成菩提院~摺針峠 信長が作った(変えた)東山道
備前守(浅井長政)は一門家老召連れ、佐和山へ罷越、相図の日限にはすり針峠まで迎に罷出て待たまふ。かくて信長卿は小姓二百四五十騎にて出させ給ふ。備前守御迎に是迄被出る事不浅とて、御感悦不斜、先へ被参候へと被仰けるに付、長政は佐和山へ信長卿もそれより佐和山の城へ御着座あり。
~~中略~~
岐阜へ御帰座可被成と有ければ、御名残の酒宴数刻に及し故に、其日は柏原の常菩提院に御一宿と相定て、長政もすり針峠迄御送り申されしとなり。
(以上「浅井三代記」より抜粋)
永禄11年(1568)8月、足利義昭を擁しての上洛作戦(同年9月)を控えた織田信長は、義弟・浅井長政との会談、及び南近江の六角承禎との交渉のため佐和山城へ赴きますが、その往復で柏原の成菩提院に泊り、摺針峠を越えた様子が『浅井三代記』に描かれています。
また、浅井長政も摺針峠まで信長を出迎え、そして見送っています。
今回はその成菩提院~摺針峠までのルートを辿ります。
成菩提院へ向かう途中、その北方3㎞ほどの杉澤という集落で気になるモニュメントがあったので立ち寄ってみると・・・
なんと織田信長の禁制が!?
この奥は勝居神社の境内になっていて、この禁制は勝居神社へ出されたものらしいのですが、特に興味深いのはその第一条・・・
一、當社勝居宮境内之竹木伐採之事
…そして奥には竹林♪
日付は永禄十一年八月となっていますので、まさに信長が佐和山へ赴いていた時期と重なります。成菩提院宿営の折に出されたものなのでしょう。
更には秀吉の禁制も。こちらは天正五年二月付。
ここでも竹の伐採を禁じています。
偶然立ち寄った小さな集落に佇む神社、その竹林にこれほどの歴史が存在していたとは・・・。
勝居神社の竹には;
『秀吉北越を討つ日、この地に来る。社僧正明寺を呼んで「北の方に見える村はどこか」と問うたところ、「北負け村」と答えたので、秀吉大いに喜び、この神社は勝居なり、すなわち勝ち戦の吉兆だ。』(近江輿地志略)
として、境内の竹を旗竿に用いて賤ヶ岳の戦いに臨み、勝利したという逸話も伝わっているそうです。
またこの時、勝居神社の氏子が秀吉軍の武士に境内の笹の葉を守り札として授け、武士たちはこれを兜や懐に奉じて戦ったという「笹お守り」の伝承も残っています。
先ほどの禁制が天正5年で、賤ヶ岳の合戦は同11年。
秀吉は少なくとも2度以上、この地と関わりを持っていたのですね。
境内には芭蕉の句碑もありました。
そして・・・
成菩提院へ
成菩提院には織田信長の他、足利義昭も上洛の折に泊っていますし、豊臣秀吉や小早川秀秋も宿営した記録が残っています。
かの天海が住職を務めたこともありました(第20世)。
成菩提院門前から。
奥に見える家並みに中山道(信長の時代では東山道。本記事では便宜上、中山道に統一)の旧街道が通っています。
柏原宿を通る中山道
旧街道に沿って西へ進みます。
途中、一里塚跡を通過して・・・
鴬ヶ端から西方の眺め
遥か山間には京の空を望めることで有名で、旅人はみな足を止めて休息したと云います。
醒井宿、東の見附跡の枡形
「中山道分間延絵図」に見る醒井宿
右端の折れが東の見附跡の枡形
梅花藻でも有名な醒井宿を越え・・・
次の番場宿には・・・
元弘3年、京を逃れてきた六波羅探題・北条仲時一行が立て籠もり、包囲した南朝軍と戦った蓮華寺があります。力尽きた仲時は従士430余名共々、本堂前庭に於いて悉く自刃しました。
彼らのお墓は今も境内にあるそうです。
番場宿を過ぎ、名神高速の脇を進む中山道
道標が建っていました。
いよいよ摺針峠に差し掛かります。
摺針峠の地図
青いラインが中山道の旧道跡です。
摺針峠について、奈良東大寺金堂の僧侶の日記「東金堂万日記」には;
スリハリ峠ヲヨコ三間、深サ三尺ニホラル。人夫二万余、岩ニ火ヲタキカケ、上下作之。濃刕よりハ三里ホトチカクナルト也。
とあります。
これは天正3年3月の、おそらくはこの摺針峠を越えて向かったのであろう、織田信長の上洛についての記述に付随して書かれたものです。
また、信長公記には;
一、去年(天正2年)月迫に、国々道を作るべきの旨、坂井文介・高野藤蔵・篠岡八右衛門・山口太郎兵衛四人を御奉行として、仰せ付けられ、御朱印を以て、御分国中御触れこれあり。程なく出来訖んぬ。
とあり、その前年(天正2年)暮れ頃から信長が分国中の道路整備を命じ、工事を急がせていた様子が伝わります。このことから摺針峠の拡張・整備工事も、天正2年冬~同3年初頭までの期間に行われたのではないかと思われます。
(「信長の政略」谷口克広 学研)
前出の「浅井三代記」によれば、永禄11年時点で既に信長が摺針峠を通行しているので、元々峠道は通っていたのでしょうが、天正2~3年の工事で本格的な街道として整備され、従来は番場宿から米原を経由して鳥居本宿に至っていた東山道(中山道)は、これ以降、番場から摺針峠を経由して直接鳥居本に繋げられ、3里も距離が短縮されることになりました。
それでは摺針峠を登ります。
摺針峠、旧道のピーク付近
この付近は車道が旧道に沿っていますので、ヨコ三間、深サ三尺ニホラれた様子を感じ取ることができます。
その後、旧道は車道を離れ、途中で車道によって分断されていますが・・・
(正面に見える階段からのラインが旧道)
車道を跨いで更に西麓側に向かって下っていきます。
※上地図★地点で撮影
今となっては藪に覆われた獣道の如く・・・
峠を西麓側に下り切った地点
右は現在の車道で、左が中山道の旧道から続く道です。
摺針峠を下り切った旧道
織田信長が越え、浅井長政が出迎えた摺針峠。
まさにこの場所が、2人の出会いの場だったのですね!
※但し、「浅井三代記」は、主要街道(中山道)が摺針峠を越えるルートに付け替えられて定着した遥か後の江戸中期に成立した軍記物で、史料価値も疑問視されているので虚実は定かではありません。
※2016年12月、摺針峠の旧道を実際に歩く機会に恵まれました。
詳しくはコチラの記事をご参照ください。
摺針峠を越えると、中山道は鳥居本宿へ入っていきます。
信長・長政の2人が向かった佐和山城はもう、目と鼻の先です。
鳥居本宿に建つ専宗寺の太鼓門
実はこの太鼓門の天井、その佐和山城の木材を転用していると伝わります。
真ん中で観音開きになりそうだし、閂の金具が取り付けられていたらしき痕も残っているので、きっと城門の部材だったのではないでしょうか。
鳥居本から佐和山城へのルートは中山道を離れ、後に信長が下街道として整備し、江戸期に至って朝鮮人街道となる道へと続きます。
下街道/朝鮮人街道については、次の記事にて・・・。
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