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2014年12月

2014年12月20日 (土)

長浜城の移築門と、羽柴「秀勝」墓所

12月14日(日)、長浜で迎える旅の最終日。
朝、ホテルロビーで前日までの楽しい城攻め&忘年会を共にした皆さんとお別れし、私は単身長浜を散策してから帰京することにします。

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冷たい小雪舞う人影もない黒壁スクエアを抜けて向かった先は・・・

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大通寺
こちらの本堂や、、、

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大広間は伏見城からの移築と伝わりますし、境内地は秀吉長浜時代の石田三成屋敷跡とも云われています。が、

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今回の目的はこちら、大通寺台所門。
実はこれ、長浜城追手(大手)門の移築と伝えられているのです。

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その柱には天正10年6月の本能寺の変直後、長浜へ侵攻した明智軍によってつけられたと云う銃弾や弓矢の痕が残されています。

ところで、長浜城の搦手門も市内の知善院というお寺さんに移築されて残っています。

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こちらがその知善院に移築された長浜城搦手門
作りや雰囲気は追手門とよく似ていますね。大通寺を訪れた前日の早朝、小谷城攻めの前に連れて行って貰いました。

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こちらの知善院、豊臣家と縁が深いようで
・秀頼の筆による「豊国大明神」の軸
・淀殿が妹婿・京極高次に宛てた自筆書状
・秀勝の菩提を弔うよう命じ、米30石を寄進した秀吉の朱印状
などが残されているそうです。

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豊臣(羽柴)家ゆかりのお寺といえば、妙法寺も。

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秀吉の子、秀勝の墓所があります。こちらも前日、知善院の後に訪れました。

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羽柴秀勝墓所

私は初め、この秀勝とは織田信長の四男で、秀吉の養子に入った於次秀勝のことかと思ったのですが違ったようで、長浜時代に側室の南殿が生んだ秀吉の実子石松丸)のことだったようです。
しかしこの実子は夭折したはずなんですが・・・「秀勝」という名があるということは、既に元服していたということなのでしょうか?
まぁ、後に秀頼も僅か4歳で元服させていますが、あれは自らの老い先を悟った秀吉が己の命あるうちに、という思惑があったとも云われていますし、、、どうなんでしょうね。

秀吉は於次秀勝の死後、次に養子に入った小吉(浅井三姉妹の三女・江の二番目の夫)にも「秀勝」と名乗らせており、この名前に相当強いこだわりがあるように感じていましたが、思えば死んでしまった実子への思いから、その名前に執着したのかもしれませんね。

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さて、話を最終日に戻して…駅前に建つ三献茶の像。

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最後は長浜城歴史博物館へ。

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開催中のテーマ展「関ヶ原合戦から大坂の陣」を堪能しました。

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太閤井

さて、今回の旅の行程もこれにて終了~。
そして、多くの仲間のご好意に支えられた自由気ままな2014年一年間の旅路も千秋楽
日本全国の城友、歴友の皆様、2014年も大変お世話になりました。お陰様をもちまして、大変歴充した一年となりました。篤く御礼申し上げます
2015年もどうぞよろしく☆

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2014年12月19日 (金)

三田村氏館

小谷城踏査を終えて長浜駅前のホテルで一旦解散した後、夜の懇親会まではまだ時間があったので、私はゆっきーと共に延長戦へ。
再度車に乗り込み向かった先は・・・

図面
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三田村氏館

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図面-の土塁
周囲を取り巻く土塁の残存状況はかなり良好です。

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三田村氏は姉川の北岸で勢力を誇った一族で、これはその居館跡です。

よこ山の城、高坂・三田村野村肥後楯籠り、相拘へ侯。
(信長公記 巻三「あね川合戦の事」より)

姉川の戦いの契機ともなった織田軍による横山城包囲戦。
この時、横山城に立て籠もっていた城将の中に「三田村」の名が見えます。

姉川の戦いは両軍それぞれの布陣・戦闘地点から「野村合戦」「三田村合戦」とも記録されている、という話をコチラの記事でもご紹介しましたが、三田村に布陣した朝倉軍が本陣と定めた場所こそ、この三田村氏館だったのではないかとの見解もあるそうです。
確かに位置的に見ても、その可能性は充分にあると考えます。

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図面-の土塁
発掘調査の結果、これらの土塁はその上層部と下層部では異なる時期に盛られていたことが判明しており、上層部は戦国期に盛り直されているようです。
或いは姉川の戦いに於いて、朝倉軍の手によって増強された可能性も検討されているそうですが、それは如何でしょうか。
姉川の戦いは布陣から開戦~終結まで、即日決着した短期決戦。居館の土塁の上には通常、板塀や土塀などが乗っており、土塁を増強するとなるとわざわざそれらを一旦撤去することになります。土を盛り直すだけでも結構な作業なのに、そんな時間があったとも思えません。
元亀騒乱と呼ばれる情勢の中で、三田村氏自身が増強したものではないでしょうか。

※ちなみに浅井軍が布陣した「野村」の名も、横山城に籠っていた将の一人に見えますね。

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土塁の外には堀跡

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虎口(図面-
鐘つき堂が土塁の上に立っている…(;^ω^)

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三田公会堂裏手にもいい土塁が♪
(図面-

土塁だけでも見応え充分ですが、姉川の戦いとの絡みも考えながら見ていくと尚一層、興味が深まりますね。
…さ、暗くなってきたので撤収!

夜は長浜駅前で残留組と忘年会第二夜
場所を移した2次会も含めて深夜0時まで延々5時間、それはそれは楽しく盛り上がりましたとさ♪

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2014年12月18日 (木)

小谷城 ③(大嶽城~山崎丸)

小谷城 ②からの続きです。
心配された天候も何とかもってくれたので、いよいよ大嶽城へアタックします。

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延々と続く階段・・・ただひたすら登ります。

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標高が高くなるにつれ、残雪が深まる登山道・・・この頃には皆、相当息が上がっていました。

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9合目くらいからの眺め。
写真中央、手前の山の最高所辺りが、先ほど通ってきた山王丸になります。

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そして、ようやく辿り着いた大嶽城

復元図Ⅶ
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小谷山の頂上に築かれており、元亀年間には浅井家の後詰として来援した越前朝倉家の軍勢が駐屯していました。
現在に残る遺構も、朝倉軍の手によるものと考えられています。

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大嶽城主郭
周囲を取り巻く土塁もなかなかです。

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標高は495m
いかに高くて峻嶮な場所に築かれていたかが偲ばれます。そこへ・・・

(天正元年)八月十二日、大づくの下、やけをへ、浅見対馬覚悟にて、御人数引き入れ侯。其の夜は、以ての外の風雨に侯と雖も、虎後前山には信長公の御息嫡男勘九郎殿を置き申され、信長、雨にぬれさせられ侯て、御馬廻召しつれられ、太山、大づくへ御先懸けにて攻め上らせられ、既に乗り入るべきところ、越前より番手として、斎藤・小林・西方院、三大将の人数五百ぱかり楯籠り、色々降参仕り侯。
(信長公記 巻六「阿閉謀叛の事」より)

天正元年8月12日、やけをの浅見対馬守が織田方へ寝返ったの機に、織田信長馬廻り衆を率いて自ら嵐の中を大嶽城目指して攻め上ったのです。この時、大嶽城には朝倉兵500が籠っていましたが然したる抵抗もなく陥落し、番兵は降服しました。
信長は翌日、これらの朝倉兵を生かしたまま後方、田神山の朝倉義景本陣へ送り返します。これは、義景が大嶽城の陥落を知れば「もう織田の攻勢を支え切れない」と判断して越前へ引き上げるであろうことを見越した上での措置でした。
而して信長の読みは当たり、朝倉義景は8月13日の夜に陣を払って退却を始めたのでした。織田軍による怒涛の追撃戦が開始され、朝倉家滅亡の時を迎えるのはこの直後の事です。

※ちなみにやけをの正確な位置は分かりませんが、恐らくは小谷山を北に回り込んだ上山田辺りから大嶽城へと至る尾根筋の何処かにあった砦と思われます。

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最頂部から二段目の曲輪にも土塁が廻らされています。

しかし、大嶽城で最も感動させられたのは・・・

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このガッツリと刻まれた二重堀切!
(復元図Ⅶ-

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2本ともしっかり形状を留めていて、とても見応えがありました。

思い思いに大嶽城の遺構を楽しんだ後は小谷城主郭部とは清水谷を挟んで反対側、西の尾根を南に向かって下っていきます。
暫くすると見えてくるのが、、、

復元図Ⅷ
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福寿丸

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これは、、、堀というよりは通路?
(復元図Ⅷ-

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復元図Ⅷ-の四角に囲われた土塁もハッキリ分かりますね。

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復元図Ⅷ-の枡形虎口
ここもいい感じ♪

福寿丸から尾根を更に下ると、、、

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山崎丸

復元図Ⅸ
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清水谷西側の尾根を攻め上る敵に対し、最初の関門として待ち構えます。

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クネクネと折れ曲がるこれは、、、最前線(南)の横堀跡かな?

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曲輪内にも立派な土塁が複雑に張り廻らされていました。

これにて予定していた全ての曲輪踏査完了!

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下山途中、現在の登山道脇に古い道の痕跡が残っていました。
(写真ではシダが生い茂っている部分)
もしかすると往時には朝倉軍の兵士たちが歩いていたのかも・・・と思うと、何だか古道一つでもロマンを感じませんか?

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下山後、清水谷から。
正面の山の頂上が大嶽城です・・・よく登ったなぁ~(笑)

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右の尾根手前の金吾丸から、赤いラインに沿って反時計回りにグル~ッと1周しました。
さすがにもうクタクタ…(;^ω^)

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ようやく訪れることができた念願の小谷城で、これだけディープに回れて大満足です!
しかも今回は日頃お世話になっている城友の皆さんに加え、城郭研究の第一人者ともいうべき中井均先生、そして「山城へGO!」の著者としてもお馴染みの西股総生先生・萩原さちこさんともご一緒させて頂いた贅沢な城攻め。
とても充実して幸せな一日になりました♪ 幹事の方を初め、皆さんに感謝します☆

この後は長浜残留組で忘年会part2♪…ですが、少し時間があったので私はゆっきーと共に延長戦へ。
その模様は次回の記事で。

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2014年12月17日 (水)

小谷城 ②(中丸~月所丸)

「小谷城 ①」からの続きです。

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本丸周辺の遺構を堪能した後は中丸へ。
それにしても見事な眺め!曲輪が幾段にも重なっている様子が見通せます。

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ここにも素敵な石垣が♪

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中丸から少し西側の斜面へ逸れて京極丸の下、清水谷から登ってくる水の手口の虎口へ。

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水の手口虎口の石垣

八月廿七日、夜中に、羽柴筑前守、京極つぶらへ取り上り、浅井下野・同備前父子の間を取り切り、先ず、下野が居城を乗つ取り候。
(信長公記 巻六「阿閉謀叛の事」より)

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規模の大きな竪土塁も。

小谷城攻めの先陣を託された羽柴(木下)秀吉隊が、京極丸攻略に先駆けて攻め上ってきた…かもしれないルート。

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京極丸の虎口

復元図Ⅲ
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京極丸を落とした秀吉は、その上段に位置する小丸の浅井久政と本丸の長政父子の分断に成功しました。

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京極丸の土塁

翌日、又、信長京極つぶらへ御あがり侯て、浅井備前・赤生美作生害させ、
(同)

すっかりこの記述を見落としていたのですが、秀吉が京極丸を落として久政を自害させた翌日、信長自身も京極丸まで上がってきていたのですね♪

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こちらが浅井久政が籠っていたと云う小丸

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続いて山王丸方面へ。
山王丸下に残る見事な大石垣。

復元図Ⅳ
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いつの時期か、かつてここには山王社が祀られていたことから「山王丸」の名がつきました。

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先ほどの大石垣も凄かったですが、虎口周辺の石垣も大きな石材を使用していて迫力があります。

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その虎口を中から見た様子。(復元図Ⅳ-

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山王丸

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復元図Ⅳ-の虎口

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復元図Ⅳ-の土塁にも石垣が。

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山王丸から見上げる大嶽城・・・まだまだ先は長い…(^_^;)

復元図Ⅴ
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続いて六坊へ。
領内の有力寺院6つの出張所が置かれていたことから、その名がつきます。

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ここでも一部、石垣が確認できます。

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六坊址の碑

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土塁によって曲輪が複雑に配置されており、なかなか見応えがあります。

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六坊辺りが、清水谷の起点のようになっています。
ちなみに我々はここ六坊で昼休憩をとりました。

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昼休憩を終えた後はご覧のような難所を抜けて、、、

復元図Ⅵ
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月所丸


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復元図Ⅵ-の畝堀
写真だとちょっと分かり辛いですよね…(;・∀・)

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何となく畝が波打っているように見えません?(;^ω^)

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復元図Ⅵ-の土塁
ここも残存状態良好。あの土塁の先の、、、

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切岸がまた見事なこと!(復元図Ⅵ-

さ、天候も何とかもってくれていることだし、この後はいよいよ大嶽城へのアタックを開始します!
※「小谷城 ③(大嶽城~山崎丸)」へつづく。

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2014年12月16日 (火)

小谷城 ①(金吾丸~本丸)

12月13日(土)、いよいよ忘年会城攻めの朝を迎えました。
昨年の甲賀に続き、今年の攻城目標は、、、

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近北の雄・浅井家の居城、小谷城です!
雪予報もあった週末ですが、何とか天気はもってくれそう・・・でも、奥に見える大嶽城跡辺りは完全に雪を被っているよね…(;´・ω・)

全体図
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今回は車で番所近くまで登り、そこから天候を見ながら尾根伝いに本丸~山王丸方面へ進んで大嶽城へと至り、清水谷を挟んで反対側の尾根を下って福寿丸、山崎丸を見て回るルートで踏査します。

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まずは金吾丸から。
一部、腰曲輪らしき削平地もありましたが、他にこれといって遺構は確認できませんでした。

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番所
切岸がしっかり形状を留めています。

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小谷城跡から眺める虎御前山。右奥に竹生島も。
元亀3年から小谷落城までの1年間、織田軍が拠点にしていた山です。この距離感。。。
この3週間前にはあちら(虎御前山)側から小谷城を眺めていました。
参照記事

想像復元図(以下:復元図)
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番所から少し登っていくと、御茶屋・御馬屋・桜馬場の各曲輪が三段に連なる曲輪群に至ります。

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御茶屋
うっすらと復元図Ⅰ-部分の土塁が確認できます。
右の切岸の上が御馬屋。

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御馬屋
こちらも曲輪周囲を囲む土塁がしっかりと残っています。

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馬洗池

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桜馬場下の切岸には、石垣の隅石らしき痕跡も。

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桜馬場の虎口手前には首据石
浅井家初代亮政が天文2年1月、敵方の六角家に寝返った重臣の首を据えた石だとか・・・

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桜馬場へ入る前に、一旦ルートを逸れて赤尾屋敷へ向かいました。
浅井長政公自刃之地

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桜馬場

数段に分かれた曲輪配置となっており、、、

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下の段からは建物礎石も発掘されています。

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桜馬場跡に建つ浅井氏及家臣供養塔

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桜馬場の先には大広間があり、その黒金門跡。

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大きな石で積まれた石垣が残ります。

復元図Ⅱ
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大広間からも相当量の建物礎石が発掘されており、その規模からも城主のプライベート空間、つまりお市や浅井三姉妹らが生活していた空間ではないかと考えられています。

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大広間
奥の一段高くなっている先が本丸とされている部分です。

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大広間の地面には石がゴロゴロと…
発掘された礎石跡がイノシシに荒らされた、という話を聞きましたが、これがそうなのかな…?

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貯水池と考えられる石枡

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本丸下の石垣

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そして本丸
小谷城ほどの城郭の本丸にしては、少々狭い気がします。どことなく「大広間の櫓台」といった印象。

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本丸の先は大堀切(復元図Ⅱ-)でしっかりと守られています。
見事な幅と高低差!

ところでこの大堀切、実は堀底から本丸の両脇を抜けて大広間へと抜けられる縄張になっています。
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そのため本丸下の東西両サイドには、その進路を塞ぐように竪土塁が配されています。
その1本、東側の竪土塁。

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そして西側の。(復元図Ⅱ-

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西側の竪土塁には、食い違いの虎口も設けられていました。石垣も確認できます。

背後(北)を大堀切で区切り、両サイドを竪土塁で固めて進路を塞ぐ…その構造から、この本丸は北方面からの敵の侵攻を防ぎ、大広間を守るための見張り台のようなものだったのではないか、とも考えられるそうです。
ややこしい表現になりますが、本丸と大広間を合わせて小谷城の「本丸」として機能していたのかもしれませんね。

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大堀切を堀底から。
スマホでの撮影だったので、光の加減で失敗しちゃったのが悔やまれる…(>_<)

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大堀切脇の斜面下には更に小さな曲輪跡があり、立派な石垣が残ります。

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二段に積まれていました。

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その石垣が残る曲輪。
皆が覗いている足元、更に下の斜面にも、、、

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石垣が積まれていた痕跡が伺えます。
近江の石垣の城といえば観音寺城が真っ先に思い浮かびますが、小谷城も想像以上に「石垣の城」だったのかもしれません。

この後も中丸から更に先へ進みます。
※「小谷城 ②(中丸~月所丸)」へつづく。

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2014年12月15日 (月)

「土方歳三のゆ・う・う・つ」 -本願寺史料研究所公開講座

本能寺をあとにして次に向かったのは、、、

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西本願寺の北隣にある本願寺聞法会館

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目的はこちらの講座の受講です。
特に第二部の「新選組 土方歳三のゆ・う・う・つ -新発見史料から」♪

※ちなみに一部の「親鸞聖人の行実をめぐる二、三の知見 -関東伝道800年に寄せて」は、越後流罪が赦免された後に関東入りした親鸞聖人が彼の地で携わった事績の内、鎌倉の明王院造営の一切経供養の交合(校正)に関するものでした。

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2014年9月に新たに確認された史料に関する解説をメインとした講座で、史料も実物を拝観させていただきました。

今回新たに発見・確認されたものは;
「諸日記」 元治二年三月二十一日、及び慶応元年(元治二年と同じ1865年)六月二十五~二十六日条
「諸事被仰出申渡留」 元治二年三月九日条

で、日記の元治二年三月二十一日のものは新選組からの借金の申し入れに対し、五〇〇両を都合した旨を記すもの。

慶応元年六月二十五~二十六日の方は、二十五日に土方歳三から;

「屯所として借りている北集会所は広いのですが、何分人数が多いので手狭になってきており、今では隊士一人につき畳一畳分しか寝る場所がない有様です。しかも暑くて仕方なく、追々病人も出ていて公用に勤めることも難しくなっています。もはや局中一統からの不満を制止できません。
そこで大変無理なお願い(甚無体成願)とは存じますが、阿弥陀堂の内で差支えの無い場所を五〇畳ほどお借りしたいのです」

という打診があり、阿弥陀堂に差支えの無い場所などあろうはずもない西本願寺側が即日、北集会所の内陣後堂にも畳を敷いて場所を広げ、更に南北の壁を取り払って風通しが良くなるように対処する旨を回答したところ、土方からお礼の返書があり(書状写しも記載あり)、早速翌二十六日に工事に取り掛かったことなどが記録されています。

実際この一ヶ月ほど前に屯所を訪れた幕府御典医の松本良順は後年、当時を回想して屯所の衛生状態が悪く、病人が何人も寝ていたことを証言していますし、確か良順から土方に対して環境や食事改善の指示もなされたと記憶しています。
土方からの西本願寺への申し入れの背景には、タイミング的にみてこの辺りの事情も絡んでいそうですね。

ところで屯所として利用されていた北集会所は移築され、現在は姫路市の亀山本徳寺の本堂として利用されています。
細かい作りは変わっていますが、そのうち 内陣と思われる部分と後堂のスペースを除いた広さは約200畳になるそうです。
慶応元年当時の新選組隊士数は約150名(同年5月の「取調日記」では148名)…まぁ幹部クラスは場所を広く使っていたでしょうから、その他の隊士には一人一畳分のスペースしか割り当てがない、という土方の言い分にも一応は辻褄が合いそうですかね(笑)


ちなみに
・「諸事被仰出申渡留」元治二年三月九日条
の方は、新選組が西本願寺へ屯所を移してくる前日に、寺の大目付に対し;

本願寺家中の者は新選組隊士に対し、不作法な態度を取らず温順を心がけ、決して直接対応しないこと
御門主は(北集会所のすぐ脇を通ることになる)御成門は使用せず、車御門から北小路へ輿を通過させること

などの注意事項を細かく通達している内容です。
新選組がやってくることに対する緊張・警戒感、そして迷惑な思いが滲み出るような内容ですね。


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折角なので講演後は西本願寺へ。
太鼓楼脇にあるこちらの門が、本来は門主の通用口となっていた御成門です。今でこそ奥に大きな建物が建っていますが、当時はこの門から奥に御成道が通っていたそうです。

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とすると、御成道が通っていたのはおよそ右手前に見えている建物の手前縁のラインになりますので、その延長線上と左に見えている阿弥陀堂との間に北集会所は建っていたことになります。


この後は城好き忘年会の会場となる長浜まで移動。
今年の忘年会参加者は13名。長浜駅近くの居酒屋で楽しく盛り上がりました♪

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「本能寺と信長」展

2014年もいよいよ残り僅か。12月12~14日までの3日間、年内最後の遠征に出かけました。
メインの目的は長浜で行われた城好き忘年会 & 城攻めへの参加でしたが、まずは京都へ。

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向かった先は…中京区寺町通の本能寺

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信長公の御廟や、本能寺の変にて討死した人々の供養塔にもお参りさせていただき、大寶殿宝物館へ。
本年9月6日~12月25日まで、「本能寺と信長」展が開催されています。

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本能寺の変勃発の直前、織田信長に危機を知らせるかの如く突然鳴きだしたと云う
「三足の蛙」香炉

や、織田信長寄贈の
麒麟の香炉

その他、
・屏風の礼状
・織田信長所持 陣羽織裂
・髭の無い織田信長公肖像画
・霰釜
・黄天目茶碗
・藤四郎丸茶入(本能寺の変の炎で釉薬が溶けている)
・灰被天目茶碗
・本能寺肩衝
etc...
など、信長公ゆかりの品々がズラリと並び、素晴らしい展示内容でした。

秀吉の朱印状も何点かあり「羽柴」姓時代のものには花押もあるのに、「豊臣」姓になると朱印のみで宛名書きなどもどことなく尊大になっている印象を受けました。
天下人となり「旧主信長を超えた」という自意識が書状にも現れているのかな、とも思えて面白かったです。

大寶殿の宝物館自体は基本的に年間を通して開館しているので、また機会がある都度訪れたいと思います。

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2014年12月 6日 (土)

八王子城の石垣 …柵門台下、他

本日(12月6日)は久し振りに地元の名城、八王子城へ。
2014年、発掘調査によって姿を現した柵門台下の石垣を中心に、石垣をテーマにしてサクッと歩きます。

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新道(左)と旧道(右)の分かれ道。
旧道も長らく通行止めになっていましたが、いつの間にか開通していたのですね。
しかし、今回は金子曲輪を経由して行きたいので新道をチョイス。

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馬蹄段曲輪群を抜けて、、、

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金子曲輪

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金子曲輪の外側(北)には、ご覧のように石がゴロゴロしています。
立入禁止になっていて確認には行けませんが、この辺りからも発掘調査で石垣が顕在化していますので、これらもその石垣の名残でしょう。

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少し進むと新道の右手に、妙に形の整った石段が現われます。
しかし一直線に過ぎるし、後世に八王子神社への参道として築かれた新道に面していることからも、この石段は城の遺構とは考えられません
登った先には大きな石碑があり、恐らくはそのための石段かと…。

更に柵門台方面へ向かって登って行くと、いよいよ、、、

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発掘調査によって顕在化した柵門台下の石垣が見えてきます!

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柵門台から旧道へ回り、下から見上げた様子。

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ズームで寄ってみる…素敵です♪

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柵門台下の石垣はまだ調査中で、周囲にはロープが張られていて立入禁止です。崩落も激しく、遺構を痛める恐れもありますので決して近付かないでください。
ルールを守ってロープの外から見下ろすか、少し離れた旧道から見学するようにお願いいたします。

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柵門台
ここからは山頂曲輪群へは向かわず、、、

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山王台経由で殿の道を下ります。

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殿の道、第四石垣群

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更に下って第三石垣群

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第三石垣群越しに第四石垣群も奥に・・・

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第二石垣群

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そして第一石垣群

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第一石垣群は三段構成になっていて、間にはそれぞれ犬走りも確認できます。

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横幅も広いし、間近で見ると結構迫力があります☆

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殿の道を抜けて御主殿

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御主殿脇に残る石垣
※こちらは、ボランティアガイドさん同行でないと入れません。私も居合わせたガイドさんにお願いしました。

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御主殿から見下ろす曳橋
・・・こうして見ると架け間違えが一目瞭然ですね…(^_^;)

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御主殿の滝

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御主殿の滝の脇には櫓台の様な土盛りがあるのですが、その側面にもご覧の石垣が。

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最後に大手虎口の枡形(内側より)

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大手枡形を外側より
ここも以前は周囲に石がゴロゴロしていました(片付けてしまったのか、今回見たらなくなっていましたが…)し、私は大手も御主殿同様、石垣で組まれた階段状の枡形(あの先、右に折れた後は上りになっています)だったと考えています。
いつか調査が入る日も来ますかね?

石垣を積む技術が西国に比べて未熟だったこともあるのでしょうが、この城山の土質はサラサラしていて、とにかく崩れやすい。
それも八王子城の石垣がなかなか現存しにくい原因なのでしょう。

せめて今回ご紹介した、今に残るこれらの石垣だけでも後世に伝えていけるよう、願わずにはいられません。

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