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2015年6月11日 (木)

小原沢の戦い (幕末戊辰戦争)

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東武下今市駅から乗った会津若松行の電車。
東武鬼怒川線は大桑・高徳(新高徳)・小佐越と、しばらくは会津西街道に沿って進みます。

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そして今回は鬼怒川公園駅で下車します。

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2度に渡る今市での攻防戦(慶応4年閏4月下旬~5月上旬)に敗れた大鳥圭介率いる旧幕府脱走軍(以下:大鳥軍)は、今市から会津西街道伝いに北上した小佐越や大原などに前衛部隊を残し、本陣は藤原宿まで後退させました。
この藤原には結局、7月下旬頃まで滞陣しています。

その間の慶応4年6月24日、大鳥は相談事があり、山川大蔵が滞在する五十里に出向きます。
そこへ藤原からの急使が駆け込み、今市の新政府軍が小佐越大原(私が下車した鬼怒川公園駅の一つ南、鬼怒川温泉駅付近)まで攻め寄せていることを告げます。
大鳥が急いで藤原まで駆け戻ると大原から兵が戻り、敵の進攻を防ぎきれず既に退却したといいます(25日)。

今夜は暫く眠らず、小泉村胸壁築立の事を指揮し七つ時頃より余も小原に出張し先ず本道と川向うとを防ぐ胸壁を築立てんと頻りに人足を鞭韃して之を急ぎ、
南柯紀行

翌日には敵が藤原まで攻め寄せて来ることも予想されたので、大鳥は藤原と大原の間にある小原へ出向き、寝ずに迎撃態勢構築に奔走します。

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鬼怒川公園駅の南、会津西街道が国道から一旦分かれる付近で見つけた鬼怒川戊辰街道の石碑

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実際の旧街道はこの車道の右上、白い壁の向こう側を通っていたようですが・・・

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すぐ先で下ってきて戊辰街道の石碑がある車道を跨ぎ・・・

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沢に向かって左の小道へと繋がります。
この先が・・・

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小原沢の古戦場になります。

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大鳥は、新政府軍が北上してくる(であろう)会津西街道を横切っていた小原の沢(写真左下)を防衛ラインに見立て、これを死守するため右の小山に胸壁(塹壕)を築かせたのです。

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殉難碑
小原沢での戦いの様子や戦死者の名前などが刻まれています。

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小山の斜面に段々に築かれた大鳥軍の塹壕跡
周辺は藪もなく、遺構が綺麗に表出していました。

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これほど形状がはっきりしていれば銃兵がどこで構えどの方角を狙っていたのかも容易に想像がつきます。

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銃兵と対峙する正面側から
これほどまで綺麗に残っているとは期待していなかったので、驚くのと同時に感動すら覚えました。

漸く半出来たる頃、即二十六日朝五つ時頃にもありたるか小佐越の方に当り小銃の声遥に聞こえたり、
南柯紀行

迎えた翌26日の午前8時頃、遂に新政府軍が攻め上ってきました。
小原の胸壁(塹壕)はまだ完全には出来上がってはいませんでしたが、大鳥もこれに拠って新政府軍を迎え撃ちます。

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塹壕跡から新政府軍が迫る南方向を見る。
この日の戦闘は谷を挟んで互いに小銃の撃ち合いが暫く続きます。大鳥が;

敵味方とも小谷を隔て小高き処にあれば双方とも近寄る能わず

と記しているので、新政府軍が布陣したのは沢を挟んだ対岸、会津西街道小高い位置を通る白い壁の向こう辺りでしょうか。

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互いに身動きの取れない状態が続きますが、正午過ぎになって大鳥が予備の兵を投入すると、新たな兵の参戦に力を得た大鳥軍将兵は刀を抜いて胸壁を飛び出し、沢を渡って敵陣に斬り込みをかけます。

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これに狼狽した新政府軍は徐々に崩れだし、遂には南方へ向かって敗走を始めました。
こうして大鳥軍は、何とか新政府軍の撃退に成功したのです。

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塹壕の小山から街道伝いに少し北へ進むと、弾除けの松(二代目)があります。

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足元に転がるこちらが初代の松
大鳥軍と共に戦っていた会津藩の兵が、この松の陰に隠れて難を逃れたとの逸話が残ります。
平成8年、突風により残念ながら倒れました。

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会津へ向かい、どこまでも伸びる会津西街道
あまり触れてきませんでしたが、先に今市から会津へ向かった土方歳三も、きっとこの道を通ったことと思います。
大鳥軍が宿営していた藤原宿もこの先にあります。

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ところで鬼怒川公園駅近くには、その藤原宿にあった旅籠が移築保存されています。
仲附の旅籠
大鳥軍の誰かしらが泊っていた可能性もありますよね。

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7月下旬、大鳥圭介は藤原宿を発って会津へ向かい、そして会津藩の要請を受けて石莚口の母成峠へと転陣していくのでした。。。

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コメント

鬼怒川渓谷での戊辰戦争、興味深く拝読いたしました。
ところで、小原沢付近の絵図が掲載されておりますが、
この絵図は何処にあるかお教えいただけたらと思います。
『藤原町史』にはモノクロの小さな絵図があるだけのようですが?

投稿: 武雄 淳 | 2016年9月28日 (水) 20時46分

武雄様>ご訪問ありがとうございます。
この絵図は現地、鬼怒川公園に設置されていた案内板だったかと記憶しています。

投稿: しみず@管理人 | 2016年9月29日 (木) 10時44分

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