国府台 ―旧幕府脱走陸軍集結の地―
慶応4年(1868)4月11日、江戸城が新政府軍に無血開城されたその日、旧幕府歩兵奉行の大鳥圭介らは江戸を脱走、向島を経由して法恩寺(上写真)で本多幸七郎・大川正次郎・山角麒三郎らと合流し、国府台へ向かいました。
国府台駅の南、江戸川の東岸に建つ市川関所跡の碑
文化3年(1806)に完成した水戸佐倉道分間延絵図(以下:絵図)に描かれる市川・国府台周辺。
これで見ると関所は実際には江戸川の西岸、この対岸にあったようです。
いずれにしても、この位置に関所があるということはここが街道の延長であり、渡し場(市川の渡し)があったということになります。
名所江戸図会より
左下、江戸川の手前に「御関所」があり、そこから渡し舟が行き交っている様子が分かります。
また、関所の対岸に国府台(左上に「国府の薹」の文字)が描かれていますので、やはり市川関所は江戸川の西岸にあったのです。
関所を抜け、市川の渡しで江戸川を東岸へ渡ると水戸街道(松戸街道/左)と佐倉街道(千葉街道/右)の分岐点がありました。
江戸川の河川敷から眺める国府台
国府台は「鴻之台」とも書き、読んで字の如く江戸川沿いに形成された高台となっており、かつては下総国府が置かれ、戦国期には国府台城も築かれていました。
まさに戦略的な要地です。
4月11日に江戸を発した大鳥圭介らは翌12日、市川の渡しで江戸川を越えて国府台へ至ります。
この時、国府台には同じように江戸を脱した;
土方歳三・山瀬司馬・天野電四郎(以上幕臣)
柿沢勇記・秋月登之助(以上会津)
辰巳鑑三郎(桑名)
といった面々が集結していました。
土方歳三も、同行していた島田魁の日記には;
明十一日小梅(向島)ヲ直様市川駅ヲ過、鴻ノ台ニテ一泊ス
とあり、恐らくは大鳥らが到着する前日の11日、同様に市川の渡しで江戸川を越えて国府台入りしていたのではないかと思われます。
大鳥は到着後すぐ駅畔なる小寺院(南柯紀行)に入って最前の面々と軍議を諮り、一度は実戦の経験がないことを理由に断りますが、伝習隊(第一/第二)・七聯隊・桑名藩兵などからなる旧幕府脱走陸軍2,000の総督に選任されました。
この駅畔なる小寺院、今日では一般的に弘法寺の門前にあった「大林院」のことを指すと認識されているようですが、実のところ根拠がどうもハッキリしません・・・。
なお大林院は先ほどの絵図に、弘法寺の山門前やや東寄りに描かれています。
弘法寺参道の突当り。この先、石段を上った台地上に弘法寺の境内が広がっています。
大林院は手前の路地を右へ行った先にありました。
その大林院跡と思しき辺り。
石段を上って弘法寺山門前から。この眼下に大林院跡があります。
一見してお分かりの通り、弘法寺は台地上最南端に位置しており、大林院は台地下にあったことになります。
こちらの名所江戸図会に描かれた弘法寺の様子を見ると、同寺が台地の端に位置していることがよく分かるかと思います。
大林院は参道の石段を下った右手前辺りにあります。
このことからしても、大鳥や土方ら幹部クラスが集まった場所は大林院である、ということには若干の疑問を抱かざるを得ないのですが…。
弘法寺山門(ニ王門)
本堂
ちなみに弘法寺の参道は山門から真っ直ぐ南へ、佐倉街道まで延々と1km程伸びていました。絵図にも描かれています。
写真は佐倉街道から見た参道入口。
さて、弘法寺から水戸街道を少し北上すると、国府台城跡のすぐ脇に総寧寺があります。
写真は北へ伸びる水戸街道。
総寧寺
大鳥よりも一日早い11日に国府台入りしていた土方歳三や島田魁は、市川駅ヲ過、鴻ノ台ニテ一泊(島田魁日記)していますので、位置的に或はこの辺りに宿陣したのかもしれません。先程の水戸街道を通ってきたのでしょうか。
※実際、「新選組が宿陣したのは総寧寺」としている文献もあるようですが、これまた根拠が不明です。
慶応4年4月12日、軍議で大鳥を総督、土方を参謀に選出した脱走軍は全軍を三隊に分け、先鋒(間道軍)は秋月登之助・土方歳三が率い、大鳥は中軍(本道軍)と行動を共にして国府台を出発します。
宇都宮を目指して水戸街道を北上し、この日は先鋒は小金、中軍は松戸に宿陣しました。
この先一年以上に渡る、北関東~東北、箱館へと続く長い戦いの日々に身を投じていったのでした。
※この後の宇都宮城攻防戦については、コチラ の記事を参照ください。
最後にお久しぶりの「名所江戸百景」シリーズ
「鴻の台、と弥川風景」 ↑↓
・・・苦しいか(笑)
※「と弥川」(利根川)とありますが、看板の説明書きにもありますようにこれは江戸川(利根川水系)を指しています。
柿沢勇記・秋月登之助(以上会津)
辰巳鑑三郎(桑名)
といった面々が集結していました。
土方歳三も、同行していた島田魁の日記には;
明十一日小梅(向島)ヲ直様市川駅ヲ過、鴻ノ台ニテ一泊ス
とあり、恐らくは大鳥らが到着する前日の11日、同様に市川の渡しで江戸川を越えて国府台入りしていたのではないかと思われます。
大鳥は到着後すぐ駅畔なる小寺院(南柯紀行)に入って最前の面々と軍議を諮り、一度は実戦の経験がないことを理由に断りますが、伝習隊(第一/第二)・七聯隊・桑名藩兵などからなる旧幕府脱走陸軍2,000の総督に選任されました。
この駅畔なる小寺院、今日では一般的に弘法寺の門前にあった「大林院」のことを指すと認識されているようですが、実のところ根拠がどうもハッキリしません・・・。
なお大林院は先ほどの絵図に、弘法寺の山門前やや東寄りに描かれています。
弘法寺参道の突当り。この先、石段を上った台地上に弘法寺の境内が広がっています。
大林院は手前の路地を右へ行った先にありました。
その大林院跡と思しき辺り。
石段を上って弘法寺山門前から。この眼下に大林院跡があります。
一見してお分かりの通り、弘法寺は台地上最南端に位置しており、大林院は台地下にあったことになります。
こちらの名所江戸図会に描かれた弘法寺の様子を見ると、同寺が台地の端に位置していることがよく分かるかと思います。
大林院は参道の石段を下った右手前辺りにあります。
このことからしても、大鳥や土方ら幹部クラスが集まった場所は大林院である、ということには若干の疑問を抱かざるを得ないのですが…。
弘法寺山門(ニ王門)
本堂
ちなみに弘法寺の参道は山門から真っ直ぐ南へ、佐倉街道まで延々と1km程伸びていました。絵図にも描かれています。
写真は佐倉街道から見た参道入口。
さて、弘法寺から水戸街道を少し北上すると、国府台城跡のすぐ脇に総寧寺があります。
写真は北へ伸びる水戸街道。
総寧寺
大鳥よりも一日早い11日に国府台入りしていた土方歳三や島田魁は、市川駅ヲ過、鴻ノ台ニテ一泊(島田魁日記)していますので、位置的に或はこの辺りに宿陣したのかもしれません。先程の水戸街道を通ってきたのでしょうか。
※実際、「新選組が宿陣したのは総寧寺」としている文献もあるようですが、これまた根拠が不明です。
慶応4年4月12日、軍議で大鳥を総督、土方を参謀に選出した脱走軍は全軍を三隊に分け、先鋒(間道軍)は秋月登之助・土方歳三が率い、大鳥は中軍(本道軍)と行動を共にして国府台を出発します。
宇都宮を目指して水戸街道を北上し、この日は先鋒は小金、中軍は松戸に宿陣しました。
この先一年以上に渡る、北関東~東北、箱館へと続く長い戦いの日々に身を投じていったのでした。
※この後の宇都宮城攻防戦については、コチラ の記事を参照ください。
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※「と弥川」(利根川)とありますが、看板の説明書きにもありますようにこれは江戸川(利根川水系)を指しています。
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