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2014年12月20日 (土)

長浜城の移築門と、羽柴「秀勝」墓所

12月14日(日)、長浜で迎える旅の最終日。
朝、ホテルロビーで前日までの楽しい城攻め&忘年会を共にした皆さんとお別れし、私は単身長浜を散策してから帰京することにします。

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冷たい小雪舞う人影もない黒壁スクエアを抜けて向かった先は・・・

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大通寺
こちらの本堂や、、、

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大広間は伏見城からの移築と伝わりますし、境内地は秀吉長浜時代の石田三成屋敷跡とも云われています。が、

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今回の目的はこちら、大通寺台所門。
実はこれ、長浜城追手(大手)門の移築と伝えられているのです。

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その柱には天正10年6月の本能寺の変直後、長浜へ侵攻した明智軍によってつけられたと云う銃弾や弓矢の痕が残されています。

ところで、長浜城の搦手門も市内の知善院というお寺さんに移築されて残っています。

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こちらがその知善院に移築された長浜城搦手門
作りや雰囲気は追手門とよく似ていますね。大通寺を訪れた前日の早朝、小谷城攻めの前に連れて行って貰いました。

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こちらの知善院、豊臣家と縁が深いようで
・秀頼の筆による「豊国大明神」の軸
・淀殿が妹婿・京極高次に宛てた自筆書状
・秀勝の菩提を弔うよう命じ、米30石を寄進した秀吉の朱印状
などが残されているそうです。

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豊臣(羽柴)家ゆかりのお寺といえば、妙法寺も。

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秀吉の子、秀勝の墓所があります。こちらも前日、知善院の後に訪れました。

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羽柴秀勝墓所

私は初め、この秀勝とは織田信長の四男で、秀吉の養子に入った於次秀勝のことかと思ったのですが違ったようで、長浜時代に側室の南殿が生んだ秀吉の実子石松丸)のことだったようです。
しかしこの実子は夭折したはずなんですが・・・「秀勝」という名があるということは、既に元服していたということなのでしょうか?
まぁ、後に秀頼も僅か4歳で元服させていますが、あれは自らの老い先を悟った秀吉が己の命あるうちに、という思惑があったとも云われていますし、、、どうなんでしょうね。

秀吉は於次秀勝の死後、次に養子に入った小吉(浅井三姉妹の三女・江の二番目の夫)にも「秀勝」と名乗らせており、この名前に相当強いこだわりがあるように感じていましたが、思えば死んでしまった実子への思いから、その名前に執着したのかもしれませんね。

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さて、話を最終日に戻して…駅前に建つ三献茶の像。

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最後は長浜城歴史博物館へ。

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開催中のテーマ展「関ヶ原合戦から大坂の陣」を堪能しました。

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太閤井

さて、今回の旅の行程もこれにて終了~。
そして、多くの仲間のご好意に支えられた自由気ままな2014年一年間の旅路も千秋楽
日本全国の城友、歴友の皆様、2014年も大変お世話になりました。お陰様をもちまして、大変歴充した一年となりました。篤く御礼申し上げます
2015年もどうぞよろしく☆

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