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2015年5月27日 (水)

金ヶ崎の退き口 (前編:手筒山攻撃~浅井長政の離反)

永禄年間、越前朝倉氏は幾度となく若狭へ進攻して佐柿の国吉城を攻めますが、国吉城を守る粟屋勝久はその都度、朝倉勢を撃退し続けました。
しかし永禄11年(1568)、朝倉氏はその国吉城を素通りして小浜へ攻め入り、若狭国守護の武田元明を連れ去ってしまいます。
守護不在の状態となった若狭では、大半の国人が足利幕府支配の下、同年に足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長に従うようになります。
ところが武藤友益など一部はこれに従わなかったため、元亀元年(1570)4月、織田信長はこの武藤友益討伐を口実に朝倉攻めの軍を発します

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四月廿日、信長公京都より直ちに越前へ御進発。坂本を打ち越し、其の日、和邇に御陣取り。廿一日高島の内、田中が城に御泊り。廿ニ日若州熊河、松宮玄蕃が所に御陣宿。廿三日佐柿、粟屋越中が所に至りて御着陣。翌日御逗留。
信長公記 巻三「越前手筒山攻め落さるゝの事」(以下同)より

地図紫のラインが4月20日に京を発し、和邇田中と進んだ織田軍の往路です。保坂から先は後日の撤退時と同じルートを辿ったものと推察します。
※若狭の武藤攻めが単なる口実に過ぎないことは、太田牛一が思わず?「直ちに越前へ」と書いてしまっていることからも察することができますね(笑)

廿五日、越前の内敦賀表へ御人数を出ださる。信長公懸けまはし御覧じ、則ち手筒山へ御取り懸け侯。

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25日、敦賀に入った信長はここ妙顕寺に本陣を構え(国吉籠城記)、自ら敵情視察した上で手筒山砦攻撃を決めます。

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妙顕寺本堂

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妙顕寺からの手筒山

彼の城(手筒山)、高山にて、東南峨々と聳えたり。然りと雖も、頻に攻め入るべきの旨、御下知の間、既に一命を軽んじ粉骨の御忠節を励まれ、程なく攻め入り、頸数千参百七十討ち捕り。

配下の将兵たちの城攻めの様子を、信長はこうして検分していたのでしょうか。
ところで、手筒山攻撃の武将について「信長公記」には特に記載がありませんが、いずれまたご紹介する朽木家臣の手になる「長谷川家先祖書」では、柴田勝家・木下秀吉・池田恒興の三名を挙げています。

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金崎宮の駐車場に車を停めて、我々も手筒山へ向かいます。

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金崎宮への長い階段・・・

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金崎宮
ちゃんとお参りしてから城攻め開始です。
※金ヶ崎はいろいろと歴史との関わりも多く、金崎宮の境内や周辺には松尾芭蕉の経塚尊良親王(後醍醐天皇の一宮)の自刃見込地の碑などもありました。

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ルートの都合上、本当は金ヶ崎城から巡ったのですが、ここではまず手筒山から先に話を進めます。

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金崎宮境内にあったジオラマ
手前の高所が手筒山砦で、奥の半島状に海へ突き出た部分が金ヶ崎城になります。

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手筒山全景

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手筒山砦見張台(推定)跡の切岸
その見張台には・・・

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ちゃんと展望台が!(笑)
お陰でしっかり周辺地形を確認することが出来ました。

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手筒山砦から見下ろす金ヶ崎城

金ケ崎の城に、朝倉中務大輔楯籠り侯。翌日(26日)、叉、取り懸け、攻め干さるべきのところ、色々降参致し、退出侯。

多少の戦闘行為はあったのかもしれませんが、手筒山砦を落とされた金ヶ崎城の朝倉勢は降伏開城し、退去して行きます。
こうして見ても明らかなように手筒山砦の方が高所にありますので、その手筒山を落とされては朝倉勢としても為す術もなかったでしょうね。

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それでは金ヶ崎城へ向かいます。

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手筒山砦と金ヶ崎城は尾根続きにあります。
その間には尾根を断ち切るように、幾本もの堀切が残っています。

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手筒山砦を出てすぐの場所には、堀切を屈折させながら複雑に配したポイントもありました。

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堀底道として城道の役割も兼ねていたのでしょうか。

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少し進んだこちらにも。

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一の城戸の竪堀

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ニの城戸の堀切

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焼米石出土跡
といことは、少なくともこの付近まで織田勢に攻め込まれるまでは、金ヶ崎城の城兵も抵抗したということかな?とも思いましたが、いつの段階にどのような理由で焼けたものかは正直特定できないと思います。

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更に三の城戸を抜けて・・・

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金ヶ崎城、その本丸と推定される月見御殿跡

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古戦場・・・なのか?(^_^;)

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朝倉勢の退去を確認した信長は、この金ヶ崎に本陣を移しました。

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きっと信長も眺めたであろう、月見御殿からの日本海。

木目峠打ち越し、国中御乱入なすべきのところ、江北浅井備前手の反覆の由、追々、其の注進侯。

金ヶ崎城で軍議を催し、越前府中~一乗谷攻めの計略を練っていたところへ、浅井長政離反・小谷から背後を進軍中!との驚愕の知らせが次々と飛び込んできます。

然れども、浅井は歴然御縁者たるの上、剰へ、江北一円に仰せ付けらるるの間、不足あるべからざるの条、虚説たるべしと、おぼしめし侯ところ、方々より事実の注進侯。是非に及ばずの由にて、金ヶ崎の城には、木下藤吉郎残しをかせられ

ところが、信長はなかなか長政の離反を信じようとはしません。
しかし、その後も続けてもたらされる情報から事実と受け止めざるを得ず、
是非に及ばず!
遂に撤退を決断。殿(しんがり)には秀吉(等)が残されました
浅井長政の挙兵を受けて、越前では朝倉勢も攻勢に転じて敦賀へと進軍を開始します。

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ところで、信長が長政の離反を確信したのは、長政に嫁していたから届いた両端を縛った小豆袋(=袋のネズミ)による、というエピソードが有名ですが、これはまぁ後世の創作でしょうね…(^_^;)

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真っ先に金ヶ崎を発った信長は往路同様、西の関峠を越えて撤退を開始します。
迫り来る朝倉・浅井の進軍ルートを紫のラインで描き入れました。この位置関係を実際の景観(俯瞰)で確認すると・・・

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このようになります。(手筒山展望台より)
手筒山からほぼ真南の方角を向いています。

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浅井勢は高速道路の高架が架かっている山間を抜けて敦賀に現われます。
一方の朝倉勢は北東より木ノ芽峠を越えて迫りました。
これらに対峙する織田の殿軍は、敦賀市内を南北に流れる笙の川対朝倉防衛ラインに見立てて撃退しつつ、浅井勢の敦賀への山間の出口も押さえながら、且つ撤退しなければなりませんでした。
まさに至難の業、当時の秀吉軍一隊ではとても不可能でしょう。当然他にも主力たりうる武将(池田勝正、明智光秀らか?)が殿軍にいたと思われますが、確たる記録が見当たらないので詳しくは触れません。

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こちらは目を東に転じて、朝倉勢が進んできたと思われるルート。手筒山の搦手と云われる方角になります。
※眼下の沼地…漫画「センゴク」では手筒山攻めの先鋒、秀吉隊がこの沼地から攻めかかっていましたね♪

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険しい山間を抜けてきた朝倉勢の、敦賀への侵入ルート。

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織田信長が撤退して行った関峠方面・・・

いよいよ金ヶ崎の退き口、その京への撤退戦が開始されます。

後編(撤退開始~朽木越え)

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