小谷城 ③(大嶽城~山崎丸)
小谷城 ②からの続きです。
心配された天候も何とかもってくれたので、いよいよ大嶽城へアタックします。

延々と続く階段・・・ただひたすら登ります。

標高が高くなるにつれ、残雪が深まる登山道・・・この頃には皆、相当息が上がっていました。

9合目くらいからの眺め。
写真中央、手前の山の最高所辺りが、先ほど通ってきた山王丸になります。

そして、ようやく辿り着いた大嶽城
復元図Ⅶ

小谷山の頂上に築かれており、元亀年間には浅井家の後詰として来援した越前朝倉家の軍勢が駐屯していました。
現在に残る遺構も、朝倉軍の手によるものと考えられています。

大嶽城主郭
周囲を取り巻く土塁もなかなかです。

標高は495m
いかに高くて峻嶮な場所に築かれていたかが偲ばれます。そこへ・・・
(天正元年)八月十二日、大づくの下、やけをへ、浅見対馬覚悟にて、御人数引き入れ侯。其の夜は、以ての外の風雨に侯と雖も、虎後前山には信長公の御息嫡男勘九郎殿を置き申され、信長、雨にぬれさせられ侯て、御馬廻召しつれられ、太山、大づくへ御先懸けにて攻め上らせられ、既に乗り入るべきところ、越前より番手として、斎藤・小林・西方院、三大将の人数五百ぱかり楯籠り、色々降参仕り侯。
(信長公記 巻六「阿閉謀叛の事」より)
天正元年8月12日、やけをの浅見対馬守が織田方へ寝返ったの機に、織田信長は馬廻り衆を率いて自ら嵐の中を大嶽城目指して攻め上ったのです。この時、大嶽城には朝倉兵500が籠っていましたが然したる抵抗もなく陥落し、番兵は降服しました。
信長は翌日、これらの朝倉兵を生かしたまま後方、田神山の朝倉義景本陣へ送り返します。これは、義景が大嶽城の陥落を知れば「もう織田の攻勢を支え切れない」と判断して越前へ引き上げるであろうことを見越した上での措置でした。
而して信長の読みは当たり、朝倉義景は8月13日の夜に陣を払って退却を始めたのでした。織田軍による怒涛の追撃戦が開始され、朝倉家滅亡の時を迎えるのはこの直後の事です。
※ちなみにやけをの正確な位置は分かりませんが、恐らくは小谷山を北に回り込んだ上山田辺りから大嶽城へと至る尾根筋の何処かにあった砦と思われます。

最頂部から二段目の曲輪にも土塁が廻らされています。
しかし、大嶽城で最も感動させられたのは・・・

このガッツリと刻まれた二重堀切!
(復元図Ⅶ-①)

2本ともしっかり形状を留めていて、とても見応えがありました。
思い思いに大嶽城の遺構を楽しんだ後は小谷城主郭部とは清水谷を挟んで反対側、西の尾根を南に向かって下っていきます。
暫くすると見えてくるのが、、、
復元図Ⅷ

福寿丸

これは、、、堀というよりは通路?
(復元図Ⅷ-①)

復元図Ⅷ-②の四角に囲われた土塁もハッキリ分かりますね。

復元図Ⅷ-③の枡形虎口
ここもいい感じ♪
福寿丸から尾根を更に下ると、、、

山崎丸
復元図Ⅸ

清水谷西側の尾根を攻め上る敵に対し、最初の関門として待ち構えます。

クネクネと折れ曲がるこれは、、、最前線(南)の横堀跡かな?

曲輪内にも立派な土塁が複雑に張り廻らされていました。
これにて予定していた全ての曲輪踏査完了!

下山途中、現在の登山道脇に古い道の痕跡が残っていました。
(写真ではシダが生い茂っている部分)
もしかすると往時には朝倉軍の兵士たちが歩いていたのかも・・・と思うと、何だか古道一つでもロマンを感じませんか?

下山後、清水谷から。
正面の山の頂上が大嶽城です・・・よく登ったなぁ~(笑)

右の尾根手前の金吾丸から、赤いラインに沿って反時計回りにグル~ッと1周しました。
さすがにもうクタクタ…(;^ω^)

ようやく訪れることができた念願の小谷城で、これだけディープに回れて大満足です!
しかも今回は日頃お世話になっている城友の皆さんに加え、城郭研究の第一人者ともいうべき中井均先生、そして「山城へGO!」の著者としてもお馴染みの西股総生先生・萩原さちこさんともご一緒させて頂いた贅沢な城攻め。
とても充実して幸せな一日になりました♪ 幹事の方を初め、皆さんに感謝します☆
この後は長浜残留組で忘年会part2♪…ですが、少し時間があったので私はゆっきーと共に延長戦へ。
その模様は次回の記事で。
心配された天候も何とかもってくれたので、いよいよ大嶽城へアタックします。

延々と続く階段・・・ただひたすら登ります。

標高が高くなるにつれ、残雪が深まる登山道・・・この頃には皆、相当息が上がっていました。

9合目くらいからの眺め。
写真中央、手前の山の最高所辺りが、先ほど通ってきた山王丸になります。

そして、ようやく辿り着いた大嶽城
復元図Ⅶ

小谷山の頂上に築かれており、元亀年間には浅井家の後詰として来援した越前朝倉家の軍勢が駐屯していました。
現在に残る遺構も、朝倉軍の手によるものと考えられています。

大嶽城主郭
周囲を取り巻く土塁もなかなかです。

標高は495m
いかに高くて峻嶮な場所に築かれていたかが偲ばれます。そこへ・・・
(天正元年)八月十二日、大づくの下、やけをへ、浅見対馬覚悟にて、御人数引き入れ侯。其の夜は、以ての外の風雨に侯と雖も、虎後前山には信長公の御息嫡男勘九郎殿を置き申され、信長、雨にぬれさせられ侯て、御馬廻召しつれられ、太山、大づくへ御先懸けにて攻め上らせられ、既に乗り入るべきところ、越前より番手として、斎藤・小林・西方院、三大将の人数五百ぱかり楯籠り、色々降参仕り侯。
(信長公記 巻六「阿閉謀叛の事」より)
天正元年8月12日、やけをの浅見対馬守が織田方へ寝返ったの機に、織田信長は馬廻り衆を率いて自ら嵐の中を大嶽城目指して攻め上ったのです。この時、大嶽城には朝倉兵500が籠っていましたが然したる抵抗もなく陥落し、番兵は降服しました。
信長は翌日、これらの朝倉兵を生かしたまま後方、田神山の朝倉義景本陣へ送り返します。これは、義景が大嶽城の陥落を知れば「もう織田の攻勢を支え切れない」と判断して越前へ引き上げるであろうことを見越した上での措置でした。
而して信長の読みは当たり、朝倉義景は8月13日の夜に陣を払って退却を始めたのでした。織田軍による怒涛の追撃戦が開始され、朝倉家滅亡の時を迎えるのはこの直後の事です。
※ちなみにやけをの正確な位置は分かりませんが、恐らくは小谷山を北に回り込んだ上山田辺りから大嶽城へと至る尾根筋の何処かにあった砦と思われます。

最頂部から二段目の曲輪にも土塁が廻らされています。
しかし、大嶽城で最も感動させられたのは・・・

このガッツリと刻まれた二重堀切!
(復元図Ⅶ-①)

2本ともしっかり形状を留めていて、とても見応えがありました。
思い思いに大嶽城の遺構を楽しんだ後は小谷城主郭部とは清水谷を挟んで反対側、西の尾根を南に向かって下っていきます。
暫くすると見えてくるのが、、、
復元図Ⅷ

福寿丸

これは、、、堀というよりは通路?
(復元図Ⅷ-①)

復元図Ⅷ-②の四角に囲われた土塁もハッキリ分かりますね。

復元図Ⅷ-③の枡形虎口
ここもいい感じ♪
福寿丸から尾根を更に下ると、、、

山崎丸
復元図Ⅸ

清水谷西側の尾根を攻め上る敵に対し、最初の関門として待ち構えます。

クネクネと折れ曲がるこれは、、、最前線(南)の横堀跡かな?

曲輪内にも立派な土塁が複雑に張り廻らされていました。
これにて予定していた全ての曲輪踏査完了!

下山途中、現在の登山道脇に古い道の痕跡が残っていました。
(写真ではシダが生い茂っている部分)
もしかすると往時には朝倉軍の兵士たちが歩いていたのかも・・・と思うと、何だか古道一つでもロマンを感じませんか?

下山後、清水谷から。
正面の山の頂上が大嶽城です・・・よく登ったなぁ~(笑)

右の尾根手前の金吾丸から、赤いラインに沿って反時計回りにグル~ッと1周しました。
さすがにもうクタクタ…(;^ω^)

ようやく訪れることができた念願の小谷城で、これだけディープに回れて大満足です!
しかも今回は日頃お世話になっている城友の皆さんに加え、城郭研究の第一人者ともいうべき中井均先生、そして「山城へGO!」の著者としてもお馴染みの西股総生先生・萩原さちこさんともご一緒させて頂いた贅沢な城攻め。
とても充実して幸せな一日になりました♪ 幹事の方を初め、皆さんに感謝します☆
この後は長浜残留組で忘年会part2♪…ですが、少し時間があったので私はゆっきーと共に延長戦へ。
その模様は次回の記事で。
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