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2015年7月11日 (土)

丸山城…糟屋館と太田道灌終焉の地

公園図
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神奈川県伊勢原市、国道246号沿いに位置する丸山城
駐車場もあってアクセス良好です♪

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早速素敵な切岸がお出迎え

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明治になって周辺の字名が「殿ノ窪」から「丸山」に改められて以降、「丸山城」の名で呼ばれています。
下糟屋の丘陵状に位置する平城で詳しい歴史は分かっていないようですが、これまで出土した遺物は鎌倉~室町前半、及び室町後半~戦国の二時期のものがあるそうです。
このことから鎌倉期には糟屋有季が、室町後半からは太田道灌の主君・上杉定正に関連する城館だったのではないかと考えられています。
城域は城址公園南側に位置する高部屋神社を中心に、西は東海大学病院辺りまで、東は普済寺辺りまでの東西約1km南北約400mをも誇ったようです。

また、近くには太田道灌の首塚とも伝わる墓所などがあり、従来は上糟屋(産能大付近)にあったと考えられてきた太田道灌最期の地・糟屋館も、本当はこちらの丸山城がそれだったのではないか、と唱えられはじめているそうです。

上下の図を見比べると、近年になって国道246号線が城址を分断してしまっている様子がよく分かります。

では散策開始です。
城址公園は上段に位置する多目的広場と、それを取り巻く下段との二段構成になっています。

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公園図①の堀跡(写真)を経由して、まずは上段の多目的広場へ

図面Ⅰ
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多目的広場の周囲には、主に2つの土塁が良好な状態で残存しています。

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土塁1

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土塁1の北側下段からは、虎口と思われる遺構が発見されています。
草が生い茂って分かり辛いかとは思いますが・・・(^_^;)
(図面Ⅰピンク部分/公園図②)

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しかし、下段から上段へのルートはこれまでのところ、不明なのだとか。
上段へ向かって人が歩いた痕跡がありますが、あれは虎口ではありませんw

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土塁2

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同じく土塁2、外側
下段との高低差は最大で7mほどもあります。

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土塁1(奥)と土塁2(左手前)
かなり広い空間が広がっています。
或いはこの辺りだったのでしょうか…太田道灌が「当方滅亡!」と残して暗殺されたのは・・・?

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城址を分断する国道246号。
国道を渡って高部屋神社へ向かいます。

図面Ⅱ
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発掘調査で判明した堀の位置を示しています。これに従うと・・・

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高部屋神社北側、この路地にも沿うように堀が通っていたことになります。
(図面Ⅱの堀)

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高部屋神社、茅葺きの拝殿

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境内にも気になる土盛りが・・・

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神社と周辺の高低差

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梵鐘は1386年製

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最後に丸山城からの眺め
新東名の工事が着々と・・・あと数年もしたら景観も随分変わっているのでしょうね。

※以下2015年8月23日追記
先ほどの高部屋神社から少し足を伸ばし・・・

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道灌橋を越えた先には・・・

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太田道灌の菩提寺、大慈寺があります。
丸山城址の南東、高部屋神社からは直線距離で僅かに150mほどの位置です。

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大慈寺は、道灌が鎌倉からこの地に移して再興したと伝わります。
御本尊の聖観音菩薩坐像道灌の持仏とも云われ・・・

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こちらの太田道灌画像も所蔵しています。

また、山門前の用水沿いの小路を30mほど進んだ先には・・・
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首塚とも伝わる道灌の墓所があります。

丸山城の至近にこうした史蹟が残っていることからしても、下糟屋の丸山城が、糟屋館であった可能性は充分に考え得ると思います。


ここまで来たら折角なので、上糟屋地区にも足を伸ばしてみます。

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洞昌院の太田道灌墓所
こちらは道灌の胴塚とも、道灌を荼毘に付した場所とも云われています。

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七人塚
江戸城の築城で有名な太田道灌が、主君上杉定正に「道灌 謀反心あり」と疑われ、定正の糟屋館に招かれ、刺客によって暗殺されました。そのとき上杉方の攻撃を一手に引き受けて討ち死にした道灌の家臣7名の墓で「七人塚」と伝えられています。この塚は、上粕屋神社の境内の杉林の中に7つ並んでいましたが、明治の末に開墾するとき一つ残された伴頭のものといわれ、今でも七人塚と呼ばれています。
(現地案内板より)

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その上粕屋神社

更に、現地の観光案内マップに「からぼり」と紹介されている場所があり、どうしても気になったので向かってみたのですが・・・
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どう見たって、自然地形の谷戸ですよね…(^_^;)

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大山道の旧道
道標や道祖神が並びます。
この先少し進んだ所には、大山阿夫利神社参道の二の大鳥居もありました。

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大山道に沿って流れる千石堰用水路への石段
昭和40年頃までは生活用水として利用されていた名残です。


最後に糟屋館太田道灌殺害現場について、伊勢原市に残る太田道灌ゆかりの史跡を訪ねてみての、私なりの見解を述べてみたいと思います。

まず糟屋館の場所についてですが、太田道灌の首塚とされるものが城下すぐ近くに残されていることからしても、下糟屋の丸山城跡がそれに当たる可能性が高いと、私も考えています。

問題は太田道灌の殺害現場
通説では道灌は、主君・扇谷上杉定正の居館である糟屋館に招かれ、そこで風呂から上がったところを刺客に襲われて非業の死を遂げた、とされています。

ここで気になるのは、上糟屋(上粕谷)の洞昌院にある彼の胴塚と云われる墓所。仮に下糟屋の糟屋館(丸山城)で殺害されたのだとしたら、わざわざ胴体だけを上糟屋まで運ぶ理由が思い当たりません。

また、特に武将の首塚と胴塚が離れた場所にある場合、首は手柄の証として敵方に持ち去られたり、或いは「首だけは渡すまい」と配下によって運ばれることも多いでしょうから、その人物が死を迎えた場所は首塚よりも胴塚に近い可能性の方がより高い、といえるのではないでしょうか。

太田道灌が主君・上杉定正に糟屋館へ招かれ、その命によって殺害されたのは確かです。
しかし私は、主君に招かれたその夜、道灌が宿泊した場所・つまりは彼の殺害現場は糟屋館内ではなかったのではないか、と考えています。

中世関東武士の慣習について全く詳しくないので断定はできませんが、他の歴史を見ても配下の者が主君や目上の人間の招きに応じてその城や居館を訪れた際、宿所として宛がわれるのは近くの寺院であったり、接待役の家臣の館であったりするケースが一般的なように見受けられます。
ましてや主君の居館で風呂に入るなど、以ての外かと・・・。

道灌の胴塚(洞昌院)、並びに彼に随行してきた家臣らの七人塚が上糟屋に残されていることが、その現場が何処であったのか、雄弁に物語っているように思えてなりません。
※だからこそ、糟屋館自体が上糟屋にあった、と近年までほぼ断定されてもきたのでしょう。

『主君・上杉定正に招かれ、糟屋館(下糟屋/丸山城)での応接を受けた太田道灌はその夜、用意された宿所のある上糟屋(現上粕谷地区)へ移動し、そこで休んでいる(或いは風呂から出た)ところを刺客に襲われて非業の死を遂げる。
その首は刺客たちにより、謀殺を命じた定正の待つ糟屋館へ届けられて城下(現大慈寺近く)に埋葬された・・・。』

文献史料の裏付けも全くない、あくまでも私個人の勝手な推論ですが、案外こんな感じだったのではないかなぁ…と考えています。

いずれにしても関東に住む者として、もっと太田道灌のことを勉強しないといけないな、と痛感している今日この頃です…(^_^;)

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