廿里古戦場と廿里要害
JR高尾駅の少し北、国道20号を越え、、、

更に「廿里町」交差点を越えた先、、、

小高い台地のようになっている辺りが、、、

廿里古戦場です。
廿里古戦場
永禄十二年(一五六九)、武田信玄は小田原城の北条氏康を攻めるために甲州を出発し、碓氷峠を越えて北関東の北条氏の諸城を次々と攻撃し、滝山城攻撃のため拝島に陣した。一方、信玄の武将甲州岩殿城主小山田信茂は、甲州から小仏峠を越えて攻め込んだ。滝山城主北条氏照の家臣、横地監物・中山勘解由・布施出羽守らは、十月一日にこの付近で迎え撃ったが、一戦にしてもろくも敗れ去った。
この戦いの後、滝山城は三の丸まで攻め込まれ、落城の危機に瀕したが、信玄は途中で小田原城に向かい、落城はまぬがれた。この年の戦いで、氏照は滝山城の弱点と甲州口の重要性を感じ、小仏峠に近い八王子城の築城を計画したと言われている。
平成十七年三月三十一日
八王子市教育委員会
(現地案内板より)
※ちなみに廿里は「とどり」と読みます。
少し古文書をかじったことのある方なら周知のことですが、「廿」=「二十」。つまり十が二つ→「十十里」=「とおとおり」が詰まって「とどり」になったものと思われます。
地図

地図で示すとこのようになります。(■が案内板の位置)
残念ながら古戦場は現在、森林総合研究所や多摩森林科学園の敷地となっており、立ち入ることはできません。
また、古戦場のすぐ西側、小高い山の上には廿里要害と呼ばれる砦の遺構らしきものも残っています。

廿里古戦場から要害跡へ向かう道すがら。
とても素敵な小路でしたので、しばし散策を楽しみます。

廿里要害跡方向を見上げる。

前日の雨で濁ってしまっているのが残念ですが、ちょっとした渓谷といった雰囲気。

そして、こちらの白山神社の裏山が廿里要害跡になります。

白山神社拝殿

拝殿の前から南の方角、眼下に甲州道を押さえる眺め。
対面には初沢城の城山。

拝殿の裏から登って行きます。

途中、気になる小曲輪のような削平地も・・・

白山神社本殿。
ここも要害の曲輪の一つと考えられます。(地図A)

本殿の裏から更に登ります。

馬蹄段状の曲輪跡と思しき、削平地が3~4段ほど連なり、、、

山頂の曲輪へ(地図B)
ここからはアップダウンのある尾根伝いに南東の方角へ進み、、、

ご覧の様な藪を掻き分けた先に、、、

地図Cの曲輪へ。
ここには写真の土塁の様なものや、、、

かなり薄いですが、竪堀も確認出来ました。

Cの曲輪から倒木にも行く手を阻まれながら、北東の方角へ少し進むと、、、

見事な堀切がありました!

堀底から。
こうして見ると、各曲輪のある西側(写真左)の方が高くなっているのが分かります。

東側から見た様子。
廿里要害から西(西北)へ行った先には八王子城があります。明らかに、その方角への侵攻を防ぐ意図が込められた作りかと思います。(自然地形の影響もあるのでしょうが)
ところでこの廿里要害、永禄11年の武田信玄による駿河侵攻→甲相手切れ~越相同盟成立という一連の政治状況の変遷を受け、越後の上杉よりも甲斐武田家への警戒を要するようになった北条方が、小仏峠からの進路を監視する目的で築いたものではないか、との説があるようです。
(この時点での北条氏照の居城・滝山城は、それまでの敵であった越後上杉への警戒から川越道を押さえており、甲斐方面への備えは万全ではなかったと思われる)
廿里古戦場の現地案内板にも、横地らの北条勢が小山田勢を「迎え撃った」とあります。
しかし、伝承される廿里古戦場と廿里要害の位置関係(要害跡よりも古戦場が東=北条側)、及び合戦の帰趨(武田軍の勝利)を鑑みるに、私は廿里合戦に臨んで先にこの要害跡が残る小山を制したのは武田軍(小山田勢)ではなかったかと考えています。
予め砦が築かれていたのであれば当然幾ばくかの兵が常駐していた筈で、そうなると横地や中山らの北条勢が駆け付けて合戦に及ぶ前に、小山田勢による砦攻めがあってもよさそうなものですが、そのような記録を目にしたこともありません。
前出の白山神社にはかつて、享禄3年(1454)、明応7年(1498)、及び天文22年(1553)の都合三度に渡る造営の棟札が存在していたそうです。
つまり廿里合戦時には既に神社が存在しており、その造成(削平地など)を利用して先に到着した小山田勢が本陣を布き、遅れてやってきた横地らの軍勢を逆に迎え撃ったのではないでしょうか。
要害跡の小山が古戦場の西にあることが、それを物語っているように思えてなりません。
信玄本隊に滝山城をも攻撃された北条氏照はこの後、甲斐への備えとして甲州道・案下道を押さえる深沢山に八王子城を築きます。
先程も書きましたが、廿里要害は八王子城から続く山の稜線の南東端に位置します。八王子築城にあたり、甲州道を押さえる出城として、改めて砦としての整備がなされたものだったのではないでしょうか。
要害の堀切はどことなく、八王子城太鼓曲輪の堀切と同じテイストを感じますし(あくまでも私的な印象ですが)、その堀切の警戒方向が西よりもむしろ(甲州とは反対側の)東に向いていますので、少なくともこの堀切が切られたのは、八王子築城に合わせた時期だったと思います。

下山後、白山神社拝殿近くで見かけた石仏。
脇に「元禄十三年」と刻まれていました。西暦だと1700年になりますね。

最後に高尾駅北口付近から振り返って。

更に「廿里町」交差点を越えた先、、、

小高い台地のようになっている辺りが、、、

廿里古戦場です。
廿里古戦場
永禄十二年(一五六九)、武田信玄は小田原城の北条氏康を攻めるために甲州を出発し、碓氷峠を越えて北関東の北条氏の諸城を次々と攻撃し、滝山城攻撃のため拝島に陣した。一方、信玄の武将甲州岩殿城主小山田信茂は、甲州から小仏峠を越えて攻め込んだ。滝山城主北条氏照の家臣、横地監物・中山勘解由・布施出羽守らは、十月一日にこの付近で迎え撃ったが、一戦にしてもろくも敗れ去った。
この戦いの後、滝山城は三の丸まで攻め込まれ、落城の危機に瀕したが、信玄は途中で小田原城に向かい、落城はまぬがれた。この年の戦いで、氏照は滝山城の弱点と甲州口の重要性を感じ、小仏峠に近い八王子城の築城を計画したと言われている。
平成十七年三月三十一日
八王子市教育委員会
(現地案内板より)
※ちなみに廿里は「とどり」と読みます。
少し古文書をかじったことのある方なら周知のことですが、「廿」=「二十」。つまり十が二つ→「十十里」=「とおとおり」が詰まって「とどり」になったものと思われます。
地図

地図で示すとこのようになります。(■が案内板の位置)
残念ながら古戦場は現在、森林総合研究所や多摩森林科学園の敷地となっており、立ち入ることはできません。
また、古戦場のすぐ西側、小高い山の上には廿里要害と呼ばれる砦の遺構らしきものも残っています。

廿里古戦場から要害跡へ向かう道すがら。
とても素敵な小路でしたので、しばし散策を楽しみます。

廿里要害跡方向を見上げる。

前日の雨で濁ってしまっているのが残念ですが、ちょっとした渓谷といった雰囲気。

そして、こちらの白山神社の裏山が廿里要害跡になります。

白山神社拝殿

拝殿の前から南の方角、眼下に甲州道を押さえる眺め。
対面には初沢城の城山。

拝殿の裏から登って行きます。

途中、気になる小曲輪のような削平地も・・・

白山神社本殿。
ここも要害の曲輪の一つと考えられます。(地図A)

本殿の裏から更に登ります。

馬蹄段状の曲輪跡と思しき、削平地が3~4段ほど連なり、、、

山頂の曲輪へ(地図B)
ここからはアップダウンのある尾根伝いに南東の方角へ進み、、、

ご覧の様な藪を掻き分けた先に、、、

地図Cの曲輪へ。
ここには写真の土塁の様なものや、、、

かなり薄いですが、竪堀も確認出来ました。

Cの曲輪から倒木にも行く手を阻まれながら、北東の方角へ少し進むと、、、

見事な堀切がありました!

堀底から。
こうして見ると、各曲輪のある西側(写真左)の方が高くなっているのが分かります。

東側から見た様子。
廿里要害から西(西北)へ行った先には八王子城があります。明らかに、その方角への侵攻を防ぐ意図が込められた作りかと思います。(自然地形の影響もあるのでしょうが)
ところでこの廿里要害、永禄11年の武田信玄による駿河侵攻→甲相手切れ~越相同盟成立という一連の政治状況の変遷を受け、越後の上杉よりも甲斐武田家への警戒を要するようになった北条方が、小仏峠からの進路を監視する目的で築いたものではないか、との説があるようです。
(この時点での北条氏照の居城・滝山城は、それまでの敵であった越後上杉への警戒から川越道を押さえており、甲斐方面への備えは万全ではなかったと思われる)
廿里古戦場の現地案内板にも、横地らの北条勢が小山田勢を「迎え撃った」とあります。
しかし、伝承される廿里古戦場と廿里要害の位置関係(要害跡よりも古戦場が東=北条側)、及び合戦の帰趨(武田軍の勝利)を鑑みるに、私は廿里合戦に臨んで先にこの要害跡が残る小山を制したのは武田軍(小山田勢)ではなかったかと考えています。
予め砦が築かれていたのであれば当然幾ばくかの兵が常駐していた筈で、そうなると横地や中山らの北条勢が駆け付けて合戦に及ぶ前に、小山田勢による砦攻めがあってもよさそうなものですが、そのような記録を目にしたこともありません。
前出の白山神社にはかつて、享禄3年(1454)、明応7年(1498)、及び天文22年(1553)の都合三度に渡る造営の棟札が存在していたそうです。
つまり廿里合戦時には既に神社が存在しており、その造成(削平地など)を利用して先に到着した小山田勢が本陣を布き、遅れてやってきた横地らの軍勢を逆に迎え撃ったのではないでしょうか。
要害跡の小山が古戦場の西にあることが、それを物語っているように思えてなりません。
信玄本隊に滝山城をも攻撃された北条氏照はこの後、甲斐への備えとして甲州道・案下道を押さえる深沢山に八王子城を築きます。
先程も書きましたが、廿里要害は八王子城から続く山の稜線の南東端に位置します。八王子築城にあたり、甲州道を押さえる出城として、改めて砦としての整備がなされたものだったのではないでしょうか。
要害の堀切はどことなく、八王子城太鼓曲輪の堀切と同じテイストを感じますし(あくまでも私的な印象ですが)、その堀切の警戒方向が西よりもむしろ(甲州とは反対側の)東に向いていますので、少なくともこの堀切が切られたのは、八王子築城に合わせた時期だったと思います。

下山後、白山神社拝殿近くで見かけた石仏。
脇に「元禄十三年」と刻まれていました。西暦だと1700年になりますね。

最後に高尾駅北口付近から振り返って。
| 固定リンク
「お城、史跡巡り 関東」カテゴリの記事
- 間宮林蔵の生家(2022.12.21)
- 守谷城(2022.12.20)
- 仙波東照宮の特別公開(2022.11.17)
- アキシマクジラ出土地と多摩川の牛群地形(2022.10.30)
- 旧黒須銀行の特別公開(2022.03.06)
コメント