石谷家文書を拝観 -「戦国大名 宇喜多氏と長宗我部氏」展
2月7日、3年ぶりに岡山へやって参りました。
まずは路面電車に乗り換え、「城下」で下車し、、、
最近お城好きの間で話題?の、岡山城西丸西手櫓と禁酒会館。
これまで禁酒会館の横には高いビルが建っていて、表の通りからは西手櫓を見ることが出来なかったそうですが、ご覧の通りビルが取り壊された為、大正と近世のコラボが実現しました!
そのままフラフラと歩き、、、
岡山県立博物館へ。
今回、岡山へ足を運んだ一番の目的は、現在こちらで開催されている交流展「戦国大名 宇喜多氏と長宗我部氏」、その中で公開される石谷家文書を拝観することにありました!
石谷家文書
平成25年に林原美術館で発見された47点に及ぶ文書群で、天文4年(1535)~天正15年(1587)までの約50年間に渡り、主に石谷家の人物に宛てられた書状類です。
石谷家とは室町幕府奉公衆の一つで、現在の岐阜県岐阜市石谷に本領を有した一族です。
足利義輝の側近だった石谷光政(空然、書状では「石谷入道」「石摂」とも)は義輝が暗殺されると、娘が嫁いでいた土佐の長宗我部元親の元に身を寄せました。
その養子である石谷頼辰(兵部少輔、書状では「石兵」「石兵少」とも)は明智光秀の重臣・斎藤利三の実兄で、しかも娘が長宗我部元親の嫡男・信親に嫁いでいます。
これらの関係から織田氏の対四国(長宗我部)政策、ひいては本能寺の変の要因にも迫れるのではないかと注目されている歴史的価値の高い史料です。
その中で、私が訪れた時に展示されていたものは以下の8点でした。
①近衛前久書状→石浜・空然宛 天正11年2月20日
②正親町三条公仲書状→石谷入道・兵部少輔宛 天正11年6月27日
③真木島昭光書状→石兵宛 天正11年3月16日
④真木島昭光書状→石摂・同兵・香大(香川信景?)宛 天正11年3月24日
⑤長宗我部元親書状→石兵少宛 天正6年12月16日
⑥長宗我部元親書状→(斎藤)利三宛 天正10年5月21日
⑦長宗我部元親書状→小笠原又六宛 天正15年1月22日
⑧長宗我部元親書状→斎藤平十郎宛 天正15年1月22日
⑦⑧は戸次川の戦いに於ける信親、石谷頼辰の戦死を知らせる内容のものです。
本展には信親所用の甲冑や、信親公忠死御供衆鑑板(複製品。約700名の戦死者が列挙される中、石谷頼辰は3番目に挙げられていました)なども展示されており、合わせて拝観することでより感慨深いものとなりました。
その他、宇喜多氏関連の展示品も充実していましたが、とても紹介し切れません。あしからず…(^_^;)
さて、事前に調べていなかったので全く知らなかったのですが、この日は偶然にもこのような報告会が開催されるようです。
なんというタイムリーな内容!
予約不要で先着順とあるし、、、これを逃す手はないでしょ?
という訳で勿論、聴講させていただきました。
まだまだ解明途中の段階とのことでしたが;
織田氏と長宗我部氏の関係性
織田信長の対四国政策の転換点とそのきっかけとなりそうなもの
それに対する斎藤利三と長宗我部元親それぞれの思惑
etc...
などが透けて見えてくるようで大変興味深く、勉強になりました。
また、このような古文書を解読する際のアプローチや苦労話なども聴けて楽しかったです。
如何せん、まだ実際に自分で文書類を読むことが出来ていない(展示されている現品を解読する能力は持ち合わせていませんw)ので、これ以上の事は書けませんが「解読が終わったら資料集として出版し、専門家や歴史愛好家の研究に供する」と仰っていたので、それを楽しみに待ちたいと思います。
先生方、心待ちにしておりますので頑張ってくださいね☆
その後は後楽園をゆるゆると散策・・・
岡山城天守
月見櫓
さて、この後は翌日のオフ会に備えて姫路へ移動します。
(つづく)
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