太田道灌創建の法恩寺
錦糸町駅から徒歩10分ほど・・・
墨田区太平1丁目、平河山法恩寺へ
長禄2年(1458)、太田道灌が江戸に城を築くにあたり、その丑寅(北東=鬼門)の方角である平川口(山号の由来)に城内鎮護の祈願所として創建した本住院が始まりとされています。
その後、道灌の孫である資高が父・資康(道灌の子)の追善供養のため堂塔を再建し、資康の法名をとって法恩寺と改められました。
徳川家康の江戸入府後に数度の移転を経て、元禄元年(1688)より現在の地に建ちます。
「江戸名所図会」にみる法恩寺
幕末の慶応4年4月には、江戸脱走を決めて市川国府台へ向かう元幕府歩兵奉行の大鳥圭介が、ここ法恩寺で本多幸七郎・大川正次郎らをはじめとする伝習隊と合流しています。
道灌公記念碑
影で分かり辛いですが、道灌の詠んだ歌;
七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき
をモチーフに彫られています。
太田道灌供養の五輪塔(右)
中央は開山・本住院日住上人の墓所
参道から振り返る・・・
すぐ背後に聳えるスカイツリ―が、時の移ろいを鮮明に際立たせていますね。
墨田区太平1丁目、平河山法恩寺へ
長禄2年(1458)、太田道灌が江戸に城を築くにあたり、その丑寅(北東=鬼門)の方角である平川口(山号の由来)に城内鎮護の祈願所として創建した本住院が始まりとされています。
その後、道灌の孫である資高が父・資康(道灌の子)の追善供養のため堂塔を再建し、資康の法名をとって法恩寺と改められました。
徳川家康の江戸入府後に数度の移転を経て、元禄元年(1688)より現在の地に建ちます。
「江戸名所図会」にみる法恩寺
幕末の慶応4年4月には、江戸脱走を決めて市川国府台へ向かう元幕府歩兵奉行の大鳥圭介が、ここ法恩寺で本多幸七郎・大川正次郎らをはじめとする伝習隊と合流しています。
道灌公記念碑
影で分かり辛いですが、道灌の詠んだ歌;
七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき
をモチーフに彫られています。
太田道灌供養の五輪塔(右)
中央は開山・本住院日住上人の墓所
参道から振り返る・・・
すぐ背後に聳えるスカイツリ―が、時の移ろいを鮮明に際立たせていますね。
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