小谷城 ①(金吾丸~本丸)
12月13日(土)、いよいよ忘年会城攻めの朝を迎えました。
昨年の甲賀に続き、今年の攻城目標は、、、

近北の雄・浅井家の居城、小谷城です!
雪予報もあった週末ですが、何とか天気はもってくれそう・・・でも、奥に見える大嶽城跡辺りは完全に雪を被っているよね…(;´・ω・)
全体図

今回は車で番所近くまで登り、そこから天候を見ながら尾根伝いに本丸~山王丸方面へ進んで大嶽城へと至り、清水谷を挟んで反対側の尾根を下って福寿丸、山崎丸を見て回るルートで踏査します。

まずは金吾丸から。
一部、腰曲輪らしき削平地もありましたが、他にこれといって遺構は確認できませんでした。

番所
切岸がしっかり形状を留めています。

小谷城跡から眺める虎御前山。右奥に竹生島も。
元亀3年から小谷落城までの1年間、織田軍が拠点にしていた山です。この距離感。。。
この3週間前にはあちら(虎御前山)側から小谷城を眺めていました。
(参照記事 )
想像復元図(以下:復元図)Ⅰ

番所から少し登っていくと、御茶屋・御馬屋・桜馬場の各曲輪が三段に連なる曲輪群に至ります。

御茶屋
うっすらと復元図Ⅰ-①部分の土塁が確認できます。
右の切岸の上が御馬屋。

御馬屋
こちらも曲輪周囲を囲む土塁がしっかりと残っています。

馬洗池

桜馬場下の切岸には、石垣の隅石らしき痕跡も。

桜馬場の虎口手前には首据石
浅井家初代亮政が天文2年1月、敵方の六角家に寝返った重臣の首を据えた石だとか・・・

桜馬場へ入る前に、一旦ルートを逸れて赤尾屋敷へ向かいました。
浅井長政公自刃之地

桜馬場
数段に分かれた曲輪配置となっており、、、

下の段からは建物礎石も発掘されています。

桜馬場跡に建つ浅井氏及家臣供養塔

桜馬場の先には大広間があり、その黒金門跡。

大きな石で積まれた石垣が残ります。
復元図Ⅱ

大広間からも相当量の建物礎石が発掘されており、その規模からも城主のプライベート空間、つまりお市や浅井三姉妹らが生活していた空間ではないかと考えられています。

大広間
奥の一段高くなっている先が本丸とされている部分です。

大広間の地面には石がゴロゴロと…
発掘された礎石跡がイノシシに荒らされた、という話を聞きましたが、これがそうなのかな…?

貯水池と考えられる石枡

本丸下の石垣

そして本丸
小谷城ほどの城郭の本丸にしては、少々狭い気がします。どことなく「大広間の櫓台」といった印象。

本丸の先は大堀切(復元図Ⅱ-①)でしっかりと守られています。
見事な幅と高低差!
ところでこの大堀切、実は堀底から本丸の両脇を抜けて大広間へと抜けられる縄張になっています。

そのため本丸下の東西両サイドには、その進路を塞ぐように竪土塁が配されています。
その1本、東側の竪土塁。

そして西側の。(復元図Ⅱ-②)

西側の竪土塁には、食い違いの虎口も設けられていました。石垣も確認できます。
背後(北)を大堀切で区切り、両サイドを竪土塁で固めて進路を塞ぐ…その構造から、この本丸は北方面からの敵の侵攻を防ぎ、大広間を守るための見張り台のようなものだったのではないか、とも考えられるそうです。
ややこしい表現になりますが、本丸と大広間を合わせて小谷城の「本丸」として機能していたのかもしれませんね。

大堀切を堀底から。
スマホでの撮影だったので、光の加減で失敗しちゃったのが悔やまれる…(>_<)

大堀切脇の斜面下には更に小さな曲輪跡があり、立派な石垣が残ります。

二段に積まれていました。

その石垣が残る曲輪。
皆が覗いている足元、更に下の斜面にも、、、

石垣が積まれていた痕跡が伺えます。
近江の石垣の城といえば観音寺城が真っ先に思い浮かびますが、小谷城も想像以上に「石垣の城」だったのかもしれません。
この後も中丸から更に先へ進みます。
※「小谷城 ②(中丸~月所丸)」へつづく。
昨年の甲賀に続き、今年の攻城目標は、、、

近北の雄・浅井家の居城、小谷城です!
雪予報もあった週末ですが、何とか天気はもってくれそう・・・でも、奥に見える大嶽城跡辺りは完全に雪を被っているよね…(;´・ω・)
全体図

今回は車で番所近くまで登り、そこから天候を見ながら尾根伝いに本丸~山王丸方面へ進んで大嶽城へと至り、清水谷を挟んで反対側の尾根を下って福寿丸、山崎丸を見て回るルートで踏査します。

まずは金吾丸から。
一部、腰曲輪らしき削平地もありましたが、他にこれといって遺構は確認できませんでした。

番所
切岸がしっかり形状を留めています。

小谷城跡から眺める虎御前山。右奥に竹生島も。
元亀3年から小谷落城までの1年間、織田軍が拠点にしていた山です。この距離感。。。
この3週間前にはあちら(虎御前山)側から小谷城を眺めていました。
(参照記事 )
想像復元図(以下:復元図)Ⅰ

番所から少し登っていくと、御茶屋・御馬屋・桜馬場の各曲輪が三段に連なる曲輪群に至ります。

御茶屋
うっすらと復元図Ⅰ-①部分の土塁が確認できます。
右の切岸の上が御馬屋。

御馬屋
こちらも曲輪周囲を囲む土塁がしっかりと残っています。

馬洗池

桜馬場下の切岸には、石垣の隅石らしき痕跡も。

桜馬場の虎口手前には首据石
浅井家初代亮政が天文2年1月、敵方の六角家に寝返った重臣の首を据えた石だとか・・・

桜馬場へ入る前に、一旦ルートを逸れて赤尾屋敷へ向かいました。
浅井長政公自刃之地

桜馬場
数段に分かれた曲輪配置となっており、、、

下の段からは建物礎石も発掘されています。

桜馬場跡に建つ浅井氏及家臣供養塔

桜馬場の先には大広間があり、その黒金門跡。

大きな石で積まれた石垣が残ります。
復元図Ⅱ

大広間からも相当量の建物礎石が発掘されており、その規模からも城主のプライベート空間、つまりお市や浅井三姉妹らが生活していた空間ではないかと考えられています。

大広間
奥の一段高くなっている先が本丸とされている部分です。

大広間の地面には石がゴロゴロと…
発掘された礎石跡がイノシシに荒らされた、という話を聞きましたが、これがそうなのかな…?

貯水池と考えられる石枡

本丸下の石垣

そして本丸
小谷城ほどの城郭の本丸にしては、少々狭い気がします。どことなく「大広間の櫓台」といった印象。

本丸の先は大堀切(復元図Ⅱ-①)でしっかりと守られています。
見事な幅と高低差!
ところでこの大堀切、実は堀底から本丸の両脇を抜けて大広間へと抜けられる縄張になっています。

そのため本丸下の東西両サイドには、その進路を塞ぐように竪土塁が配されています。
その1本、東側の竪土塁。

そして西側の。(復元図Ⅱ-②)

西側の竪土塁には、食い違いの虎口も設けられていました。石垣も確認できます。
背後(北)を大堀切で区切り、両サイドを竪土塁で固めて進路を塞ぐ…その構造から、この本丸は北方面からの敵の侵攻を防ぎ、大広間を守るための見張り台のようなものだったのではないか、とも考えられるそうです。
ややこしい表現になりますが、本丸と大広間を合わせて小谷城の「本丸」として機能していたのかもしれませんね。

大堀切を堀底から。
スマホでの撮影だったので、光の加減で失敗しちゃったのが悔やまれる…(>_<)

大堀切脇の斜面下には更に小さな曲輪跡があり、立派な石垣が残ります。

二段に積まれていました。

その石垣が残る曲輪。
皆が覗いている足元、更に下の斜面にも、、、

石垣が積まれていた痕跡が伺えます。
近江の石垣の城といえば観音寺城が真っ先に思い浮かびますが、小谷城も想像以上に「石垣の城」だったのかもしれません。
この後も中丸から更に先へ進みます。
※「小谷城 ②(中丸~月所丸)」へつづく。
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