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2015年6月

2015年6月28日 (日)

多摩丘陵の鎌倉裏街道と、よこやまの道

本日は東京都多摩市南野、多摩丘陵にある一本杉公園へ。
新選組ファンにはお馴染み、小島資料館がある小野路のすぐ近くです。

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この付近、多摩丘陵上には南北に幾筋もの古道が走り、東西の尾根道はよこやまの道と名付けられ、遊歩道として整備されています。

なお、一本杉公園は左図「一本杉」と書かれた辺りです。
そして今回訪れた一番の目的は、その「一本杉」を南北に縦断する黄土色?のライン、鎌倉裏街道と呼ばれる古道です。

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鎌倉裏街道
素敵な石畳の風情♪

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すぐ東を鎌倉街道上道が並行して走っていますので、こちらは裏街道と呼ばれています。
少し北に行った関戸の関所を避けるための、まさに「裏道」だったとの説もあるようです。

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この杉並木(と言っても現在では2~3本しか残っていませんが…)の存在から、古道の確認(発見)に至ったそうです。
江戸期には北の日野と南の小野路を結ぶ日野往還小野路道とも呼ばれていたようです。

…そう、上京して新選組を結成する前、土方歳三沖田総司らが日野宿から小野路の小島鹿之助邸、橋本邸へ出稽古に向かうために往来した道なのです!
※近藤勇の故郷・府中から小野路へ向かう道は布田道。布田道の詳細はコチラ

古道が残されているのは100mにも足りませんが、150年以上も前に彼らが実際に歩いた同じ道を歩いている!っていうだけで、興奮を抑えきれません♪


さて、折角なのでそのままよこやまの道を歩いてみることにします。
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図中、赤い点線がよこやまの道です。
近年になって整備された遊歩道ですが、元々この尾根道は古代の昔から利用されていたようです。
中央、現在地と書かれた辺りから東へ向かいます。

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一本杉公園内に移築された古民家、旧加藤家住宅。

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旧加藤家住宅内部
古民家って、何故にこんなに涼しげなんでしょうねぇ…(^_^)

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こちらは旧有山家住宅

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公園を抜けて公道に出ても、辻々の至る所に標識が立っているので、迷うことはありません。

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妙櫻寺の手前(緑のフェンスがある辺り)を右折し・・・

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あちらの尾根上を進みます。

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妙櫻寺裏の尾根道

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現在の鎌倉街道
よ~く見ると広い谷底のような場所を通っていますが、この地形、実は自然地形なのだそうです。
奥州藤原氏征伐に向かう源頼朝や、鎌倉攻めの新田義貞、観応の擾乱での足利尊氏、更には上杉謙信も小田原攻め後の帰路で大軍を通すのに利用したと考えられているそうです。

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古道五差路
詳しいことは分かりませんが、これらもいちいち古道らしいです(笑)

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この左側の藪の中にはひっそりと・・・

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よこやまの道の石碑がありました。
更にこの奥、写っているフェンスの向こうには・・・

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かなり規模の大きい古道の跡らしきものが確認できました。
案内図などと照らし合わせると、古代東海道の跡のようです。

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掘割状の古道・・・いい☆

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分倍河原合戦の前夜、鎌倉を目指して南下する新田義貞軍を迎撃するため、鎌倉を発した幕府方・北条泰家軍が布陣したと云われる場所。
写真奥の北側に多摩川が流れており、川を挟んで対峙しました。
※地理的にいって実際にはもう少し東、川崎市域に入った側だったとは思いますが。

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そして・・・ようやく到着、防人見返りの峠
よこやまの道、即ち多摩の横山万葉集にも詠われています。

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赤駒を 山野に放し 捕りかにて
多摩の横山 徒歩のゆか遣らむ

※一本杉公園内にて撮影

遠い防人の役に向かう夫のために用意した馬を放してしまい、徒歩で出発させることになってしまったことを嘆く心情を詠ったものでしょうか・・・。
いずれにせよ、遥か古代の昔から人々の営みがこの地に存在したことは確かです。

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防人見返りの峠からの風景
遥か彼方、九州の地へ赴く時、もう生きては戻れないかもしれぬ故郷を仰ぎ見る心情とはいかばかりであったか・・・。

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ここまで歩いてきた尾根を振り仰ぐ。
弓なりにカーブした多摩丘陵の尾根の形状がよく分かります。

よこやまの道
道はよく整備されているし、アップダウンもきつくないのでお手軽な歴史散策にはもってこいですよ☆

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2015年6月14日 (日)

青梅宿 津雲邸「幕末維新展」

自宅から愛車でサクッと30分、JR青梅駅南口の青梅宿へ。

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昭和レトロ」というフレーズは、青梅が発祥なのだそうです。
そのため、宿場の通り一帯に「昭和」を連想させる看板やオブジェが並びます。

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バス停も…♪

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昭和レトロ商品博物館

しかし、私の目的は「昭和」ではなく・・・

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こちら☆ 津雲邸で開催されている幕末維新展
(2015年7月20日までの金・土・日・祝のみ)

元衆議院議員・津雲國利によって昭和9年に築かれた邸宅で拝観する貴重な品々は、ちょっと想像を超えていました。
主なところを挙げると・・・

近藤勇の弐百両借用書
新選組による組織としての保証書付)
近藤勇の木刀
→津雲國利が近藤の養子・勇五郎から譲り受けたもの
※津雲國利は、龍源寺の近藤家墓所に建つ近藤勇辞世の詩碑を書いた人でもあります。

久坂玄瑞→西郷隆盛宛書状
→宛名が西郷の変名「大島某」になっているもの

木戸孝允→三条実美宛書状
版籍奉還実現に向け、まずは自藩の毛利敬親を説得した旨を知らせるもの。
長州・薩摩・土佐・佐賀の四藩から始められれば…と述べられている。

伊藤博文の書
伊藤博文→黒田清隆宛書状
→篠のい鉄道建設に関する内容

その他;
大久保一翁「敬天愛人」の書
徳川慶喜「月可悦」の書
→静岡の浮月楼で書いたとされるもの
・勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟のいわゆる「幕末の三舟」それぞれの書状
藤田東湖書状
原敬→大隈重信宛書状(の下書き?)
etc…

図録がなく、展示の解説もあまり詳しい内容にまで突っ込んではいなかったので細部まで把握し切れませんでしたが、とにかく凄いラインナップ。
版籍奉還に関する木戸孝允の書状などは「何故ここに!?」と驚きを禁じ得ませんでした。
幕末維新の歴史に興味をお持ちの方には断然、お薦めします。

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また、建物自体もとても素敵です。
特に部屋毎に、屋久杉の一枚板・すす竹・杉の樹皮などと趣を変えた天井が目を楽しませてくれました。
※スマホのレンズが駄目で…ろくな写真がなくてゴメンなさい!(>_<)

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2015年6月11日 (木)

小原沢の戦い (幕末戊辰戦争)

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東武下今市駅から乗った会津若松行の電車。
東武鬼怒川線は大桑・高徳(新高徳)・小佐越と、しばらくは会津西街道に沿って進みます。

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そして今回は鬼怒川公園駅で下車します。

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2度に渡る今市での攻防戦(慶応4年閏4月下旬~5月上旬)に敗れた大鳥圭介率いる旧幕府脱走軍(以下:大鳥軍)は、今市から会津西街道伝いに北上した小佐越や大原などに前衛部隊を残し、本陣は藤原宿まで後退させました。
この藤原には結局、7月下旬頃まで滞陣しています。

その間の慶応4年6月24日、大鳥は相談事があり、山川大蔵が滞在する五十里に出向きます。
そこへ藤原からの急使が駆け込み、今市の新政府軍が小佐越大原(私が下車した鬼怒川公園駅の一つ南、鬼怒川温泉駅付近)まで攻め寄せていることを告げます。
大鳥が急いで藤原まで駆け戻ると大原から兵が戻り、敵の進攻を防ぎきれず既に退却したといいます(25日)。

今夜は暫く眠らず、小泉村胸壁築立の事を指揮し七つ時頃より余も小原に出張し先ず本道と川向うとを防ぐ胸壁を築立てんと頻りに人足を鞭韃して之を急ぎ、
南柯紀行

翌日には敵が藤原まで攻め寄せて来ることも予想されたので、大鳥は藤原と大原の間にある小原へ出向き、寝ずに迎撃態勢構築に奔走します。

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鬼怒川公園駅の南、会津西街道が国道から一旦分かれる付近で見つけた鬼怒川戊辰街道の石碑

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実際の旧街道はこの車道の右上、白い壁の向こう側を通っていたようですが・・・

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すぐ先で下ってきて戊辰街道の石碑がある車道を跨ぎ・・・

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沢に向かって左の小道へと繋がります。
この先が・・・

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小原沢の古戦場になります。

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大鳥は、新政府軍が北上してくる(であろう)会津西街道を横切っていた小原の沢(写真左下)を防衛ラインに見立て、これを死守するため右の小山に胸壁(塹壕)を築かせたのです。

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殉難碑
小原沢での戦いの様子や戦死者の名前などが刻まれています。

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小山の斜面に段々に築かれた大鳥軍の塹壕跡
周辺は藪もなく、遺構が綺麗に表出していました。

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これほど形状がはっきりしていれば銃兵がどこで構えどの方角を狙っていたのかも容易に想像がつきます。

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銃兵と対峙する正面側から
これほどまで綺麗に残っているとは期待していなかったので、驚くのと同時に感動すら覚えました。

漸く半出来たる頃、即二十六日朝五つ時頃にもありたるか小佐越の方に当り小銃の声遥に聞こえたり、
南柯紀行

迎えた翌26日の午前8時頃、遂に新政府軍が攻め上ってきました。
小原の胸壁(塹壕)はまだ完全には出来上がってはいませんでしたが、大鳥もこれに拠って新政府軍を迎え撃ちます。

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塹壕跡から新政府軍が迫る南方向を見る。
この日の戦闘は谷を挟んで互いに小銃の撃ち合いが暫く続きます。大鳥が;

敵味方とも小谷を隔て小高き処にあれば双方とも近寄る能わず

と記しているので、新政府軍が布陣したのは沢を挟んだ対岸、会津西街道小高い位置を通る白い壁の向こう辺りでしょうか。

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互いに身動きの取れない状態が続きますが、正午過ぎになって大鳥が予備の兵を投入すると、新たな兵の参戦に力を得た大鳥軍将兵は刀を抜いて胸壁を飛び出し、沢を渡って敵陣に斬り込みをかけます。

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これに狼狽した新政府軍は徐々に崩れだし、遂には南方へ向かって敗走を始めました。
こうして大鳥軍は、何とか新政府軍の撃退に成功したのです。

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塹壕の小山から街道伝いに少し北へ進むと、弾除けの松(二代目)があります。

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足元に転がるこちらが初代の松
大鳥軍と共に戦っていた会津藩の兵が、この松の陰に隠れて難を逃れたとの逸話が残ります。
平成8年、突風により残念ながら倒れました。

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会津へ向かい、どこまでも伸びる会津西街道
あまり触れてきませんでしたが、先に今市から会津へ向かった土方歳三も、きっとこの道を通ったことと思います。
大鳥軍が宿営していた藤原宿もこの先にあります。

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ところで鬼怒川公園駅近くには、その藤原宿にあった旅籠が移築保存されています。
仲附の旅籠
大鳥軍の誰かしらが泊っていた可能性もありますよね。

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7月下旬、大鳥圭介は藤原宿を発って会津へ向かい、そして会津藩の要請を受けて石莚口の母成峠へと転陣していくのでした。。。

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2015年6月10日 (水)

今市攻防戦 (幕末戊辰戦争)

慶応4年4月23日の第2次宇都宮城攻防戦に敗れた旧幕府脱走軍(以下:大鳥軍)は、今市を経て日光へと敗走します。

宇津ノ宮(宇都宮)城ハ又敵ノ有トナル。同(4月)廿四日、日光今市両所エ引揚屯集ス。同廿四日朝土方公ヨリ日光千人隊詰所エ参リ、土方勇太郎ト申者ヲ呼寄ヘク旨被命直様出立、同人同道ニ而帰館ス。土方公面談云々有之。
中島登覚え書

宇都宮戦で足を負傷し、一足先に今市まで運ばれていた土方歳三は24日、中島登に命じて日光東照宮へ赴かせ、日光勤番(火之番)中の八王子千人同心の一員で幼馴染でもある土方勇太郎を迎えに行かせます。
今市へ呼び寄せた勇太郎に歳三は、宇都宮で恐怖から逃走しようとしたために自ら斬った配下の兵の供養を依頼したと云われています。

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宇都宮方面から今市へと向かう日光街道
敗走する大鳥圭介は敵の目を欺くため、日光街道を避けて山中を通ったようですが、先に運ばれた土方ら負傷者はきっとこの道を通ったことでしょう。

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日光街道は今市宿の手前で例幣使街道と合流します。
写真右から真っ直ぐ前方に伸びている杉並木が日光街道で、左から合流してきている杉並木が例幣使街道のものです。

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ちなみに、こちらが例幣使街道の杉並木(追分とは別の地点で撮影)

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日光街道と例幣使街道の追分
この付近に今市宿東木戸がありました。宿場の東の玄関口ということになります。
(下地図地点)

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追分の真ん中に据えられている追分地蔵尊
歴代の徳川将軍が日光参詣のためにこの地を通行する折、こちらの地蔵は御目障りとの理由から幕で覆われていたそうです。しかし後に八代将軍・吉宗が地蔵のことを知り、以後は覆いをとるように命じたとの逸話が残っています。

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今市宿本陣跡(左側)一帯
本陣周辺には脇本陣や名主宅も集中していたようです。

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現在は市緑ひろばになっている脇本陣跡

土方が泊り、勇太郎を呼び寄せた場所もこれらのいずれかでしょうか。

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但し本陣は1843年の時点で焼失して未だ再建されず、との記録がありますし、脇本陣跡の方に明治天皇御小休之蹟碑がありましたので、やはり慶応4年時点でも本陣は再建されていなかったのではないかと思われます。

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なお日光東照宮近くには現在、日光火之番八王子千人同心顕彰之燈が建てられています。
件の土方勇太郎や井上松五郎(新選組・井上源三郎の兄)らが参加していた日光勤番については、コチラ の記事もご参照ください。

既シテ昼九ツ時秋月土方両公警衛十余人引連会津表エ引揚ル。廿六日会領田嶋陣屋ニ至ル。
中島登覚え書

勇太郎との面談を終えた土方歳三や秋月登之助ら負傷者は24日のうちに今市を出立し、島田魁ら10数名の護衛と共に会津へ向かいました。会津西街道を北上し、26日には会津との国境を越えて田島に到着。以後、土方は会津七日町の清水屋で療養することになります。

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今市宿、日光街道から会津西街道への入り口相の道(下地図地点)
会津西街道の始点です。土方らもここから会津へと向かったことでしょう。

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会津西街道を示す道標

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今市は日光街道・例幣使街道・会津西街道が交わる交通の要所相の道付近には道路元標も残されていました。

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少しだけ会津西街道を進みます。
素敵な折れです・・・

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会津西街道を進んですぐ、街道脇に建つ如来寺
徳川家光が日光東照宮造営に向け、自ら滞在するための御殿を建てた地でもあります。
寛文9年には父・秀忠の死去に伴い、同年4月の家康忌日法会には井伊直孝を代参させ、自らはここに留まって御三家を招いて食事をした記録も残っているそうです。
御殿廃止後も如来寺は、将軍参詣の度に休息所として利用されたようです。

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果たして、その御殿はどの辺りに建っていたのでしょうか。

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如来寺の山門脇には戊辰役戦死者供養塔が建ちます。
新政府軍、会津・旧幕府軍の別なく供養したものだそうです。建てられた年代にもよりますが、かなり珍しいのではないでしょうか。

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会津西街道をもう少し進んで・・・

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回向庵

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回向庵には今市、及びその周辺での戦闘で命を落とした新政府側の土佐藩士10名佐賀藩士14名らの官修墳墓が並びます。
賊軍とされた旧幕府兵や会津藩士らの各地に残る「戦死墓」と違い、新政府側の戦死者は一人一人丁寧に埋葬されています。

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更に北へと続く会津への道・・・


さて一方、日光へ入った大鳥軍ですが、当地では戦火に巻き込まれるのを恐れた東照宮や各寺院から退去を求める声が上がり、4月27日には今市へと引き返すことになります。

二十八日昨日垣沢没せり、三浦木村に頼み鉢石町の上なる寺院に埋葬せり。
南柯紀行

その間、日光では宇都宮戦で瀕死の重傷を負い、戸板に乗せて運ばれていた会津の柿沢勇記が命を落しています。

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鉢石町の・・・

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上なる寺院・・・

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柿沢の墓所は大鳥が記している通り、鉢石の坂上にある観音寺にあります。
山号は鉢石山

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柿澤勇記藤原重任墓

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側面には;

慶應四戊辰年四月廿五日
於野州宇都宮城外戦死
行年三十六歳


ちなみに柿沢が死去した日付について、大鳥は二十八日昨日=27日のこととしていますが、墓石では25日となっています。
大鳥は宇都宮城敗走からの数日間の動きを1日ずれて記すなど、南柯紀行には日付の間違いも見受けられます。
また、会津に建てられた柿沢のお墓にも25日とあるようなので、実際に亡くなったのは25日だったのでしょう。

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柿沢のお墓は日光市役所支所の真裏にありました。
私は最初に訪れた際、下調べをしていなかったので全く見つけられませんでした。ご訪問の際はご注意を。

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観音寺墓地山頂から見下ろす日光の街並み。

4月28日、板垣退助率いる土佐藩兵を中心とした新政府軍が、大鳥らが日光から移動してきたばかりの今市の隣り、大沢まで迫ってきます。

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日光東照宮、神橋近くに建つ板垣退助の像
現地説明板によると、日光に立て籠もる大鳥らを“説得して”退去させ、日光の社寺を戦火から守った功績を讃えたものらしいのですが・・・説得??(-_-;)

今市は主要な街道が幾重にも交差する重要な地。しかしその分、それを守るには多くの兵を要しますし、武器弾薬の補給もままなりません。
結果、翌29日に大鳥らは新政府軍との衝突を嫌って再び日光へ退き、その上で一旦会津領へ向かって態勢を立て直すことに決します。
ところが・・・

(閏4月1日)今早朝土州の人数已に今市に入り来る由なれば、草風隊並に伝習一小隊を七里村に出して今市に備えしむ、午時頃今市の方に砲声聞ゆるの報告あり、
南柯紀行

大鳥軍が日光へ立ち退いた翌閏4月1日には、早くも新政府軍が今市まで進んできました。
大鳥は日光の東、今市との間にある七里村へ草風隊や伝習隊一小隊を派遣して今市への備えとしますが、新政府軍も兵を出してきたため、草風隊らとの間で砲撃戦が始まります。

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七里村の東、日光街道杉並木に残る砲弾打込杉(下地図地点)
この閏4月1日の戦闘での痕跡と推定されています。
・・・が、七里村からはだいぶ東に離れていますので、日光を守る「備え」としては少々突出し過ぎている印象。
或いは、この後でご紹介する第1次今市攻防戦でのものだったかもしれません。

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幹の凹んだ部分が砲弾の当たった箇所とのことでしたが、正直どれのことか分かり辛かったです。

この日の戦闘は互いに兵を退いたため、大きな戦いには発展しませんでした。
大鳥はこれ以上の新政府軍との対峙を避け、即日会津へ向けて出発することにしました。

会津へ向かう道すがら五十里、横川を過ぎ、三王峠を越えた峠下の茶屋では会津藩若年寄(当時)の山川大蔵と出会っています。後の鶴ヶ城籠城戦での彼岸獅子の入城で勇名を馳せた人物。大鳥は山川を;

性質怜悧
(大鳥)一見其共に語るべきを知りたれば百事打合大に力を得たり。

と評しています。以後、彼らは行軍を共にすることになります。


第1次今市攻防戦

閏4月5日に会津田島に着いた大鳥はここで態勢を整え、同18日に今市奪還を目指して再び出発します。
会津西街道を南下し、20日には藤原へ着着。更に陣を進めて小佐越に至ります。
以降の数日間は斥候同士の小競り合い程度に終始しますが・・・

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二十六日早暁今市を攻む其手筈は第二大隊の一小隊を貫義隊(山川)と合し、大沢口へ向わしめ第二大隊其余の小隊を以て小百に出で御料兵を小百高百の押えに残し置き、伝習隊は残らず瀬尾に出で大谷川を渡り七里村と今市の間に進みたり。
南柯紀行

図のように日光街道で今市を挟み撃ちにする作戦ですが、大沢口に進んだ山川率いる貫義隊らの進軍が早過ぎたため、伝習隊が大谷川を渡る前に戦闘が始まってしまいます。
なお伝習隊が経由した瀬尾今市のすぐ真北にあたりますが、大鳥が「七里村と今市の間に進み」と書いていることもあり、敵本営と直接戦いながら渡河する不利を避け、むしろ挟撃するために瀬尾から少し西へ迂回したのではないかと考えました。

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日光街道杉並木から見る大谷川越しの瀬尾方面

急ぎて流を渡り杉並樹の間に出で
南柯紀行

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大谷川を渡った先の日光街道杉並木
先に紹介した砲弾打込杉から今市方向を見た様子です。
瀬尾から西へ回った伝習隊のうち、大川正次郎率いる一小隊は七里村へ向かって日光からの敵の押さえとなり、沼間・滝川のニ小隊が写真の辺りから今市に向かって進んだものと思われます。

この時、既に大沢口の銃声は止んで貫義隊らは敗走しています。これにより、貫義隊に応戦していた新政府軍の兵も西の伝習隊への対応に回ってきたため多勢に無勢、伝習隊も撤退を余儀なくされました

この第1次今市攻防戦、大鳥圭介自身は小佐越に残っており、今市周辺での戦闘の模様は山川・滝川・沼間らから聞いています。
隊をあまりにも分散し過ぎたことを悔い、この敗戦は自らの戦略の至らなさが招いたことと反省しています。
※第1次今市戦の日付については諸説あるようですが、ここでは大鳥圭介の「南柯紀行」に則り、閏4月26日としました。


●ここで本題からは少し外れますが、今市戦跡めぐりの折、私は今市から日光まで日光街道を歩き通しましたので、旧街道の他の写真も少しご紹介させていただきます。

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今市の市街地を抜け、再び杉並木へと入っていく日光街道
(注:左の車道ではなく、更に右の杉の樹間に入っていきます)
左には今市の総鎮守・瀧尾神社

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特別保護地域に指定されている区間は車の通行も制限されており、雰囲気も抜群です。

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旧街道特有の“折れ”も♪

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途中、何度か開けた場所にも出ましたが・・・

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すぐにまた♪

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先ほどご紹介した砲弾打込杉を通過・・・

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この付近では、何気なく目を横に向けると・・・

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・・・ん!?

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なんと旧街道の脇を、深く掘り込まれた横堀のような遺構が並行して伸びていました。

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一瞬、日光街道の副道(脇往還)のような道の遺構かとも思いましたが、土橋まで架かっていたので…本当になんでしょうね?これは・・・

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ひたすら西へ進み、一旦現在の国道と合流する地点。
この先の国道沿いに・・・

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並木太郎
街道の並木中、最大の巨木だそうです。

今市の市街から日光(の社寺)まで、その距離およそ7㎞。
結構疲れましたが素晴らしい景観と風情、歴史の重みに飽きることなく堪能できました☆

本題に戻ります。


◆第2次今市攻防戦

5月5日、今市への再進攻を決めた大鳥軍は大桑村に集まり、荊沢付近に橋を架けて大沢口から攻め込む手筈を整えます。そして翌6日・・・

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六日夜八つ半時大桑村出発、荊沢前にて大谷川を渡り五ツ時頃森友村の前に至り、城取隊を大谷川にて右翼となし田中隊を左翼となし板橋街道(例幣使街道)より向わしめ、第三大隊は本道(日光街道)の先鋒となり第二大隊は本道の二番手となり進む、本道の兵と共に森友村に出で、夫より本道杉並樹の間を通りて今市関門より二三丁の処へ進みしに、
南柯紀行

前回の反省からか、今度は全軍を東の大沢口に集中させて今市の新政府軍へ攻撃をかける作戦に出ます。
日光街道を中心に大谷川沿い例幣使街道三手から攻め寄せて必死に奮戦するも、日光街道の背後、宇都宮方面より敵の援軍が押し寄せて挟み撃ちに遭い、最後は全軍崩れたちました。

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大鳥らが戦った「本道(日光街道)杉並樹の間を通りて今市関門(東木戸=追分付近)より二三丁の処」と思われる地点、その街道沿いにひっそりと建つ無名戦士の墓(地図地点)
今市での戦闘後、野晒しにされていた会津や旧幕府脱走兵らの遺体は地元住民の手により集められ、懇ろに葬られました。ここには大沢口方面での戦闘で散り、東木戸で首を晒されていた20数名の戦死者が葬られていると云います。

大鳥自身は山川大蔵らと共に敵の追手をかわしつつ敗走し、辛うじて小佐越まで逃れ切りました。
この後、大鳥軍は藤原宿(会津西街道/現在の新藤原駅周辺)まで後退することになります。

小原沢の戦い編へつづく

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2015年6月 9日 (火)

四百年式年大祭の日光東照宮

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6月6日(土)、新宿から東武特急スペーシアに乗り込んで東武日光へ。
駅前で待ち合わせたフォロワーさん方と合流し、向かう先は勿論・・・

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東照宮をはじめとする日光の社寺です☆

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日光東照宮は平成27年(2015)の今年、四百年式年大祭を迎えました。

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それに合わせ、歴代徳川将軍が東照宮参詣の折に利用した拝殿の将軍着座の間へ特別に入室し、御祈祷を受けられるツアーがあると聞き、矢も楯もたまらずに申し込んだのでした(笑)

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集合場所の社務所から巫女さんの案内でツアースタート!楽しみ♪
※そういえば我々を案内してくれた巫女さん、この4月から採用された新卒で3月まではなんと高校生だったとか!一癖も二癖もある(笑)大人たちを相手に大変だったでしょうが、よく頑張ってくれました☆

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まずは五重塔から。

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五重塔一階部分には東西南北全ての面に3つずつ、各方位に合わせた干支の彫刻が施されています。特別公開中だった今回、ぐるりと一周できたので全ての彫刻を確認できました。
そして境内に正対する東面は当然、。これは偶然にも家康(寅)・秀忠(卯)・家光(辰)三代の干支と合致するのだそうです…なんだか神懸りすら感じる偶然ですね。

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更に東京スカイツリーの構造にも応用されたという、五重塔を支える黄金の心柱(撮影禁止)も見学。

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しかも五重塔はとても特殊な技法で建てられており、心柱は上から吊るされる形で地面から浮いています・・・

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・・・撮影に失敗したのでこちらで…(;^ω^)

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三神庫の一、上神庫の尻尾が3本ある像

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そしてお馴染み…見ざる聞かざる言わざる三猿

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こちらは神厩舎の角にあるので…人生の曲がり角
崖っぷちで項垂れる猿を慰める猿…う~む、深い!←ww

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伊達政宗奉納、ポルトガルの鉄で鋳造した南蛮鉄燈籠

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壮麗な陽明門は修復中で外観を観れませんが、代わりに・・・

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普段は羽目板で覆われている東西の壁画;
東「岩笹梅之立木錦花鳥三羽」(梅と錦花鳥/上)
西「大和松岩笹巣篭鶴」(松と巣ごもりの鶴/下)
が公開されています。

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ビニールの覆いと暗さで若干見辛かったですが・・・
(写真は「梅と錦花鳥」)
そういえば、松と巣ごもりの鶴はちゃんと観れなかった…気がする。記憶に残っていない…(・・;)?

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こちらも言わずと知れた…眠り猫

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さぁ…いよいよ拝殿、将軍着座の間へ!
無論撮影禁止なので写真はありませんが、着座の間拝殿向かって右端にありました。
御祈祷を受け、二礼二拍手一礼で参拝した後は少しだけ着座の間の壮麗な造りを堪能しました。狩野探幽筆による襖絵も見事だし、格天井を見上げるとそこには一面びっしりと龍の絵。
ところが着座の間前方中央、まさに将軍が着座する位置の一段高く敷かれた半畳分の畳の真上には、その格子にだけ葵紋が・・・ゾクゾクしました。

貴重な機会、体験できてよかったです。

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最後に社務所へ戻り、直会(なおらい)の儀でツアーは〆です。ありがとうございました。
※神社の皆さん、随所で商魂逞しいのには少々辟易とさせられましたが…(^_^;)ノルマでも課せられているんですかね?(笑)

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さて、ツアー終了後はフォロワーさん方とぶらぶら。
まずは今年リニューアルオープンしたばかりの日光東照宮宝物館へ。
家康所用の南蛮胴具足や刀剣類も凄かったですが、個人的には家康が朝廷から授かった;
征夷大将軍宣旨
太政大臣宣旨
や、
東照公御遺訓
などが強く印象に残りました。
シアタールームで上映された陽明門のCGムービーも綺麗でした。

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御仮殿
こちらも特別公開中…の筈でしたが、何故か我々が行った時はCLOSE・・・

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お次は日光山輪王寺

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輪王寺でも三仏堂の解体修理の様子を見学できたり、、、

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他にも風神・雷神像(元陽明門祭祀)など貴重な品々が特別に公開されています。

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7階の天空回廊から見る三仏堂、解体修理の様子・・・解体され過ぎてもはや何か分からない…(;^ω^)

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お腹も空いてきたので一旦輪王寺を離れ、日光珈琲へ。

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レトロな店内でいただく・・・

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黒カレーはまぁ…お値段に比してそれほどでもなかった(個人的感想)けど・・・

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かき氷は軽くて美味しかった☆
私はとちおとめをChoice!栃木といえば…ね♪

ところがここで、料理が出てくるのが遅かったこともありますが大幅に時間をとられてしまい、大猷院の閉門時間が迫ってしまう事態に・・・もうね、みんな猛ダッシュ!(笑)
そして・・・

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なんとか閉門1分前に間に合いました~(汗っ)

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大猷院では何と言っても、初公開家康公御位牌
結構遠目からだったので雰囲気だけですが、全体的に金色に輝いているように見えました。

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徳川家光廟、奥院へと続く皇嘉門

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閉門された大猷院
なんとか拝観叶ってよかった・・・

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最後に神橋

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そうそう、神橋の近くに旧道跡のような遺構?がありました・・・往時の参道でしょうか?

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JR日光駅舎
この後は宇都宮へ向かい・・・

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勿論、餃子で打ち上げ~☆

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具も様々で美味しかったです♪

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他の方々は日帰りで戻られるのでお見送りして、私は引き続き宇都宮で過ごす夜・・・

翌日の今市~小原沢戦跡めぐりに備えます。

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