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2015年7月

2015年7月29日 (水)

太田道灌創建の法恩寺

錦糸町駅から徒歩10分ほど・・・

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墨田区太平1丁目、平河山法恩寺

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長禄2年(1458)、太田道灌が江戸に城を築くにあたり、その丑寅(北東=鬼門)の方角である平川口(山号の由来)に城内鎮護の祈願所として創建した本住院が始まりとされています。
その後、道灌の孫である資高が父・資康(道灌の子)の追善供養のため堂塔を再建し、資康の法名をとって法恩寺と改められました。
徳川家康の江戸入府後に数度の移転を経て、元禄元年(1688)より現在の地に建ちます。

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「江戸名所図会」にみる法恩寺
幕末の慶応4年4月には、江戸脱走を決めて市川国府台へ向かう元幕府歩兵奉行の大鳥圭介が、ここ法恩寺で本多幸七郎・大川正次郎らをはじめとする伝習隊と合流しています。

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道灌公記念碑
影で分かり辛いですが、道灌の詠んだ歌;

七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき

をモチーフに彫られています。

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太田道灌供養の五輪塔(右)
中央は開山・本住院日住上人の墓所

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参道から振り返る・・・
すぐ背後に聳えるスカイツリ―が、時の移ろいを鮮明に際立たせていますね。

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2015年7月22日 (水)

上野戦争めぐり

7月20日、前日からのメンバーであるサイガさん・みかんさんに加え、のんさんを含めた4人で上野戦争関連地めぐりをしてきました。
※上野戦争、及び関連史跡についてはコチラ の記事も参照ください。

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まずは地下鉄千代田線千駄木駅からスタート。
千駄木駅から地上に上がると、団子坂下に出ます。この団子坂の上には長州藩などが布陣しました。

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日暮里駅近く、経王寺山門に残る銃弾痕
経王寺は敗走した彰義隊士らを匿ったため、新政府軍の銃撃を受けています。

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谷中霊園&天王寺墓地を通ったので、私の希望でこちらのお墓にもお参りさせていただきました。

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大野右仲の墓所です。
唐津藩出身。戊辰戦争勃発後は藩主・小笠原長行に従って東北へ向かい、仙台では療養中の土方歳三を訪ねて新選組に参加します。
そのまま榎本艦隊に合流して箱館入りし、箱館政府では陸軍奉行並添役となって土方(陸軍奉行並)と共に二股口や箱館戦などで奮戦し、その補佐を務めました。
二股口参考記事

没年は明治44年、享年76
土方歳三最期の瞬間、その直前まで共に戦っていた人物・・・その彼が結構長生きされたことを知り、なんだかホッとしました。
一本木関門参考記事

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天王寺五重塔跡
昭和32年、放火により焼失しました。

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そして・・・最後の将軍、徳川慶喜墓所
初代家康と三代家光は日光ですが、その他の歴代将軍は14代までは全員、増上寺か寛永寺に葬られています。

地図
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上野戦争布陣図
上野台地上に建つ寛永寺に立て籠もる彰義隊に対し、新政府軍は薩摩の精鋭を正面に据え、不忍池を挟んで対岸の本郷台地上にはアームストロング砲を擁する佐賀、背後に長州を配置してぐるりと取り囲みます。
こうして現在の地図で確認してみても、地形から両軍の布陣意図が一目瞭然ですね。

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外側はコンクリートで固められているものの、現在も残る寛永寺の土塁とその断面
(地図

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上野東照宮、不忍口鳥居
この斜面は上野台地西側の縁になりますが、坂の途中の参道脇には・・・

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彰義隊が築いた塹壕らしき痕跡が見受けられます。
(地図

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上野公園の南端、寛永寺黒門跡地(西郷隆盛像から階段を下った脇)
ほぼ、地面の色が変わっているラインに沿って建っていました。

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かつては門前を流れていた忍川も今は暗渠となり、それに伴って三枚橋も消えてしまいましたが、その流路にあたるライン上には「みはし」(三橋?)というビルが・・・(・ω・ノ)ノ!

この三枚橋から黒門にかけての一帯が、正面から攻め寄せる薩摩勢との最激戦地となりました。

地下鉄で南千住まで移動し、円通寺へ・・・

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円通寺には、寛永寺から移築されたその黒門が保存されています。
無数の弾痕が、戦いの激しさを雄弁に物語ります・・・。

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死節之墓(手前)と、「戦死墓」とのみ刻まれた彰義隊士の墓(奥)
死節之墓は、戊辰戦争に於ける旧幕府方戦死者を供養したもので、土方歳三や伊庭八郎、古屋作左衛門、春日左衛門らの名が刻まれています。
※土方・伊庭らの名は墓石の真裏に彫られているので、見ることはできません。

また、彰義隊士の墓には戦場に放置されていた266の遺骸が上野山内(現在、上野公園内に建っている上野戦士之墓辺り)で荼毘に付され、埋葬されています。


さて、夏の暑さも相当に堪えていたので、今回の行程はここまでとしました。次は本郷の辺りも、改めてじっくり歩いてみたいと思います。
案内役のサイガさんをはじめ、ご参加の皆様、ありがとうございました。

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多摩の新選組 ~調布・府中・谷保・小野路~

7月19日、関西からみかんさんが上京されたので、サイガさんを合わせた3名で多摩に残る新選組ゆかりの地(但し今回は日野を除く)を、サクッと愛車で巡ってきました。
※当ブログ内で重複する史跡も多いので、本記事ではそれらは簡単に触れる程度に留めます。

まずはじめに向かったのは・・・
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新選組局長、近藤勇の生家跡

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現地案内板に掲載されている図面や、こちらの模型(調布市郷土博物館展示)写真とを見比べつつ、往時の姿を思い浮かて・・・

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人見街道を挟んで生家跡の向かいに建つ撥雲館
近藤勇の婿養子・勇五郎が開いた天然理心流の道場で、命名はなんと山岡鉄舟

生家跡から徒歩2~3分の龍源寺へ、近藤勇・勇五郎らの墓所にもお参りしてきました。

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龍源寺境内に建つ石灯籠
以前から何故、徳川家の葵紋が彫られているのか不思議だったのですが、居合わせたお寺の方のお話で納得。
こちらの灯籠、元は上野の寛永寺に寄進されていたものでした。それを龍源寺の親戚の方が入手して自宅に設置していたものを、後年お寺の方へ移したのだそうです。

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近藤勇墓所の脇に建つ、彼の辞世を刻んだ石碑は津雲國利の揮毫。
この週末(7/20)まで「幕末維新展」を開催していた青梅の津雲邸を建てた方です。
幕末維新展、津雲邸参考記事

車で少し移動して・・・
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西調布駅前、西光寺

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門前には近藤勇の銅像
慶応4年3月、新選組を主体とする甲陽鎮撫隊を率いて甲府を目指した近藤勇は、旧甲州道中を西へ進み、こちらの西光寺境内で休息を取り、更に門前の中村勘六家で歓待を受けました
京で名を馳せ、幕府旗本(若年寄格)にまで登り詰めた近藤が、ほんの一時とはいえ故郷に錦を飾った瞬間でした。
過酷な運命に翻弄され、彼が板橋で刑死するのはこの翌月のことです・・・。

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旧甲州道中
右に西光寺、通りを挟んだ左側の現在は駐車場になっている辺りが中村勘六家跡です。
故郷を出立した近藤は多くの村人に見送られ、それに応えるかの如く上石原村の境まで歩いたと云います。

我々も旧甲州道中伝いに西へ進みます。お次は・・・

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府中、大國魂神社(六所宮)
※六所宮…武蔵國一之宮~六之宮までをまとめて祀っていたため、幕末の頃にはこの名で呼ばれていました。

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六所宮では近藤勇の天然理心流四代目襲名披露の野試合が行われています。
(文久元年8月/1861)

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境内北側を通る旧甲州道中沿い、府中宿の松本屋跡(現在はHOTEL松本屋)
万延元年(1860)の天然理心流扁額奉納の際など、佐藤彦五郎をはじめとする関係者らが度々利用していた記録(佐藤彦五郎日記、比留間日記、他)が残ります。

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同じく旧甲州道中沿いにあった松本楼
文久元年の襲名披露野試合の後、近藤ら総勢約70名の門人はこの松本楼を総揚げして、夜を徹してのドンチャン騒ぎをやらかします。
これを佐藤彦五郎からの手紙で知った小野路の小島鹿之助は、
「襲名披露の功業は千百年も語り継がれるべきもので、誠に口惜しい。あなた(彦五郎)がついていながら、何たる醜態か」
と怒ったとか・・・(;^ω^) 若気の至り…ですかね?(笑)

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大國魂神社参道には、源義家の銅像があり・・・

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大鳥居前には、大正9年設置の府中町道路元標もありました。

引き続き、旧甲州道中を西へ進みます。

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次に訪れたのは谷保天満宮
延喜3年(903)、菅原道真の死去に伴い、その第三子・道武(父の太宰府左遷と時を同じくして、現在の国立市谷保に配流されていた)が父を祀る廟を建てたのが始まりで、1181年からは現在の地に鎮座しています。

この神社、ちょっと不思議な造りをしています。
鳥居の先、参道がなだらかに下っているのですが、拝殿や本殿が全く視界に入ってきません。

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実は参道を進み、更にこの階段を下った先にそれらの社殿は建っているのです。
つまり、街道に面した境内入口よりも低い位置に神様が祀られていることになります。

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階段を下った先に建つ谷保天満宮拝殿

何故こんな不思議な造りになったのか…実はこれには、甲州道中のルート変更に秘密があったのです。

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谷保天満宮は多摩川の浸食によってできた立川段丘上に建っていますが、甲州道中は従来、天満宮南の多摩川寄りに、段丘の下を通っていました
:~1650年代までの甲州道中/:~1684年までの甲州道中

そのため社殿も段丘中腹に南向きに建てられましたが、1684年以降は甲州道中が境内北側、より高所となる:現在の都道256号に変更されたために、街道からの入口が神様を祭る社殿よりも高所に位置するという逆転現象が起きたのです。

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ところで谷保といえば、土方歳三の書の師であったと云われる本田覚庵の本田家が名主を務めていましたが、境内に建つこちらの筆塚の碑も、その本田家の人物の揮毫と云われています。

無論その本田家住宅にも足を運び、外から眺めました。
本田家参考記事

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谷保天満宮と本田家住宅の間、甲州道中沿いで見かけた常夜塔(秋葉塔)
火難除けの秋葉神社に由来する火除けのお守りと、甲州道中を照らす灯りとして建てられたと伝わります。
基檀には「文久三年癸亥四月」とありますので、近藤や土方、沖田らが京へ上洛した直後に建てられたのですね。


さて、この日最後の行程は小野路
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少し手前の一本杉公園に車を停め、小島邸へ出稽古に向かう土方・沖田らの気分よろしく日野往還(鎌倉裏街道)を徒歩で向かいます。

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小野路宿

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橋本家も小島家と並ぶ名主の家で、土方家の縁戚でもありました。

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無論、小島資料館も拝観いたしました。

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小島資料館のお庭にたつ石灯籠
こちらも前出の龍源寺のもの同様、寛永寺から移されたものです。
しかも、上野戦争時の銃弾の痕が残っています。

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関屋の切通
切通の先は布田道。近藤の故郷、調布方面へと繋がります。
布田道参考記事

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車を停めた一本杉公園駐車場までの帰りは、鎌倉古道で♪

これにて、多摩の新選組をめぐるドライブは終了です。
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愛車を一旦自宅へ戻し、夜は立川で懇親会☆・・・少々飲み過ぎました…(;・∀・)

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2015年7月18日 (土)

日本刀鑑賞講座 at 土方歳三資料館

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7月17日(金)、土方歳三資料館で開催された日本刀鑑賞講座 十一代兼定をもっと知ろう!を受講してきました。

19:00~21:00まで2時間で、講師は刀剣研師の苅田先生御父子。長年、土方家の刀剣類を手入れされてきた方で、更に御先代は刃こぼれしていた土方歳三の兼定を研ぎ上げた方。

日本刀の基本的な知識・解説から始まって、
手入れの仕方
鑑賞する際の心得・作法

と続き、いよいよ実際に本物の日本刀を手に取っての鑑賞タイムへ♪

今回ご用意いただいたのは;

短刀 十一代兼定(歳三愛刀と同じ)
Katana01
刃文:直刃
地金:柾目
※平作りのとてもシンプルで美しい一振

短刀 十一代兼定
Katana02
刃文:互の目乱れ
地金:板目
※珍しい両刃作りで、茎に「千秋萬歳」と彫られている。

短刀 村正
Katana03
刃文:互の目乱れ
地金:杢目
※室町後期の作。波文が表裏対称なのが特徴的。
徳川家に仇なすと云われた妖刀村正。為に幕末には倒幕派にも好まれた。

太刀 関孫六(二代兼元)
Katana04
刃文:三本杉
地金:板目
※室町後期作の最上大業物。十一代兼定も真似て、歳三愛刀などに取り入れた三本杉が計り知れなく美しい。

四振とも全て手に取ってじっくりと鑑賞させていただき、誠に以て感慨無量。。。
生まれて初めて、真剣をこの手にしました。

歳三の兼定は、一部では十二代ではないかともいわれているようですが、銘の刻印(の筆跡?)を見る限りは、この日手にした短刀二振と酷似しており、まず間違いなく十一代でしょう

Katana05
土方歳三愛刀の銘
上の十一代兼定のものと比較してみてください。

他にも日本刀にまつわる様々なエピソードなどもご紹介いただきましたが、とてもまとめきれませんので省略させていただきます。

この日の参加者全20名中、男性は私を含めて僅かに2名…(^_^;) まぁ、最近の「ご時世」である程度予想はついていましたが(笑)
しかも皆さん、日本刀に関する知識がやたらと豊富で、こと刀に関してはド素人の私などは気後れするほど・・・。

しかし、いかなる接し方があろうとも、日本刀が武士の魂であることは不変。
その魂を鑑賞させていただく際の心得、そして礼に始まって礼に終わる作法を実地を通して学ばせて頂いたことが、私にとっては何よりの収穫でした。
※土方歳三ファンとしては鑑賞待ちの間、歳三愛刀の兼定刀身をはじめ、数々の展示品が見放題だったことも贅沢な時間でした(笑)

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このような貴重な機会を与えてくださった関係者の皆様には、心より感謝申し上げます。
遅い時間まで、本当にありがとうございました。

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2015年7月14日 (火)

武田信玄の描いた「新鎌倉」構想地?…「ほしのや」

甲陽軍鑑』が書き記す武田信玄の国家構想・・・
信玄は天下掌握の後、関東を中心とした国家構想を思い描き、相模國ほしのや日本一の名地として、ここにその国家の中心となる『新鎌倉』を築こうと考えていた、とされています。
相模國ほしのやとは神奈川県座間市入谷…星谷寺が建ち、その背後に谷戸山公園の丘が聳える辺り一帯と比定されています。周辺の小字名は「星の谷」

最近、歴史番組などで取り上げられたこともあり、「相州ほしのや」とは如何なる地か?信玄の見た光景とは…?が気になって、仲間内で実際に訪れてみることにしました。

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まずは集合場所の神奈川県座間市、谷戸山公園へ。

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谷戸山公園内の小丘、伝説の丘(本堂山)へ向かいます。

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現在は麓に建つ星の谷観音(星谷寺)ですが、かつてはこの丘の上に建っていて(鎌倉期に焼失)、詳細は分かりませんが観音様と大蛇にまつわる伝承が残っているそうです。
そういった伝説が残る丘だから「伝説の丘」と呼ばれるようになったのかな?(;^ω^)

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また、伝説の丘=星の谷観音には北条氏照が陣場としてたびたび利用していたとの言い伝えもあります。

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伝説の丘からの眺め

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伝説の丘全景

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公園名の由来にもなったであろう、こじんまりとした谷戸

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星野谷庚申塚と馬頭観音
ほしのや一帯には古来、府中街道など様々な街道が交錯していたようで、谷戸山公園や周辺では数多くの庚申塚や馬頭観音などが見受けられます。
そういった意味では、交通の要衝であったとも言えるのかもしれません。

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左 原町田 きそ ふちうみち
「きそ」とは現在の町田市木曽のことで、「甲陽軍鑑」にも小田原へ向かう武田軍の進軍経路として出てきます。

小山田、二つ田、きそ、勝坂、新道(新戸)

滝山城の包囲を解いた後、武田軍は御殿(杉山)峠を越えていますので(上杉謙信宛北条氏照書状)、この軍鑑に書かれた経路に倣うと峠を越えて相原に出た信玄は、そのまま南下せずに一旦現在の町田街道(都道47号)伝いに東へ迂回した後、勝坂・当麻辺りで相模川河畔に出たことになります。

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谷戸山公園の南西麓に建つ星谷寺
源頼朝や徳川家康の帰依をも受けたと伝わる、歴史あるお寺です。

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観音堂
星谷寺には、北条氏照が同寺をたびたび宿舎として利用しているため、屋根の葺替えと建具飾りなどの費用を寄進する旨を記した寄進状が残っているのだとか・・・
※氏照家臣・狩野一庵が認め、氏照が印判を押したもの。

やはり氏照は、星の谷を陣場にしていたのですね。

他に北條氏制札(1565/1575の2通)や、豊臣秀吉制札(天正18年)も残っています。

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市の重要文化財に指定されている宝篋印塔。よ~く見ると・・・

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右端の一行に「相模國鎌倉郡座間郷」の文字が・・・
座間は本来、高座郡に属します。この辺りにも「新鎌倉」構想と何か関わりがあるのでしょうか。

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また、星谷寺には「星の谷観音七不思議」なるものがあります。
一つ一つ訪ね歩くのも楽しい…かも?(笑)


金田ヨリ御見分有テ、堅固・はんじやう共にとゝのひたる地、と御ほめ被成候。
(甲陽軍鑑)

さて、武田軍は小田原攻めの往復で厚木市の金田や妻田周辺に宿営していますが、その帰路で信玄は金田から「ほしのや」を眺め、その地勢を褒めたと云います。

金田周辺地図
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金田は中津川と相模川に挟まれ、その東西両川の浸食によって形成された南北に連なる台地の南端付近に位置します。
現在はその尾根筋に国道129号線が縦走していますが、なかなか「ほしのや」方面への視界が効きません・・・。

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「ほしのや」を見通せるポイントを求めてウロウロしているうちに、偶然見かけた吾妻坂古墳
この付近も住宅が遮って、「ほしのや」を見通すことはできませんでした。

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それでもどうにか見つけた秘密?のポイント…武田信玄も見たという、金田付近からの「ほしのや」
写真中央付近が谷戸山公園の丘陵になります。

相模川に沿って丘陵が連なる光景は確かに堅固には映るかもしれませんが、正直なところ国家の首都たる新鎌倉に適した日本一の名地だ、というほどのインパクトは受けませんでした
しかも相模川の水運は期待できるとしても、あれほど海を欲した割に相模湾からはかなり離れた内地。本当に信玄の言葉だったのでしょうか・・・。

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金田に建つ建徳寺
ここ建徳寺や妻田の薬師堂、厚木の最勝寺にも小田原攻めに向かう武田軍や、1561年侵攻時の上杉軍によって大きな被害を受けた、という記録が残っているそうです。

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また、建徳寺には鎌倉~室町期に周辺で勢力を張った本間氏累代の墓があります。

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建徳寺のすぐ南には、中津川から水を取り入れる牛久保用水の取水口がありますが・・・
この牛久保用水を創設したのもその本間氏で、本間重連という人物だそうです。
しかも1200年代のこと。随分と長い歴史があったのですね。

(武田軍小荷駄奉行の甘利勢が)そり田、つま田迄はやめて跡をまち候間に、陸奥守内、設楽越前父子、物見にいで、かね田のうしろ、谷の上より静かに物見を仕る、
~中略~
(これを見た甘利勢は)人馬をはやめて、中津河を乗こし、牛飼と云ふ所へ、坂をのりあげ候

小田原からの帰路、この地に至った武田軍は金田の背後(北)に連なる台地上に北条氏照方の物見が来ていることに気づき、反田・妻田から中津川を渡って牛飼という場所へ坂を攻め上っています。
この牛飼とは牛窪(久保)坂のことで、台地の西側、中津川河畔へと下る坂を指しています。

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現在の牛窪坂
今となっては造成でかなり削られて「坂」を意識するのも難しいですが、武田軍が攻めかかった時、この用水は既に存在していたことになるのですね。

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金田神社
こちらの創建も仁治2年(1241)、本間重連の命によります。

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とても可愛らしい道祖神が♪


当麻周辺地図

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ところで、小田原へと向かう武田軍の往路ですが、滝山城の包囲を解いて御殿(杉山)峠を越えた信玄は、甲陽軍鑑によると相模川の東岸に出て、途中の当麻磯部などで少しずつ兵を西岸へ渡河させつつ南下し、信玄本隊(旗本)は新戸辺りで相模川を渡っています。
(後備えは座間か?)

その南下ルートは西方(対岸)の眺望が効き、且つ防衛上の要地でもある相模川東岸の段丘上の縁、ほぼ現在の県道46号線に沿っていたものと考えられます。

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県道46号沿い、夜景でも有名な八景の棚

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八景の棚から西方の眺め
写真中央を相模川が横切り、橋(昭和橋/手前)が架かっている辺りが当麻の渡し
この付近でも武田軍の先方部隊が渡河しています。

更に写真奥、相模川を越えた先の山々へと続くのが三増への道です。

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この八景の棚のすぐ近くには、武田信玄の手植えと伝わるさいかちの木の碑があります。
手植えの真偽はともかく、こうした伝承が残っていること自体、武田軍がこのルート(県道46号沿い)を実際に通過したことを物語っているのではないでしょうか。

座間周辺地図
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武田軍が進んだと思われる県道46号は途中で県道42号となり、そのまま南下すると江戸期には宿場町として栄えた座間宿へと至ります。

ここで「ほしのや」に関してもう一つ疑問が・・・
前述の通り武田軍は小田原攻めへの道中(往路)で、相模川の東岸を新戸や座間辺りまで南下しており、既に「ほしのや」のすぐ近くを通っている筈なのです。

にも関わらず、距離の離れた金田から遠望した時に気に入ったと云う「ほしのや」
…金田から馬場美濃守を調査に向かわせようとして断念したとか。

それほどお気に召すような場所であれば、近くを通った際にも目を引きそうなものだし、現地調査も容易だったと思うのですが…往路では気にも留まらなかったということなのでしょうか・・・。

『甲陽軍鑑』が伝える武田信玄の国家構想と「新鎌倉=ほしのや
現地を訪れてみた印象としては、まだまだ謎と違和感が拭い去れない、といったところでしょうか。
※あくまでも私個人の感想です。

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折角なので当麻の渡し(昭和橋)で相模川を越えて・・・
写真提供:nikkoさん

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最後に、三増へと向かう武田軍が通った信玄道を訪ねて今回の関連地巡りは終了です。ご一緒頂いた皆様、お疲れさまでした。

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2015年7月11日 (土)

丸山城…糟屋館と太田道灌終焉の地

公園図
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神奈川県伊勢原市、国道246号沿いに位置する丸山城
駐車場もあってアクセス良好です♪

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早速素敵な切岸がお出迎え

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明治になって周辺の字名が「殿ノ窪」から「丸山」に改められて以降、「丸山城」の名で呼ばれています。
下糟屋の丘陵状に位置する平城で詳しい歴史は分かっていないようですが、これまで出土した遺物は鎌倉~室町前半、及び室町後半~戦国の二時期のものがあるそうです。
このことから鎌倉期には糟屋有季が、室町後半からは太田道灌の主君・上杉定正に関連する城館だったのではないかと考えられています。
城域は城址公園南側に位置する高部屋神社を中心に、西は東海大学病院辺りまで、東は普済寺辺りまでの東西約1km南北約400mをも誇ったようです。

また、近くには太田道灌の首塚とも伝わる墓所などがあり、従来は上糟屋(産能大付近)にあったと考えられてきた太田道灌最期の地・糟屋館も、本当はこちらの丸山城がそれだったのではないか、と唱えられはじめているそうです。

上下の図を見比べると、近年になって国道246号線が城址を分断してしまっている様子がよく分かります。

では散策開始です。
城址公園は上段に位置する多目的広場と、それを取り巻く下段との二段構成になっています。

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公園図①の堀跡(写真)を経由して、まずは上段の多目的広場へ

図面Ⅰ
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多目的広場の周囲には、主に2つの土塁が良好な状態で残存しています。

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土塁1

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土塁1の北側下段からは、虎口と思われる遺構が発見されています。
草が生い茂って分かり辛いかとは思いますが・・・(^_^;)
(図面Ⅰピンク部分/公園図②)

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しかし、下段から上段へのルートはこれまでのところ、不明なのだとか。
上段へ向かって人が歩いた痕跡がありますが、あれは虎口ではありませんw

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土塁2

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同じく土塁2、外側
下段との高低差は最大で7mほどもあります。

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土塁1(奥)と土塁2(左手前)
かなり広い空間が広がっています。
或いはこの辺りだったのでしょうか…太田道灌が「当方滅亡!」と残して暗殺されたのは・・・?

2015071112
城址を分断する国道246号。
国道を渡って高部屋神社へ向かいます。

図面Ⅱ
2015071113

発掘調査で判明した堀の位置を示しています。これに従うと・・・

2015071114
高部屋神社北側、この路地にも沿うように堀が通っていたことになります。
(図面Ⅱの堀)

2015071115
高部屋神社、茅葺きの拝殿

2015071116
境内にも気になる土盛りが・・・

2015071117
神社と周辺の高低差

2015071118
梵鐘は1386年製

2015071119
最後に丸山城からの眺め
新東名の工事が着々と・・・あと数年もしたら景観も随分変わっているのでしょうね。

※以下2015年8月23日追記
先ほどの高部屋神社から少し足を伸ばし・・・

2015082301
道灌橋を越えた先には・・・

2015082302
太田道灌の菩提寺、大慈寺があります。
丸山城址の南東、高部屋神社からは直線距離で僅かに150mほどの位置です。

2015082303
大慈寺は、道灌が鎌倉からこの地に移して再興したと伝わります。
御本尊の聖観音菩薩坐像道灌の持仏とも云われ・・・

2015082304
こちらの太田道灌画像も所蔵しています。

また、山門前の用水沿いの小路を30mほど進んだ先には・・・
2015082305
首塚とも伝わる道灌の墓所があります。

丸山城の至近にこうした史蹟が残っていることからしても、下糟屋の丸山城が、糟屋館であった可能性は充分に考え得ると思います。


ここまで来たら折角なので、上糟屋地区にも足を伸ばしてみます。

2015082306
洞昌院の太田道灌墓所
こちらは道灌の胴塚とも、道灌を荼毘に付した場所とも云われています。

2015082307
七人塚
江戸城の築城で有名な太田道灌が、主君上杉定正に「道灌 謀反心あり」と疑われ、定正の糟屋館に招かれ、刺客によって暗殺されました。そのとき上杉方の攻撃を一手に引き受けて討ち死にした道灌の家臣7名の墓で「七人塚」と伝えられています。この塚は、上粕屋神社の境内の杉林の中に7つ並んでいましたが、明治の末に開墾するとき一つ残された伴頭のものといわれ、今でも七人塚と呼ばれています。
(現地案内板より)

2015082308
その上粕屋神社

更に、現地の観光案内マップに「からぼり」と紹介されている場所があり、どうしても気になったので向かってみたのですが・・・
2015082309
どう見たって、自然地形の谷戸ですよね…(^_^;)

2015082310
大山道の旧道
道標や道祖神が並びます。
この先少し進んだ所には、大山阿夫利神社参道の二の大鳥居もありました。

2015082311
大山道に沿って流れる千石堰用水路への石段
昭和40年頃までは生活用水として利用されていた名残です。


最後に糟屋館太田道灌殺害現場について、伊勢原市に残る太田道灌ゆかりの史跡を訪ねてみての、私なりの見解を述べてみたいと思います。

まず糟屋館の場所についてですが、太田道灌の首塚とされるものが城下すぐ近くに残されていることからしても、下糟屋の丸山城跡がそれに当たる可能性が高いと、私も考えています。

問題は太田道灌の殺害現場
通説では道灌は、主君・扇谷上杉定正の居館である糟屋館に招かれ、そこで風呂から上がったところを刺客に襲われて非業の死を遂げた、とされています。

ここで気になるのは、上糟屋(上粕谷)の洞昌院にある彼の胴塚と云われる墓所。仮に下糟屋の糟屋館(丸山城)で殺害されたのだとしたら、わざわざ胴体だけを上糟屋まで運ぶ理由が思い当たりません。

また、特に武将の首塚と胴塚が離れた場所にある場合、首は手柄の証として敵方に持ち去られたり、或いは「首だけは渡すまい」と配下によって運ばれることも多いでしょうから、その人物が死を迎えた場所は首塚よりも胴塚に近い可能性の方がより高い、といえるのではないでしょうか。

太田道灌が主君・上杉定正に糟屋館へ招かれ、その命によって殺害されたのは確かです。
しかし私は、主君に招かれたその夜、道灌が宿泊した場所・つまりは彼の殺害現場は糟屋館内ではなかったのではないか、と考えています。

中世関東武士の慣習について全く詳しくないので断定はできませんが、他の歴史を見ても配下の者が主君や目上の人間の招きに応じてその城や居館を訪れた際、宿所として宛がわれるのは近くの寺院であったり、接待役の家臣の館であったりするケースが一般的なように見受けられます。
ましてや主君の居館で風呂に入るなど、以ての外かと・・・。

道灌の胴塚(洞昌院)、並びに彼に随行してきた家臣らの七人塚が上糟屋に残されていることが、その現場が何処であったのか、雄弁に物語っているように思えてなりません。
※だからこそ、糟屋館自体が上糟屋にあった、と近年までほぼ断定されてもきたのでしょう。

『主君・上杉定正に招かれ、糟屋館(下糟屋/丸山城)での応接を受けた太田道灌はその夜、用意された宿所のある上糟屋(現上粕谷地区)へ移動し、そこで休んでいる(或いは風呂から出た)ところを刺客に襲われて非業の死を遂げる。
その首は刺客たちにより、謀殺を命じた定正の待つ糟屋館へ届けられて城下(現大慈寺近く)に埋葬された・・・。』

文献史料の裏付けも全くない、あくまでも私個人の勝手な推論ですが、案外こんな感じだったのではないかなぁ…と考えています。

いずれにしても関東に住む者として、もっと太田道灌のことを勉強しないといけないな、と痛感している今日この頃です…(^_^;)

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2015年7月10日 (金)

彦根城の外堀土塁、他

今回(7/4~5)の近江旅。
旧中山道(東山道)や朝鮮人街道(下街道)を辿る行程で彦根にも立ち寄りましたので、少しだけご紹介。

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彦根城内堀、鉢巻腰巻石垣
土塁上の石垣を鉢巻、下を腰巻と呼びます。

20150705d02
彦根城博物館では・・・

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若江合戦図屏風や・・・
(若江合戦では、豊臣方の木村隊は「土手に上って戦った」という記録が残っているらしいのですが、まさにその通りの光景が描かれていて感動しました)

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関ヶ原の戦いで井伊直政が着用していたと云う甲冑などを拝観し、更に彦根城の表御殿・奥座敷を見学しました。

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登り石垣

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彦根城外堀、長光寺付近に残る土塁と、

20150705d07
堀の跡

20150705d08
図面で見ると、⑨の辺りから⑩の方向を見た堀跡です。先で左に折れている形状もそのまま路地として残っています
土塁はその上(北)側のもの。

彦根城は登り石垣を始め、まだまだ見ていないポイントが多いし、佐和山城に至っては未だ未登城…これだけ近江に通っているのに…(^_^;)
この二城は改めて、じっくりと訪れたいと思います。

今回の旅でもお世話になったあっぴん。さん、ゆっきー、本当にありがとうございました(^_^)/

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下街道(朝鮮人街道)

下街道とは
永禄11年(1568)の上洛以降、織田信長は岐阜~京都間の往来で、佐和山や山崎山、安土、永原などを経由していたことが『信長公記』に度々記録されています。
これは従来の主街道たる東山道(中山道)とは異なるルートで、織田家の南近江における主要な拠点を経由する軍用の道として、信長によって整備されたものと考えられます。

20150705c01
その下街道を地図で示すとおおよそこのように。
青いラインは東山道(中山道)で、下街道です。

1600年の関ヶ原合戦で勝利した徳川家康は京への凱旋にこの下街道を通り、江戸に幕府を開いた後には家康・秀忠・家光三代の上洛用の道として使われ、沿道には伊庭・永原の御茶屋御殿も築かれました。

四代家綱以降は将軍の上洛も途絶えますが、引き続き朝鮮通信使の通行に利用されたため、「朝鮮人街道」という名で現在に伝わります。
現在に伝わる朝鮮人街道は時を経て、八幡山城主となった豊臣秀次によって八幡山城下に引き込まれたり、江戸期には朝鮮通信使一行の大行列を収容・警護する必要性などから、やはり彦根城下に引き込まれたりと改変の可能性が考えられるため、従来の織田信長によって整備された下街道の正確なルートは把握しきれません。
おそらくは、ほぼ県道2号線に沿っていたのではないかと思いますが。

従って今回は、朝鮮人街道に沿って辿ってみることにしました。

20150705c02
スタートは野洲から。
野洲市の航空写真で朝鮮人街道()のルートを確認します。

20150705c03
スタート地点の追分・・・惚れ惚れします(笑)

20150705c04
右:中山道、左:朝鮮人街道

20150705c05
燦然と輝くY字路の標識(笑)

20150705c06
中山道と別れた朝鮮人街道は、しばらく祇王井川沿いに進みます。

20150705c07
静かな住宅街を進むと・・・

20150705c08
朝鮮人街道は徳川将軍三代の休息所、永原御殿の近くを通ります。
写真は永原御殿の堀跡(田圃)と石垣

20150705c09
永原御殿堀跡
※永原御殿についてはコチラの記事を参照ください。

永原御殿の近くには、織田信長が重臣の佐久間信盛を入れた上永原城跡と伝わる場所(現祇王小学校付近。小字名「与六郎」と、信長公記に出てくる「永原の佐久間与六郎所*表記の一致から推定されている)もあり、そちらはより朝鮮人街道に近い位置を占めています。
おそらく下街道も、この辺りでは朝鮮人街道と同じ場所を通っていたのではないでしょうか。
*巻十 松永謀反並びに人質御成敗の事

20150705c10

また、永原付近は平清盛の寵愛を受けた白拍子、妓王・妓女姉妹の故郷でもあります。
姉妹とその母の菩提を弔う妓王寺や・・・

20150705c11
彼女らが晩年を過ごした屋敷跡もあります。
既出の祇(妓)王井川は妓王が故郷のため、清盛に頼んで野洲川から引いて貰った農業用の水路で、今なお周辺の水田を潤しています。

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永原を過ぎ、田園風景の中を貫く朝鮮人街道の並木道

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とても趣のある道です。

20150705c14
しばらく進むと朝鮮人街道は日野川に至り、仁保橋を渡ります。
仁保橋の欄干には朝鮮通信使の行列の様子を描いた絵が展示されていました。
日野川は野洲市と近江八幡市との市境でもあります。

20150705c15
往時の橋はもう少し西側に架かっていて、朝鮮人街道もそちらを通っていました。

20150705c16
橋を渡った朝鮮人街道はあちら、角に小さな祠の建つ路地へと入っていきます。
ちょうど往時の橋の位置と直線で繋がります

20150705c17
祠の中には背くらべ地蔵
幼子の死亡率が高かった時代、「我が子もこのお地蔵さんくらいになれば、あとはよく育つ」と背くらべさせるようになったのが由来とか。
周囲には鎌倉期のものと伝わる石仏も。

20150705c18
日野川を渡った先の朝鮮人街道

20150705c19
一旦、県道2号線と合流するポイント。
今では車両の通行を止め、一度右に折ってから合流させていますが、少し前までは一直線に繋がっていたのですね。

20150705c20
小船木町を抜け、白鳥川を越えると・・・

20150705c21
豊臣秀次が築いた八幡山城下に入ります。

20150705c22
八幡山城下町、東の端には黒橋史蹟之碑

20150705c23

この付近で水茎岡山城の九里氏・伊庭氏と、観音寺城の六角氏との間で争われた黒橋の戦いがありました。

20150705c24
ここまで来ると、いよいよ安土城(写真左手前)が近くに迫ってきます。

20150705c25
朝鮮人街道と八風街道の追分

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ここまで標識や道標も「朝鮮人街道」一色でしたが、安土城下で遂に「下街道」の標識を目にすることができました!

20150705c27
安土城の大手前を通過する「下街道」←あえて(笑)

20150705c28
朝鮮人街道は安土城前で一ヶ所、県道を離れる部分があります。(地図部分)
何故ここだけ県道を離れ、今では細い畦道のように取り残されたのだろう…と疑問でしたが、安土城考古博物館で古絵図を見て納得しました。
往時は北東へ鋭角に曲げられていた旧街道ですが、それでは現代の自動車の通行には不便なため、県道は緩やかなカーブを描くように敷設されたのでしょう。
そのため、鋭角なコーナー部分だけが取り残されたのではないかと。

織田信長によって築かれた安土城と、その城下町。
天正5年6月には、有名な「安土山下町中掟書」が触れ出されますが、その第二条には次のようにあります。

一 往還之商人、上海道相留之、上下共至当町可寄宿、但、於荷物以下之付下着、荷主次第事

上海(街)とはすなわち、東山道(中山道)のこと。
往来する商人や旅人の多くは東山道を通行していましたが、東山道は安土城下を通っていないため、上海(街)道に対する下街道を通って安土城下町に泊ることを義務付けているのです。

これは掟書の第一条;

一 当所中為楽市被仰付之上者、諸座諸役諸公事等、悉免許事
(いわゆる楽市楽座)

と共に、安土城下町の振興策の一環として触れ出された政策だと考えられます。
※ちなみに織田信長が楽市楽座令を出しているのは、判明している範囲では安土と加納(岐阜)、金森(守山)の三ヶ所のみです。

下街道が軍用としてだけではなく、上街道(東山道)に対するバイパス道として本格的に整備されたのはこの時期だったのかもしれません。

安土城の切通し(北腰越)を抜けた朝鮮人街道は、その先の交差点で右折して県道を離れ、JRの線路を跨ぎます。
(上地図参照)

20150705c29
その道沿いで見かけた、災厲不起/交通安全守護の法華塔
文政5年(1822)から祀られています。

20150705c30
法華塔の存在が、この道が当時の主要道であったことを物語るかのようです。

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この先も雰囲気のいい旧街道が続きます。

20150705c32
伊庭御殿跡
永原御殿同様、徳川将軍上洛時の休憩所です。

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伊庭御殿の設計は、かの小堀遠州

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土塁や堀跡らしき遺構に・・・

20150705c35
庭園の池らしき痕跡もありました。

20150705c36
更に進むと山崎山城が見えてきます。
天正10年の甲州征伐の帰りには佐和山と、ここ山崎山に織田信長休息のための御茶屋が建てられました。
※参照記事はコチラ

江戸期の朝鮮人街道は、山崎山城の城山を西側(写真左)へ回り込むように迂回していたようです。

20150705c37
ここまで来ると、彦根・佐和山もすぐそこです。

20150705c38
彦根城下、夢京橋キャッスルロード。ここも朝鮮人街道です。
通り沿いの宗安寺は、朝鮮通信使の宿泊所でもありました。

20150705c39
そして佐和山城に差し掛かる朝鮮人街道
現在はトンネルを潜って鳥居本側へ抜けますが、本来の朝鮮人街道はトンネルの左を佐和山城内に取り込まれる形で進んで行きました。

20150705c40
太鼓丸の先、南側の堀切を堀底道として進む朝鮮人街道。

※2016年12月に佐和山城を訪れ、太鼓丸下を通る朝鮮人街道を観ることができました。
詳しくはコチラの記事後半をご参照ください。

20150705c41
佐和山を越え、鳥居本の東山道(中山道):左と、朝鮮人街道:右の追分
野洲の追分からスタートして辿ってきた朝鮮人街道(下街道)の終点です。

20150705c42
追分の道標

この追分に設置された説明板には;
彦根道(朝鮮人街道)は彦根藩二代藩主・井伊直孝の時代に、中山道と彦根城下を結ぶ脇街道として整備された。
とありましたが、佐和山城は元々、信長にとって重要な拠点。
岐阜方面との往来の度に佐和山城を経由していることからも分かるように、摺針峠から続く東山道(中山道)と佐和山城を直結させ、城内へ取り込む道を整備したのは間違いなく織田信長だと思います。
佐和山から先、信長の在世時には存在しなかった彦根城下(但し、まだ浅井方だった佐和山を包囲するための付城を築いたことはありますが)まで引き込む道は、井伊直孝の時代に延長・整備されたのかもしれませんが。

20150705c43
追分から朝鮮人街道を振り返ると、佐和山が正面に聳えています。

織田信長が東山道の下街道として整備し、徳川将軍の上洛用の道として、そして朝鮮人街道として受け継がれていった旧街道。
その道筋には本当に風情のある、歴史を感じさせる町並みが残っています。
これが、この先の後世にも更に受け継がれていくことを願って止みません。

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2015年7月 9日 (木)

成菩提院~摺針峠 信長が作った(変えた)東山道

備前守(浅井長政)は一門家老召連れ、佐和山へ罷越、相図の日限にはすり針峠まで迎に罷出て待たまふ。かくて信長卿は小姓二百四五十騎にて出させ給ふ。備前守御迎に是迄被出る事不浅とて、御感悦不斜、先へ被参候へと被仰けるに付、長政は佐和山へ信長卿もそれより佐和山の城へ御着座あり。
~~中略~~
岐阜へ御帰座可被成と有ければ、御名残の酒宴数刻に及し故に、其日は柏原の常菩提院に御一宿と相定て、長政もすり針峠迄御送り申されしとなり。
(以上「浅井三代記」より抜粋)

20150704b01
永禄11年(1568)8月、足利義昭を擁しての上洛作戦(同年9月)を控えた織田信長は、義弟・浅井長政との会談、及び南近江の六角承禎との交渉のため佐和山城へ赴きますが、その往復で柏原の成菩提院に泊り、摺針峠を越えた様子が『浅井三代記』に描かれています。
また、浅井長政も摺針峠まで信長を出迎え、そして見送っています。

今回はその成菩提院~摺針峠までのルートを辿ります。

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成菩提院へ向かう途中、その北方3㎞ほどの杉澤という集落で気になるモニュメントがあったので立ち寄ってみると・・・

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なんと織田信長の禁制が!?
この奥は勝居神社の境内になっていて、この禁制は勝居神社へ出されたものらしいのですが、特に興味深いのはその第一条・・・
一、當社勝居宮境内之竹木伐採之事
…そして奥には竹林♪

日付は永禄十一年八月となっていますので、まさに信長が佐和山へ赴いていた時期と重なります。成菩提院宿営の折に出されたものなのでしょう。

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更には秀吉の禁制も。こちらは天正五年二月付。
ここでも竹の伐採を禁じています。

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偶然立ち寄った小さな集落に佇む神社、その竹林にこれほどの歴史が存在していたとは・・・。

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勝居神社の竹には;
『秀吉北越を討つ日、この地に来る。社僧正明寺を呼んで「北の方に見える村はどこか」と問うたところ、「北負け村」と答えたので、秀吉大いに喜び、この神社は勝居なり、すなわち勝ち戦の吉兆だ。』(近江輿地志略)
として、境内の竹を旗竿に用いて賤ヶ岳の戦いに臨み、勝利したという逸話も伝わっているそうです。

またこの時、勝居神社の氏子が秀吉軍の武士に境内の笹の葉を守り札として授け、武士たちはこれを兜や懐に奉じて戦ったという「笹お守り」の伝承も残っています。

先ほどの禁制が天正5年で、賤ヶ岳の合戦は同11年。
秀吉は少なくとも2度以上、この地と関わりを持っていたのですね。

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境内には芭蕉の句碑もありました。

そして・・・
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成菩提院

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成菩提院には織田信長の他、足利義昭も上洛の折に泊っていますし、豊臣秀吉や小早川秀秋も宿営した記録が残っています。
かの天海が住職を務めたこともありました(第20世)。

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成菩提院門前から
奥に見える家並みに中山道(信長の時代では東山道。本記事では便宜上、中山道に統一)の旧街道が通っています。

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柏原宿を通る中山道
旧街道に沿って西へ進みます。

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途中、一里塚跡を通過して・・・

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鴬ヶ端から西方の眺め
遥か山間には京の空を望めることで有名で、旅人はみな足を止めて休息したと云います。

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醒井宿、東の見附跡の枡形

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「中山道分間延絵図」に見る醒井宿
右端の折れが東の見附跡の枡形

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梅花藻でも有名な醒井宿を越え・・・

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次の番場宿には・・・

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元弘3年、京を逃れてきた六波羅探題・北条仲時一行が立て籠もり、包囲した南朝軍と戦った蓮華寺があります。力尽きた仲時は従士430余名共々、本堂前庭に於いて悉く自刃しました。
彼らのお墓は今も境内にあるそうです。

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番場宿を過ぎ、名神高速の脇を進む中山道

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道標が建っていました。

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いよいよ摺針峠に差し掛かります。

20150704b23
摺針峠の地図
青いラインが中山道の旧道跡です。

摺針峠について、奈良東大寺金堂の僧侶の日記「東金堂万日記」には;

スリハリ峠ヨコ三間深サ三尺ニホラル。人夫二万余、岩ニ火ヲタキカケ、上下作之。濃刕よりハ三里ホトチカクナルト也。

とあります。
これは天正3年3月の、おそらくはこの摺針峠を越えて向かったのであろう、織田信長の上洛についての記述に付随して書かれたものです。

また、信長公記には;

一、去年(天正2年)月迫に、国々道を作るべきの旨、坂井文介・高野藤蔵・篠岡八右衛門・山口太郎兵衛四人を御奉行として、仰せ付けられ、御朱印を以て、御分国中御触れこれあり。程なく出来訖んぬ。

とあり、その前年(天正2年)暮れ頃から信長が分国中の道路整備を命じ、工事を急がせていた様子が伝わります。このことから摺針峠の拡張・整備工事も、天正2年冬~同3年初頭までの期間に行われたのではないかと思われます。

前出の「浅井三代記」によれば、永禄11年時点で既に信長が摺針峠を通行しているので、元々峠道は通っていたのでしょうが、天正2~3年の工事で本格的な街道として整備され、従来は番場宿から米原を経由して鳥居本宿に至っていた東山道(中山道)は、これ以降、番場から摺針峠を経由して直接鳥居本に繋げられ、3里も距離が短縮されることになりました。

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それでは摺針峠を登ります。

20150704b25
摺針峠、旧道のピーク付近
この付近は車道が旧道に沿っていますので、ヨコ三間、深サ三尺ニホラれた様子を感じ取ることができます。

20150704b26
その後、旧道は車道を離れ、途中で車道によって分断されていますが・・・
(正面に見える階段からのラインが旧道)

20150704b27
車道を跨いで更に西麓側に向かって下っていきます。
※上地図地点で撮影

20150704b28
今となっては藪に覆われた獣道の如く・・・

20150704b30
峠を西麓側に下り切った地点
右は現在の車道で、左が中山道の旧道から続く道です。

20150704b31
摺針峠を下り切った旧道

20150704b32
織田信長が越え、浅井長政が出迎えた摺針峠。
まさにこの場所が、2人の出会いの場だったのですね!

※2016年12月、摺針峠の旧道を実際に歩く機会に恵まれました。
詳しくはコチラの記事をご参照ください。

20150704b33
摺針峠を越えると、中山道は鳥居本宿へ入っていきます。
信長・長政の2人が向かった佐和山城はもう、目と鼻の先です。

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鳥居本宿に建つ専宗寺の太鼓門

20150704b35
実はこの太鼓門の天井、その佐和山城の木材を転用していると伝わります。
真ん中で観音開きになりそうだし、閂の金具が取り付けられていたらしき痕も残っているので、きっと城門の部材だったのではないでしょうか。

鳥居本から佐和山城へのルートは中山道を離れ、後に信長が下街道として整備し、江戸期に至って朝鮮人街道となる道へと続きます。
下街道/朝鮮人街道については、次の記事にて・・・。

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信長の軍道 虎御前山~宮部

元亀3年(1572)7月、小谷城の目と鼻の先にある虎御前山に要害を築き、浅井・朝倉連合軍への攻勢を強める織田信長
この辺りの顛末は『信長公記』巻五「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」の項に詳しいですが、その中に次の一節があります。

虎後前山より宮部まで路次一段あしく候。武者の出入りのため、道のひろさ三間間中に高々とつかせられ、其のへりに敵の方に高さ一丈に五十町の間、築地をつかせ、水を関入れ、往還たやすき様に仰せつけらる。

虎御前山から宮部までの間が一段と悪路だったので、兵の往来を助けるために道幅を約6.4mに広げ、更に約5.5㎞に渡って道の敵側のへりに高さ約3mの築地を築かせて水を堰き入れさせたと云うのです。

20150704a01
この道の存在がどうにも気になり、現代の地図で虎御前山と宮部の間を凝視していると、周囲の区画を無視するかのように斜めに走る道があることに気づきました。(地図

これこそ信長が築かせた、いわゆる「軍道」の名残ではないかとアタリをつけていたところ、実際その通りに紹介している資料の存在を教えていただき、以来ずっと訪れてみたかった場所なのです。

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正面左手、虎御前山へ延びる織田信長の軍道
右が小谷城です。

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石碑もありました。
戦國街道 元亀三年築道

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今となっては築地などは全く影も形もありませんが、それでもこうして現地に立つと往時の緊迫感が伝わってくるような気さえしてきます。
※軍道を北に進んで途切れた先、その辺りから北西方向に流れる川?用水路?が、実は堰堤の名残なのではないかと個人的には考えています。

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反対方向を向いて、宮部の集落へとつづく軍道
太田牛一が「信長公記」に記すように五十町=約5.5kmもあったのだとすると、虎御前山から宮部を遥かに超えてしまいますので、この点だけは解せないのですが…(;・∀・)

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左奥、木の茂みが見える辺りに、横山城から虎御前山までの繋ぎ(中継拠点)として築かれた宮部砦があったと云われています。

一見、何の変哲もない道路も、大変な歴史遺産なのです。

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この後は五先賢の館で開催されいるふるさと企画展「片桐且元没後400年」で;

・浅井三代(亮政・久政・長政)の守り本尊
(小谷落城の際、浅井長政から且元に託されたという縁起を持つ)
・片桐且元とその父の位牌
・伝片桐且元毛髪(元服の際のものと伝わる)
・大坂冬の陣絵図
・江州賤ヶ岳合戦之図
・岐集合戦之図

などを拝観し・・・
※「五先賢」とは、長浜市旧浅井町田根地区出身の片桐且元・相応和尚・海北友松・小堀遠州・小野湖山の5名を指します。

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浅井歴史民俗資料館や・・・

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伊吹山文化資料館にも立ち寄りました。

さて、昼食を挟んで次は柏原の成菩提院へ向かいます。

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2015年7月 8日 (水)

「革たちつけ」拝観!

7月4~5日は湖国近江へ。
旅の主な行程は信長の「道」をテーマにしたものとなりましたが、そもそも今回の近江への旅を思い立ったきっかけは・・・

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こちらの安土城考古博物館で開催されているトピック展示「そう見寺の寺宝」展(~2015年7月29日)に於いて、織田信長が元亀元年(1570)の金ヶ崎の退き口で朽木に入った折、朽木家臣の長谷川氏へ与えたと云う鹿革製の袴(革たちつけ)実物が展示されているとの情報を得たからだったのです。

これまでも写真では目にしてきましたが、実際に実物を拝観してみると写真から受ける印象よりも傷みの少なさに驚きました。
鹿革製ということもあって丈夫なのでしょうが、今でも充分に使用に耐えうる印象でした。

革袴の隣りには伝織田信長所用陣羽織も展示されています。
「伝」とはいえ、生地はビロード製で、左右の襟元には金糸で見事な龍の刺繍が施されており、如何にも信長らしいなと感じました。
※背には木瓜紋が縫い付けられているらしいのですが、背の部分を下にして展示されていたので確認できませんでした。


金ヶ崎の退き口めぐりをした直後と言ってもいいタイミングで、革袴の実物を拝観することができた偶然に感謝です。

金ヶ崎の退き口めぐりについては、以下の記事を参照ください。
金ヶ崎の退き口 前編
金ヶ崎の退き口 後編
※朽木が出て来るのは後篇です。

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