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2015年6月10日 (水)

今市攻防戦 (幕末戊辰戦争)

慶応4年4月23日の第2次宇都宮城攻防戦に敗れた旧幕府脱走軍(以下:大鳥軍)は、今市を経て日光へと敗走します。

宇津ノ宮(宇都宮)城ハ又敵ノ有トナル。同(4月)廿四日、日光今市両所エ引揚屯集ス。同廿四日朝土方公ヨリ日光千人隊詰所エ参リ、土方勇太郎ト申者ヲ呼寄ヘク旨被命直様出立、同人同道ニ而帰館ス。土方公面談云々有之。
中島登覚え書

宇都宮戦で足を負傷し、一足先に今市まで運ばれていた土方歳三は24日、中島登に命じて日光東照宮へ赴かせ、日光勤番(火之番)中の八王子千人同心の一員で幼馴染でもある土方勇太郎を迎えに行かせます。
今市へ呼び寄せた勇太郎に歳三は、宇都宮で恐怖から逃走しようとしたために自ら斬った配下の兵の供養を依頼したと云われています。

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宇都宮方面から今市へと向かう日光街道
敗走する大鳥圭介は敵の目を欺くため、日光街道を避けて山中を通ったようですが、先に運ばれた土方ら負傷者はきっとこの道を通ったことでしょう。

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日光街道は今市宿の手前で例幣使街道と合流します。
写真右から真っ直ぐ前方に伸びている杉並木が日光街道で、左から合流してきている杉並木が例幣使街道のものです。

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ちなみに、こちらが例幣使街道の杉並木(追分とは別の地点で撮影)

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日光街道と例幣使街道の追分
この付近に今市宿東木戸がありました。宿場の東の玄関口ということになります。
(下地図地点)

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追分の真ん中に据えられている追分地蔵尊
歴代の徳川将軍が日光参詣のためにこの地を通行する折、こちらの地蔵は御目障りとの理由から幕で覆われていたそうです。しかし後に八代将軍・吉宗が地蔵のことを知り、以後は覆いをとるように命じたとの逸話が残っています。

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今市宿本陣跡(左側)一帯
本陣周辺には脇本陣や名主宅も集中していたようです。

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現在は市緑ひろばになっている脇本陣跡

土方が泊り、勇太郎を呼び寄せた場所もこれらのいずれかでしょうか。

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但し本陣は1843年の時点で焼失して未だ再建されず、との記録がありますし、脇本陣跡の方に明治天皇御小休之蹟碑がありましたので、やはり慶応4年時点でも本陣は再建されていなかったのではないかと思われます。

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なお日光東照宮近くには現在、日光火之番八王子千人同心顕彰之燈が建てられています。
件の土方勇太郎や井上松五郎(新選組・井上源三郎の兄)らが参加していた日光勤番については、コチラ の記事もご参照ください。

既シテ昼九ツ時秋月土方両公警衛十余人引連会津表エ引揚ル。廿六日会領田嶋陣屋ニ至ル。
中島登覚え書

勇太郎との面談を終えた土方歳三や秋月登之助ら負傷者は24日のうちに今市を出立し、島田魁ら10数名の護衛と共に会津へ向かいました。会津西街道を北上し、26日には会津との国境を越えて田島に到着。以後、土方は会津七日町の清水屋で療養することになります。

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今市宿、日光街道から会津西街道への入り口相の道(下地図地点)
会津西街道の始点です。土方らもここから会津へと向かったことでしょう。

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会津西街道を示す道標

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今市は日光街道・例幣使街道・会津西街道が交わる交通の要所相の道付近には道路元標も残されていました。

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少しだけ会津西街道を進みます。
素敵な折れです・・・

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会津西街道を進んですぐ、街道脇に建つ如来寺
徳川家光が日光東照宮造営に向け、自ら滞在するための御殿を建てた地でもあります。
寛文9年には父・秀忠の死去に伴い、同年4月の家康忌日法会には井伊直孝を代参させ、自らはここに留まって御三家を招いて食事をした記録も残っているそうです。
御殿廃止後も如来寺は、将軍参詣の度に休息所として利用されたようです。

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果たして、その御殿はどの辺りに建っていたのでしょうか。

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如来寺の山門脇には戊辰役戦死者供養塔が建ちます。
新政府軍、会津・旧幕府軍の別なく供養したものだそうです。建てられた年代にもよりますが、かなり珍しいのではないでしょうか。

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会津西街道をもう少し進んで・・・

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回向庵

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回向庵には今市、及びその周辺での戦闘で命を落とした新政府側の土佐藩士10名佐賀藩士14名らの官修墳墓が並びます。
賊軍とされた旧幕府兵や会津藩士らの各地に残る「戦死墓」と違い、新政府側の戦死者は一人一人丁寧に埋葬されています。

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更に北へと続く会津への道・・・


さて一方、日光へ入った大鳥軍ですが、当地では戦火に巻き込まれるのを恐れた東照宮や各寺院から退去を求める声が上がり、4月27日には今市へと引き返すことになります。

二十八日昨日垣沢没せり、三浦木村に頼み鉢石町の上なる寺院に埋葬せり。
南柯紀行

その間、日光では宇都宮戦で瀕死の重傷を負い、戸板に乗せて運ばれていた会津の柿沢勇記が命を落しています。

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鉢石町の・・・

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上なる寺院・・・

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柿沢の墓所は大鳥が記している通り、鉢石の坂上にある観音寺にあります。
山号は鉢石山

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柿澤勇記藤原重任墓

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側面には;

慶應四戊辰年四月廿五日
於野州宇都宮城外戦死
行年三十六歳


ちなみに柿沢が死去した日付について、大鳥は二十八日昨日=27日のこととしていますが、墓石では25日となっています。
大鳥は宇都宮城敗走からの数日間の動きを1日ずれて記すなど、南柯紀行には日付の間違いも見受けられます。
また、会津に建てられた柿沢のお墓にも25日とあるようなので、実際に亡くなったのは25日だったのでしょう。

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柿沢のお墓は日光市役所支所の真裏にありました。
私は最初に訪れた際、下調べをしていなかったので全く見つけられませんでした。ご訪問の際はご注意を。

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観音寺墓地山頂から見下ろす日光の街並み。

4月28日、板垣退助率いる土佐藩兵を中心とした新政府軍が、大鳥らが日光から移動してきたばかりの今市の隣り、大沢まで迫ってきます。

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日光東照宮、神橋近くに建つ板垣退助の像
現地説明板によると、日光に立て籠もる大鳥らを“説得して”退去させ、日光の社寺を戦火から守った功績を讃えたものらしいのですが・・・説得??(-_-;)

今市は主要な街道が幾重にも交差する重要な地。しかしその分、それを守るには多くの兵を要しますし、武器弾薬の補給もままなりません。
結果、翌29日に大鳥らは新政府軍との衝突を嫌って再び日光へ退き、その上で一旦会津領へ向かって態勢を立て直すことに決します。
ところが・・・

(閏4月1日)今早朝土州の人数已に今市に入り来る由なれば、草風隊並に伝習一小隊を七里村に出して今市に備えしむ、午時頃今市の方に砲声聞ゆるの報告あり、
南柯紀行

大鳥軍が日光へ立ち退いた翌閏4月1日には、早くも新政府軍が今市まで進んできました。
大鳥は日光の東、今市との間にある七里村へ草風隊や伝習隊一小隊を派遣して今市への備えとしますが、新政府軍も兵を出してきたため、草風隊らとの間で砲撃戦が始まります。

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七里村の東、日光街道杉並木に残る砲弾打込杉(下地図地点)
この閏4月1日の戦闘での痕跡と推定されています。
・・・が、七里村からはだいぶ東に離れていますので、日光を守る「備え」としては少々突出し過ぎている印象。
或いは、この後でご紹介する第1次今市攻防戦でのものだったかもしれません。

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幹の凹んだ部分が砲弾の当たった箇所とのことでしたが、正直どれのことか分かり辛かったです。

この日の戦闘は互いに兵を退いたため、大きな戦いには発展しませんでした。
大鳥はこれ以上の新政府軍との対峙を避け、即日会津へ向けて出発することにしました。

会津へ向かう道すがら五十里、横川を過ぎ、三王峠を越えた峠下の茶屋では会津藩若年寄(当時)の山川大蔵と出会っています。後の鶴ヶ城籠城戦での彼岸獅子の入城で勇名を馳せた人物。大鳥は山川を;

性質怜悧
(大鳥)一見其共に語るべきを知りたれば百事打合大に力を得たり。

と評しています。以後、彼らは行軍を共にすることになります。


第1次今市攻防戦

閏4月5日に会津田島に着いた大鳥はここで態勢を整え、同18日に今市奪還を目指して再び出発します。
会津西街道を南下し、20日には藤原へ着着。更に陣を進めて小佐越に至ります。
以降の数日間は斥候同士の小競り合い程度に終始しますが・・・

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二十六日早暁今市を攻む其手筈は第二大隊の一小隊を貫義隊(山川)と合し、大沢口へ向わしめ第二大隊其余の小隊を以て小百に出で御料兵を小百高百の押えに残し置き、伝習隊は残らず瀬尾に出で大谷川を渡り七里村と今市の間に進みたり。
南柯紀行

図のように日光街道で今市を挟み撃ちにする作戦ですが、大沢口に進んだ山川率いる貫義隊らの進軍が早過ぎたため、伝習隊が大谷川を渡る前に戦闘が始まってしまいます。
なお伝習隊が経由した瀬尾今市のすぐ真北にあたりますが、大鳥が「七里村と今市の間に進み」と書いていることもあり、敵本営と直接戦いながら渡河する不利を避け、むしろ挟撃するために瀬尾から少し西へ迂回したのではないかと考えました。

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日光街道杉並木から見る大谷川越しの瀬尾方面

急ぎて流を渡り杉並樹の間に出で
南柯紀行

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大谷川を渡った先の日光街道杉並木
先に紹介した砲弾打込杉から今市方向を見た様子です。
瀬尾から西へ回った伝習隊のうち、大川正次郎率いる一小隊は七里村へ向かって日光からの敵の押さえとなり、沼間・滝川のニ小隊が写真の辺りから今市に向かって進んだものと思われます。

この時、既に大沢口の銃声は止んで貫義隊らは敗走しています。これにより、貫義隊に応戦していた新政府軍の兵も西の伝習隊への対応に回ってきたため多勢に無勢、伝習隊も撤退を余儀なくされました

この第1次今市攻防戦、大鳥圭介自身は小佐越に残っており、今市周辺での戦闘の模様は山川・滝川・沼間らから聞いています。
隊をあまりにも分散し過ぎたことを悔い、この敗戦は自らの戦略の至らなさが招いたことと反省しています。
※第1次今市戦の日付については諸説あるようですが、ここでは大鳥圭介の「南柯紀行」に則り、閏4月26日としました。


●ここで本題からは少し外れますが、今市戦跡めぐりの折、私は今市から日光まで日光街道を歩き通しましたので、旧街道の他の写真も少しご紹介させていただきます。

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今市の市街地を抜け、再び杉並木へと入っていく日光街道
(注:左の車道ではなく、更に右の杉の樹間に入っていきます)
左には今市の総鎮守・瀧尾神社

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特別保護地域に指定されている区間は車の通行も制限されており、雰囲気も抜群です。

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旧街道特有の“折れ”も♪

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途中、何度か開けた場所にも出ましたが・・・

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すぐにまた♪

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先ほどご紹介した砲弾打込杉を通過・・・

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この付近では、何気なく目を横に向けると・・・

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・・・ん!?

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なんと旧街道の脇を、深く掘り込まれた横堀のような遺構が並行して伸びていました。

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一瞬、日光街道の副道(脇往還)のような道の遺構かとも思いましたが、土橋まで架かっていたので…本当になんでしょうね?これは・・・

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ひたすら西へ進み、一旦現在の国道と合流する地点。
この先の国道沿いに・・・

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並木太郎
街道の並木中、最大の巨木だそうです。

今市の市街から日光(の社寺)まで、その距離およそ7㎞。
結構疲れましたが素晴らしい景観と風情、歴史の重みに飽きることなく堪能できました☆

本題に戻ります。


◆第2次今市攻防戦

5月5日、今市への再進攻を決めた大鳥軍は大桑村に集まり、荊沢付近に橋を架けて大沢口から攻め込む手筈を整えます。そして翌6日・・・

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六日夜八つ半時大桑村出発、荊沢前にて大谷川を渡り五ツ時頃森友村の前に至り、城取隊を大谷川にて右翼となし田中隊を左翼となし板橋街道(例幣使街道)より向わしめ、第三大隊は本道(日光街道)の先鋒となり第二大隊は本道の二番手となり進む、本道の兵と共に森友村に出で、夫より本道杉並樹の間を通りて今市関門より二三丁の処へ進みしに、
南柯紀行

前回の反省からか、今度は全軍を東の大沢口に集中させて今市の新政府軍へ攻撃をかける作戦に出ます。
日光街道を中心に大谷川沿い例幣使街道三手から攻め寄せて必死に奮戦するも、日光街道の背後、宇都宮方面より敵の援軍が押し寄せて挟み撃ちに遭い、最後は全軍崩れたちました。

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大鳥らが戦った「本道(日光街道)杉並樹の間を通りて今市関門(東木戸=追分付近)より二三丁の処」と思われる地点、その街道沿いにひっそりと建つ無名戦士の墓(地図地点)
今市での戦闘後、野晒しにされていた会津や旧幕府脱走兵らの遺体は地元住民の手により集められ、懇ろに葬られました。ここには大沢口方面での戦闘で散り、東木戸で首を晒されていた20数名の戦死者が葬られていると云います。

大鳥自身は山川大蔵らと共に敵の追手をかわしつつ敗走し、辛うじて小佐越まで逃れ切りました。
この後、大鳥軍は藤原宿(会津西街道/現在の新藤原駅周辺)まで後退することになります。

小原沢の戦い編へつづく

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