« 「土方歳三のゆ・う・う・つ」 -本願寺史料研究所公開講座 | トップページ | 小谷城 ②(中丸~月所丸) »

2014年12月16日 (火)

小谷城 ①(金吾丸~本丸)

12月13日(土)、いよいよ忘年会城攻めの朝を迎えました。
昨年の甲賀に続き、今年の攻城目標は、、、

20141213a01
近北の雄・浅井家の居城、小谷城です!
雪予報もあった週末ですが、何とか天気はもってくれそう・・・でも、奥に見える大嶽城跡辺りは完全に雪を被っているよね…(;´・ω・)

全体図
20141213a02

今回は車で番所近くまで登り、そこから天候を見ながら尾根伝いに本丸~山王丸方面へ進んで大嶽城へと至り、清水谷を挟んで反対側の尾根を下って福寿丸、山崎丸を見て回るルートで踏査します。

20141213a03
まずは金吾丸から。
一部、腰曲輪らしき削平地もありましたが、他にこれといって遺構は確認できませんでした。

20141213a04
番所
切岸がしっかり形状を留めています。

20141213a05
小谷城跡から眺める虎御前山。右奥に竹生島も。
元亀3年から小谷落城までの1年間、織田軍が拠点にしていた山です。この距離感。。。
この3週間前にはあちら(虎御前山)側から小谷城を眺めていました。
参照記事

想像復元図(以下:復元図)
20141213a06

番所から少し登っていくと、御茶屋・御馬屋・桜馬場の各曲輪が三段に連なる曲輪群に至ります。

20141213a07
御茶屋
うっすらと復元図Ⅰ-部分の土塁が確認できます。
右の切岸の上が御馬屋。

20141213a08
御馬屋
こちらも曲輪周囲を囲む土塁がしっかりと残っています。

20141213a09
馬洗池

20141213a10
桜馬場下の切岸には、石垣の隅石らしき痕跡も。

20141213a11
桜馬場の虎口手前には首据石
浅井家初代亮政が天文2年1月、敵方の六角家に寝返った重臣の首を据えた石だとか・・・

20141213a12
桜馬場へ入る前に、一旦ルートを逸れて赤尾屋敷へ向かいました。
浅井長政公自刃之地

20141213a13
桜馬場

数段に分かれた曲輪配置となっており、、、

20141213a14
下の段からは建物礎石も発掘されています。

20141213a15
桜馬場跡に建つ浅井氏及家臣供養塔

20141213a16

桜馬場の先には大広間があり、その黒金門跡。

20141213a17
大きな石で積まれた石垣が残ります。

復元図Ⅱ
20141213a18

大広間からも相当量の建物礎石が発掘されており、その規模からも城主のプライベート空間、つまりお市や浅井三姉妹らが生活していた空間ではないかと考えられています。

20141213a19
大広間
奥の一段高くなっている先が本丸とされている部分です。

20141213a20
大広間の地面には石がゴロゴロと…
発掘された礎石跡がイノシシに荒らされた、という話を聞きましたが、これがそうなのかな…?

20141213a21
貯水池と考えられる石枡

20141213a22
本丸下の石垣

20141213a23
そして本丸
小谷城ほどの城郭の本丸にしては、少々狭い気がします。どことなく「大広間の櫓台」といった印象。

20141213a24
本丸の先は大堀切(復元図Ⅱ-)でしっかりと守られています。
見事な幅と高低差!

ところでこの大堀切、実は堀底から本丸の両脇を抜けて大広間へと抜けられる縄張になっています。
20141213a25
そのため本丸下の東西両サイドには、その進路を塞ぐように竪土塁が配されています。
その1本、東側の竪土塁。

20141213a26
そして西側の。(復元図Ⅱ-

20141213a27
西側の竪土塁には、食い違いの虎口も設けられていました。石垣も確認できます。

背後(北)を大堀切で区切り、両サイドを竪土塁で固めて進路を塞ぐ…その構造から、この本丸は北方面からの敵の侵攻を防ぎ、大広間を守るための見張り台のようなものだったのではないか、とも考えられるそうです。
ややこしい表現になりますが、本丸と大広間を合わせて小谷城の「本丸」として機能していたのかもしれませんね。

20141213a28
大堀切を堀底から。
スマホでの撮影だったので、光の加減で失敗しちゃったのが悔やまれる…(>_<)

20141213a29
大堀切脇の斜面下には更に小さな曲輪跡があり、立派な石垣が残ります。

20141213a30
二段に積まれていました。

20141213a31
その石垣が残る曲輪。
皆が覗いている足元、更に下の斜面にも、、、

20141213a32
石垣が積まれていた痕跡が伺えます。
近江の石垣の城といえば観音寺城が真っ先に思い浮かびますが、小谷城も想像以上に「石垣の城」だったのかもしれません。

この後も中丸から更に先へ進みます。
※「小谷城 ②(中丸~月所丸)」へつづく。

|

« 「土方歳三のゆ・う・う・つ」 -本願寺史料研究所公開講座 | トップページ | 小谷城 ②(中丸~月所丸) »

織田信長・信長公記」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 「土方歳三のゆ・う・う・つ」 -本願寺史料研究所公開講座 | トップページ | 小谷城 ②(中丸~月所丸) »