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2015年5月

2015年5月30日 (土)

興聖寺

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金ヶ崎の退き口オフ、最後に立ち寄ったのは朽木の興聖寺です。

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興聖寺本堂
拝観料をお納めし、お寺の方に本堂内もご案内いただきました。

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御本尊の釈迦如来坐像
現在は重要文化財で、年内(2015)には国宝に指定される予定なのだとか。
なんと、この台?の上に上がって間近で拝ませていただけました。

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そして楠木正成の念持仏と伝わる縛り不動明王坐像
朽木時経が鎌倉幕府軍の一員として千早城を攻めた際、城内から持ち帰ったものとされています。
ある時、寺に忍び込んだ盗人が不動明王像を持ち去ろうとすると、何故か金縛りにあって盗みに失敗したことから「縛り不動明王」と呼ばれるようになったのだそうです。
凄いものを拝観させていただきました。

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興聖寺境内には旧秀隣寺庭園(名勝足利庭園)があります。

この地には元々、京の騒乱から朽木に逃れてきた足利十二代将軍・義晴のために建てられた岩神館がありました。
義晴、及び十三代・義輝は岩神館内に築かれたこの庭園を大変愛でたと云われています。
慶長11年(1606)朽木宣綱が正室の菩提を弔うため、岩神館跡地に秀隣寺を創建したので旧秀隣寺庭園と呼ばれています。
その後、秀隣寺も別の場所に移転し、近くにあった興聖寺が移されてきて現在に至ります。

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足利義晴・義輝父子が愛でた庭園
なお、細川藤孝も2人の将軍に供奉して朽木に滞在しており、この時の縁で朽木から程近い熊川の沼田氏の娘を娶っています
後に藤孝の嫡男・忠興は、茶の湯の師である千利休をこの庭園に案内したとも伝わっているそうです。

さて、これにて1泊2日の金ヶ崎の退き口オフも終了です。
この後は米原まで送っていただいて解散となりました。ご一緒いただきました皆様、楽しい旅を本当にありがとうございました!

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2015年5月29日 (金)

金ヶ崎の退き口 (後編:撤退開始~朽木越え)

金ヶ崎の退き口 前編からの続きです。

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元亀元年4月、越前敦賀へ侵攻した織田信長
その信長を討つべく、織田家との同盟関係を破棄して兵を挙げた浅井長政

朝倉出雲守景盛千余騎、三段崎権頭五百余騎、虎枝椿井を経て浅井備前守長政が勢と同じ柳ヶ瀬より疋壇口へ可向と定
朝倉始末記

小谷城を出た浅井勢は北国街道を柳ケ瀬で左へ折れ、刀根~疋檀(引檀/現在は疋田)を経由して敦賀へ向かいました。
これは、この時から3年後の天正元年(1573)、大嶽から撤退した朝倉勢を追って北上し、一気に朝倉家滅亡まで追い込んだ織田信長の追撃ルートと全く同じです。
※詳しくはコチラ の記事で。

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その疋田地区。
看板に案内のある「戦国時代武将の碑」は、天正元年に追撃する織田勢に討たれた朝倉方将兵の供養碑です。

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疋田集落を通る旧街道
ここから敦賀までのルートは浅井長政が、そして天正元年には織田信長がまず間違いなく通っているのです・・・。

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疋田集落に残る疋檀城跡
右奥には立派な横堀も見えています。

引壇の城、是れ又、明け退き侯。則ち、滝川彦右衛門、山田左衛門尉両人差し遣はされ、塀・矢蔵引き下ろし、破却させ、
信長公記

敦賀に侵攻した織田の軍勢が手筒山・金ヶ崎を落とすと、越前との連絡を絶たれた疋檀城も呆気なく陥落しました。
信長はこの城を破却させています。

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天守台跡
さきに引用した信長公記に「矢蔵引き下ろし」と書かれている、引き倒された櫓があった場所でしょうかね。

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天守台石垣
※訪れた際、ちょうど地主の方がいらしていろいろとご案内いただきました。

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主郭の周囲には帯(腰)曲輪が取り巻いていました。
一部、横矢掛けになっている箇所も。

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主郭は畑に。奥に見えるのが天守台です。

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削平地の段差がとても明瞭に分かります。

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眼下には疋田の集落。
集落の間を街道が通っており、まさに街道を押さえる城だったことが分かります。

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所々なかなか保存状態のいい石垣も。

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横堀も格好いいです。

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天守台に建つ疋檀城跡碑
織田軍の手によって破却された疋檀城も、その織田勢の撤退によって一度は修復されました。
しかし天正元年、織田の追撃を受けた朝倉勢が刀根の戦いで大敗すると、城主・疋檀次郎三郎も戦死。疋檀城は再び破却され、以後今日まで歴史の陰に埋もれてきました。

地主の方のお陰でじっくり堪能できました。ありがとうございました♪

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疋檀を過ぎ、笙の川沿いの山間ルートを北上した浅井の軍勢は、やがてすぐに敦賀へと現われます。

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その浅井勢が北上して来た笙の川沿いの山間ルート

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北に目を転じると手筒山展望台から眺めた際、目印になった高速道路の高架が架かっています。丁度あの辺りが山間部の出口で、その先には敦賀の平野部が広がっています。

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浅井勢が敦賀へ抜けた先には小高い丘があります。
撤退する織田殿(しんがり)軍にしてみれば、戦線をあまり東に置いてしまうと迫り来る朝倉・浅井の二方向に対処しなければならなくなる不利もあるので、主要防衛地点はもっと西寄りの関峠付近かと思いますが、或はこの丘にも浅井勢に一当てするための兵を配したかもしれません。

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丘の遠景

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その丘には現在、日吉神社が祀られています。
・・・なんとも示唆的とは思いませんか?

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日吉神社前から浅井軍方面。
例の高速道路高架が見えています。

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日吉神社付近から関峠方向に伸びる旧道
もし日吉神社の丘にも織田殿軍の兵が配されていたのであれば、きっとこの道を関峠方向に退いていったことでしょう。

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その道沿いにも剣神社や、更に別の日吉神社まで・・・

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旧道沿いに西へ向かい関峠に差し掛かる直前、とても気になる地形が確認できます。
朝倉・浅井勢がそれぞれ木ノ芽峠・疋壇口の二方向から迫って来ようとも、この付近では一手にまとまらざるを得なくなりますので、撤退する織田勢は少しでも安全に峠を越えるためにも、峠越え前のこの付近に陣地を置いて敵の追撃を食い止めたと思われます。
そしてここにもまた、剣神社の文字・・・

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その織田殿軍の陣地跡と思われる丘の遠景(地図A
関峠を越えればそこは若狭国(だからこその「関」の地名か)。若狭には織田方の勢力が多く、関峠がこの時点での事実上の軍事境界線
従って、関峠に差し掛かる手前のこの辺りが最も激しい戦闘が繰り広げられた地点ではないかと考えています。

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関峠へ・・・
少なくともこの辺りくらいまでは幾度となく、返しては押し、押しては退きを繰り返したことでしょう。

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関峠から背後を振り返った様子。
先ほどの地図Bの丘が背後を守るように街道の正面に見えます。

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関峠越え
ようやくの思いで朝倉・浅井の追撃をかわし切った辺りか。

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関峠を越えると程なく、国吉城のある佐柿に至ります。
金ヶ崎の退き口 前編の記事冒頭でも書きましたが、国吉城主・粟屋勝久は一貫して朝倉家と戦い続け、その侵攻を食い止めてきました。
織田信長は敦賀攻めの直前、4月23~25日までの2泊3日をここで宿陣しています。

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若狭国吉城歴史資料館の後方が城山になります。
敦賀進攻の折に宿陣した際、信長はその立地を褒め、
向の河辺より城下へ真直に道を付、町を作り、在々の侍共を少々城下に置からば、万事の自由然るべし。
と語った彼の言葉が残されています。(国吉籠城記)
向の河辺」とはきっと、西を流れる耳川を指しているのでしょう。城下町と武士の集住を重視していた信長のビジョンが垣間見えるエピソードですね。
※時間の都合?で我々は城山には登りません。

※国吉城、及び信長の見た光景については、コチラの記事を参照。

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発掘調査で出土した山麓部の石垣

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浅井長政離反の報を受け、即座に金ヶ崎を発った信長は関峠を越え、その日はここ国吉城に泊ったのではないかと思います。

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山麓には粟屋勝久が、戦死した将兵を供養するために創建した徳賞寺があります。
徳賞寺には勝久の御位牌の他、彼を供養する五輪塔もあるらしいのですが、境内墓地には夏草が生い茂り、正確な場所も分からなかったので見つけることができませんでした…(;´・ω・)

国吉城で人心地ついた信長は翌日、丹後街道を伝って南下し、瓜生で若狭街道へと進路をとります。

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瓜生付近で走る車の窓から撮影。
本来の街道はあの集落の間を通っています。

しばらく走るとやがて熊川宿に辿り着きます。
信長の敦賀遠征往路では、4月22日にも宿陣していました。

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現在の熊川宿

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宿場内には陣屋跡もありますが・・・

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織田軍が往来した時の熊川城は山城、この山上にありました。
元々は沼田氏の居城でしたが永禄12年(1569)、先ほど通ってきた瓜生の松宮玄蕃に攻められて敗走しています。
現地の説明板ではこの戦いを天正3年(1575)のこととしていましたが、信長が敦賀遠征で立ち寄った元亀元年時点で城主が既に松宮玄蕃であったことは、「信長公記」にも「長谷川家先祖書」にも明記されていること。永禄12年説が正しいでしょう。
なお、細川藤孝の妻・同忠興の母は沼田氏の出です。

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得法寺
信長率いる軍勢が敦賀目指して熊川に宿陣した際、従軍していた徳川家康はこちらの得法寺に泊っています。

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家康腰かけの松…の跡
土地は熊、寺は(得)法寺、余は徳川、因縁あるかな」と言ったとか。

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山門に立てかけられているあの古木が、腰かけの松かと思われます。

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境内には沼田氏の供養塔もあります。
京都の公家が残した「継芥記」には織田信長が金ヶ崎から帰京した際、沼田弥太郎なる人物が供奉していたことが書き記されています。きっと元熊川城主・沼田氏の一族なのでしょう。

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とっても長閑でいい風情です。

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天正年間には既に整備されていたという用水路

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街道脇の細い路地もいい味出してます。

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佐柿の国吉城から熊川まで辿り着いた信長は、この地で一泊したものと思われます。

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旧逸見勘兵衛家
伊藤忠商事の社長になった伊藤竹之助なる人物の生家だとか。
現在は喫茶店になっていて・・・

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我々も抹茶と名物の葛まんじゅうで一休み♪

一夜明け、信長は熊川を発します。
我々も熊川を出発し、再び若狭街道を進みます。
が、現在の若狭街道=国道303号は熊川を出るとすぐにトンネルに差し掛かります。当時の街道にトンネルはあり得ません。どこかに旧道のルートが残っていないものかと思って事前に地図を凝視していたら・・・

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ありました☆トンネルのすぐ手前で左に逸れる山道が。
この水坂峠越えが当時のメインルートでしょう。

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水坂峠越えの山道
途中、庚申塚の案内板もありましたので、こちらを旧街道と判断して間違いないと思います。

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直ぐ足下を国道303号のトンネルが貫通しています。

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しばらく進んで峠を超えると保坂の集落が見えてきました。

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保坂集落

信長御許容にて同月廿六日御出馬廿八日保坂依朽木越ニ掛り慕谷江御通行
長谷川家先祖書

信長は保坂から朽木越えのルートを選択したのです。

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保坂の(現在の)街道分岐点
写真右斜め奥から水坂峠を越えてきた信長は、ここ保坂で右(写真奥方向)に進路を取って朽木へ向かいました。
ちなみに写真左手前方向は若狭街道九里半越えで琵琶湖西岸に出るルート、信長の軍勢が敦賀への往路に通行した道になります。

なお、実際の旧道は集落の中を通り、そちらに街道(旧道)分岐点の道標も建っていましたが・・・
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フロントガラスの反射で、ものの見事に撮影失敗…(T_T)

このように、保坂は主要な街道が交差する交通の要所でした。「朽木文書」の弘安年間(1200年代後半)の項で既に「保坂関」「保坂之関」と度々出て来るように、かなり早い段階から関所が置かれていたことが窺われます。

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保坂からの朽木越えルート・・・

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朽木に至る少し手前に、信長の隠れ岩があります。

信長が来ることを知った当地の領主・朽木元綱は、甲冑姿で出迎えようとしました。この武装姿に驚いた信長は、同行の松永久秀と森三左衛門(可成)に元綱の真意を確かめに行かせます。
そして元綱に敵意がないことを確認できるまで、ここ三ツ石の岩窟に身をひそめて待機したと伝えられています。
平服に着替えた元綱は、信長を下市場の圓満堂でもてなした後、朽木城に宿泊させ、翌日京都までの警護役も務めました。
(現地説明板より)

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隠れ岩までは、登り口からほんの5分程度の道のりです。
それにしても、なんて巨大な岩肌でしょう・・・。

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見えてきましたね。

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信長の隠れ岩

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どんな思いでここに座り込んでいたのだろうかと、しばし物思いに耽りました・・・。

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朽木に到着です。
現在資料館が建つ辺り一帯が江戸期の陣屋跡であり、且つ発掘調査の結果、中世朽木城跡でもあることが判明しています。

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お隣りの山神々社との間の道路は堀跡
山神々社境内には土塁の跡も一部現存しています。

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信長も泊ったと云う朽木城内へ・・・

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茅葺屋根は移築保存されている150年ほど前の古民家です。

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朽木郷土資料館
入館無料でしかも撮影OK☆ 「長谷川家先祖書」に関する資料も確認できて大変助かりました。

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円満堂御休足有御饗応被 仰上砌隣家長谷川惣兵衛茂元御茶御菓子献難有も信長被召勝負革たちつけ銀箸被下置頂戴仕尓今所持家宝也
長谷川家先祖書

朽木に入って圓満堂で休息している信長を、隣家の長谷川茂元がお茶と菓子を献上してもてなします。
喜んだ信長は茂元へ革製のたちつけ(袴)と銀製の箸を与えています。
上の写真は複製された革製のたちつけです。

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箱書きには;

元亀元庚午年四月廿八日越前国金ヶ崎戦庭
總見院殿信長公御退口朽木越之時
長久院殿元綱君為御使者先祖惣兵衛成政蒙
命至千近江国高島郡三石之砌拝受之品也


とあります。「長谷川家先祖書」では茂元となっていた長谷川惣兵衛の名前が、こちらでは茂政…違いの理由は分かりません。

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そして記事中、何度か引用させていただいた「長谷川家先祖書

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圓満堂があったと云う下市場へ向かいます。

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鯖街道が通り抜ける朽木下市場

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鉤状に折れ曲がる街道

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そしてこちらが、信長が休息したと云われる圓満堂跡
(写真提供:あっぴん。さん)

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念の為、隣近所の表札を確認させていただきましたが、長谷川さんではありませんでした…(;^ω^)

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朽木の集落から少し街道を南下していくと・・・

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興聖寺前で旧道は国道367号に合流します。

朽木を発った信長は、この山間部を一直線に南下して4月30日、遂に京の都へと辿り着きました。
この時、彼に付き従っていた人数は僅かに10人ばかりであったと云います。(継芥記)

3年間に及ぶ元亀騒乱の幕開けを告げた金ヶ崎の退き口
なんとか無事に京への生還を果たした織田信長ですが、苦闘の日々はまだまだ続くのでした。。。

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2015年5月28日 (木)

氣比神宮

5月24日、敦賀で迎える旅の2日目。
敦賀まで来たら、やはりここは外せません・・・

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という訳で越前国一の宮、氣比神宮にお参りです。

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朝の柔らかい陽射しに照らされて、とても荘厳な雰囲気が醸し出されていました。

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氣比神宮拝殿

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早朝とあって参拝客も少なく、ゆったりした気分でお参りできました。

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境内北側の駐車場北隅には、氣比宮古殿地
氣比神宮の本殿などは元々この鳥居の向こう側、現在は小学校の敷地になっている場所に建っていました。
ところが昭和20年の敦賀大空襲で社殿の殆どが焼失し、更に戦後、境内地が学校用地とされたため、昭和25年になって現在の場所に移して再建されたのだそうです。


さ、それでは金ヶ崎の退き口巡り、後半戦に向かいます!

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敦賀城跡…真願寺

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5月23日、旅の初日のラストは敦賀市内の真願寺へ。
大谷吉継敦賀城跡に建ちます。山門前には敦賀城跡の碑も。

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真願寺本堂

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本堂前に保存されている敦賀城の礎石

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周囲を流れるこちらの水路は、敦賀城の堀跡です。

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ここで日もだいぶ落ちてきたので一旦ホテルにチェックインし、夜は同行のあっぴん。さん・流星☆さんと敦賀駅前で飲み会♪
意外とお店が少なく、席を確保するのに苦労しましたが…(^_^;)

21時過ぎにはゆっきーも合流して2次会☆
楽しく盛り上がりましたとさ♪

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2015年5月27日 (水)

金ヶ崎の退き口 (前編:手筒山攻撃~浅井長政の離反)

永禄年間、越前朝倉氏は幾度となく若狭へ進攻して佐柿の国吉城を攻めますが、国吉城を守る粟屋勝久はその都度、朝倉勢を撃退し続けました。
しかし永禄11年(1568)、朝倉氏はその国吉城を素通りして小浜へ攻め入り、若狭国守護の武田元明を連れ去ってしまいます。
守護不在の状態となった若狭では、大半の国人が足利幕府支配の下、同年に足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長に従うようになります。
ところが武藤友益など一部はこれに従わなかったため、元亀元年(1570)4月、織田信長はこの武藤友益討伐を口実に朝倉攻めの軍を発します

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四月廿日、信長公京都より直ちに越前へ御進発。坂本を打ち越し、其の日、和邇に御陣取り。廿一日高島の内、田中が城に御泊り。廿ニ日若州熊河、松宮玄蕃が所に御陣宿。廿三日佐柿、粟屋越中が所に至りて御着陣。翌日御逗留。
信長公記 巻三「越前手筒山攻め落さるゝの事」(以下同)より

地図紫のラインが4月20日に京を発し、和邇田中と進んだ織田軍の往路です。保坂から先は後日の撤退時と同じルートを辿ったものと推察します。
※若狭の武藤攻めが単なる口実に過ぎないことは、太田牛一が思わず?「直ちに越前へ」と書いてしまっていることからも察することができますね(笑)

廿五日、越前の内敦賀表へ御人数を出ださる。信長公懸けまはし御覧じ、則ち手筒山へ御取り懸け侯。

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25日、敦賀に入った信長はここ妙顕寺に本陣を構え(国吉籠城記)、自ら敵情視察した上で手筒山砦攻撃を決めます。

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妙顕寺本堂

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妙顕寺からの手筒山

彼の城(手筒山)、高山にて、東南峨々と聳えたり。然りと雖も、頻に攻め入るべきの旨、御下知の間、既に一命を軽んじ粉骨の御忠節を励まれ、程なく攻め入り、頸数千参百七十討ち捕り。

配下の将兵たちの城攻めの様子を、信長はこうして検分していたのでしょうか。
ところで、手筒山攻撃の武将について「信長公記」には特に記載がありませんが、いずれまたご紹介する朽木家臣の手になる「長谷川家先祖書」では、柴田勝家・木下秀吉・池田恒興の三名を挙げています。

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金崎宮の駐車場に車を停めて、我々も手筒山へ向かいます。

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金崎宮への長い階段・・・

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金崎宮
ちゃんとお参りしてから城攻め開始です。
※金ヶ崎はいろいろと歴史との関わりも多く、金崎宮の境内や周辺には松尾芭蕉の経塚尊良親王(後醍醐天皇の一宮)の自刃見込地の碑などもありました。

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ルートの都合上、本当は金ヶ崎城から巡ったのですが、ここではまず手筒山から先に話を進めます。

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金崎宮境内にあったジオラマ
手前の高所が手筒山砦で、奥の半島状に海へ突き出た部分が金ヶ崎城になります。

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手筒山全景

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手筒山砦見張台(推定)跡の切岸
その見張台には・・・

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ちゃんと展望台が!(笑)
お陰でしっかり周辺地形を確認することが出来ました。

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手筒山砦から見下ろす金ヶ崎城

金ケ崎の城に、朝倉中務大輔楯籠り侯。翌日(26日)、叉、取り懸け、攻め干さるべきのところ、色々降参致し、退出侯。

多少の戦闘行為はあったのかもしれませんが、手筒山砦を落とされた金ヶ崎城の朝倉勢は降伏開城し、退去して行きます。
こうして見ても明らかなように手筒山砦の方が高所にありますので、その手筒山を落とされては朝倉勢としても為す術もなかったでしょうね。

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それでは金ヶ崎城へ向かいます。

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手筒山砦と金ヶ崎城は尾根続きにあります。
その間には尾根を断ち切るように、幾本もの堀切が残っています。

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手筒山砦を出てすぐの場所には、堀切を屈折させながら複雑に配したポイントもありました。

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堀底道として城道の役割も兼ねていたのでしょうか。

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少し進んだこちらにも。

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一の城戸の竪堀

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ニの城戸の堀切

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焼米石出土跡
といことは、少なくともこの付近まで織田勢に攻め込まれるまでは、金ヶ崎城の城兵も抵抗したということかな?とも思いましたが、いつの段階にどのような理由で焼けたものかは正直特定できないと思います。

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更に三の城戸を抜けて・・・

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金ヶ崎城、その本丸と推定される月見御殿跡

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古戦場・・・なのか?(^_^;)

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朝倉勢の退去を確認した信長は、この金ヶ崎に本陣を移しました。

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きっと信長も眺めたであろう、月見御殿からの日本海。

木目峠打ち越し、国中御乱入なすべきのところ、江北浅井備前手の反覆の由、追々、其の注進侯。

金ヶ崎城で軍議を催し、越前府中~一乗谷攻めの計略を練っていたところへ、浅井長政離反・小谷から背後を進軍中!との驚愕の知らせが次々と飛び込んできます。

然れども、浅井は歴然御縁者たるの上、剰へ、江北一円に仰せ付けらるるの間、不足あるべからざるの条、虚説たるべしと、おぼしめし侯ところ、方々より事実の注進侯。是非に及ばずの由にて、金ヶ崎の城には、木下藤吉郎残しをかせられ

ところが、信長はなかなか長政の離反を信じようとはしません。
しかし、その後も続けてもたらされる情報から事実と受け止めざるを得ず、
是非に及ばず!
遂に撤退を決断。殿(しんがり)には秀吉(等)が残されました
浅井長政の挙兵を受けて、越前では朝倉勢も攻勢に転じて敦賀へと進軍を開始します。

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ところで、信長が長政の離反を確信したのは、長政に嫁していたから届いた両端を縛った小豆袋(=袋のネズミ)による、というエピソードが有名ですが、これはまぁ後世の創作でしょうね…(^_^;)

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真っ先に金ヶ崎を発った信長は往路同様、西の関峠を越えて撤退を開始します。
迫り来る朝倉・浅井の進軍ルートを紫のラインで描き入れました。この位置関係を実際の景観(俯瞰)で確認すると・・・

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このようになります。(手筒山展望台より)
手筒山からほぼ真南の方角を向いています。

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浅井勢は高速道路の高架が架かっている山間を抜けて敦賀に現われます。
一方の朝倉勢は北東より木ノ芽峠を越えて迫りました。
これらに対峙する織田の殿軍は、敦賀市内を南北に流れる笙の川対朝倉防衛ラインに見立てて撃退しつつ、浅井勢の敦賀への山間の出口も押さえながら、且つ撤退しなければなりませんでした。
まさに至難の業、当時の秀吉軍一隊ではとても不可能でしょう。当然他にも主力たりうる武将(池田勝正、明智光秀らか?)が殿軍にいたと思われますが、確たる記録が見当たらないので詳しくは触れません。

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こちらは目を東に転じて、朝倉勢が進んできたと思われるルート。手筒山の搦手と云われる方角になります。
※眼下の沼地…漫画「センゴク」では手筒山攻めの先鋒、秀吉隊がこの沼地から攻めかかっていましたね♪

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険しい山間を抜けてきた朝倉勢の、敦賀への侵入ルート。

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織田信長が撤退して行った関峠方面・・・

いよいよ金ヶ崎の退き口、その京への撤退戦が開始されます。

後編(撤退開始~朽木越え)

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2015年5月26日 (火)

劔神社 ~織田一族発祥の地~

5月23~24日は1泊2日で敦賀方面へ。
メインは金ヶ崎の退き口を巡る旅ですが、まずは武生駅前で集合。向かった先は・・・

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越前国織田荘…劔神社
言わずと知れた織田信長に代表される織田一族発祥の地です。
信長の先祖は劔神社の神官を務めていましたが、越前国守護・斯波氏に見出されて仕えるようになり、斯波氏が尾張国の守護をも兼ねたので、いつの頃からか尾張へ移り住みました。

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劔神社は越前の二の宮でもあります。

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末社の織田神社

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織田家の木瓜紋がそこかしこに…♪

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ここにも☆

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いつかは訪れたいと願っていた地、参拝叶って感無量です。

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また、宝物殿も開けていただいて拝観いたしました。
驚いたことに、

劔御子寺鐘
神護景雲四
年九月十一日


の銘の入った国宝の鐘が、裸のまま目の前に吊るされていました。
神護景雲四年は西暦で770年にあたります。日本国内に現存する梵鐘としては三番目の古さなのだそうです。それを何にも遮られることなく、触れられる距離で拝観できるとは・・・。
しかも、今年(2015)の秋には隣りにある織田文化歴史館に寄託されるそうです。そうなると今回のように間近で拝観することも叶わなくなるでしょうから、本当に貴重な体験をさせていただきました。

他に柴田勝家結城秀康らの書状も拝観しました。
越前を朝倉家、そして織田家が治めていた時代には社領3,000石を誇った劔神社も、秀吉の時代には冷遇されて荒廃しましたが、その後に入国した結城秀康によって僅か30石ではありますが復興されました。

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折角なので織田文化歴史館にも立ち寄ります。

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何と言っても、天正元年十月に劔神社へ発給された織田信長による安堵状を拝観できて満足です♪
※一見したところ花押は勿論、朱印も押されていないようだったのが不思議でした。

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劔神社近くに建つ織田信長像
・・・動く車の中から撮影したので、手ブレはひらにご容赦を…(;・∀・)

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この後は敦賀へと移動し、ヨーロッパ軒の名物のソースかつ丼で腹拵え♪

さ、この後はいよいよ金ヶ崎の退き口巡りを開始します☆

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2015年5月14日 (木)

国府台 ―旧幕府脱走陸軍集結の地―

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慶応4年(1868)4月11日、江戸城が新政府軍に無血開城されたその日、旧幕府歩兵奉行の大鳥圭介らは江戸を脱走、向島を経由して法恩寺(上写真)で本多幸七郎・大川正次郎・山角麒三郎らと合流し、国府台へ向かいました。

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国府台駅の南、江戸川の東岸に建つ市川関所跡の碑

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文化3年(1806)に完成した水戸佐倉道分間延絵図(以下:絵図)に描かれる市川・国府台周辺。
これで見ると関所は実際には江戸川の西岸、この対岸にあったようです。

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いずれにしても、この位置に関所があるということはここが街道の延長であり、渡し場(市川の渡し)があったということになります。

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名所江戸図会より
左下、江戸川の手前に「御関所」があり、そこから渡し舟が行き交っている様子が分かります。
また、関所の対岸に国府台(左上に「国府の薹」の文字)が描かれていますので、やはり市川関所は江戸川の西岸にあったのです。

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関所を抜け、市川の渡しで江戸川を東岸へ渡ると水戸街道(松戸街道/左)と佐倉街道(千葉街道/右)の分岐点がありました。

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江戸川の河川敷から眺める国府台
国府台は「鴻之台」とも書き、読んで字の如く江戸川沿いに形成された高台となっており、かつては下総国府が置かれ、戦国期には国府台城も築かれていました。
まさに戦略的な要地です。

4月11日に江戸を発した大鳥圭介らは翌12日、市川の渡しで江戸川を越えて国府台へ至ります。
この時、国府台には同じように江戸を脱した;
土方歳三・山瀬司馬・天野電四郎(以上幕臣)
柿沢勇記・秋月登之助(以上会津)
辰巳鑑三郎(桑名)
といった面々が集結していました。

土方歳三も、同行していた島田魁の日記には;
明十一日小梅(向島)ヲ直様市川駅ヲ過、鴻ノ台ニテ一泊ス
とあり、恐らくは大鳥らが到着する前日の11日、同様に市川の渡しで江戸川を越えて国府台入りしていたのではないかと思われます。

大鳥は到着後すぐ駅畔なる小寺院(南柯紀行)に入って最前の面々と軍議を諮り、一度は実戦の経験がないことを理由に断りますが、伝習隊(第一/第二)・七聯隊・桑名藩兵などからなる旧幕府脱走陸軍2,000の総督に選任されました。

この駅畔なる小寺院、今日では一般的に弘法寺の門前にあった「大林院」のことを指すと認識されているようですが、実のところ根拠がどうもハッキリしません・・・。
なお大林院は先ほどの絵図に、弘法寺の山門前やや東寄りに描かれています。

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弘法寺参道の突当り。この先、石段を上った台地上に弘法寺の境内が広がっています。
大林院は手前の路地を右へ行った先にありました。

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その大林院跡と思しき辺り。

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石段を上って弘法寺山門前から。この眼下に大林院跡があります。
一見してお分かりの通り、弘法寺は台地上最南端に位置しており、大林院は台地下にあったことになります。

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こちらの名所江戸図会に描かれた弘法寺の様子を見ると、同寺が台地の端に位置していることがよく分かるかと思います。
大林院は参道の石段を下った右手前辺りにあります。

このことからしても、大鳥や土方ら幹部クラスが集まった場所は大林院である、ということには若干の疑問を抱かざるを得ないのですが…。

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弘法寺山門(ニ王門)

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本堂

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ちなみに弘法寺の参道は山門から真っ直ぐ南へ、佐倉街道まで延々と1km程伸びていました。絵図にも描かれています。
写真は佐倉街道から見た参道入口。

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さて、弘法寺から水戸街道を少し北上すると、国府台城跡のすぐ脇に総寧寺があります。
写真は北へ伸びる水戸街道。

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総寧寺
大鳥よりも一日早い11日に国府台入りしていた土方歳三や島田魁は、市川駅ヲ過、鴻ノ台ニテ一泊(島田魁日記)していますので、位置的に或はこの辺りに宿陣したのかもしれません。先程の水戸街道を通ってきたのでしょうか。
※実際、「新選組が宿陣したのは総寧寺」としている文献もあるようですが、これまた根拠が不明です。

慶応4年4月12日、軍議で大鳥を総督、土方を参謀に選出した脱走軍は全軍を三隊に分け、先鋒(間道軍)は秋月登之助・土方歳三が率い、大鳥は中軍(本道軍)と行動を共にして国府台を出発します。
宇都宮を目指して水戸街道を北上し、この日は先鋒は小金、中軍は松戸に宿陣しました。
この先一年以上に渡る、北関東~東北、箱館へと続く長い戦いの日々に身を投じていったのでした。
※この後の宇都宮城攻防戦については、コチラ の記事を参照ください。


最後にお久しぶりの「名所江戸百景」シリーズ
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「鴻の台、と弥川風景」 ↑↓
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・・・苦しいか(笑)

※「と弥川」(利根川)とありますが、看板の説明書きにもありますようにこれは江戸川(利根川水系)を指しています。

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