阿津賀志山防塁
福島の旅、2日目。
いよいよ阿津賀志山防塁へ向かいます。
阿津賀志山防塁とは
文治5年(1189)の奥州合戦に於いて、平泉に本拠を置く藤原泰衡が異母兄の国衡を将として派遣し、源頼朝率いる鎌倉軍を迎え撃つために阿津賀志山(厚樫山)の中腹から山麓を経て阿武隈川(旧流域)に至る総延長3.2㎞に渡って築かせた防塁遺構です。
吾妻鏡にも「口五丈堀」と記録されています。
図

既に800年以上もの月日が流れ、開発などによって失われている遺構も多いですが、赤・黄色のラインに沿ってそれは築かれていました。
今回はその中でも残存状態が良く、史跡指定されている赤ライン部分をめぐります。

まずは阿津賀志山々頂の展望台から。
霞んでしまっていますが、遠くに阿武隈川が見えています。
防塁は写真中央辺りを縦に、阿武隈川付近まで築かれていました。

この爪痕は・・・(;´・ω・)
まだあまり時間経っていないよね…周辺の木々にもたくさん痕跡があったし、展望台周辺は熊の縄張りになっているのかも…訪問する際は充分にご注意ください。

阿津賀志山中腹、防塁開始地点から(図①地点)
山麓に向けて真っ直ぐ下っています。
これを下から見上げると、、、

図②地点から見上げた様子・・・凄い!!
某地図アプリの航空写真で確認すると、阿津賀志山の山中に残る防塁跡はハッキリと写っています。それほどの規模。
※この後は石母田城跡へ立ち寄ったのですが、それはまた別の記事でご紹介するとして、防塁レポを続けます。

山を出て図③地点にて。
真っ直ぐに伸びる土塁と空堀が綺麗に残っています。
ここから先、防塁は更に、、、

平地部へ向けて真っ直ぐ駆け下っていきます。

800年もの歳月を乗り越えた土の遺構…見事としか言いようのない姿です。
ちなみにこの防塁はその後、旧石母田村と旧大木戸村の境界線にもなっていました。
この付近には防塁の他にもいろいろな史跡が遺されています。

石母田供養石塔
徳治3年(1308)に僧・智せんが先祖の追善供養のために建立した板碑で、梵字と功徳文が刻まれています。
銘文は元の帰化僧・寧一山の筆跡で、地元では俗に蒙古の碑とも呼ばれているそうです。

奥州藤原氏といえば、この人も忘れてはならない…源義経腰掛松。
源氏再興を期して鞍馬寺を出た幼い義経は、金売り吉次同道のもと、藤原秀衡を頼るべく奥州平泉を目指しました。
その道中、腰を下ろして休息したとの逸話が残る松です。
文政4年(1823)、松に巣を作った蜂を駆除するために修験者が焚火をしたところ、その火が松に燃え移って枯らしてしまいました。
これを惜しんだ村人がよく似た赤松を植樹(二代目腰掛松)しましたが、こちらも平成25年に枯れてしまったそうです。現在はこの2代目から接ぎ穂した幼木が植えられています。
ちなみに、あの小屋に覆われている古木は初代のものになります。

更には、旧奥州道中国見峠長坂跡・・・これまた凄い!

奥羽地方の幹線道として、近世には仙台や盛岡、松前などの諸藩が参勤交代で江戸と国元を往復する際にも使用されました。
しかしいくら幹線道とはいえ、これほどの道幅を誇る峠の古道が存在しているとは・・・感動です。

松尾芭蕉も「奥の細道」で;
路縦横に踏で伊達の大木戸をこす
と記しており、間違いなくこの道を通っています。
※大木戸とは前出の(旧)大木戸村のことです。

古道を少し登った先に経ヶ岡。
奥州合戦に頼朝の配下として参戦した御家人の伊佐為宗やその父・常陸入道念西が、自ら挙げた敵将の首を晒した場所。
この時の戦功により伊佐一族は伊達郡を賜り、為宗は元の領地である伊佐郡に戻りますが、念西は土着して伊達姓を名乗るようになりました。
これが奥州伊達氏の祖となります。
さて、引き続き防塁めぐりへ戻ります。

図④の高橋地区にて
写真左隅にも土塁が通っており、二重の土塁が確認できました。

阿津賀志山(正面)からずーっと伸びてきた防塁・・・この先もまだ続いていきます。

最後に図⑤の下二重堀地区へ。
この光景、早くもワクワクしてきますね☆

こちらでは三重の堀が綺麗に残っていました。

凄いよねぇ・・・

きちんと整備されていて、とても見易いです♪

阿津賀志山から延々と続いてきた防塁は、いよいよ終点に差し掛かります。
写真は微かに痕跡を留める堀の跡。この先で防塁は、、、

阿武隈川(現在は滝川という支流)に到達します。写真右奥が滝川の堤。往時はここまでが阿武隈川の流域だったと思われます。
写真左、柿の木の奥に見える土盛りも土塁の一部ではないでしょうか。
阿津賀志山防塁、そのスケールと遺構の良好な残存状況にすっかり魅せられてしまいました。
しかもこれが、鎌倉時代も室町時代も、戦国、江戸、明治、、、と800年以上もの時を越えて、現代の私たちの前にその威容を誇っている遺構だなんて・・・信じられますか?
これほどの歴史遺産に出会えた奇跡に、ただただ感謝あるのみです♪
この後は福島駅前に戻り、阿津賀志山防塁の感動を共有したオフ会参加者たちと懇親会☆
最終日は福島に残る伊達の城めぐりへ♪…おっと、その前に石母田城跡も記事にしないと!
いよいよ阿津賀志山防塁へ向かいます。
阿津賀志山防塁とは
文治5年(1189)の奥州合戦に於いて、平泉に本拠を置く藤原泰衡が異母兄の国衡を将として派遣し、源頼朝率いる鎌倉軍を迎え撃つために阿津賀志山(厚樫山)の中腹から山麓を経て阿武隈川(旧流域)に至る総延長3.2㎞に渡って築かせた防塁遺構です。
吾妻鏡にも「口五丈堀」と記録されています。
図

既に800年以上もの月日が流れ、開発などによって失われている遺構も多いですが、赤・黄色のラインに沿ってそれは築かれていました。
今回はその中でも残存状態が良く、史跡指定されている赤ライン部分をめぐります。

まずは阿津賀志山々頂の展望台から。
霞んでしまっていますが、遠くに阿武隈川が見えています。
防塁は写真中央辺りを縦に、阿武隈川付近まで築かれていました。

この爪痕は・・・(;´・ω・)
まだあまり時間経っていないよね…周辺の木々にもたくさん痕跡があったし、展望台周辺は熊の縄張りになっているのかも…訪問する際は充分にご注意ください。

阿津賀志山中腹、防塁開始地点から(図①地点)
山麓に向けて真っ直ぐ下っています。
これを下から見上げると、、、

図②地点から見上げた様子・・・凄い!!
某地図アプリの航空写真で確認すると、阿津賀志山の山中に残る防塁跡はハッキリと写っています。それほどの規模。
※この後は石母田城跡へ立ち寄ったのですが、それはまた別の記事でご紹介するとして、防塁レポを続けます。

山を出て図③地点にて。
真っ直ぐに伸びる土塁と空堀が綺麗に残っています。
ここから先、防塁は更に、、、

平地部へ向けて真っ直ぐ駆け下っていきます。

800年もの歳月を乗り越えた土の遺構…見事としか言いようのない姿です。
ちなみにこの防塁はその後、旧石母田村と旧大木戸村の境界線にもなっていました。
この付近には防塁の他にもいろいろな史跡が遺されています。

石母田供養石塔
徳治3年(1308)に僧・智せんが先祖の追善供養のために建立した板碑で、梵字と功徳文が刻まれています。
銘文は元の帰化僧・寧一山の筆跡で、地元では俗に蒙古の碑とも呼ばれているそうです。

奥州藤原氏といえば、この人も忘れてはならない…源義経腰掛松。
源氏再興を期して鞍馬寺を出た幼い義経は、金売り吉次同道のもと、藤原秀衡を頼るべく奥州平泉を目指しました。
その道中、腰を下ろして休息したとの逸話が残る松です。
文政4年(1823)、松に巣を作った蜂を駆除するために修験者が焚火をしたところ、その火が松に燃え移って枯らしてしまいました。
これを惜しんだ村人がよく似た赤松を植樹(二代目腰掛松)しましたが、こちらも平成25年に枯れてしまったそうです。現在はこの2代目から接ぎ穂した幼木が植えられています。
ちなみに、あの小屋に覆われている古木は初代のものになります。

更には、旧奥州道中国見峠長坂跡・・・これまた凄い!

奥羽地方の幹線道として、近世には仙台や盛岡、松前などの諸藩が参勤交代で江戸と国元を往復する際にも使用されました。
しかしいくら幹線道とはいえ、これほどの道幅を誇る峠の古道が存在しているとは・・・感動です。

松尾芭蕉も「奥の細道」で;
路縦横に踏で伊達の大木戸をこす
と記しており、間違いなくこの道を通っています。
※大木戸とは前出の(旧)大木戸村のことです。

古道を少し登った先に経ヶ岡。
奥州合戦に頼朝の配下として参戦した御家人の伊佐為宗やその父・常陸入道念西が、自ら挙げた敵将の首を晒した場所。
この時の戦功により伊佐一族は伊達郡を賜り、為宗は元の領地である伊佐郡に戻りますが、念西は土着して伊達姓を名乗るようになりました。
これが奥州伊達氏の祖となります。
さて、引き続き防塁めぐりへ戻ります。

図④の高橋地区にて
写真左隅にも土塁が通っており、二重の土塁が確認できました。

阿津賀志山(正面)からずーっと伸びてきた防塁・・・この先もまだ続いていきます。

最後に図⑤の下二重堀地区へ。
この光景、早くもワクワクしてきますね☆

こちらでは三重の堀が綺麗に残っていました。

凄いよねぇ・・・

きちんと整備されていて、とても見易いです♪

阿津賀志山から延々と続いてきた防塁は、いよいよ終点に差し掛かります。
写真は微かに痕跡を留める堀の跡。この先で防塁は、、、

阿武隈川(現在は滝川という支流)に到達します。写真右奥が滝川の堤。往時はここまでが阿武隈川の流域だったと思われます。
写真左、柿の木の奥に見える土盛りも土塁の一部ではないでしょうか。
阿津賀志山防塁、そのスケールと遺構の良好な残存状況にすっかり魅せられてしまいました。
しかもこれが、鎌倉時代も室町時代も、戦国、江戸、明治、、、と800年以上もの時を越えて、現代の私たちの前にその威容を誇っている遺構だなんて・・・信じられますか?
これほどの歴史遺産に出会えた奇跡に、ただただ感謝あるのみです♪
この後は福島駅前に戻り、阿津賀志山防塁の感動を共有したオフ会参加者たちと懇親会☆
最終日は福島に残る伊達の城めぐりへ♪…おっと、その前に石母田城跡も記事にしないと!
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コメント
阿津樫山防塁の起源について。吾妻鑑に口五丈の堀と記され、遺跡の溝も口五丈であるから、吾妻鑑の記述は正しいとされていますが、地形的に阿武隈川の流れを堰入れることは不可能な標高差があります。また、阿津樫山の戦いの後、会津や土湯へ向かったと書かれていますが、そのような道は存在しません。
この様な巨大な防塁が造られたのは780年に作り始め785年に完成し、更に延長することが許されました。、国見の防塁の延長線に梁川町大関という広大に地域があります。それが、防塁(大木戸)の続き部分です。これ等の防禦を統領する官人を置くため、信夫郡を割き伊達郡が置かれたのです。
投稿: 山田 久夫 | 2018年1月29日 (月) 10時32分
780年の蝦夷の反乱で多賀城は焼かれ奪われてしまった。その時に蝦夷は刈田の南端部、現在の国見町光明寺東越山まで押し寄せて東越山に砦を築き隙を窺い押寄せるかまえをみせました。それを防禦するため、兵二千人を遣わし、辺りの木を斬り、抜け道を塞ぎ、溝と険を作ったのです。それが、所謂、国見防塁(阿津賀志山防塁)と称される古代遺跡なのです。吾妻鑑の奥州攻めの記述は大部分が虚構で事実ではない。口五丈の堀の幅が一致するのは古代遺跡を藤原泰衡が俄に造った証拠として遺跡の溝跡を利用したに過ぎないのです。源頼朝が寄ったとする多賀城も発掘調査で該当時代以前に廃棄されていたことが確認されている。
投稿: 山田 久夫 | 2018年1月29日 (月) 10時48分
国見防塁の北側に梁川町大枝と云う場所がある事を不思議に思いませんか。梁川町が何故阿武隈川を跨いであるのです。
大枝と云う字名の土地は全国的にみて梁川町が圧倒的がに多く、次に京都府です。789年に胆沢征討と共に多賀城奪還のため征討軍を派兵しましたが蝦夷の東越山砦と梁川北部の伊具に蝦夷の防衛ラインがありました。梁川の平地部では官軍は横広がりになって軍威を示し有利に進軍したのは束の間、阿武隈川狭窄部に差し掛かった時、東山から、賊軍が現れ、立従列の官軍の兵士等は驚き川に身を投げ多くの兵士が溺れ死にました。生き残った兵士を帰還させたのが出雲諸上でした。出雲諸上は翌年後に大枝朝臣という姓を賜ったのです。兵を帰還させた功績が認められ姓と共に土地が与えられ大枝と云う字名の土地として残ったと考えられる。兵士が河を渡り逃れ着いた場所と考えられ場所に兜渡と云う地名がみられます。坂上田村麻呂征討後も麁蝦夷と熟蝦夷の境界線は国見防塁(大木戸)あるいは、勿来の関とも呼ばれていた。
投稿: 山田 久夫 | 2018年1月29日 (月) 11時24分
勿来の関は磐城にあると思われるかもしれませんが、現在勿来の関とされる場所は江戸時代に推定された場所です。
私が国見大木戸、梁川大関を勿来の関と考える理由は西行等の歌にあります。西行法師
『東路の信夫の里に休らへて勿来の関を越ぞ煩ふ』
『道奥の信夫の里に妹おきて勿来の関を越ぞ詫ぬる』
夫木 詠み人しらず
『逢隈をいづれと人に問つれば勿来の関のあなた成けり『』
これ等の歌から勿来の関は信夫と逢隈の間に在った関と推定されます。逢隈とは阿武隈川が大きく蛇行する河口付近の地名が逢隈です。
西行も麁蝦夷の地へ入る煩いがあり、この様に詠んだものと考えられます。
源義家
陸奥国みちのくににまかりける時、勿来なこその関にて花のちりければよめる
『吹く風をなこその関と思へども道もせにちる山桜かな(千載103)』
【通釈】「来る勿(なか)れ」という名の勿来の関なのだから、吹く風も来ないでくれと思うのだが、道を塞ぐほどに山桜の花が散っているよ。
この場所は時々強風のためJR東北本線も運休が発生するほど風が強く吹く場所です。
投稿: 山田 久夫 | 2018年1月29日 (月) 11時39分