上野戦争めぐり
7月20日、前日からのメンバーであるサイガさん・みかんさんに加え、のんさんを含めた4人で上野戦争関連地めぐりをしてきました。
※上野戦争、及び関連史跡についてはコチラ の記事も参照ください。
まずは地下鉄千代田線千駄木駅からスタート。
千駄木駅から地上に上がると、団子坂下に出ます。この団子坂の上には長州藩などが布陣しました。
日暮里駅近く、経王寺山門に残る銃弾痕
経王寺は敗走した彰義隊士らを匿ったため、新政府軍の銃撃を受けています。
谷中霊園&天王寺墓地を通ったので、私の希望でこちらのお墓にもお参りさせていただきました。
大野右仲の墓所です。
唐津藩出身。戊辰戦争勃発後は藩主・小笠原長行に従って東北へ向かい、仙台では療養中の土方歳三を訪ねて新選組に参加します。
そのまま榎本艦隊に合流して箱館入りし、箱館政府では陸軍奉行並添役となって土方(陸軍奉行並)と共に二股口や箱館戦などで奮戦し、その補佐を務めました。
※二股口参考記事
没年は明治44年、享年76
土方歳三最期の瞬間、その直前まで共に戦っていた人物・・・その彼が結構長生きされたことを知り、なんだかホッとしました。
※一本木関門参考記事
天王寺五重塔跡
昭和32年、放火により焼失しました。
そして・・・最後の将軍、徳川慶喜墓所
初代家康と三代家光は日光ですが、その他の歴代将軍は14代までは全員、増上寺か寛永寺に葬られています。
地図
上野戦争布陣図
上野台地上に建つ寛永寺に立て籠もる彰義隊に対し、新政府軍は薩摩の精鋭を正面に据え、不忍池を挟んで対岸の本郷台地上にはアームストロング砲を擁する佐賀、背後に長州を配置してぐるりと取り囲みます。
こうして現在の地図で確認してみても、地形から両軍の布陣意図が一目瞭然ですね。
外側はコンクリートで固められているものの、現在も残る寛永寺の土塁とその断面
(地図①)
上野東照宮、不忍口鳥居
この斜面は上野台地西側の縁になりますが、坂の途中の参道脇には・・・
彰義隊が築いた塹壕らしき痕跡が見受けられます。
(地図②)
上野公園の南端、寛永寺黒門跡地(西郷隆盛像から階段を下った脇)
ほぼ、地面の色が変わっているラインに沿って建っていました。
かつては門前を流れていた忍川も今は暗渠となり、それに伴って三枚橋も消えてしまいましたが、その流路にあたるライン上には「みはし」(三橋?)というビルが・・・(・ω・ノ)ノ!
この三枚橋から黒門にかけての一帯が、正面から攻め寄せる薩摩勢との最激戦地となりました。
地下鉄で南千住まで移動し、円通寺へ・・・
円通寺には、寛永寺から移築されたその黒門が保存されています。
無数の弾痕が、戦いの激しさを雄弁に物語ります・・・。
死節之墓(手前)と、「戦死墓」とのみ刻まれた彰義隊士の墓(奥)
死節之墓は、戊辰戦争に於ける旧幕府方戦死者を供養したもので、土方歳三や伊庭八郎、古屋作左衛門、春日左衛門らの名が刻まれています。
※土方・伊庭らの名は墓石の真裏に彫られているので、見ることはできません。
また、彰義隊士の墓には戦場に放置されていた266の遺骸が上野山内(現在、上野公園内に建っている上野戦士之墓辺り)で荼毘に付され、埋葬されています。
さて、夏の暑さも相当に堪えていたので、今回の行程はここまでとしました。次は本郷の辺りも、改めてじっくり歩いてみたいと思います。
案内役のサイガさんをはじめ、ご参加の皆様、ありがとうございました。
※上野戦争、及び関連史跡についてはコチラ の記事も参照ください。
まずは地下鉄千代田線千駄木駅からスタート。
千駄木駅から地上に上がると、団子坂下に出ます。この団子坂の上には長州藩などが布陣しました。
日暮里駅近く、経王寺山門に残る銃弾痕
経王寺は敗走した彰義隊士らを匿ったため、新政府軍の銃撃を受けています。
谷中霊園&天王寺墓地を通ったので、私の希望でこちらのお墓にもお参りさせていただきました。
大野右仲の墓所です。
唐津藩出身。戊辰戦争勃発後は藩主・小笠原長行に従って東北へ向かい、仙台では療養中の土方歳三を訪ねて新選組に参加します。
そのまま榎本艦隊に合流して箱館入りし、箱館政府では陸軍奉行並添役となって土方(陸軍奉行並)と共に二股口や箱館戦などで奮戦し、その補佐を務めました。
※二股口参考記事
没年は明治44年、享年76
土方歳三最期の瞬間、その直前まで共に戦っていた人物・・・その彼が結構長生きされたことを知り、なんだかホッとしました。
※一本木関門参考記事
天王寺五重塔跡
昭和32年、放火により焼失しました。
そして・・・最後の将軍、徳川慶喜墓所
初代家康と三代家光は日光ですが、その他の歴代将軍は14代までは全員、増上寺か寛永寺に葬られています。
地図
上野戦争布陣図
上野台地上に建つ寛永寺に立て籠もる彰義隊に対し、新政府軍は薩摩の精鋭を正面に据え、不忍池を挟んで対岸の本郷台地上にはアームストロング砲を擁する佐賀、背後に長州を配置してぐるりと取り囲みます。
こうして現在の地図で確認してみても、地形から両軍の布陣意図が一目瞭然ですね。
外側はコンクリートで固められているものの、現在も残る寛永寺の土塁とその断面
(地図①)
上野東照宮、不忍口鳥居
この斜面は上野台地西側の縁になりますが、坂の途中の参道脇には・・・
彰義隊が築いた塹壕らしき痕跡が見受けられます。
(地図②)
上野公園の南端、寛永寺黒門跡地(西郷隆盛像から階段を下った脇)
ほぼ、地面の色が変わっているラインに沿って建っていました。
かつては門前を流れていた忍川も今は暗渠となり、それに伴って三枚橋も消えてしまいましたが、その流路にあたるライン上には「みはし」(三橋?)というビルが・・・(・ω・ノ)ノ!
この三枚橋から黒門にかけての一帯が、正面から攻め寄せる薩摩勢との最激戦地となりました。
地下鉄で南千住まで移動し、円通寺へ・・・
円通寺には、寛永寺から移築されたその黒門が保存されています。
無数の弾痕が、戦いの激しさを雄弁に物語ります・・・。
死節之墓(手前)と、「戦死墓」とのみ刻まれた彰義隊士の墓(奥)
死節之墓は、戊辰戦争に於ける旧幕府方戦死者を供養したもので、土方歳三や伊庭八郎、古屋作左衛門、春日左衛門らの名が刻まれています。
※土方・伊庭らの名は墓石の真裏に彫られているので、見ることはできません。
また、彰義隊士の墓には戦場に放置されていた266の遺骸が上野山内(現在、上野公園内に建っている上野戦士之墓辺り)で荼毘に付され、埋葬されています。
さて、夏の暑さも相当に堪えていたので、今回の行程はここまでとしました。次は本郷の辺りも、改めてじっくり歩いてみたいと思います。
案内役のサイガさんをはじめ、ご参加の皆様、ありがとうございました。
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