多摩の新選組 ~調布・府中・谷保・小野路~
7月19日、関西からみかんさんが上京されたので、サイガさんを合わせた3名で多摩に残る新選組ゆかりの地(但し今回は日野を除く)を、サクッと愛車で巡ってきました。
※当ブログ内で重複する史跡も多いので、本記事ではそれらは簡単に触れる程度に留めます。
まずはじめに向かったのは・・・
新選組局長、近藤勇の生家跡
現地案内板に掲載されている図面や、こちらの模型(調布市郷土博物館展示)写真とを見比べつつ、往時の姿を思い浮かて・・・
人見街道を挟んで生家跡の向かいに建つ撥雲館
近藤勇の婿養子・勇五郎が開いた天然理心流の道場で、命名はなんと山岡鉄舟。
生家跡から徒歩2~3分の龍源寺へ、近藤勇・勇五郎らの墓所にもお参りしてきました。
龍源寺境内に建つ石灯籠
以前から何故、徳川家の葵紋が彫られているのか不思議だったのですが、居合わせたお寺の方のお話で納得。
こちらの灯籠、元は上野の寛永寺に寄進されていたものでした。それを龍源寺の親戚の方が入手して自宅に設置していたものを、後年お寺の方へ移したのだそうです。
近藤勇墓所の脇に建つ、彼の辞世を刻んだ石碑は津雲國利の揮毫。
この週末(7/20)まで「幕末維新展」を開催していた青梅の津雲邸を建てた方です。
※幕末維新展、津雲邸参考記事
車で少し移動して・・・
西調布駅前、西光寺へ
門前には近藤勇の銅像
慶応4年3月、新選組を主体とする甲陽鎮撫隊を率いて甲府を目指した近藤勇は、旧甲州道中を西へ進み、こちらの西光寺境内で休息を取り、更に門前の中村勘六家で歓待を受けました。
京で名を馳せ、幕府旗本(若年寄格)にまで登り詰めた近藤が、ほんの一時とはいえ故郷に錦を飾った瞬間でした。
過酷な運命に翻弄され、彼が板橋で刑死するのはこの翌月のことです・・・。
旧甲州道中
右に西光寺、通りを挟んだ左側の現在は駐車場になっている辺りが中村勘六家跡です。
故郷を出立した近藤は多くの村人に見送られ、それに応えるかの如く上石原村の境まで歩いたと云います。
我々も旧甲州道中伝いに西へ進みます。お次は・・・
府中、大國魂神社(六所宮)へ
※六所宮…武蔵國一之宮~六之宮までをまとめて祀っていたため、幕末の頃にはこの名で呼ばれていました。
六所宮では近藤勇の天然理心流四代目襲名披露の野試合が行われています。
(文久元年8月/1861)
境内北側を通る旧甲州道中沿い、府中宿の松本屋跡(現在はHOTEL松本屋)
万延元年(1860)の天然理心流扁額奉納の際など、佐藤彦五郎をはじめとする関係者らが度々利用していた記録(佐藤彦五郎日記、比留間日記、他)が残ります。
同じく旧甲州道中沿いにあった松本楼跡
文久元年の襲名披露野試合の後、近藤ら総勢約70名の門人はこの松本楼を総揚げして、夜を徹してのドンチャン騒ぎをやらかします。
これを佐藤彦五郎からの手紙で知った小野路の小島鹿之助は、
「襲名披露の功業は千百年も語り継がれるべきもので、誠に口惜しい。あなた(彦五郎)がついていながら、何たる醜態か」
と怒ったとか・・・(;^ω^) 若気の至り…ですかね?(笑)
大國魂神社参道には、源義家の銅像があり・・・
大鳥居前には、大正9年設置の府中町道路元標もありました。
引き続き、旧甲州道中を西へ進みます。
次に訪れたのは谷保天満宮
延喜3年(903)、菅原道真の死去に伴い、その第三子・道武(父の太宰府左遷と時を同じくして、現在の国立市谷保に配流されていた)が父を祀る廟を建てたのが始まりで、1181年からは現在の地に鎮座しています。
この神社、ちょっと不思議な造りをしています。
鳥居の先、参道がなだらかに下っているのですが、拝殿や本殿が全く視界に入ってきません。
実は参道を進み、更にこの階段を下った先にそれらの社殿は建っているのです。
つまり、街道に面した境内入口よりも低い位置に神様が祀られていることになります。
階段を下った先に建つ谷保天満宮拝殿
何故こんな不思議な造りになったのか…実はこれには、甲州道中のルート変更に秘密があったのです。
谷保天満宮は多摩川の浸食によってできた立川段丘上に建っていますが、甲州道中は従来、天満宮南の多摩川寄りに、段丘の下を通っていました。
※青:~1650年代までの甲州道中/緑:~1684年までの甲州道中
そのため社殿も段丘中腹に南向きに建てられましたが、1684年以降は甲州道中が境内北側、より高所となる赤:現在の都道256号に変更されたために、街道からの入口が神様を祭る社殿よりも高所に位置するという逆転現象が起きたのです。
ところで谷保といえば、土方歳三の書の師であったと云われる本田覚庵の本田家が名主を務めていましたが、境内に建つこちらの筆塚の碑も、その本田家の人物の揮毫と云われています。
無論その本田家住宅にも足を運び、外から眺めました。
※当ブログ内で重複する史跡も多いので、本記事ではそれらは簡単に触れる程度に留めます。
まずはじめに向かったのは・・・
新選組局長、近藤勇の生家跡
現地案内板に掲載されている図面や、こちらの模型(調布市郷土博物館展示)写真とを見比べつつ、往時の姿を思い浮かて・・・
人見街道を挟んで生家跡の向かいに建つ撥雲館
近藤勇の婿養子・勇五郎が開いた天然理心流の道場で、命名はなんと山岡鉄舟。
生家跡から徒歩2~3分の龍源寺へ、近藤勇・勇五郎らの墓所にもお参りしてきました。
龍源寺境内に建つ石灯籠
以前から何故、徳川家の葵紋が彫られているのか不思議だったのですが、居合わせたお寺の方のお話で納得。
こちらの灯籠、元は上野の寛永寺に寄進されていたものでした。それを龍源寺の親戚の方が入手して自宅に設置していたものを、後年お寺の方へ移したのだそうです。
近藤勇墓所の脇に建つ、彼の辞世を刻んだ石碑は津雲國利の揮毫。
この週末(7/20)まで「幕末維新展」を開催していた青梅の津雲邸を建てた方です。
※幕末維新展、津雲邸参考記事
車で少し移動して・・・
西調布駅前、西光寺へ
門前には近藤勇の銅像
慶応4年3月、新選組を主体とする甲陽鎮撫隊を率いて甲府を目指した近藤勇は、旧甲州道中を西へ進み、こちらの西光寺境内で休息を取り、更に門前の中村勘六家で歓待を受けました。
京で名を馳せ、幕府旗本(若年寄格)にまで登り詰めた近藤が、ほんの一時とはいえ故郷に錦を飾った瞬間でした。
過酷な運命に翻弄され、彼が板橋で刑死するのはこの翌月のことです・・・。
旧甲州道中
右に西光寺、通りを挟んだ左側の現在は駐車場になっている辺りが中村勘六家跡です。
故郷を出立した近藤は多くの村人に見送られ、それに応えるかの如く上石原村の境まで歩いたと云います。
我々も旧甲州道中伝いに西へ進みます。お次は・・・
府中、大國魂神社(六所宮)へ
※六所宮…武蔵國一之宮~六之宮までをまとめて祀っていたため、幕末の頃にはこの名で呼ばれていました。
六所宮では近藤勇の天然理心流四代目襲名披露の野試合が行われています。
(文久元年8月/1861)
境内北側を通る旧甲州道中沿い、府中宿の松本屋跡(現在はHOTEL松本屋)
万延元年(1860)の天然理心流扁額奉納の際など、佐藤彦五郎をはじめとする関係者らが度々利用していた記録(佐藤彦五郎日記、比留間日記、他)が残ります。
同じく旧甲州道中沿いにあった松本楼跡
文久元年の襲名披露野試合の後、近藤ら総勢約70名の門人はこの松本楼を総揚げして、夜を徹してのドンチャン騒ぎをやらかします。
これを佐藤彦五郎からの手紙で知った小野路の小島鹿之助は、
「襲名披露の功業は千百年も語り継がれるべきもので、誠に口惜しい。あなた(彦五郎)がついていながら、何たる醜態か」
と怒ったとか・・・(;^ω^) 若気の至り…ですかね?(笑)
大國魂神社参道には、源義家の銅像があり・・・
大鳥居前には、大正9年設置の府中町道路元標もありました。
引き続き、旧甲州道中を西へ進みます。
次に訪れたのは谷保天満宮
延喜3年(903)、菅原道真の死去に伴い、その第三子・道武(父の太宰府左遷と時を同じくして、現在の国立市谷保に配流されていた)が父を祀る廟を建てたのが始まりで、1181年からは現在の地に鎮座しています。
この神社、ちょっと不思議な造りをしています。
鳥居の先、参道がなだらかに下っているのですが、拝殿や本殿が全く視界に入ってきません。
実は参道を進み、更にこの階段を下った先にそれらの社殿は建っているのです。
つまり、街道に面した境内入口よりも低い位置に神様が祀られていることになります。
階段を下った先に建つ谷保天満宮拝殿
何故こんな不思議な造りになったのか…実はこれには、甲州道中のルート変更に秘密があったのです。
谷保天満宮は多摩川の浸食によってできた立川段丘上に建っていますが、甲州道中は従来、天満宮南の多摩川寄りに、段丘の下を通っていました。
※青:~1650年代までの甲州道中/緑:~1684年までの甲州道中
そのため社殿も段丘中腹に南向きに建てられましたが、1684年以降は甲州道中が境内北側、より高所となる赤:現在の都道256号に変更されたために、街道からの入口が神様を祭る社殿よりも高所に位置するという逆転現象が起きたのです。
ところで谷保といえば、土方歳三の書の師であったと云われる本田覚庵の本田家が名主を務めていましたが、境内に建つこちらの筆塚の碑も、その本田家の人物の揮毫と云われています。
無論その本田家住宅にも足を運び、外から眺めました。
※本田家参考記事
谷保天満宮と本田家住宅の間、甲州道中沿いで見かけた常夜塔(秋葉塔)
火難除けの秋葉神社に由来する火除けのお守りと、甲州道中を照らす灯りとして建てられたと伝わります。
基檀には「文久三年癸亥四月」とありますので、近藤や土方、沖田らが京へ上洛した直後に建てられたのですね。
さて、この日最後の行程は小野路へ
少し手前の一本杉公園に車を停め、小島邸へ出稽古に向かう土方・沖田らの気分よろしく、日野往還(鎌倉裏街道)を徒歩で向かいます。
小野路宿
橋本家も小島家と並ぶ名主の家で、土方家の縁戚でもありました。
無論、小島資料館も拝観いたしました。
小島資料館のお庭にたつ石灯籠
こちらも前出の龍源寺のもの同様、寛永寺から移されたものです。
しかも、上野戦争時の銃弾の痕が残っています。
関屋の切通
切通の先は布田道。近藤の故郷、調布方面へと繋がります。
※布田道参考記事
車を停めた一本杉公園駐車場までの帰りは、鎌倉古道で♪
これにて、多摩の新選組をめぐるドライブは終了です。
愛車を一旦自宅へ戻し、夜は立川で懇親会☆・・・少々飲み過ぎました…(;・∀・)
谷保天満宮と本田家住宅の間、甲州道中沿いで見かけた常夜塔(秋葉塔)
火難除けの秋葉神社に由来する火除けのお守りと、甲州道中を照らす灯りとして建てられたと伝わります。
基檀には「文久三年癸亥四月」とありますので、近藤や土方、沖田らが京へ上洛した直後に建てられたのですね。
さて、この日最後の行程は小野路へ
少し手前の一本杉公園に車を停め、小島邸へ出稽古に向かう土方・沖田らの気分よろしく、日野往還(鎌倉裏街道)を徒歩で向かいます。
小野路宿
橋本家も小島家と並ぶ名主の家で、土方家の縁戚でもありました。
無論、小島資料館も拝観いたしました。
小島資料館のお庭にたつ石灯籠
こちらも前出の龍源寺のもの同様、寛永寺から移されたものです。
しかも、上野戦争時の銃弾の痕が残っています。
関屋の切通
切通の先は布田道。近藤の故郷、調布方面へと繋がります。
※布田道参考記事
車を停めた一本杉公園駐車場までの帰りは、鎌倉古道で♪
これにて、多摩の新選組をめぐるドライブは終了です。
愛車を一旦自宅へ戻し、夜は立川で懇親会☆・・・少々飲み過ぎました…(;・∀・)
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