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2015年3月

2015年3月16日 (月)

甲州道中 小仏峠越え(高尾→相模湖)

新選組の面々が甲陽鎮撫隊として、甲府へ向かうために進軍した甲州道中(旧甲州街道)。その難所でもある小仏峠越えのルートを歩いてみたい!と願い続けて早数年。
しばらくは遠征の予定もなくスケジュールが空いていたので、この機会にようやく実行に移しました。

2015年3月14日の午前10時前、ご同行頂くことになったサイガさんとJR高尾駅で待ち合わせ、高尾駅北口の目の前を通る甲州道中、国道20号線から街道歩きをスタートします。

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高尾駅前を出発してすぐの国道20号線。標識は東京日本橋から51km地点を示しています。

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高尾駅前から500mほど西へ進むと両界橋が架かり、その袂には街道を往く旅人を見守るかのように石仏が置かれていました。

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両界橋の上から。
左はJR中央本線の橋脚です。煉瓦造りの重厚感が、なんだか歴史を感じさせますね。

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「西浅川」交差点で甲州道中は国道を離れ、右へ逸れていきます。

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旧道沿いで見かけた「高尾駒木野庭園」
写真の建物は大正年間~昭和初期の建築で、すぐ近くに建つ駒木野病院の前身「小林病院」の住居兼医院として使用されていたものだそうです。

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「西浅川」交差点から先は、しばらく真っ直ぐな登り坂が続きます。

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ここでもお地蔵さんたちのお見送りを受けます。

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そして、坂を登り切った辺りが小仏関跡になります。
戦国期には小仏峠に関所が設けられていて「富士見関」とも呼ばれていたそうですが、江戸期になると甲州道中の関所として駒木野の当地に移されました。

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小仏関跡のすぐ脇には、駒木野橋の石碑があります。
現在では舗装路として埋め立てられ、橋の痕跡は残っていませんが、、、

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当時の絵図で確認すると、確かに関所の東側に橋が架けられている様子が描かれています。
駒木野橋を渡って関所の中を通過して抜けていくのが、甲州道中。

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こちらは八王子千人同心組頭・塩野適斎らによって記された「桑都日記」掲載のもの。
関所に付随するように駒木野宿が設置されたため、駒木野関所とも呼ばれていたようです。

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橋はなくとも、川の名残は今でも残っていました。

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駒木野宿の碑

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宿跡には、ちょっと気になる古民家も…。
本陣建築特有の、籠をつけられる玄関に作りが似ていませんか?

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駒木野宿の西端から先は、甲州道中念珠坂

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道端には石碑と共にお地蔵さんも。

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季節柄、街道沿いのそこかしこで梅が満開に咲き誇っていました。
天候にも恵まれた土曜日、梅林目当ての観光客の姿も多く、周辺は大変賑わっていました。

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穏やかな陽気に、我々の歩みも弾みます。

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街道脇には用水路や、、、
※奥に見えるのは圏央道の高架

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地下水?を汲み上げた水場もありました。

「蛇滝口」バス停付近から一旦甲州道中を離れ、右手の小路に入っていきました。
そこにあるのは、、、

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猪の鼻トンネル列車銃撃事件の供養塔と慰霊碑です。
終戦間近の昭和20年8月5日、八王子空襲(8/2)で不通になっていた中央本線が3日ぶりに再開し、浅川駅(現高尾駅)発→長野行の列車が猪の鼻トンネルに差し掛かった時、突如として米軍機P51が飛来。列車に機銃掃射を浴びせ、判っているだけでも52名が死亡、100名以上の負傷者が出るという惨劇になりました。
この供養塔は事件から5年後の1950年、地元の青年団によって建てられました。

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猪の鼻(湯の花)トンネル
これ以上近付けないので視認できませんが、今でも米軍機による銃撃の痕が残っているそうです。

そして、高尾駅(浅川駅)も列車銃撃事件に先立つこと約1ヶ月の昭和20年7月8日、やはり米軍機による機銃掃射を受けています。

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JR高尾駅に現在も残る機銃掃射の弾痕。
※1・2番ホーム31番支柱

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こちらも・・・。
当時の“まま”を残すため、あえて塗装をせずに保存されています。
※同33番支柱

大和田橋の焼夷弾痕もそうですが、こうした地元に残る戦争の記憶もしっかり受け継いでいかなくてはなりませんね。

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さて、甲州道中歩きに戻ります。「高尾山道」の道標。

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長閑な景色…この辺りは高尾山(左)と八王子城の城山(右)に挟まれた位置になります。

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並行して中央自動車道も走ります。

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浅川国際マス釣場を過ぎると、、、

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「日影」バス停があり、その近くに木下沢(こげさわ)橋という橋が架かっています。
線路の下、煉瓦のトンネルを潜るようにして木下沢川が流れています。

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その木下沢橋の目の前に、半島状に突き出した小高い地形が確認できます。
※こうした地形をよく「猪の鼻」と形容します。前出の「猪の鼻トンネル」然り。

道は南側へ迂回するように通っていますが、まるで甲州道中の行く手を遮るかのようです。
実はここに、木下沢要害と呼ばれる砦の遺構が残っているという情報を事前に仕込んでいましたので、ちょっと調べてみることにしました。

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木下沢要害の主郭と比定される削平地。奥は櫓台跡か?
そして特に素晴らしかったのが・・・

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この堀跡
細長い曲輪をザックリと分断し・・・

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曲輪の西側まで回されています。

この木下沢要害、築かれた時期など詳細は不明ですが、八王子城の西南麓に位置しており、小仏峠からのルートを押さえる八王子城の出城の一つだったのではないでしょうか。
同行頂いたサイガさん曰く、その構造からも小規模ながら北条系の城郭と思われる、とのことでした。確かに西側の、土塁を掻き上げて堀を築造する手法などは、北条のお城によく見受けられるものですよね。

また、江戸時代には甲州道中を引き込んで監視する番所が置かれていたのではないか、とも考えられているようです。

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それを裏付けるかのように、馬頭観世音の石碑も。

つまり・・・
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本来の甲州道中は、奥に見えている舗装路からここまで引き込まれ、、、

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堀底道を回り込み、、、

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更に進んで、、、

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木下沢要害跡(番所)を抜け、再び舗装路に戻るルートが採られていたのかもしれません。

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主郭の一段下にも曲輪跡らしき削平地があり、小規模ながらもなかなか見応えのある遺構でしたよ、木下沢要害。
※近日、サイガさん作成の縄張図を掲載させていただきます。

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さて、道はまだまだ続きます。またもや立派な煉瓦造りのトンネル。

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いよいよ甲州道中の行く手に、山が大きく迫ってくるようになりました。

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路線バスの終点「小仏」バス停を過ぎて寶珠寺の前を通り、、、

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小仏峠が近付くにつれ、甲州道中は徐々に登り勾配になっていきます。

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滑り止めのためでしょうか…?青色の資材が埋め込まれた路面。

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急勾配をグネグネと、つづら折りに登っていく甲州道中。

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よく見ると、本来の峠道かもしれない痕跡がありました。

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上の道から見下ろしてみる…それにしても凄い急勾配。
こんな所を甲陽鎮撫隊は、大砲や荷駄を運びながら登って行ったのか・・・

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さぁ舗装路も終わり、いよいよ本格的な峠越えに差し掛かります。

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10分ほど砂利敷きの緩やかな林道を登ると、、、

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中腹からは勾配が一段ときつくなり、道幅もグッと狭まります。

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つづら折れの小仏峠越え

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おや?…道が二股に分かれている。
一般的には右の道を使うようですが、明らかに左の直登道の方が古く、こちらが本来の甲州道中ではないかと判断しましたので、我々は迷わず左へ。
すぐ先で合流するのですが、、、

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すぐにまた二股。ここもやはり直登になる右へ。

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またもや…ここも当然、右(笑)

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岩盤が顔を出し、まるで石畳を敷き詰めたような峠道。

そんなこんなで、舗装路の終点からは30分ほど登りましたかね・・・

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遂に小仏峠の頂上に到達です!

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峠からの雄大な眺め…よく登ったなぁ(笑)

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標高はおよそ560m

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ここでも石仏やお地蔵さんが、旅人を出迎えてくれます。
甲陽鎮撫隊の往来も見守っていたのでしょうか…?

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今は廃墟と化した峠の茶屋。

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明治天皇小佛峠御小休所址及御野立所碑
左は三条実美が高尾山薬王院を訪れた際に詠んだと云う歌の歌碑

甲州道中歩き、高尾駅前を出発して小仏峠の頂上に至るまでに要した時間、およそ3時間弱。
ここで昼休憩を挟み、後半は相模湖方面へ下っていきます。

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小仏峠頂上にあった、甲州道中の案内図。
右上の「駒木野宿」の更に先にある高尾駅を出発し、左下の「与瀬本陣跡」を目指しますので、甲州道中を示す赤いラインがほぼ我々の全行程にあたります。
下りとはいえ、距離は後半の方が長い!まだまだ頑張らねば。
※こちらの案内図では、小仏関跡を小仏峠頂上と案内していますね。

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それでは後半の下り、スタートです。

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下り始めるとすぐ、切通しの様な深い堀底道が現われます。

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幾重にもつづら折りに続き、、、

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とにかく圧巻の土木量です。

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途中、本来の古道と思しき道が何故だか閉鎖されている箇所もありましたが、、、

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少し迂回すると、すぐにまた合流できます。

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つづら折れの堀底道は延々と続く・・・

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感動を通り越し、もはや呆れるしかないほどに。

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これは何かある!と睨んだサイガさんが、切通した斜面の上に登ってみると・・・

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そこから下方は、直登出来てしまいそうな尾根の稜線が続いていました。
墓石?が並ぶ辺りは平坦になっていて、うっすらと虎口の痕跡らしき窪みもあります。
それらから察するに、この堀底道は敵の侵攻に備える堀切の役割も負っていたのではないでしょうか…。
つづら折れにすることで旅人の往来を助けると共に、大軍の直登を防ぐための幾重にも重ねられた堀切として・・・

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こうして見ると堀切以外の何物でもないですよね。
サイガさんはこれらを「阻塞地帯」と呼んでいました。

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しばらく下ると鉄塔の足元に出ます。(この鉄塔を覚えておいてください)
ここまで来ると峠越えも終盤

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あと少しつづら折れの山道を下ると、、、

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舗装された道路に出ます。底沢と呼ばれる地区です。

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舗装路に出たら、甲州道中はすぐに折り返します。
写真右には「甲州古道 底沢」の標識。

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中央本線と中央自動車道を一枚に収める眺め。
ここで一旦、中央自動車道の高架下を潜ります。

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甲州古道 美女谷」の標識に行き当たったら左へ。

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舗装路とはいえ、ここも古道の雰囲気たっぷりですね。

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再び中央自動車道の高架下を潜ってすぐ、「甲州道中 板橋」の標識や馬頭観世音碑が並ぶ辺りで甲州道中は本来、中央自動車道を越えて北側の山へ入り込んでいました
しかし現在は通行できませんので、そのまま道なりに舗装路を進みます。

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甲州道中 板橋」の標識前から振り返った様子。右上に見える鉄塔が、先程その脇を通り抜けてきたものです。
あの峠を越えて来たのかと思うと…感慨も一入。

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しばらく中央本線の線路脇を行くと、、、

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小原宿一里塚下」の標識に行き当たります。
甲州道中は右手奥の山の中にありましたので、一里塚も当然山の中我々の居る場所は一里塚の下・・・なるほど(笑)

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道なりに線路下を潜ったら右へ。
…それにしても中央本線の基台には煉瓦造りが多い。

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あのトンネルの手前なんか凄いですよね♪

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更に進むと、「西浅川」交差点で分かれて以来の国道20号線に再合流します。
もうすぐ小原宿です。

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小原地区の歴史などを紹介する博物館を兼ねた交流施設「小原の郷」付近。
ここで、「甲州道中 板橋」標識地点で分かれていた本来の甲州道中と再合流を果たします。

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「小原の郷」前からの眺め。
峠を越えたとはいえ、凄い山間部(笑)

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そして、ようやく小原宿に到着です。

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小原宿本陣
日野宿本陣や山梨県大月市の花咲宿本陣と共に、甲州道中の宿場本陣としては三つしかない現存建物の一つです。

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小原宿の本陣は清水家が代々勤めてきましたが、現在は相模原市が運営管理しており、見学も無料です。

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上段の間
…「上段」がないけど。何かの冗談?←オイww

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中二階へと上がる階段(※上れません)
右下の電話機もイイネ!

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二階には様々な民具が展示されています。

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中二階から荷物を引き上げるための滑車もありました。

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軽く見学を終えた後は街道歩きを再開です。
小原宿の町並み。

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小原宿の先で、甲州道中は再び国道を離れます。
ここは左へ下りて下の広場を通過し・・・

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広場の先の路地を右へ上がっていきます。

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すぐにまた国道とぶつかりますが、今度はその国道を斜めに横切り、真っ直ぐあの先へと坂を登って進みます。

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てくてくてく・・・

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谷間をぐる~っと迂回・・・

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道中を見守る祠とお地蔵さん。

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ここ(右上)にもズラリと・・・

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この辺りまで来るともう、相模湖駅が見えてきます。
ゴールの与瀬宿があった町並み。

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ここは右手前方向に折り返し、階段を下りていきます。

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この階段から先の下り坂は、甲州道中の「えんどう坂」というそうです。

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階段を下ってえんどう坂を道なりに進み、、、

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国道20号と合流する地点に「甲州道中 与瀬宿」の標識が立っています。

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そのまま国道沿いに西へ進み、相模湖駅前も通過します。
標識が示す日本橋からの距離は65km。スタートしてすぐの高尾駅近くでは51kmでしたので、その距離14km
無論これは大垂水峠を越えて来る国道20号線の標識なので、我々が越えてきた小仏峠のルートとは別で距離は一致しませんが、その距離感は推して測れるかと思います。

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この写真のポイントで、甲州道中は右斜め方向へ折れます。
その角に・・・

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与瀬宿本陣跡があります。本日のゴール地点!!
高尾駅前を出発してからの所要:約5時間45分…よく歩きました。

最初にも書きましたが今回、甲州道中の小仏峠越えルートを歩こうと思った一番の動機は、新選組改め甲陽鎮撫隊となった近藤土方らが通ったであろう道を、自分の足でなぞりたいと思ったことなのですが、その行程について日野宿本陣の佐藤彦五郎(土方歳三の義兄。新選組の支援者でもある)は、その日記に;

(慶応四年三月)朔日、天気、
一甲陽鎮撫として大久保剛・内藤隼人外、鎮撫隊として百人程引連江戸出立、府中宿泊りニ付、(以下略)

二日、天気、

一 右大久保・内藤、当宿(日野)通行、彦五郎方へ休、八王子宿昼飯、与瀬宿泊り、(以下略)
※大久保剛=近藤勇、内藤隼人=土方歳三
※( )内は管理人注記


と綴っています。
つまり甲陽鎮撫隊の面々もここ、与瀬宿で一泊しているのです。
そして更に驚きなのが、前日に宿泊した府中宿から与瀬宿までの間を途中、日野で歓待を受け、八王子で昼食を摂りながらも一日で歩き通しているのです。難所の峠越えを含むその距離、およそ32~33km
今回、我々は高尾駅からスタートしましたので、府中~高尾間の分(20km弱?)だけ彼らの方が多く一日で移動したことになります。大砲や荷駄、それに近藤さんの乗る籠まで運びながら…(笑)
よく俗説で「近藤らは凱旋パレードよろしく、各地で歓待を受けながらのんびりと行軍したから、新政府軍に先を越された」みたいなことを言われますが、実際に歩いてみると「そんなはずはない!」と断言できます。むしろ結構な強行スケジュール…(^_^;)
こればかりは時勢というより外ないのでしょうね。

なにはともあれ、無事に予定していた全行程を歩き切りました!
(帰路、歩行もままならない程に足を痛めていることが判明したので、無事とは言い切れないかもしれませんが…)

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甲州道中はこの先も続きますが、それはまたいずれ、別の機会に・・・。

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帰りは相模湖駅から引き返し、あっさりと小仏峠を越えちゃいました…トンネル(電車)でww

とても長い記事になってしまいましたが、それだけ今回の踏査が充実していた証。文句なしにお薦めです!


◆関連記事
日野の甲州道中
大和田の渡し(…と八王子祭り)
壺伊勢屋・甲州道中・多賀神社
八王子千人同心-石坂弥次右衛門
 (記事内、案下道との追分の道標)
甲州道中(高尾→西八王子間)

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2015年3月12日 (木)

甲州道中(高尾→西八王子間)

一つ前の記事でご紹介した廿里古戦場・同要害跡踏査の為に電車で高尾まで来ていたので、帰りはそのまま一つ先の西八王子まで旧甲州道中を歩いてみることにしました。

地図
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そのルート。

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国道20号線「高尾駅前」交差点の角にあった山王社。
寛政年間頃から、この地に祀られていると考えられるそうです。(地図A)

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少し行くと、旧甲州道中は国道から左へ逸れ、、、

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更に交差する車道を越えて、あの先へと続きます。(地図B)

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旧甲州道中
すぐ横を現在の国道20号線が並行して通っているのに、不思議とその喧騒が届かず、とても長閑な雰囲気が漂います。

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古道らしく、道端にはお地蔵さんも。

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慶応4年3月には近藤勇土方歳三も、永倉新八斎藤一原田左之助もみ~んな、甲陽鎮撫隊として間違いなく通った道です。

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振り返ると正面に八王子城♪

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暫くすると古道は一旦、国道に合流します。

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ちゃんとお手製の案内表示がありました。(地図C

合流後、1km余りは国道を歩き続け、「並木町」交差点を過ぎた辺りで、、、

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古道は再び左へと逸れます。(地図D

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旧街道歩きにハマると、こういう何げない通りが堪らなく好きになります(笑)

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ここは真っ直ぐ進みたくなるところですが、旧甲州道中は鉤状に右に折れ、その先ですぐに国道に合流して左へ曲がります
何故分かるのかって?

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・・・だって、その角に建つこちらの石碑に載っている、、、

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絵図にそう描かれているもの(笑)(地図E

この後は国道を4~500mほど歩いて西八王子駅に到着しました。
近日中に今回の出発点となった高尾駅(駒木野宿)から反対方向へ、小仏峠を越えて相模湖駅(与瀬宿)まで旧甲州道中を歩きます!

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2015年3月11日 (水)

廿里古戦場と廿里要害

JR高尾駅の少し北、国道20号を越え、、、

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更に「廿里町」交差点を越えた先、、、

2015031102
小高い台地のようになっている辺りが、、、

2015031103
廿里古戦場です。

廿里古戦場
永禄十二年(一五六九)、武田信玄は小田原城の北条氏康を攻めるために甲州を出発し、碓氷峠を越えて北関東の北条氏の諸城を次々と攻撃し、滝山城攻撃のため拝島に陣した。一方、信玄の武将甲州岩殿城主小山田信茂は、甲州から小仏峠を越えて攻め込んだ。滝山城主北条氏照の家臣、横地監物・中山勘解由・布施出羽守らは、十月一日にこの付近で迎え撃ったが、一戦にしてもろくも敗れ去った。
この戦いの後、滝山城は三の丸まで攻め込まれ、落城の危機に瀕したが、信玄は途中で小田原城に向かい、落城はまぬがれた。この年の戦いで、氏照は滝山城の弱点と甲州口の重要性を感じ、小仏峠に近い八王子城の築城を計画したと言われている。
平成十七年三月三十一日
八王子市教育委員会

(現地案内板より)

※ちなみに廿里は「とどり」と読みます。
少し古文書をかじったことのある方なら周知のことですが、「廿」=「二十」。つまり十が二つ→「十十里」=「とおとおり」が詰まって「とどり」になったものと思われます。

地図
2015031104

地図で示すとこのようになります。(が案内板の位置)
残念ながら古戦場は現在、森林総合研究所や多摩森林科学園の敷地となっており、立ち入ることはできません。

また、古戦場のすぐ西側、小高い山の上には廿里要害と呼ばれる砦の遺構らしきものも残っています。

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廿里古戦場から要害跡へ向かう道すがら。
とても素敵な小路でしたので、しばし散策を楽しみます。

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廿里要害跡方向を見上げる。

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前日の雨で濁ってしまっているのが残念ですが、ちょっとした渓谷といった雰囲気。

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そして、こちらの白山神社裏山が廿里要害跡になります。

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白山神社拝殿

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拝殿の前から南の方角、眼下に甲州道を押さえる眺め。
対面には初沢城の城山。

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拝殿の裏から登って行きます。

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途中、気になる小曲輪のような削平地も・・・

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白山神社本殿。
ここも要害の曲輪の一つと考えられます。(地図A

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本殿の裏から更に登ります。

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馬蹄段状の曲輪跡と思しき、削平地が3~4段ほど連なり、、、

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山頂の曲輪へ(地図B

ここからはアップダウンのある尾根伝いに南東の方角へ進み、、、

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ご覧の様な藪を掻き分けた先に、、、

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地図Cの曲輪へ。
ここには写真の土塁の様なものや、、、

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かなり薄いですが、竪堀も確認出来ました。

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Cの曲輪から倒木にも行く手を阻まれながら、北東の方角へ少し進むと、、、

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見事な堀切がありました!

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堀底から。
こうして見ると、各曲輪のある西側(写真左)の方が高くなっているのが分かります。

2015031123
東側から見た様子。
廿里要害から西(西北)へ行った先には八王子城があります。明らかに、その方角への侵攻を防ぐ意図が込められた作りかと思います。(自然地形の影響もあるのでしょうが)

ところでこの廿里要害、永禄11年の武田信玄による駿河侵攻→甲相手切れ~越相同盟成立という一連の政治状況の変遷を受け、越後の上杉よりも甲斐武田家への警戒を要するようになった北条方が、小仏峠からの進路を監視する目的で築いたものではないか、との説があるようです。
(この時点での北条氏照の居城・滝山城は、それまでの敵であった越後上杉への警戒から川越道を押さえており、甲斐方面への備えは万全ではなかったと思われる)
廿里古戦場の現地案内板にも、横地らの北条勢が小山田勢を「迎え撃った」とあります。

しかし、伝承される廿里古戦場と廿里要害の位置関係(要害跡よりも古戦場が東=北条側)、及び合戦の帰趨(武田軍の勝利)を鑑みるに、私は廿里合戦に臨んで先にこの要害跡が残る小山を制したのは武田軍(小山田勢)ではなかったかと考えています。
予め砦が築かれていたのであれば当然幾ばくかの兵が常駐していた筈で、そうなると横地や中山らの北条勢が駆け付けて合戦に及ぶ前に、小山田勢による砦攻めがあってもよさそうなものですが、そのような記録を目にしたこともありません。

前出の白山神社にはかつて、享禄3年(1454)、明応7年(1498)、及び天文22年(1553)の都合三度に渡る造営の棟札が存在していたそうです。
つまり廿里合戦時には既に神社が存在しており、その造成(削平地など)を利用して先に到着した小山田勢が本陣を布き、遅れてやってきた横地らの軍勢を逆に迎え撃ったのではないでしょうか。
要害跡の小山が古戦場の西にあることが、それを物語っているように思えてなりません。

信玄本隊に滝山城をも攻撃された北条氏照はこの後、甲斐への備えとして甲州道・案下道を押さえる深沢山に八王子城を築きます。
先程も書きましたが、廿里要害は八王子城から続く山の稜線の南東端に位置します。八王子築城にあたり、甲州道を押さえる出城として、改めて砦としての整備がなされたものだったのではないでしょうか。

要害の堀切はどことなく、八王子城太鼓曲輪の堀切と同じテイストを感じますし(あくまでも私的な印象ですが)、その堀切の警戒方向が西よりもむしろ(甲州とは反対側の)東に向いていますので、少なくともこの堀切が切られたのは、八王子築城に合わせた時期だったと思います。

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下山後、白山神社拝殿近くで見かけた石仏。
脇に「元禄十三年」と刻まれていました。西暦だと1700年になりますね。

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最後に高尾駅北口付近から振り返って。

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2015年3月 7日 (土)

生麦事件の現場~神奈川宿(旧東海道)

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京急生麦駅で下車して、旧東海道(地図の一番下、左右に通っている道)へ向かいます。

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旧東海道、生麦事件発生現場

生麦事件
文久2年(1862)8月21日、江戸を発して生麦村(現横浜市鶴見区生麦)に差し掛かった薩摩藩・島津久光の行列へ、イギリス人の一行4名が騎乗したまま乗り入れたため、薩摩藩士に殺傷(死亡1名、重傷2名)された事件です。
事件が発生してしまった背景には複雑な事情が潜んでいそうですが、長くなるのでここでは省略します。
いずれにせよ、これが翌年(文久3年)7月の薩英戦争の引き金となりました。

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事件発生現場の説明板
当時の生麦村名主の日記によれば、死亡したリチャードソン以外の3人は神奈川宿方面へ逃げた、とあります。
彼ら3名が逃げ込んだ先は、神奈川宿の本覚寺に置かれていたアメリカ領事館でした。

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旧東海道を南西、神奈川宿方面へ向かって暫く進むと、生麦事件之碑があります。
明治16年の建立。碑文には;

文久二年壬戌八月二十一日英国人力査遜
殞命于此處乃鶴見人黒川荘三所有之地也
荘三乞余誌其事因為之歌歌日
君流血兮此海壖我邦変進亦其源強藩起兮
王室振耳目新兮唱民権擾々生死疇知聞萬
国有史君名傳我今作歌勒貞珉君其含笑于
九原

この石碑、本来はリチャードソンが逃れようとして落馬し、命を落した地点に建てられていましたが、私が訪れた平成27年3月現在は横浜環状北線建設工事のため、場所を移して仮設されています。

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上の地図が現在石碑が仮移設されている場所で、本来の場所、つまりリチャードソンが命を落した場所は旧東海道が国道15号線に合流する地点になります。

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その地点付近から旧東海道を振り返る。左斜め奥に続いている細い道が旧東海道です。
事件発生現場からは5~600m。この辺りでリチャードソンは力尽き、止めを刺されました(介錯?)。

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事件当時の生麦村古写真。
丁度、リチャードソン落馬地点()辺りを写したものと考えられています。
・・・もはや面影は全くないですね…(^_^;)

少し移動して・・・
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京急神奈川駅前、青木橋から見上げる本覚寺
初代駐日公使ハリス自ら、高台にあって横浜や湾内を見通すことのできるこの地を領事館に定め、神奈川領事ドーアを住まわせたと云います。
生麦事件の時には疵を負って逃れて来たマーシャル、クラークらが駆け込み、ここで手当てを受けました。

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領事館が置かれたことにより、山門を始めとする本覚寺の建造物はペンキで塗装されました。現存するのは、こちらの山門のみ。
謂わば、日本史上初のペンキ塗装された建造物となります。

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うっすらと白い塗料が残っているのですが…分かりますか?

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ペンキ繋がりということでしょうか、境内には塗装業の合同慰霊碑がありました…(^_^;)

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旧東海道、神奈川宿
この街道が一直線に坂を上っていく景観、、、

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広重の浮世絵と全く同じですね!
安藤(歌川)広重「東海道五十三次 神奈川・台之景」

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坂を少し登ると見えてくるのが、文久3年創業の料亭「田中家」。
神奈川宿が栄えていた当時から続く唯一のお店で、前出のハリスや、なんと高杉晋作らも訪れたことがあるそうです。
明治7年には坂本龍馬の妻・おりょうも、仲居として働き始めました。その世話をしたのは勝海舟だとか・・・凄い歴史(笑)
田中家には龍馬がおりょうに宛てた恋文も残っているそうです。

ところで、田中家の前身は「さくらや」。
実は、先程の広重の浮世絵にも描かれているのです。

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ほら、ここに♪

しかし、こうして改めて当時の絵を観ていると、(旧)東海道が海岸沿いに通っていたことがよく分かりますね。まさに「海の道」。

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現在も旧東海道のすぐ脇(南側)を見ると、そこがかつて海だったことを物語る名残地形にはっきりと残されていました。


写真の写りがどれもこれも悪いのは、私のスマホのカメラ機能がヘボいからです…お許しを。
こういう咄嗟の史跡巡りにも対応できるよう、鞄に忍ばせておける小さなカメラが欲しいなぁ・・・。

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