宇都宮城攻防戦めぐり (幕末戊辰戦争)
慶応4年(1868)4月12日、市川国府台に集結した旧幕府脱走陸軍(以後:旧幕府軍)は全軍を3隊に分け、宇都宮を目指して北上を開始します。
秋月登之助、土方歳三らが率いる先鋒(別働隊)約1,000(伝習第一大隊・桑名藩兵・回天隊・新選組など)は、下妻、下館を経て18日には宇都宮を目前にして真岡に至り、鬼怒川を越えて蓼沼村(現・上三川町東蓼沼)の満福寺に宿陣します。
その満福寺
満福寺境内
手前に写っている立派な大銀杏、案内板には樹齢350年とありましたが正確なところは分からないのだそうです。
ご住職に伺ったところによると3人の専門家が鑑定したそうですが、それぞれ樹齢300年代・400年代・500年代と見事に見解が分かれたのだとか…(;・∀・)
・・・そう、私が境内に佇み「およそ150年前には歳さんらもここにいたんだな~」などと感慨に耽っていたら、ご住職が
「ちょっとあがっていきませんか?」
とお声を掛けてくださったのです。
で、さっそく本堂へ・・・
ご住職は「なかなか新選組さんが来たことを示す資料が残っていないんだけど…」としきりに恐縮されていましたが、それでも貴重なお話を長時間かけてじっくりと、たくさんお聞かせいただきました。
こちらの本堂、なんと築450年ほどにもなるそうです。ということは…土方らが宿陣した当時のまま、ということ!
その割には柱など新しく見えますよね?ところがこれ、古い柱を保護する為に新しい木材(板材)で覆っているだけなのだそうです。中には今も、真っ黒に煤けたケヤキの柱が通っているのです。
また、欄干の彫刻は以前、埃汚れがひどくなったので業者に清掃を依頼したところ、エアブラシをかけた途端に表面が剥がれ落ちてしまったので慌てて中止したのだとか…相当に年季が入っていることは間違いありません。
御本尊脇の8畳間。つい最近までは手前側にも襖が立てられており、小部屋のように仕切られていたそうです。
何も記録が残っていないので、土方ら幹部が寝泊まりに使った部屋(場所)が具体的にどこなのかは分かっていません。
しかし、襖で仕切られていたこと、更にこの奥は当時の住職が使っていた部屋に繋がっていたことなどから、「或いはこの辺りだったんじゃないかなぁ~と」(ご住職談)
私も「きっとそうだったのかもしれない」と思って拝観させていただきました♪
また当時、本堂裏手には杉の大木があり、侍たちが登って宇都宮の方角を窺っていた、なんて逸話も残っているそうです。
まさか本堂内部を見学させていただけるとは思いもしなかったので、望外の僥倖に感激しきりです。
ご住職が集められた満福寺と新選組(土方歳三)に関する新聞記事の切り抜きや、資料もたくさんいただきました。
4月19日、捕えた黒羽藩士3名を大門(山門)前で血祭りに上げた旧幕府軍別働隊は、いよいよ宇都宮城攻略に向けて満福寺を出陣します。
山門に彫られた菊の御紋。満福寺の格式を物語っています。
門前を通る路地
当然のことながら1,000人もの将兵を満福寺だけで収容できるはずもなく、これら門前の民家にも分宿していたのでしょう。
昭和の頃まで、この辺りの民家ではそれぞれに1品ずつ取り扱う商いをして互いの生活を支え合っており、ちょっとした商店街のような賑わいがあったそうです…。
この路地を東へ2~300mほど行くと、土方ら旧幕府軍別働隊が渡河してきた鬼怒川に出ます。きっと彼らもここを通って満福寺に現れたのでしょうね。
■第1次宇都宮城攻防戦
宇都宮城の古絵図
現在の地図に当てはめると、このようになります。
進軍途上、砂田村・簗瀬村などで新政府軍を撃破した旧幕府軍は、南東側から宇都宮城攻略に取り掛かります。
この時、逃げる新政府軍は城の東を流れる田川に架かる諸橋を落とさなかったため、旧幕府軍は難なく田川を越え、一気に城下へと迫りました。
田川に架かる簗瀬橋
旧幕府軍は数隊に分かれて進軍しましたが、土方が率いる一隊(桑名藩兵、新選組か)はこの簗瀬橋を渡って宇都宮城に迫ったと考えられています。
田川を越えた旧幕府軍は下河原・中河原・今小路の各城門へ攻め掛かりました。
土方の率いる一隊が攻撃したと思われる、下河原門跡。
あの先の突当りで、、、
枡形の名残を示すように右に折れています。
それぞれ激戦となり、今小路門を攻めた回天隊長の相馬左金吾はこの時の戦いで戦死しているほどですが、ここ下河原門での攻防戦は特に激しかったと云います。
・・・或いはここでのことでしょうか、土方歳三が逃げ出そうとした一人の兵士を斬り、
退く者は斬る!進め!!
と味方を鼓舞したというのは・・・。(「桑名藩戦記」)
この時、城内で新政府軍を指揮していたのは、奇しくも流山で近藤勇を出頭させた香川敬三…これも何かの因縁でしょうか。
この戦闘で城下は火に包まれ、瞬く間に燃え広がったと云います。
その炎は宇都宮藩主・戸田家の菩提寺、英厳寺にも燃え移りました。
この時、英厳寺の庫裏には老中・板倉勝静父子が幽閉されていました。彼はこの火災で脱出し、これ以降、箱館まで旧幕府軍と行動を共にします。
焼失した英厳寺は再建されることもなく、跡地には現在、病院などが建っています。
僅かに残された広場に、歴代藩主の墓所が静かに建ち並んでいました。
英厳寺跡で唯一当時を偲ばせるイヌツゲの木。
ここまで大きく育つのは珍しいのだそうです。
この日の戦闘は夕刻までには旧幕府軍の勝利で決着し、新政府軍は城内に火を放って撤退していきました。
一方の土方ら旧幕府軍も城内の火が収まらないため、この日は一旦蓼沼の満福寺へ戻って兵を収め、翌4月20日に宇都宮城へ入城、国府台以来別ルートを辿って来た大鳥圭介率いる中・後軍と合流しました。
■第2次宇都宮城攻防戦
4月23日、体制を立て直した新政府軍は宇都宮城奪回に向けて動き出します。
城西、六道口から迫る大山巌(弥助)率いる一隊は旧幕府軍が守備する滝尾神社へ砲撃を加え、これを攻略します。
自ら設計して作らせた弥助砲の威力を如何なく発揮したことでしょう。
現在の滝尾神社
これといって陣地遺構は残っていませんでした。
滝尾神社から北東の方角へ伸びる六道通り。
滝尾神社を足掛かりに大山隊は宇都宮城へ迫りますが、待ち受けた伝習隊の激しい抵抗に遭い、再び滝尾神社付近まで押し戻されます。
旧幕府軍の指揮官・大鳥圭介は大山隊の背後にも兵を回し、包囲された大山隊は一時は全滅を覚悟するほどにまで追い詰められました。この時の一連の戦いでは有馬藤太(流山で出頭した近藤勇を越谷まで鄭重に連行した人物)も負傷しています。
六道通りを北東方向に進むと六道の辻があります。
壬生や鹿沼、楡木などと宇都宮を結ぶ道が集まる場所で、この辺りでも激戦が繰り広げられました。この辻に、、、
戊辰役戦死墓があります。
「戦死墓」の三文字が示す通り、こちらに弔われているのは旧幕府方の将兵です。
※新政府軍に抵抗して散った人々は当初埋葬すら許されず、許されて後もその墓石に名を刻むことは禁じられ、僅かに許されたのは「戦死墓」の三文字だけでした。
※新政府軍戦死者は官修墳墓として周辺のお寺などに葬られています。
宇都宮城攻防戦の5ヶ月後、新政府軍の一員として会津攻めに加わっていた宇都宮藩兵は会津城下で越後長岡藩兵と戦い、長岡藩の山本帯刀以下7~8名を捕えます。捕えられた山本らは新政府軍の軍監・中村半次郎(桐野利秋)の命により、処刑されることになりました。
山本らは200両の金を三男に託して死に臨みましたが、この六道の辻の「戦死墓」こそ、各地の戊辰戦争で散った長岡藩将兵や六道口の激戦で戦死した会津藩兵ら旧幕府軍戦死者を供養するため、三男らが山本から託された200両を元手に建てたものでした。
周辺には歴史を感じさせる素敵な建築物もありました。
この石造りの蔵?も見事ですよね。
さて、伊地知正治率いる救援隊や土佐藩兵も加わった新政府軍は勢いを盛り返し、激しく宇都宮城へ迫ります。
土方歳三はこの時、城西の松ヶ峰門の守備に就いていました。
松ヶ峰門跡。クランクが往時の枡形を偲ばせてくれます。
ここ松ヶ峰門での戦闘は激しさを増し、ついに土方は足に銃弾を受けて負傷、戦線離脱を余儀なくされました・・・。
※この後、彼は会津まで運ばれ、七日町の清水屋旅館で療養することになります。
大鳥圭介以下旧幕府軍も新政府軍の激しい攻撃の前に宇都宮城の確保を諦め、即日、日光指して撤退していきます。
こうして宇都宮城を巡る攻防戦は、最終的には新政府軍の勝利で幕を閉じたのでした。
ところで、松ヶ峰門跡の近くには宇都宮城の現存遺構としては唯一といってもいい土塁が残っているのですが・・・
なんと手前の駐車場だった筈の場所でビル?建設が始まり、周囲からは殆ど望み見ることが出来なくなっていました…(´・ω・`)
・・・隙間から僅かに見えているのが、その土塁です。。。
諦めの悪い私は念の為、周囲をグルッと一周してみましたが…それも徒労に。
もう少し「見せる」工夫、出来ないものなのかな・・・。
松ヶ峰門から城内に向けて真っ直ぐに伸びていた狸坂を通って本丸へ向かいます。
本丸の宇都宮城址公園ではこの日、市民マラソン大会?のようなイベントが開催されていました。
これがため、私も駐車場の確保に苦労したのですが…(;^ω^)
復元された清明台櫓
宇都宮城といえば「釣天井事件」でも有名ですが、本丸には徳川将軍の日光社参のための宿泊所、御成御殿が設けられていました。
そのため、将軍を見下ろしてしまうのは不敬にあたるとの考えから、本丸を囲む土塁上に築かれた櫓の内側には窓がありません。
まぁ、江戸期も中盤以降になると御成御殿は取り払われ、社参する時だけ臨時に藩主屋敷のある二の丸に建てられていたそうですが。
こちらは本丸清水門があった位置を示しています。
清水門の古絵図
桜の種類には疎いのですが…綺麗に咲き誇っていました。
堀越しに清明台櫓
櫓も土塁も堀も、全て復元されたものです。
最後に三の丸土塁の大イチョウ
本当はこの後、城址公園のボランティアさんに紹介していただいた県立博物館にも立ち寄ったのですが、それは割愛させていただきます。
秋月登之助、土方歳三らが率いる先鋒(別働隊)約1,000(伝習第一大隊・桑名藩兵・回天隊・新選組など)は、下妻、下館を経て18日には宇都宮を目前にして真岡に至り、鬼怒川を越えて蓼沼村(現・上三川町東蓼沼)の満福寺に宿陣します。
その満福寺
満福寺境内
手前に写っている立派な大銀杏、案内板には樹齢350年とありましたが正確なところは分からないのだそうです。
ご住職に伺ったところによると3人の専門家が鑑定したそうですが、それぞれ樹齢300年代・400年代・500年代と見事に見解が分かれたのだとか…(;・∀・)
・・・そう、私が境内に佇み「およそ150年前には歳さんらもここにいたんだな~」などと感慨に耽っていたら、ご住職が
「ちょっとあがっていきませんか?」
とお声を掛けてくださったのです。
で、さっそく本堂へ・・・
ご住職は「なかなか新選組さんが来たことを示す資料が残っていないんだけど…」としきりに恐縮されていましたが、それでも貴重なお話を長時間かけてじっくりと、たくさんお聞かせいただきました。
こちらの本堂、なんと築450年ほどにもなるそうです。ということは…土方らが宿陣した当時のまま、ということ!
その割には柱など新しく見えますよね?ところがこれ、古い柱を保護する為に新しい木材(板材)で覆っているだけなのだそうです。中には今も、真っ黒に煤けたケヤキの柱が通っているのです。
また、欄干の彫刻は以前、埃汚れがひどくなったので業者に清掃を依頼したところ、エアブラシをかけた途端に表面が剥がれ落ちてしまったので慌てて中止したのだとか…相当に年季が入っていることは間違いありません。
御本尊脇の8畳間。つい最近までは手前側にも襖が立てられており、小部屋のように仕切られていたそうです。
何も記録が残っていないので、土方ら幹部が寝泊まりに使った部屋(場所)が具体的にどこなのかは分かっていません。
しかし、襖で仕切られていたこと、更にこの奥は当時の住職が使っていた部屋に繋がっていたことなどから、「或いはこの辺りだったんじゃないかなぁ~と」(ご住職談)
私も「きっとそうだったのかもしれない」と思って拝観させていただきました♪
また当時、本堂裏手には杉の大木があり、侍たちが登って宇都宮の方角を窺っていた、なんて逸話も残っているそうです。
まさか本堂内部を見学させていただけるとは思いもしなかったので、望外の僥倖に感激しきりです。
ご住職が集められた満福寺と新選組(土方歳三)に関する新聞記事の切り抜きや、資料もたくさんいただきました。
4月19日、捕えた黒羽藩士3名を大門(山門)前で血祭りに上げた旧幕府軍別働隊は、いよいよ宇都宮城攻略に向けて満福寺を出陣します。
山門に彫られた菊の御紋。満福寺の格式を物語っています。
門前を通る路地
当然のことながら1,000人もの将兵を満福寺だけで収容できるはずもなく、これら門前の民家にも分宿していたのでしょう。
昭和の頃まで、この辺りの民家ではそれぞれに1品ずつ取り扱う商いをして互いの生活を支え合っており、ちょっとした商店街のような賑わいがあったそうです…。
この路地を東へ2~300mほど行くと、土方ら旧幕府軍別働隊が渡河してきた鬼怒川に出ます。きっと彼らもここを通って満福寺に現れたのでしょうね。
■第1次宇都宮城攻防戦
宇都宮城の古絵図
現在の地図に当てはめると、このようになります。
進軍途上、砂田村・簗瀬村などで新政府軍を撃破した旧幕府軍は、南東側から宇都宮城攻略に取り掛かります。
この時、逃げる新政府軍は城の東を流れる田川に架かる諸橋を落とさなかったため、旧幕府軍は難なく田川を越え、一気に城下へと迫りました。
田川に架かる簗瀬橋
旧幕府軍は数隊に分かれて進軍しましたが、土方が率いる一隊(桑名藩兵、新選組か)はこの簗瀬橋を渡って宇都宮城に迫ったと考えられています。
田川を越えた旧幕府軍は下河原・中河原・今小路の各城門へ攻め掛かりました。
土方の率いる一隊が攻撃したと思われる、下河原門跡。
あの先の突当りで、、、
枡形の名残を示すように右に折れています。
それぞれ激戦となり、今小路門を攻めた回天隊長の相馬左金吾はこの時の戦いで戦死しているほどですが、ここ下河原門での攻防戦は特に激しかったと云います。
・・・或いはここでのことでしょうか、土方歳三が逃げ出そうとした一人の兵士を斬り、
退く者は斬る!進め!!
と味方を鼓舞したというのは・・・。(「桑名藩戦記」)
この時、城内で新政府軍を指揮していたのは、奇しくも流山で近藤勇を出頭させた香川敬三…これも何かの因縁でしょうか。
この戦闘で城下は火に包まれ、瞬く間に燃え広がったと云います。
その炎は宇都宮藩主・戸田家の菩提寺、英厳寺にも燃え移りました。
この時、英厳寺の庫裏には老中・板倉勝静父子が幽閉されていました。彼はこの火災で脱出し、これ以降、箱館まで旧幕府軍と行動を共にします。
焼失した英厳寺は再建されることもなく、跡地には現在、病院などが建っています。
僅かに残された広場に、歴代藩主の墓所が静かに建ち並んでいました。
英厳寺跡で唯一当時を偲ばせるイヌツゲの木。
ここまで大きく育つのは珍しいのだそうです。
この日の戦闘は夕刻までには旧幕府軍の勝利で決着し、新政府軍は城内に火を放って撤退していきました。
一方の土方ら旧幕府軍も城内の火が収まらないため、この日は一旦蓼沼の満福寺へ戻って兵を収め、翌4月20日に宇都宮城へ入城、国府台以来別ルートを辿って来た大鳥圭介率いる中・後軍と合流しました。
■第2次宇都宮城攻防戦
4月23日、体制を立て直した新政府軍は宇都宮城奪回に向けて動き出します。
城西、六道口から迫る大山巌(弥助)率いる一隊は旧幕府軍が守備する滝尾神社へ砲撃を加え、これを攻略します。
自ら設計して作らせた弥助砲の威力を如何なく発揮したことでしょう。
現在の滝尾神社
これといって陣地遺構は残っていませんでした。
滝尾神社から北東の方角へ伸びる六道通り。
滝尾神社を足掛かりに大山隊は宇都宮城へ迫りますが、待ち受けた伝習隊の激しい抵抗に遭い、再び滝尾神社付近まで押し戻されます。
旧幕府軍の指揮官・大鳥圭介は大山隊の背後にも兵を回し、包囲された大山隊は一時は全滅を覚悟するほどにまで追い詰められました。この時の一連の戦いでは有馬藤太(流山で出頭した近藤勇を越谷まで鄭重に連行した人物)も負傷しています。
六道通りを北東方向に進むと六道の辻があります。
壬生や鹿沼、楡木などと宇都宮を結ぶ道が集まる場所で、この辺りでも激戦が繰り広げられました。この辻に、、、
戊辰役戦死墓があります。
「戦死墓」の三文字が示す通り、こちらに弔われているのは旧幕府方の将兵です。
※新政府軍に抵抗して散った人々は当初埋葬すら許されず、許されて後もその墓石に名を刻むことは禁じられ、僅かに許されたのは「戦死墓」の三文字だけでした。
※新政府軍戦死者は官修墳墓として周辺のお寺などに葬られています。
宇都宮城攻防戦の5ヶ月後、新政府軍の一員として会津攻めに加わっていた宇都宮藩兵は会津城下で越後長岡藩兵と戦い、長岡藩の山本帯刀以下7~8名を捕えます。捕えられた山本らは新政府軍の軍監・中村半次郎(桐野利秋)の命により、処刑されることになりました。
山本らは200両の金を三男に託して死に臨みましたが、この六道の辻の「戦死墓」こそ、各地の戊辰戦争で散った長岡藩将兵や六道口の激戦で戦死した会津藩兵ら旧幕府軍戦死者を供養するため、三男らが山本から託された200両を元手に建てたものでした。
周辺には歴史を感じさせる素敵な建築物もありました。
この石造りの蔵?も見事ですよね。
さて、伊地知正治率いる救援隊や土佐藩兵も加わった新政府軍は勢いを盛り返し、激しく宇都宮城へ迫ります。
土方歳三はこの時、城西の松ヶ峰門の守備に就いていました。
松ヶ峰門跡。クランクが往時の枡形を偲ばせてくれます。
ここ松ヶ峰門での戦闘は激しさを増し、ついに土方は足に銃弾を受けて負傷、戦線離脱を余儀なくされました・・・。
※この後、彼は会津まで運ばれ、七日町の清水屋旅館で療養することになります。
大鳥圭介以下旧幕府軍も新政府軍の激しい攻撃の前に宇都宮城の確保を諦め、即日、日光指して撤退していきます。
こうして宇都宮城を巡る攻防戦は、最終的には新政府軍の勝利で幕を閉じたのでした。
ところで、松ヶ峰門跡の近くには宇都宮城の現存遺構としては唯一といってもいい土塁が残っているのですが・・・
なんと手前の駐車場だった筈の場所でビル?建設が始まり、周囲からは殆ど望み見ることが出来なくなっていました…(´・ω・`)
・・・隙間から僅かに見えているのが、その土塁です。。。
諦めの悪い私は念の為、周囲をグルッと一周してみましたが…それも徒労に。
もう少し「見せる」工夫、出来ないものなのかな・・・。
松ヶ峰門から城内に向けて真っ直ぐに伸びていた狸坂を通って本丸へ向かいます。
本丸の宇都宮城址公園ではこの日、市民マラソン大会?のようなイベントが開催されていました。
これがため、私も駐車場の確保に苦労したのですが…(;^ω^)
復元された清明台櫓
宇都宮城といえば「釣天井事件」でも有名ですが、本丸には徳川将軍の日光社参のための宿泊所、御成御殿が設けられていました。
そのため、将軍を見下ろしてしまうのは不敬にあたるとの考えから、本丸を囲む土塁上に築かれた櫓の内側には窓がありません。
まぁ、江戸期も中盤以降になると御成御殿は取り払われ、社参する時だけ臨時に藩主屋敷のある二の丸に建てられていたそうですが。
こちらは本丸清水門があった位置を示しています。
清水門の古絵図
桜の種類には疎いのですが…綺麗に咲き誇っていました。
堀越しに清明台櫓
櫓も土塁も堀も、全て復元されたものです。
最後に三の丸土塁の大イチョウ
本当はこの後、城址公園のボランティアさんに紹介していただいた県立博物館にも立ち寄ったのですが、それは割愛させていただきます。
同じくご紹介いただいた大谷石地下採掘場跡(大谷資料館)には時間の都合で行けなかったのですが…以前から興味はあったので、ちょっと残念。
最後に、時系列の関係でここでは最初にご紹介させていただいた満福寺にお邪魔し、帰路に就きました。
日帰りで実行した宇都宮城攻防戦跡巡り、往復の走行距離は約330㎞。
疲れましたが特に大きな渋滞もなく、いいDriveになりました。
最後に、時系列の関係でここでは最初にご紹介させていただいた満福寺にお邪魔し、帰路に就きました。
日帰りで実行した宇都宮城攻防戦跡巡り、往復の走行距離は約330㎞。
疲れましたが特に大きな渋滞もなく、いいDriveになりました。