金ヶ崎の退き口 前編からの続きです。

元亀元年4月、越前敦賀へ侵攻した
織田信長。
その信長を討つべく、織田家との同盟関係を破棄して兵を挙げた
浅井長政。
朝倉出雲守景盛千余騎、三段崎権頭五百余騎、虎枝椿井を経て浅井備前守長政が勢と同じ柳ヶ瀬より疋壇口へ可向と定、朝倉始末記
小谷城を出た浅井勢は北国街道を
柳ケ瀬で左へ折れ、刀根~
疋檀(引檀/現在は疋田)を経由して敦賀へ向かいました。
これは、この時から3年後の天正元年(1573)、大嶽から撤退した朝倉勢を追って北上し、一気に朝倉家滅亡まで追い込んだ
織田信長の追撃ルートと全く同じです。
※詳しくは
コチラ の記事で。

その疋田地区。
看板に案内のある「戦国時代武将の碑」は、天正元年に追撃する織田勢に討たれた朝倉方将兵の供養碑です。

疋田集落を通る旧街道
ここから敦賀までのルートは浅井長政が、そして天正元年には織田信長がまず間違いなく通っているのです・・・。

疋田集落に残る
疋檀城跡右奥には立派な横堀も見えています。
引壇の城、是れ又、明け退き侯。則ち、滝川彦右衛門、山田左衛門尉両人差し遣はされ、塀・矢蔵引き下ろし、破却させ、信長公記
敦賀に侵攻した織田の軍勢が手筒山・金ヶ崎を落とすと、越前との連絡を絶たれた疋檀城も呆気なく陥落しました。
信長はこの城を破却させています。

天守台跡
さきに引用した信長公記に「
矢蔵引き下ろし」と書かれている、引き倒された櫓があった場所でしょうかね。

天守台石垣
※訪れた際、ちょうど地主の方がいらしていろいろとご案内いただきました。

主郭の周囲には帯(腰)曲輪が取り巻いていました。
一部、
横矢掛けになっている箇所も。

主郭は畑に。奥に見えるのが天守台です。

削平地の段差がとても明瞭に分かります。

眼下には疋田の集落。
集落の間を街道が通っており、まさに街道を押さえる城だったことが分かります。

所々なかなか保存状態のいい石垣も。

横堀も格好いいです。

天守台に建つ疋檀城跡碑
織田軍の手によって破却された疋檀城も、その織田勢の撤退によって一度は修復されました。
しかし天正元年、織田の追撃を受けた朝倉勢が刀根の戦いで大敗すると、城主・疋檀次郎三郎も戦死。疋檀城は再び破却され、以後今日まで歴史の陰に埋もれてきました。
地主の方のお陰でじっくり堪能できました。ありがとうございました♪

疋檀を過ぎ、
笙の川沿いの山間ルートを北上した
浅井の軍勢は、やがてすぐに敦賀へと現われます。

その浅井勢が北上して来た笙の川沿いの山間ルート

北に目を転じると手筒山展望台から眺めた際、
目印になった高速道路の高架が架かっています。丁度あの辺りが山間部の出口で、その先には敦賀の平野部が広がっています。

浅井勢が敦賀へ抜けた先には小高い丘があります。
撤退する織田殿(しんがり)軍にしてみれば、戦線をあまり東に置いてしまうと迫り来る朝倉・浅井の
二方向に対処しなければならなくなる不利もあるので、主要防衛地点はもっと西寄りの関峠付近かと思いますが、或はこの丘にも浅井勢に一当てするための兵を配したかもしれません。

丘の遠景

その丘には現在、
日吉神社が祀られています。
・・・なんとも示唆的とは思いませんか?

日吉神社前から浅井軍方面。
例の
高速道路高架が見えています。

日吉神社付近から
関峠方向に伸びる旧道。
もし日吉神社の丘にも織田殿軍の兵が配されていたのであれば、きっとこの道を関峠方向に退いていったことでしょう。

その道沿いにも
剣神社や、更に
別の日吉神社まで・・・

旧道沿いに西へ向かい
関峠に差し掛かる直前、とても気になる地形が確認できます。
朝倉・浅井勢がそれぞれ木ノ芽峠・疋壇口の二方向から迫って来ようとも、この付近では一手にまとまらざるを得なくなりますので、撤退する織田勢は少しでも安全に峠を越えるためにも、峠越え前のこの付近に陣地を置いて敵の追撃を食い止めたと思われます。
そしてここにもまた、
剣神社の文字・・・

その織田殿軍の陣地跡と思われる丘の遠景(地図
A)
関峠を越えればそこは若狭国(だからこその「関」の地名か)。若狭には織田方の勢力が多く、
関峠がこの時点での事実上の軍事境界線。
従って、関峠に差し掛かる手前のこの辺りが
最も激しい戦闘が繰り広げられた地点ではないかと考えています。
関峠へ・・・
少なくともこの辺りくらいまでは幾度となく、
返しては押し、押しては退きを繰り返したことでしょう。

関峠から背後を振り返った様子。
先ほどの地図
Bの丘が背後を守るように街道の正面に見えます。

関峠越え
ようやくの思いで朝倉・浅井の追撃をかわし切った辺りか。

関峠を越えると程なく、
国吉城のある佐柿に至ります。
金ヶ崎の退き口 前編の記事冒頭でも書きましたが、国吉城主・
粟屋勝久は一貫して朝倉家と戦い続け、その侵攻を食い止めてきました。
織田信長は敦賀攻めの直前、
4月23~25日までの2泊3日をここで宿陣しています。

若狭国吉城歴史資料館の後方が城山になります。
敦賀進攻の折に宿陣した際、信長はその立地を褒め、
向の河辺より城下へ真直に道を付、町を作り、在々の侍共を少々城下に置からば、万事の自由然るべし。と語った彼の言葉が残されています。(国吉籠城記)
「
向の河辺」とはきっと、西を流れる耳川を指しているのでしょう。城下町と武士の集住を重視していた信長のビジョンが垣間見えるエピソードですね。
※時間の都合?で我々は城山には登りません。※国吉城、及び信長の見た光景については、
コチラの記事を参照。

発掘調査で出土した山麓部の石垣

浅井長政離反の報を受け、即座に金ヶ崎を発った信長は関峠を越え、その日はここ国吉城に泊ったのではないかと思います。

山麓には粟屋勝久が、戦死した将兵を供養するために創建した
徳賞寺があります。
徳賞寺には勝久の御位牌の他、彼を供養する五輪塔もあるらしいのですが、境内墓地には夏草が生い茂り、正確な場所も分からなかったので見つけることができませんでした…(;´・ω・)
国吉城で人心地ついた信長は翌日、丹後街道を伝って南下し、
瓜生で若狭街道へと進路をとります。

瓜生付近で走る車の窓から撮影。
本来の街道はあの集落の間を通っています。
しばらく走るとやがて熊川宿に辿り着きます。
信長の敦賀遠征往路では、4月22日にも宿陣していました。

現在の
熊川宿

宿場内には陣屋跡もありますが・・・

織田軍が往来した時の
熊川城は山城、この山上にありました。
元々は沼田氏の居城でしたが永禄12年(1569)、先ほど通ってきた瓜生の
松宮玄蕃に攻められて敗走しています。
現地の説明板ではこの戦いを天正3年(1575)のこととしていましたが、信長が敦賀遠征で立ち寄った
元亀元年時点で城主が既に松宮玄蕃であったことは、「信長公記」にも「長谷川家先祖書」にも明記されていること。
永禄12年説が正しいでしょう。
なお、細川藤孝の妻・同忠興の母は沼田氏の出です。
得法寺信長率いる軍勢が敦賀目指して熊川に宿陣した際、従軍していた
徳川家康はこちらの得法寺に泊っています。

家康腰かけの松…の跡
「
土地は熊川、寺は徳(得)法寺、余は徳川、因縁あるかな」と言ったとか。

山門に立てかけられているあの古木が、腰かけの松かと思われます。

境内には沼田氏の供養塔もあります。
京都の公家が残した「継芥記」には織田信長が金ヶ崎から帰京した際、沼田弥太郎なる人物が供奉していたことが書き記されています。きっと元熊川城主・沼田氏の一族なのでしょう。

とっても長閑でいい風情です。

天正年間には既に整備されていたという用水路

街道脇の細い路地もいい味出してます。

佐柿の国吉城から熊川まで辿り着いた信長は、この地で一泊したものと思われます。

旧逸見勘兵衛家
伊藤忠商事の社長になった伊藤竹之助なる人物の生家だとか。
現在は喫茶店になっていて・・・

我々も抹茶と名物の葛まんじゅうで一休み♪
一夜明け、信長は熊川を発します。
我々も熊川を出発し、再び若狭街道を進みます。
が、現在の若狭街道=国道303号は熊川を出るとすぐにトンネルに差し掛かります。当時の街道に
トンネルはあり得ません。どこかに旧道のルートが残っていないものかと思って事前に地図を凝視していたら・・・

ありました☆トンネルのすぐ手前で左に逸れる山道が。
この
水坂峠越えが当時のメインルートでしょう。

水坂峠越えの山道
途中、
庚申塚の案内板もありましたので、こちらを旧街道と判断して間違いないと思います。

直ぐ足下を国道303号のトンネルが貫通しています。

しばらく進んで峠を超えると
保坂の集落が見えてきました。

保坂集落
信長御許容にて同月廿六日御出馬廿八日保坂依朽木越ニ掛り慕谷江御通行長谷川家先祖書
信長は
保坂から朽木越えのルートを選択したのです。

保坂の(現在の)街道分岐点
写真右斜め奥から水坂峠を越えてきた信長は、ここ保坂で右(写真奥方向)に進路を取って
朽木へ向かいました。
ちなみに写真左手前方向は若狭街道
九里半越えで琵琶湖西岸に出るルート、信長の軍勢が敦賀への
往路に通行した道になります。
なお、
実際の旧道は集落の中を通り、そちらに街道(旧道)分岐点の
道標も建っていましたが・・・

フロントガラスの反射で、ものの見事に撮影失敗…(T_T)
このように、保坂は主要な街道が交差する交通の要所でした。「朽木文書」の弘安年間(1200年代後半)の項で既に「
保坂関」「
保坂之関」と度々出て来るように、かなり早い段階から関所が置かれていたことが窺われます。

保坂からの朽木越えルート・・・

朽木に至る少し手前に、
信長の隠れ岩があります。
信長が来ることを知った当地の領主・朽木元綱は、甲冑姿で出迎えようとしました。この武装姿に驚いた信長は、同行の松永久秀と森三左衛門(可成)に元綱の真意を確かめに行かせます。そして元綱に敵意がないことを確認できるまで、ここ三ツ石の岩窟に身をひそめて待機したと伝えられています。平服に着替えた元綱は、信長を下市場の圓満堂でもてなした後、朽木城に宿泊させ、翌日京都までの警護役も務めました。(現地説明板より)

隠れ岩までは、登り口からほんの5分程度の道のりです。
それにしても、なんて巨大な岩肌でしょう・・・。

見えてきましたね。
信長の隠れ岩
どんな思いでここに座り込んでいたのだろうかと、しばし物思いに耽りました・・・。
朽木に到着です。
現在資料館が建つ辺り一帯が江戸期の陣屋跡であり、且つ発掘調査の結果、
中世朽木城跡でもあることが判明しています。

お隣りの山神々社との間の道路は
堀跡。
山神々社境内には土塁の跡も一部現存しています。

信長も泊ったと云う朽木城内へ・・・

茅葺屋根は移築保存されている150年ほど前の古民家です。

朽木郷土資料館
入館無料でしかも撮影OK☆ 「長谷川家先祖書」に関する資料も確認できて大変助かりました。
円満堂御休足有御饗応被 仰上砌隣家長谷川惣兵衛茂元御茶御菓子献難有も信長被召勝負革たちつけ銀箸被下置頂戴仕尓今所持家宝也長谷川家先祖書
朽木に入って
圓満堂で休息している信長を、隣家の長谷川茂元がお茶と菓子を献上してもてなします。
喜んだ信長は茂元へ
革製のたちつけ(袴)と
銀製の箸を与えています。
上の写真は複製された革製のたちつけです。

箱書きには;
元亀元庚午年四月廿八日越前国金ヶ崎戦庭
總見院殿信長公御退口朽木越之時
長久院殿元綱君為御使者先祖惣兵衛成政蒙
命至千近江国高島郡三石之砌拝受之品也とあります。「長谷川家先祖書」では茂元となっていた長谷川惣兵衛の名前が、こちらでは茂政…違いの理由は分かりません。

そして記事中、何度か引用させていただいた「
長谷川家先祖書」

圓満堂があったと云う
下市場へ向かいます。
鯖街道が通り抜ける朽木下市場

鉤状に折れ曲がる街道

そしてこちらが、信長が休息したと云われる
圓満堂跡。
(写真提供:あっぴん。さん)

念の為、隣近所の表札を確認させていただきましたが、長谷川さんではありませんでした…(;^ω^)

朽木の集落から少し街道を南下していくと・・・

興聖寺前で旧道は国道367号に合流します。
朽木を発った信長は、
この山間部を一直線に南下して4月30日、遂に京の都へと辿り着きました。
この時、彼に付き従っていた人数は僅かに10人ばかりであったと云います。(継芥記)
3年間に及ぶ
元亀騒乱の幕開けを告げた
金ヶ崎の退き口。
なんとか無事に京への生還を果たした織田信長ですが、苦闘の日々はまだまだ続くのでした。。。