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2015年7月 9日 (木)

信長の軍道 虎御前山~宮部

元亀3年(1572)7月、小谷城の目と鼻の先にある虎御前山に要害を築き、浅井・朝倉連合軍への攻勢を強める織田信長
この辺りの顛末は『信長公記』巻五「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」の項に詳しいですが、その中に次の一節があります。

虎後前山より宮部まで路次一段あしく候。武者の出入りのため、道のひろさ三間間中に高々とつかせられ、其のへりに敵の方に高さ一丈に五十町の間、築地をつかせ、水を関入れ、往還たやすき様に仰せつけらる。

虎御前山から宮部までの間が一段と悪路だったので、兵の往来を助けるために道幅を約6.4mに広げ、更に約5.5㎞に渡って道の敵側のへりに高さ約3mの築地を築かせて水を堰き入れさせたと云うのです。

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この道の存在がどうにも気になり、現代の地図で虎御前山と宮部の間を凝視していると、周囲の区画を無視するかのように斜めに走る道があることに気づきました。(地図

これこそ信長が築かせた、いわゆる「軍道」の名残ではないかとアタリをつけていたところ、実際その通りに紹介している資料の存在を教えていただき、以来ずっと訪れてみたかった場所なのです。

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正面左手、虎御前山へ延びる織田信長の軍道
右が小谷城です。

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石碑もありました。
戦國街道 元亀三年築道

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今となっては築地などは全く影も形もありませんが、それでもこうして現地に立つと往時の緊迫感が伝わってくるような気さえしてきます。
※軍道を北に進んで途切れた先、その辺りから北西方向に流れる川?用水路?が、実は堰堤の名残なのではないかと個人的には考えています。

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反対方向を向いて、宮部の集落へとつづく軍道
太田牛一が「信長公記」に記すように五十町=約5.5kmもあったのだとすると、虎御前山から宮部を遥かに超えてしまいますので、この点だけは解せないのですが…(;・∀・)

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左奥、木の茂みが見える辺りに、横山城から虎御前山までの繋ぎ(中継拠点)として築かれた宮部砦があったと云われています。

一見、何の変哲もない道路も、大変な歴史遺産なのです。

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この後は五先賢の館で開催されいるふるさと企画展「片桐且元没後400年」で;

・浅井三代(亮政・久政・長政)の守り本尊
(小谷落城の際、浅井長政から且元に託されたという縁起を持つ)
・片桐且元とその父の位牌
・伝片桐且元毛髪(元服の際のものと伝わる)
・大坂冬の陣絵図
・江州賤ヶ岳合戦之図
・岐集合戦之図

などを拝観し・・・
※「五先賢」とは、長浜市旧浅井町田根地区出身の片桐且元・相応和尚・海北友松・小堀遠州・小野湖山の5名を指します。

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浅井歴史民俗資料館や・・・

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伊吹山文化資料館にも立ち寄りました。

さて、昼食を挟んで次は柏原の成菩提院へ向かいます。

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