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2014年12月19日 (金)

三田村氏館

小谷城踏査を終えて長浜駅前のホテルで一旦解散した後、夜の懇親会まではまだ時間があったので、私はゆっきーと共に延長戦へ。
再度車に乗り込み向かった先は・・・

図面
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三田村氏館

20141213d02

図面-の土塁
周囲を取り巻く土塁の残存状況はかなり良好です。

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三田村氏は姉川の北岸で勢力を誇った一族で、これはその居館跡です。

よこ山の城、高坂・三田村野村肥後楯籠り、相拘へ侯。
(信長公記 巻三「あね川合戦の事」より)

姉川の戦いの契機ともなった織田軍による横山城包囲戦。
この時、横山城に立て籠もっていた城将の中に「三田村」の名が見えます。

姉川の戦いは両軍それぞれの布陣・戦闘地点から「野村合戦」「三田村合戦」とも記録されている、という話をコチラの記事でもご紹介しましたが、三田村に布陣した朝倉軍が本陣と定めた場所こそ、この三田村氏館だったのではないかとの見解もあるそうです。
確かに位置的に見ても、その可能性は充分にあると考えます。

20141213d04
図面-の土塁
発掘調査の結果、これらの土塁はその上層部と下層部では異なる時期に盛られていたことが判明しており、上層部は戦国期に盛り直されているようです。
或いは姉川の戦いに於いて、朝倉軍の手によって増強された可能性も検討されているそうですが、それは如何でしょうか。
姉川の戦いは布陣から開戦~終結まで、即日決着した短期決戦。居館の土塁の上には通常、板塀や土塀などが乗っており、土塁を増強するとなるとわざわざそれらを一旦撤去することになります。土を盛り直すだけでも結構な作業なのに、そんな時間があったとも思えません。
元亀騒乱と呼ばれる情勢の中で、三田村氏自身が増強したものではないでしょうか。

※ちなみに浅井軍が布陣した「野村」の名も、横山城に籠っていた将の一人に見えますね。

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土塁の外には堀跡

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虎口(図面-
鐘つき堂が土塁の上に立っている…(;^ω^)

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三田公会堂裏手にもいい土塁が♪
(図面-

土塁だけでも見応え充分ですが、姉川の戦いとの絡みも考えながら見ていくと尚一層、興味が深まりますね。
…さ、暗くなってきたので撤収!

夜は長浜駅前で残留組と忘年会第二夜
場所を移した2次会も含めて深夜0時まで延々5時間、それはそれは楽しく盛り上がりましたとさ♪

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