樹山極楽寺
(八王子市大横町)

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山門に大きく葵紋

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こちらが督姫のお墓
周囲を取り巻くように建ち並ぶのは、侍女たちのものでしょうか。
29歳と短い生涯ではありましたが、平穏な日々であったことを祈念しつつ合掌。

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極楽寺本堂
当寺には他に、、、

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北条氏照や前田利家に仕え、後に横山宿をつくって今日に続く八王子市発展の礎を築いた長田作左衛門のお墓や、、、

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八王子千人同心の一人で「新編武蔵風土記稿」の編纂にも携わった塩野適斎のお墓もありました。
心源院にあった小谷田子寅の石碑の撰文をした人でもあります。

今回、松姫の足跡を辿って訪れた先々で、千人同心たちの歴史にも遭遇しました。
以前、興岳寺を訪れて幕末の石坂弥次右衛門を紹介したことはありますが(→コチラ )、千人同心の歴史ももっともっと勉強しなくてはなりませんね。

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