「土方歳三のゆ・う・う・つ」 -本願寺史料研究所公開講座
本能寺をあとにして次に向かったのは、、、
西本願寺の北隣にある本願寺聞法会館
目的はこちらの講座の受講です。
特に第二部の「新選組 土方歳三のゆ・う・う・つ -新発見史料から」♪
※ちなみに一部の「親鸞聖人の行実をめぐる二、三の知見 -関東伝道800年に寄せて」は、越後流罪が赦免された後に関東入りした親鸞聖人が彼の地で携わった事績の内、鎌倉の明王院造営の一切経供養の交合(校正)に関するものでした。
2014年9月に新たに確認された史料に関する解説をメインとした講座で、史料も実物を拝観させていただきました。
今回新たに発見・確認されたものは;
・「諸日記」 元治二年三月二十一日、及び慶応元年(元治二年と同じ1865年)六月二十五~二十六日条
・「諸事被仰出申渡留」 元治二年三月九日条
で、日記の元治二年三月二十一日のものは新選組からの借金の申し入れに対し、五〇〇両を都合した旨を記すもの。
慶応元年六月二十五~二十六日の方は、二十五日に土方歳三から;
「屯所として借りている北集会所は広いのですが、何分人数が多いので手狭になってきており、今では隊士一人につき畳一畳分しか寝る場所がない有様です。しかも暑くて仕方なく、追々病人も出ていて公用に勤めることも難しくなっています。もはや局中一統からの不満を制止できません。
そこで大変無理なお願い(甚無体成願)とは存じますが、阿弥陀堂の内で差支えの無い場所を五〇畳ほどお借りしたいのです」
という打診があり、阿弥陀堂に差支えの無い場所などあろうはずもない西本願寺側が即日、北集会所の内陣や後堂にも畳を敷いて場所を広げ、更に南北の壁を取り払って風通しが良くなるように対処する旨を回答したところ、土方からお礼の返書があり(書状写しも記載あり)、早速翌二十六日に工事に取り掛かったことなどが記録されています。
実際この一ヶ月ほど前に屯所を訪れた幕府御典医の松本良順は後年、当時を回想して屯所の衛生状態が悪く、病人が何人も寝ていたことを証言していますし、確か良順から土方に対して環境や食事改善の指示もなされたと記憶しています。
土方からの西本願寺への申し入れの背景には、タイミング的にみてこの辺りの事情も絡んでいそうですね。
ところで屯所として利用されていた北集会所は移築され、現在は姫路市の亀山本徳寺の本堂として利用されています。
細かい作りは変わっていますが、そのうち 内陣と思われる部分と後堂のスペースを除いた広さは約200畳になるそうです。
慶応元年当時の新選組隊士数は約150名(同年5月の「取調日記」では148名)…まぁ幹部クラスは場所を広く使っていたでしょうから、その他の隊士には一人一畳分のスペースしか割り当てがない、という土方の言い分にも一応は辻褄が合いそうですかね(笑)
ちなみに
・「諸事被仰出申渡留」元治二年三月九日条
の方は、新選組が西本願寺へ屯所を移してくる前日に、寺の大目付に対し;
本願寺家中の者は新選組隊士に対し、不作法な態度を取らず温順を心がけ、決して直接対応しないこと
御門主は(北集会所のすぐ脇を通ることになる)御成門は使用せず、車御門から北小路へ輿を通過させること
などの注意事項を細かく通達している内容です。
新選組がやってくることに対する緊張・警戒感、そして迷惑な思いが滲み出るような内容ですね。
折角なので講演後は西本願寺へ。
太鼓楼脇にあるこちらの門が、本来は門主の通用口となっていた御成門です。今でこそ奥に大きな建物が建っていますが、当時はこの門から奥に御成道が通っていたそうです。
とすると、御成道が通っていたのはおよそ右手前に見えている建物の手前縁のラインになりますので、その延長線上と左に見えている阿弥陀堂との間に北集会所は建っていたことになります。
この後は城好き忘年会の会場となる長浜まで移動。
今年の忘年会参加者は13名。長浜駅近くの居酒屋で楽しく盛り上がりました♪
西本願寺の北隣にある本願寺聞法会館
目的はこちらの講座の受講です。
特に第二部の「新選組 土方歳三のゆ・う・う・つ -新発見史料から」♪
※ちなみに一部の「親鸞聖人の行実をめぐる二、三の知見 -関東伝道800年に寄せて」は、越後流罪が赦免された後に関東入りした親鸞聖人が彼の地で携わった事績の内、鎌倉の明王院造営の一切経供養の交合(校正)に関するものでした。
2014年9月に新たに確認された史料に関する解説をメインとした講座で、史料も実物を拝観させていただきました。
今回新たに発見・確認されたものは;
・「諸日記」 元治二年三月二十一日、及び慶応元年(元治二年と同じ1865年)六月二十五~二十六日条
・「諸事被仰出申渡留」 元治二年三月九日条
で、日記の元治二年三月二十一日のものは新選組からの借金の申し入れに対し、五〇〇両を都合した旨を記すもの。
慶応元年六月二十五~二十六日の方は、二十五日に土方歳三から;
「屯所として借りている北集会所は広いのですが、何分人数が多いので手狭になってきており、今では隊士一人につき畳一畳分しか寝る場所がない有様です。しかも暑くて仕方なく、追々病人も出ていて公用に勤めることも難しくなっています。もはや局中一統からの不満を制止できません。
そこで大変無理なお願い(甚無体成願)とは存じますが、阿弥陀堂の内で差支えの無い場所を五〇畳ほどお借りしたいのです」
という打診があり、阿弥陀堂に差支えの無い場所などあろうはずもない西本願寺側が即日、北集会所の内陣や後堂にも畳を敷いて場所を広げ、更に南北の壁を取り払って風通しが良くなるように対処する旨を回答したところ、土方からお礼の返書があり(書状写しも記載あり)、早速翌二十六日に工事に取り掛かったことなどが記録されています。
実際この一ヶ月ほど前に屯所を訪れた幕府御典医の松本良順は後年、当時を回想して屯所の衛生状態が悪く、病人が何人も寝ていたことを証言していますし、確か良順から土方に対して環境や食事改善の指示もなされたと記憶しています。
土方からの西本願寺への申し入れの背景には、タイミング的にみてこの辺りの事情も絡んでいそうですね。
ところで屯所として利用されていた北集会所は移築され、現在は姫路市の亀山本徳寺の本堂として利用されています。
細かい作りは変わっていますが、そのうち 内陣と思われる部分と後堂のスペースを除いた広さは約200畳になるそうです。
慶応元年当時の新選組隊士数は約150名(同年5月の「取調日記」では148名)…まぁ幹部クラスは場所を広く使っていたでしょうから、その他の隊士には一人一畳分のスペースしか割り当てがない、という土方の言い分にも一応は辻褄が合いそうですかね(笑)
ちなみに
・「諸事被仰出申渡留」元治二年三月九日条
の方は、新選組が西本願寺へ屯所を移してくる前日に、寺の大目付に対し;
本願寺家中の者は新選組隊士に対し、不作法な態度を取らず温順を心がけ、決して直接対応しないこと
御門主は(北集会所のすぐ脇を通ることになる)御成門は使用せず、車御門から北小路へ輿を通過させること
などの注意事項を細かく通達している内容です。
新選組がやってくることに対する緊張・警戒感、そして迷惑な思いが滲み出るような内容ですね。
折角なので講演後は西本願寺へ。
太鼓楼脇にあるこちらの門が、本来は門主の通用口となっていた御成門です。今でこそ奥に大きな建物が建っていますが、当時はこの門から奥に御成道が通っていたそうです。
とすると、御成道が通っていたのはおよそ右手前に見えている建物の手前縁のラインになりますので、その延長線上と左に見えている阿弥陀堂との間に北集会所は建っていたことになります。
この後は城好き忘年会の会場となる長浜まで移動。
今年の忘年会参加者は13名。長浜駅近くの居酒屋で楽しく盛り上がりました♪
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