甲州道中 小仏峠越え(高尾→相模湖)
新選組の面々が甲陽鎮撫隊として、甲府へ向かうために進軍した甲州道中(旧甲州街道)。その難所でもある小仏峠越えのルートを歩いてみたい!と願い続けて早数年。
しばらくは遠征の予定もなくスケジュールが空いていたので、この機会にようやく実行に移しました。
2015年3月14日の午前10時前、ご同行頂くことになったサイガさんとJR高尾駅で待ち合わせ、高尾駅北口の目の前を通る甲州道中、国道20号線から街道歩きをスタートします。
高尾駅前を出発してすぐの国道20号線。標識は東京日本橋から51km地点を示しています。
高尾駅前から500mほど西へ進むと両界橋が架かり、その袂には街道を往く旅人を見守るかのように石仏が置かれていました。
両界橋の上から。
左はJR中央本線の橋脚です。煉瓦造りの重厚感が、なんだか歴史を感じさせますね。
「西浅川」交差点で甲州道中は国道を離れ、右へ逸れていきます。
旧道沿いで見かけた「高尾駒木野庭園」
写真の建物は大正年間~昭和初期の建築で、すぐ近くに建つ駒木野病院の前身「小林病院」の住居兼医院として使用されていたものだそうです。
「西浅川」交差点から先は、しばらく真っ直ぐな登り坂が続きます。
ここでもお地蔵さんたちのお見送りを受けます。
そして、坂を登り切った辺りが小仏関跡になります。
戦国期には小仏峠に関所が設けられていて「富士見関」とも呼ばれていたそうですが、江戸期になると甲州道中の関所として駒木野の当地に移されました。
小仏関跡のすぐ脇には、駒木野橋の石碑があります。
現在では舗装路として埋め立てられ、橋の痕跡は残っていませんが、、、
当時の絵図で確認すると、確かに関所の東側に橋が架けられている様子が描かれています。
駒木野橋を渡って関所の中を通過して抜けていくのが、甲州道中。
こちらは八王子千人同心組頭・塩野適斎らによって記された「桑都日記」掲載のもの。
関所に付随するように駒木野宿が設置されたため、駒木野関所とも呼ばれていたようです。
橋はなくとも、川の名残は今でも残っていました。
駒木野宿の碑
宿跡には、ちょっと気になる古民家も…。
本陣建築特有の、籠をつけられる玄関に作りが似ていませんか?
駒木野宿の西端から先は、甲州道中念珠坂。
道端には石碑と共にお地蔵さんも。
季節柄、街道沿いのそこかしこで梅が満開に咲き誇っていました。
天候にも恵まれた土曜日、梅林目当ての観光客の姿も多く、周辺は大変賑わっていました。
穏やかな陽気に、我々の歩みも弾みます。
街道脇には用水路や、、、
※奥に見えるのは圏央道の高架
地下水?を汲み上げた水場もありました。
「蛇滝口」バス停付近から一旦甲州道中を離れ、右手の小路に入っていきました。
そこにあるのは、、、
猪の鼻トンネル列車銃撃事件の供養塔と慰霊碑です。
終戦間近の昭和20年8月5日、八王子空襲(8/2)で不通になっていた中央本線が3日ぶりに再開し、浅川駅(現高尾駅)発→長野行の列車が猪の鼻トンネルに差し掛かった時、突如として米軍機P51が飛来。列車に機銃掃射を浴びせ、判っているだけでも52名が死亡、100名以上の負傷者が出るという惨劇になりました。
この供養塔は事件から5年後の1950年、地元の青年団によって建てられました。
猪の鼻(湯の花)トンネル
これ以上近付けないので視認できませんが、今でも米軍機による銃撃の痕が残っているそうです。
そして、高尾駅(浅川駅)も列車銃撃事件に先立つこと約1ヶ月の昭和20年7月8日、やはり米軍機による機銃掃射を受けています。
JR高尾駅に現在も残る機銃掃射の弾痕。
※1・2番ホーム31番支柱
こちらも・・・。
当時の“まま”を残すため、あえて塗装をせずに保存されています。
※同33番支柱
大和田橋の焼夷弾痕もそうですが、こうした地元に残る戦争の記憶もしっかり受け継いでいかなくてはなりませんね。
しばらくは遠征の予定もなくスケジュールが空いていたので、この機会にようやく実行に移しました。
2015年3月14日の午前10時前、ご同行頂くことになったサイガさんとJR高尾駅で待ち合わせ、高尾駅北口の目の前を通る甲州道中、国道20号線から街道歩きをスタートします。
高尾駅前を出発してすぐの国道20号線。標識は東京日本橋から51km地点を示しています。
高尾駅前から500mほど西へ進むと両界橋が架かり、その袂には街道を往く旅人を見守るかのように石仏が置かれていました。
両界橋の上から。
左はJR中央本線の橋脚です。煉瓦造りの重厚感が、なんだか歴史を感じさせますね。
「西浅川」交差点で甲州道中は国道を離れ、右へ逸れていきます。
旧道沿いで見かけた「高尾駒木野庭園」
写真の建物は大正年間~昭和初期の建築で、すぐ近くに建つ駒木野病院の前身「小林病院」の住居兼医院として使用されていたものだそうです。
「西浅川」交差点から先は、しばらく真っ直ぐな登り坂が続きます。
ここでもお地蔵さんたちのお見送りを受けます。
そして、坂を登り切った辺りが小仏関跡になります。
戦国期には小仏峠に関所が設けられていて「富士見関」とも呼ばれていたそうですが、江戸期になると甲州道中の関所として駒木野の当地に移されました。
小仏関跡のすぐ脇には、駒木野橋の石碑があります。
現在では舗装路として埋め立てられ、橋の痕跡は残っていませんが、、、
当時の絵図で確認すると、確かに関所の東側に橋が架けられている様子が描かれています。
駒木野橋を渡って関所の中を通過して抜けていくのが、甲州道中。
こちらは八王子千人同心組頭・塩野適斎らによって記された「桑都日記」掲載のもの。
関所に付随するように駒木野宿が設置されたため、駒木野関所とも呼ばれていたようです。
橋はなくとも、川の名残は今でも残っていました。
駒木野宿の碑
宿跡には、ちょっと気になる古民家も…。
本陣建築特有の、籠をつけられる玄関に作りが似ていませんか?
駒木野宿の西端から先は、甲州道中念珠坂。
道端には石碑と共にお地蔵さんも。
季節柄、街道沿いのそこかしこで梅が満開に咲き誇っていました。
天候にも恵まれた土曜日、梅林目当ての観光客の姿も多く、周辺は大変賑わっていました。
穏やかな陽気に、我々の歩みも弾みます。
街道脇には用水路や、、、
※奥に見えるのは圏央道の高架
地下水?を汲み上げた水場もありました。
「蛇滝口」バス停付近から一旦甲州道中を離れ、右手の小路に入っていきました。
そこにあるのは、、、
猪の鼻トンネル列車銃撃事件の供養塔と慰霊碑です。
終戦間近の昭和20年8月5日、八王子空襲(8/2)で不通になっていた中央本線が3日ぶりに再開し、浅川駅(現高尾駅)発→長野行の列車が猪の鼻トンネルに差し掛かった時、突如として米軍機P51が飛来。列車に機銃掃射を浴びせ、判っているだけでも52名が死亡、100名以上の負傷者が出るという惨劇になりました。
この供養塔は事件から5年後の1950年、地元の青年団によって建てられました。
猪の鼻(湯の花)トンネル
これ以上近付けないので視認できませんが、今でも米軍機による銃撃の痕が残っているそうです。
そして、高尾駅(浅川駅)も列車銃撃事件に先立つこと約1ヶ月の昭和20年7月8日、やはり米軍機による機銃掃射を受けています。
JR高尾駅に現在も残る機銃掃射の弾痕。
※1・2番ホーム31番支柱
こちらも・・・。
当時の“まま”を残すため、あえて塗装をせずに保存されています。
※同33番支柱
大和田橋の焼夷弾痕もそうですが、こうした地元に残る戦争の記憶もしっかり受け継いでいかなくてはなりませんね。
さて、甲州道中歩きに戻ります。「高尾山道」の道標。
長閑な景色…この辺りは高尾山(左)と八王子城の城山(右)に挟まれた位置になります。
並行して中央自動車道も走ります。
浅川国際マス釣場を過ぎると、、、
「日影」バス停があり、その近くに木下沢(こげさわ)橋という橋が架かっています。
線路の下、煉瓦のトンネルを潜るようにして木下沢川が流れています。
その木下沢橋の目の前に、半島状に突き出した小高い地形が確認できます。
※こうした地形をよく「猪の鼻」と形容します。前出の「猪の鼻トンネル」然り。
道は南側へ迂回するように通っていますが、まるで甲州道中の行く手を遮るかのようです。
実はここに、木下沢要害と呼ばれる砦の遺構が残っているという情報を事前に仕込んでいましたので、ちょっと調べてみることにしました。
木下沢要害の主郭と比定される削平地。奥は櫓台跡か?
そして特に素晴らしかったのが・・・
この堀跡!
細長い曲輪をザックリと分断し・・・
曲輪の西側まで回されています。
この木下沢要害、築かれた時期など詳細は不明ですが、八王子城の西南麓に位置しており、小仏峠からのルートを押さえる八王子城の出城の一つだったのではないでしょうか。
同行頂いたサイガさん曰く、その構造からも小規模ながら北条系の城郭と思われる、とのことでした。確かに西側の、土塁を掻き上げて堀を築造する手法などは、北条のお城によく見受けられるものですよね。
また、江戸時代には甲州道中を引き込んで監視する番所が置かれていたのではないか、とも考えられているようです。
それを裏付けるかのように、馬頭観世音の石碑も。
つまり・・・
本来の甲州道中は、奥に見えている舗装路からここまで引き込まれ、、、
堀底道を回り込み、、、
更に進んで、、、
木下沢要害跡(番所)を抜け、再び舗装路に戻るルートが採られていたのかもしれません。
主郭の一段下にも曲輪跡らしき削平地があり、小規模ながらもなかなか見応えのある遺構でしたよ、木下沢要害。
※近日、サイガさん作成の縄張図を掲載させていただきます。
さて、道はまだまだ続きます。またもや立派な煉瓦造りのトンネル。
いよいよ甲州道中の行く手に、山が大きく迫ってくるようになりました。
路線バスの終点「小仏」バス停を過ぎて寶珠寺の前を通り、、、
小仏峠が近付くにつれ、甲州道中は徐々に登り勾配になっていきます。
滑り止めのためでしょうか…?青色の資材が埋め込まれた路面。
急勾配をグネグネと、つづら折りに登っていく甲州道中。
よく見ると、本来の峠道かもしれない痕跡がありました。
上の道から見下ろしてみる…それにしても凄い急勾配。
こんな所を甲陽鎮撫隊は、大砲や荷駄を運びながら登って行ったのか・・・
さぁ舗装路も終わり、いよいよ本格的な峠越えに差し掛かります。
10分ほど砂利敷きの緩やかな林道を登ると、、、
中腹からは勾配が一段ときつくなり、道幅もグッと狭まります。
つづら折れの小仏峠越え。
おや?…道が二股に分かれている。
一般的には右の道を使うようですが、明らかに左の直登道の方が古く、こちらが本来の甲州道中ではないかと判断しましたので、我々は迷わず左へ。
すぐ先で合流するのですが、、、
すぐにまた二股。ここもやはり直登になる右へ。
またもや…ここも当然、右(笑)
岩盤が顔を出し、まるで石畳を敷き詰めたような峠道。
そんなこんなで、舗装路の終点からは30分ほど登りましたかね・・・
遂に小仏峠の頂上に到達です!
峠からの雄大な眺め…よく登ったなぁ(笑)
標高はおよそ560m。
ここでも石仏やお地蔵さんが、旅人を出迎えてくれます。
甲陽鎮撫隊の往来も見守っていたのでしょうか…?
今は廃墟と化した峠の茶屋。
明治天皇小佛峠御小休所址及御野立所碑
左は三条実美が高尾山薬王院を訪れた際に詠んだと云う歌の歌碑
甲州道中歩き、高尾駅前を出発して小仏峠の頂上に至るまでに要した時間、およそ3時間弱。
ここで昼休憩を挟み、後半は相模湖方面へ下っていきます。
小仏峠頂上にあった、甲州道中の案内図。
右上の「駒木野宿」の更に先にある高尾駅を出発し、左下の「与瀬本陣跡」を目指しますので、甲州道中を示す赤いラインがほぼ我々の全行程にあたります。
下りとはいえ、距離は後半の方が長い!まだまだ頑張らねば。
※こちらの案内図では、小仏関跡を小仏峠頂上と案内していますね。
それでは後半の下り、スタートです。
下り始めるとすぐ、切通しの様な深い堀底道が現われます。
幾重にもつづら折りに続き、、、
とにかく圧巻の土木量です。
途中、本来の古道と思しき道が何故だか閉鎖されている箇所もありましたが、、、
少し迂回すると、すぐにまた合流できます。
つづら折れの堀底道は延々と続く・・・
感動を通り越し、もはや呆れるしかないほどに。
これは何かある!と睨んだサイガさんが、切通した斜面の上に登ってみると・・・
そこから下方は、直登出来てしまいそうな尾根の稜線が続いていました。
墓石?が並ぶ辺りは平坦になっていて、うっすらと虎口の痕跡らしき窪みもあります。
それらから察するに、この堀底道は敵の侵攻に備える堀切の役割も負っていたのではないでしょうか…。
つづら折れにすることで旅人の往来を助けると共に、大軍の直登を防ぐための幾重にも重ねられた堀切として・・・
こうして見ると堀切以外の何物でもないですよね。
サイガさんはこれらを「阻塞地帯」と呼んでいました。
しばらく下ると鉄塔の足元に出ます。(この鉄塔を覚えておいてください)
ここまで来ると峠越えも終盤。
あと少しつづら折れの山道を下ると、、、
舗装された道路に出ます。底沢と呼ばれる地区です。
舗装路に出たら、甲州道中はすぐに折り返します。
写真右には「甲州古道 底沢」の標識。
中央本線と中央自動車道を一枚に収める眺め。
ここで一旦、中央自動車道の高架下を潜ります。
「甲州古道 美女谷」の標識に行き当たったら左へ。
舗装路とはいえ、ここも古道の雰囲気たっぷりですね。
再び中央自動車道の高架下を潜ってすぐ、「甲州道中 板橋」の標識や馬頭観世音碑が並ぶ辺りで甲州道中は本来、中央自動車道を越えて北側の山へ入り込んでいました。
しかし現在は通行できませんので、そのまま道なりに舗装路を進みます。
「甲州道中 板橋」の標識前から振り返った様子。右上に見える鉄塔が、先程その脇を通り抜けてきたものです。
あの峠を越えて来たのかと思うと…感慨も一入。
しばらく中央本線の線路脇を行くと、、、
「小原宿一里塚下」の標識に行き当たります。
甲州道中は右手奥の山の中にありましたので、一里塚も当然山の中=我々の居る場所は一里塚の下・・・なるほど(笑)
道なりに線路下を潜ったら右へ。
…それにしても中央本線の基台には煉瓦造りが多い。
あのトンネルの手前なんか凄いですよね♪
更に進むと、「西浅川」交差点で分かれて以来の国道20号線に再合流します。
もうすぐ小原宿です。
小原地区の歴史などを紹介する博物館を兼ねた交流施設「小原の郷」付近。
ここで、「甲州道中 板橋」標識地点で分かれていた本来の甲州道中と再合流を果たします。
「小原の郷」前からの眺め。
峠を越えたとはいえ、凄い山間部(笑)
そして、ようやく小原宿に到着です。
小原宿本陣
日野宿本陣や山梨県大月市の花咲宿本陣と共に、甲州道中の宿場本陣としては三つしかない現存建物の一つです。
小原宿の本陣は清水家が代々勤めてきましたが、現在は相模原市が運営管理しており、見学も無料です。
上段の間
…「上段」がないけど。何かの冗談?←オイww
中二階へと上がる階段(※上れません)
右下の電話機もイイネ!
二階には様々な民具が展示されています。
中二階から荷物を引き上げるための滑車もありました。
軽く見学を終えた後は街道歩きを再開です。
小原宿の町並み。
小原宿の先で、甲州道中は再び国道を離れます。
ここは左へ下りて下の広場を通過し・・・
広場の先の路地を右へ上がっていきます。
すぐにまた国道とぶつかりますが、今度はその国道を斜めに横切り、真っ直ぐあの先へと坂を登って進みます。
てくてくてく・・・
谷間をぐる~っと迂回・・・
道中を見守る祠とお地蔵さん。
ここ(右上)にもズラリと・・・
この辺りまで来るともう、相模湖駅が見えてきます。
ゴールの与瀬宿があった町並み。
ここは右手前方向に折り返し、階段を下りていきます。
この階段から先の下り坂は、甲州道中の「えんどう坂」というそうです。
階段を下ってえんどう坂を道なりに進み、、、
国道20号と合流する地点に「甲州道中 与瀬宿」の標識が立っています。
そのまま国道沿いに西へ進み、相模湖駅前も通過します。
標識が示す日本橋からの距離は65km。スタートしてすぐの高尾駅近くでは51kmでしたので、その距離14km。
無論これは大垂水峠を越えて来る国道20号線の標識なので、我々が越えてきた小仏峠のルートとは別で距離は一致しませんが、その距離感は推して測れるかと思います。
この写真のポイントで、甲州道中は右斜め方向へ折れます。
その角に・・・
与瀬宿本陣跡があります。本日のゴール地点!!
高尾駅前を出発してからの所要:約5時間45分…よく歩きました。
最初にも書きましたが今回、甲州道中の小仏峠越えルートを歩こうと思った一番の動機は、新選組改め甲陽鎮撫隊となった近藤や土方らが通ったであろう道を、自分の足でなぞりたいと思ったことなのですが、その行程について日野宿本陣の佐藤彦五郎(土方歳三の義兄。新選組の支援者でもある)は、その日記に;
(慶応四年三月)朔日、天気、
一甲陽鎮撫として大久保剛・内藤隼人外、鎮撫隊として百人程引連江戸出立、府中宿泊りニ付、(以下略)
二日、天気、
一 右大久保・内藤、当宿(日野)通行、彦五郎方へ休、八王子宿昼飯、与瀬宿泊り、(以下略)
※大久保剛=近藤勇、内藤隼人=土方歳三
※( )内は管理人注記
と綴っています。
つまり甲陽鎮撫隊の面々もここ、与瀬宿で一泊しているのです。
そして更に驚きなのが、前日に宿泊した府中宿から与瀬宿までの間を途中、日野で歓待を受け、八王子で昼食を摂りながらも一日で歩き通しているのです。難所の峠越えを含むその距離、およそ32~33km!
今回、我々は高尾駅からスタートしましたので、府中~高尾間の分(20km弱?)だけ彼らの方が多く一日で移動したことになります。大砲や荷駄、それに近藤さんの乗る籠まで運びながら…(笑)
長閑な景色…この辺りは高尾山(左)と八王子城の城山(右)に挟まれた位置になります。
並行して中央自動車道も走ります。
浅川国際マス釣場を過ぎると、、、
「日影」バス停があり、その近くに木下沢(こげさわ)橋という橋が架かっています。
線路の下、煉瓦のトンネルを潜るようにして木下沢川が流れています。
その木下沢橋の目の前に、半島状に突き出した小高い地形が確認できます。
※こうした地形をよく「猪の鼻」と形容します。前出の「猪の鼻トンネル」然り。
道は南側へ迂回するように通っていますが、まるで甲州道中の行く手を遮るかのようです。
実はここに、木下沢要害と呼ばれる砦の遺構が残っているという情報を事前に仕込んでいましたので、ちょっと調べてみることにしました。
木下沢要害の主郭と比定される削平地。奥は櫓台跡か?
そして特に素晴らしかったのが・・・
この堀跡!
細長い曲輪をザックリと分断し・・・
曲輪の西側まで回されています。
この木下沢要害、築かれた時期など詳細は不明ですが、八王子城の西南麓に位置しており、小仏峠からのルートを押さえる八王子城の出城の一つだったのではないでしょうか。
同行頂いたサイガさん曰く、その構造からも小規模ながら北条系の城郭と思われる、とのことでした。確かに西側の、土塁を掻き上げて堀を築造する手法などは、北条のお城によく見受けられるものですよね。
また、江戸時代には甲州道中を引き込んで監視する番所が置かれていたのではないか、とも考えられているようです。
それを裏付けるかのように、馬頭観世音の石碑も。
つまり・・・
本来の甲州道中は、奥に見えている舗装路からここまで引き込まれ、、、
堀底道を回り込み、、、
更に進んで、、、
木下沢要害跡(番所)を抜け、再び舗装路に戻るルートが採られていたのかもしれません。
主郭の一段下にも曲輪跡らしき削平地があり、小規模ながらもなかなか見応えのある遺構でしたよ、木下沢要害。
※近日、サイガさん作成の縄張図を掲載させていただきます。
さて、道はまだまだ続きます。またもや立派な煉瓦造りのトンネル。
いよいよ甲州道中の行く手に、山が大きく迫ってくるようになりました。
路線バスの終点「小仏」バス停を過ぎて寶珠寺の前を通り、、、
小仏峠が近付くにつれ、甲州道中は徐々に登り勾配になっていきます。
滑り止めのためでしょうか…?青色の資材が埋め込まれた路面。
急勾配をグネグネと、つづら折りに登っていく甲州道中。
よく見ると、本来の峠道かもしれない痕跡がありました。
上の道から見下ろしてみる…それにしても凄い急勾配。
こんな所を甲陽鎮撫隊は、大砲や荷駄を運びながら登って行ったのか・・・
さぁ舗装路も終わり、いよいよ本格的な峠越えに差し掛かります。
10分ほど砂利敷きの緩やかな林道を登ると、、、
中腹からは勾配が一段ときつくなり、道幅もグッと狭まります。
つづら折れの小仏峠越え。
おや?…道が二股に分かれている。
一般的には右の道を使うようですが、明らかに左の直登道の方が古く、こちらが本来の甲州道中ではないかと判断しましたので、我々は迷わず左へ。
すぐ先で合流するのですが、、、
すぐにまた二股。ここもやはり直登になる右へ。
またもや…ここも当然、右(笑)
岩盤が顔を出し、まるで石畳を敷き詰めたような峠道。
そんなこんなで、舗装路の終点からは30分ほど登りましたかね・・・
遂に小仏峠の頂上に到達です!
峠からの雄大な眺め…よく登ったなぁ(笑)
標高はおよそ560m。
ここでも石仏やお地蔵さんが、旅人を出迎えてくれます。
甲陽鎮撫隊の往来も見守っていたのでしょうか…?
今は廃墟と化した峠の茶屋。
明治天皇小佛峠御小休所址及御野立所碑
左は三条実美が高尾山薬王院を訪れた際に詠んだと云う歌の歌碑
甲州道中歩き、高尾駅前を出発して小仏峠の頂上に至るまでに要した時間、およそ3時間弱。
ここで昼休憩を挟み、後半は相模湖方面へ下っていきます。
小仏峠頂上にあった、甲州道中の案内図。
右上の「駒木野宿」の更に先にある高尾駅を出発し、左下の「与瀬本陣跡」を目指しますので、甲州道中を示す赤いラインがほぼ我々の全行程にあたります。
下りとはいえ、距離は後半の方が長い!まだまだ頑張らねば。
※こちらの案内図では、小仏関跡を小仏峠頂上と案内していますね。
それでは後半の下り、スタートです。
下り始めるとすぐ、切通しの様な深い堀底道が現われます。
幾重にもつづら折りに続き、、、
とにかく圧巻の土木量です。
途中、本来の古道と思しき道が何故だか閉鎖されている箇所もありましたが、、、
少し迂回すると、すぐにまた合流できます。
つづら折れの堀底道は延々と続く・・・
感動を通り越し、もはや呆れるしかないほどに。
これは何かある!と睨んだサイガさんが、切通した斜面の上に登ってみると・・・
そこから下方は、直登出来てしまいそうな尾根の稜線が続いていました。
墓石?が並ぶ辺りは平坦になっていて、うっすらと虎口の痕跡らしき窪みもあります。
それらから察するに、この堀底道は敵の侵攻に備える堀切の役割も負っていたのではないでしょうか…。
つづら折れにすることで旅人の往来を助けると共に、大軍の直登を防ぐための幾重にも重ねられた堀切として・・・
こうして見ると堀切以外の何物でもないですよね。
サイガさんはこれらを「阻塞地帯」と呼んでいました。
しばらく下ると鉄塔の足元に出ます。(この鉄塔を覚えておいてください)
ここまで来ると峠越えも終盤。
あと少しつづら折れの山道を下ると、、、
舗装された道路に出ます。底沢と呼ばれる地区です。
舗装路に出たら、甲州道中はすぐに折り返します。
写真右には「甲州古道 底沢」の標識。
中央本線と中央自動車道を一枚に収める眺め。
ここで一旦、中央自動車道の高架下を潜ります。
「甲州古道 美女谷」の標識に行き当たったら左へ。
舗装路とはいえ、ここも古道の雰囲気たっぷりですね。
再び中央自動車道の高架下を潜ってすぐ、「甲州道中 板橋」の標識や馬頭観世音碑が並ぶ辺りで甲州道中は本来、中央自動車道を越えて北側の山へ入り込んでいました。
しかし現在は通行できませんので、そのまま道なりに舗装路を進みます。
「甲州道中 板橋」の標識前から振り返った様子。右上に見える鉄塔が、先程その脇を通り抜けてきたものです。
あの峠を越えて来たのかと思うと…感慨も一入。
しばらく中央本線の線路脇を行くと、、、
「小原宿一里塚下」の標識に行き当たります。
甲州道中は右手奥の山の中にありましたので、一里塚も当然山の中=我々の居る場所は一里塚の下・・・なるほど(笑)
道なりに線路下を潜ったら右へ。
…それにしても中央本線の基台には煉瓦造りが多い。
あのトンネルの手前なんか凄いですよね♪
更に進むと、「西浅川」交差点で分かれて以来の国道20号線に再合流します。
もうすぐ小原宿です。
小原地区の歴史などを紹介する博物館を兼ねた交流施設「小原の郷」付近。
ここで、「甲州道中 板橋」標識地点で分かれていた本来の甲州道中と再合流を果たします。
「小原の郷」前からの眺め。
峠を越えたとはいえ、凄い山間部(笑)
そして、ようやく小原宿に到着です。
小原宿本陣
日野宿本陣や山梨県大月市の花咲宿本陣と共に、甲州道中の宿場本陣としては三つしかない現存建物の一つです。
小原宿の本陣は清水家が代々勤めてきましたが、現在は相模原市が運営管理しており、見学も無料です。
上段の間
…「上段」がないけど。何かの冗談?←オイww
中二階へと上がる階段(※上れません)
右下の電話機もイイネ!
二階には様々な民具が展示されています。
中二階から荷物を引き上げるための滑車もありました。
軽く見学を終えた後は街道歩きを再開です。
小原宿の町並み。
小原宿の先で、甲州道中は再び国道を離れます。
ここは左へ下りて下の広場を通過し・・・
広場の先の路地を右へ上がっていきます。
すぐにまた国道とぶつかりますが、今度はその国道を斜めに横切り、真っ直ぐあの先へと坂を登って進みます。
てくてくてく・・・
谷間をぐる~っと迂回・・・
道中を見守る祠とお地蔵さん。
ここ(右上)にもズラリと・・・
この辺りまで来るともう、相模湖駅が見えてきます。
ゴールの与瀬宿があった町並み。
ここは右手前方向に折り返し、階段を下りていきます。
この階段から先の下り坂は、甲州道中の「えんどう坂」というそうです。
階段を下ってえんどう坂を道なりに進み、、、
国道20号と合流する地点に「甲州道中 与瀬宿」の標識が立っています。
そのまま国道沿いに西へ進み、相模湖駅前も通過します。
標識が示す日本橋からの距離は65km。スタートしてすぐの高尾駅近くでは51kmでしたので、その距離14km。
無論これは大垂水峠を越えて来る国道20号線の標識なので、我々が越えてきた小仏峠のルートとは別で距離は一致しませんが、その距離感は推して測れるかと思います。
この写真のポイントで、甲州道中は右斜め方向へ折れます。
その角に・・・
与瀬宿本陣跡があります。本日のゴール地点!!
高尾駅前を出発してからの所要:約5時間45分…よく歩きました。
最初にも書きましたが今回、甲州道中の小仏峠越えルートを歩こうと思った一番の動機は、新選組改め甲陽鎮撫隊となった近藤や土方らが通ったであろう道を、自分の足でなぞりたいと思ったことなのですが、その行程について日野宿本陣の佐藤彦五郎(土方歳三の義兄。新選組の支援者でもある)は、その日記に;
(慶応四年三月)朔日、天気、
一甲陽鎮撫として大久保剛・内藤隼人外、鎮撫隊として百人程引連江戸出立、府中宿泊りニ付、(以下略)
二日、天気、
一 右大久保・内藤、当宿(日野)通行、彦五郎方へ休、八王子宿昼飯、与瀬宿泊り、(以下略)
※大久保剛=近藤勇、内藤隼人=土方歳三
※( )内は管理人注記
と綴っています。
つまり甲陽鎮撫隊の面々もここ、与瀬宿で一泊しているのです。
そして更に驚きなのが、前日に宿泊した府中宿から与瀬宿までの間を途中、日野で歓待を受け、八王子で昼食を摂りながらも一日で歩き通しているのです。難所の峠越えを含むその距離、およそ32~33km!
今回、我々は高尾駅からスタートしましたので、府中~高尾間の分(20km弱?)だけ彼らの方が多く一日で移動したことになります。大砲や荷駄、それに近藤さんの乗る籠まで運びながら…(笑)
よく俗説で「近藤らは凱旋パレードよろしく、各地で歓待を受けながらのんびりと行軍したから、新政府軍に先を越された」みたいなことを言われますが、実際に歩いてみると「そんなはずはない!」と断言できます。むしろ結構な強行スケジュール…(^_^;)
こればかりは時勢というより外ないのでしょうね。
なにはともあれ、無事に予定していた全行程を歩き切りました!
(帰路、歩行もままならない程に足を痛めていることが判明したので、無事とは言い切れないかもしれませんが…)
甲州道中はこの先も続きますが、それはまたいずれ、別の機会に・・・。
帰りは相模湖駅から引き返し、あっさりと小仏峠を越えちゃいました…トンネル(電車)でww
とても長い記事になってしまいましたが、それだけ今回の踏査が充実していた証。文句なしにお薦めです!
◆関連記事
→日野の甲州道中
→大和田の渡し(…と八王子祭り)
→壺伊勢屋・甲州道中・多賀神社
→八王子千人同心-石坂弥次右衛門
(記事内、案下道との追分の道標)
→甲州道中(高尾→西八王子間)
こればかりは時勢というより外ないのでしょうね。
なにはともあれ、無事に予定していた全行程を歩き切りました!
(帰路、歩行もままならない程に足を痛めていることが判明したので、無事とは言い切れないかもしれませんが…)
甲州道中はこの先も続きますが、それはまたいずれ、別の機会に・・・。
帰りは相模湖駅から引き返し、あっさりと小仏峠を越えちゃいました…トンネル(電車)でww
とても長い記事になってしまいましたが、それだけ今回の踏査が充実していた証。文句なしにお薦めです!
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