武田信玄の描いた「新鎌倉」構想地?…「ほしのや」
『甲陽軍鑑』が書き記す武田信玄の国家構想・・・
信玄は天下掌握の後、関東を中心とした国家構想を思い描き、相模國ほしのやを日本一の名地として、ここにその国家の中心となる『新鎌倉』を築こうと考えていた、とされています。
相模國ほしのやとは神奈川県座間市入谷…星谷寺が建ち、その背後に谷戸山公園の丘が聳える辺り一帯と比定されています。周辺の小字名は「星の谷」
最近、歴史番組などで取り上げられたこともあり、「相州ほしのや」とは如何なる地か?信玄の見た光景とは…?が気になって、仲間内で実際に訪れてみることにしました。

まずは集合場所の神奈川県座間市、谷戸山公園へ。

谷戸山公園内の小丘、伝説の丘(本堂山)へ向かいます。

現在は麓に建つ星の谷観音(星谷寺)ですが、かつてはこの丘の上に建っていて(鎌倉期に焼失)、詳細は分かりませんが観音様と大蛇にまつわる伝承が残っているそうです。
信玄は天下掌握の後、関東を中心とした国家構想を思い描き、相模國ほしのやを日本一の名地として、ここにその国家の中心となる『新鎌倉』を築こうと考えていた、とされています。
相模國ほしのやとは神奈川県座間市入谷…星谷寺が建ち、その背後に谷戸山公園の丘が聳える辺り一帯と比定されています。周辺の小字名は「星の谷」
最近、歴史番組などで取り上げられたこともあり、「相州ほしのや」とは如何なる地か?信玄の見た光景とは…?が気になって、仲間内で実際に訪れてみることにしました。

まずは集合場所の神奈川県座間市、谷戸山公園へ。

谷戸山公園内の小丘、伝説の丘(本堂山)へ向かいます。

現在は麓に建つ星の谷観音(星谷寺)ですが、かつてはこの丘の上に建っていて(鎌倉期に焼失)、詳細は分かりませんが観音様と大蛇にまつわる伝承が残っているそうです。
そういった伝説が残る丘だから「伝説の丘」と呼ばれるようになったのかな?(;^ω^)

また、伝説の丘=星の谷観音には北条氏照が陣場としてたびたび利用していたとの言い伝えもあります。

伝説の丘からの眺め

伝説の丘全景

公園名の由来にもなったであろう、こじんまりとした谷戸

星野谷庚申塚と馬頭観音
ほしのや一帯には古来、府中街道など様々な街道が交錯していたようで、谷戸山公園や周辺では数多くの庚申塚や馬頭観音などが見受けられます。
そういった意味では、交通の要衝であったとも言えるのかもしれません。

左 原町田 きそ ふちうみち
「きそ」とは現在の町田市木曽のことで、「甲陽軍鑑」にも小田原へ向かう武田軍の進軍経路として出てきます。
小山田、二つ田、きそ、勝坂、新道(新戸)
滝山城の包囲を解いた後、武田軍は御殿(杉山)峠を越えていますので(上杉謙信宛北条氏照書状)、この軍鑑に書かれた経路に倣うと峠を越えて相原に出た信玄は、そのまま南下せずに一旦現在の町田街道(都道47号)伝いに東へ迂回した後、勝坂・当麻辺りで相模川河畔に出たことになります。

谷戸山公園の南西麓に建つ星谷寺
源頼朝や徳川家康の帰依をも受けたと伝わる、歴史あるお寺です。

観音堂
星谷寺には、北条氏照が同寺をたびたび宿舎として利用しているため、屋根の葺替えと建具飾りなどの費用を寄進する旨を記した寄進状が残っているのだとか・・・
※氏照家臣・狩野一庵が認め、氏照が印判を押したもの。
やはり氏照は、星の谷を陣場にしていたのですね。
他に北條氏制札(1565/1575の2通)や、豊臣秀吉制札(天正18年)も残っています。

市の重要文化財に指定されている宝篋印塔。よ~く見ると・・・

右端の一行に「相模國鎌倉郡座間郷」の文字が・・・
座間は本来、高座郡に属します。この辺りにも「新鎌倉」構想と何か関わりがあるのでしょうか。


また、伝説の丘=星の谷観音には北条氏照が陣場としてたびたび利用していたとの言い伝えもあります。

伝説の丘からの眺め

伝説の丘全景

公園名の由来にもなったであろう、こじんまりとした谷戸

星野谷庚申塚と馬頭観音
ほしのや一帯には古来、府中街道など様々な街道が交錯していたようで、谷戸山公園や周辺では数多くの庚申塚や馬頭観音などが見受けられます。
そういった意味では、交通の要衝であったとも言えるのかもしれません。

左 原町田 きそ ふちうみち
「きそ」とは現在の町田市木曽のことで、「甲陽軍鑑」にも小田原へ向かう武田軍の進軍経路として出てきます。
小山田、二つ田、きそ、勝坂、新道(新戸)
滝山城の包囲を解いた後、武田軍は御殿(杉山)峠を越えていますので(上杉謙信宛北条氏照書状)、この軍鑑に書かれた経路に倣うと峠を越えて相原に出た信玄は、そのまま南下せずに一旦現在の町田街道(都道47号)伝いに東へ迂回した後、勝坂・当麻辺りで相模川河畔に出たことになります。

谷戸山公園の南西麓に建つ星谷寺
源頼朝や徳川家康の帰依をも受けたと伝わる、歴史あるお寺です。

観音堂
星谷寺には、北条氏照が同寺をたびたび宿舎として利用しているため、屋根の葺替えと建具飾りなどの費用を寄進する旨を記した寄進状が残っているのだとか・・・
※氏照家臣・狩野一庵が認め、氏照が印判を押したもの。
やはり氏照は、星の谷を陣場にしていたのですね。
他に北條氏制札(1565/1575の2通)や、豊臣秀吉制札(天正18年)も残っています。

市の重要文化財に指定されている宝篋印塔。よ~く見ると・・・

右端の一行に「相模國鎌倉郡座間郷」の文字が・・・
座間は本来、高座郡に属します。この辺りにも「新鎌倉」構想と何か関わりがあるのでしょうか。

また、星谷寺には「星の谷観音七不思議」なるものがあります。
一つ一つ訪ね歩くのも楽しい…かも?(笑)
金田ヨリ御見分有テ、堅固・はんじやう共にとゝのひたる地、と御ほめ被成候。
(甲陽軍鑑)
さて、武田軍は小田原攻めの往復で厚木市の金田や妻田周辺に宿営していますが、その帰路で信玄は金田から「ほしのや」を眺め、その地勢を褒めたと云います。
金田周辺地図

金田は中津川と相模川に挟まれ、その東西両川の浸食によって形成された南北に連なる台地の南端付近に位置します。
現在はその尾根筋に国道129号線が縦走していますが、なかなか「ほしのや」方面への視界が効きません・・・。

「ほしのや」を見通せるポイントを求めてウロウロしているうちに、偶然見かけた吾妻坂古墳。
この付近も住宅が遮って、「ほしのや」を見通すことはできませんでした。

それでもどうにか見つけた秘密?のポイント…武田信玄も見たという、金田付近からの「ほしのや」
写真中央付近が谷戸山公園の丘陵になります。
相模川に沿って丘陵が連なる光景は確かに堅固には映るかもしれませんが、正直なところ国家の首都たる新鎌倉に適した日本一の名地だ、というほどのインパクトは受けませんでした。
しかも相模川の水運は期待できるとしても、あれほど海を欲した割に相模湾からはかなり離れた内地。本当に信玄の言葉だったのでしょうか・・・。

金田に建つ建徳寺
ここ建徳寺や妻田の薬師堂、厚木の最勝寺にも小田原攻めに向かう武田軍や、1561年侵攻時の上杉軍によって大きな被害を受けた、という記録が残っているそうです。

また、建徳寺には鎌倉~室町期に周辺で勢力を張った本間氏累代の墓があります。

建徳寺のすぐ南には、中津川から水を取り入れる牛久保用水の取水口がありますが・・・
一つ一つ訪ね歩くのも楽しい…かも?(笑)
金田ヨリ御見分有テ、堅固・はんじやう共にとゝのひたる地、と御ほめ被成候。
(甲陽軍鑑)
さて、武田軍は小田原攻めの往復で厚木市の金田や妻田周辺に宿営していますが、その帰路で信玄は金田から「ほしのや」を眺め、その地勢を褒めたと云います。
金田周辺地図

金田は中津川と相模川に挟まれ、その東西両川の浸食によって形成された南北に連なる台地の南端付近に位置します。
現在はその尾根筋に国道129号線が縦走していますが、なかなか「ほしのや」方面への視界が効きません・・・。

「ほしのや」を見通せるポイントを求めてウロウロしているうちに、偶然見かけた吾妻坂古墳。
この付近も住宅が遮って、「ほしのや」を見通すことはできませんでした。

それでもどうにか見つけた秘密?のポイント…武田信玄も見たという、金田付近からの「ほしのや」
写真中央付近が谷戸山公園の丘陵になります。
相模川に沿って丘陵が連なる光景は確かに堅固には映るかもしれませんが、正直なところ国家の首都たる新鎌倉に適した日本一の名地だ、というほどのインパクトは受けませんでした。
しかも相模川の水運は期待できるとしても、あれほど海を欲した割に相模湾からはかなり離れた内地。本当に信玄の言葉だったのでしょうか・・・。

金田に建つ建徳寺
ここ建徳寺や妻田の薬師堂、厚木の最勝寺にも小田原攻めに向かう武田軍や、1561年侵攻時の上杉軍によって大きな被害を受けた、という記録が残っているそうです。

また、建徳寺には鎌倉~室町期に周辺で勢力を張った本間氏累代の墓があります。

建徳寺のすぐ南には、中津川から水を取り入れる牛久保用水の取水口がありますが・・・
この牛久保用水を創設したのもその本間氏で、本間重連という人物だそうです。
しかも1200年代のこと。随分と長い歴史があったのですね。
しかも1200年代のこと。随分と長い歴史があったのですね。
(武田軍小荷駄奉行の甘利勢が)そり田、つま田迄はやめて跡をまち候間に、陸奥守内、設楽越前父子、物見にいで、かね田のうしろ、谷の上より静かに物見を仕る、
~中略~
(これを見た甘利勢は)人馬をはやめて、中津河を乗こし、牛飼と云ふ所へ、坂をのりあげ候
小田原からの帰路、この地に至った武田軍は金田の背後(北)に連なる台地上に北条氏照方の物見が来ていることに気づき、反田・妻田から中津川を渡って牛飼という場所へ坂を攻め上っています。
この牛飼とは牛窪(久保)坂のことで、台地の西側、中津川河畔へと下る坂を指しています。

現在の牛窪坂
今となっては造成でかなり削られて「坂」を意識するのも難しいですが、武田軍が攻めかかった時、この用水は既に存在していたことになるのですね。

金田神社
こちらの創建も仁治2年(1241)、本間重連の命によります。

とても可愛らしい道祖神が♪
当麻周辺地図

ところで、小田原へと向かう武田軍の往路ですが、滝山城の包囲を解いて御殿(杉山)峠を越えた信玄は、甲陽軍鑑によると相模川の東岸に出て、途中の当麻や磯部などで少しずつ兵を西岸へ渡河させつつ南下し、信玄本隊(旗本)は新戸辺りで相模川を渡っています。
(後備えは座間か?)
その南下ルートは西方(対岸)の眺望が効き、且つ防衛上の要地でもある相模川東岸の段丘上の縁、ほぼ現在の県道46号線に沿っていたものと考えられます。

県道46号沿い、夜景でも有名な八景の棚

八景の棚から西方の眺め
写真中央を相模川が横切り、橋(昭和橋/手前)が架かっている辺りが当麻の渡し。
この付近でも武田軍の先方部隊が渡河しています。
更に写真奥、相模川を越えた先の山々へと続くのが三増への道です。

この八景の棚のすぐ近くには、武田信玄の手植えと伝わるさいかちの木の碑があります。
手植えの真偽はともかく、こうした伝承が残っていること自体、武田軍がこのルート(県道46号沿い)を実際に通過したことを物語っているのではないでしょうか。
座間周辺地図

武田軍が進んだと思われる県道46号は途中で県道42号となり、そのまま南下すると江戸期には宿場町として栄えた座間宿へと至ります。
ここで「ほしのや」に関してもう一つ疑問が・・・
前述の通り武田軍は小田原攻めへの道中(往路)で、相模川の東岸を新戸や座間辺りまで南下しており、既に「ほしのや」のすぐ近くを通っている筈なのです。
にも関わらず、距離の離れた金田から遠望した時に気に入ったと云う「ほしのや」
…金田から馬場美濃守を調査に向かわせようとして断念したとか。
それほどお気に召すような場所であれば、近くを通った際にも目を引きそうなものだし、現地調査も容易だったと思うのですが…往路では気にも留まらなかったということなのでしょうか・・・。
『甲陽軍鑑』が伝える武田信玄の国家構想と「新鎌倉=ほしのや」
現地を訪れてみた印象としては、まだまだ謎と違和感が拭い去れない、といったところでしょうか。
※あくまでも私個人の感想です。

折角なので当麻の渡し(昭和橋)で相模川を越えて・・・
写真提供:nikkoさん

最後に、三増へと向かう武田軍が通った信玄道を訪ねて今回の関連地巡りは終了です。ご一緒頂いた皆様、お疲れさまでした。
~中略~
(これを見た甘利勢は)人馬をはやめて、中津河を乗こし、牛飼と云ふ所へ、坂をのりあげ候
小田原からの帰路、この地に至った武田軍は金田の背後(北)に連なる台地上に北条氏照方の物見が来ていることに気づき、反田・妻田から中津川を渡って牛飼という場所へ坂を攻め上っています。
この牛飼とは牛窪(久保)坂のことで、台地の西側、中津川河畔へと下る坂を指しています。

現在の牛窪坂
今となっては造成でかなり削られて「坂」を意識するのも難しいですが、武田軍が攻めかかった時、この用水は既に存在していたことになるのですね。

金田神社
こちらの創建も仁治2年(1241)、本間重連の命によります。

とても可愛らしい道祖神が♪
当麻周辺地図

ところで、小田原へと向かう武田軍の往路ですが、滝山城の包囲を解いて御殿(杉山)峠を越えた信玄は、甲陽軍鑑によると相模川の東岸に出て、途中の当麻や磯部などで少しずつ兵を西岸へ渡河させつつ南下し、信玄本隊(旗本)は新戸辺りで相模川を渡っています。
(後備えは座間か?)
その南下ルートは西方(対岸)の眺望が効き、且つ防衛上の要地でもある相模川東岸の段丘上の縁、ほぼ現在の県道46号線に沿っていたものと考えられます。

県道46号沿い、夜景でも有名な八景の棚

八景の棚から西方の眺め
写真中央を相模川が横切り、橋(昭和橋/手前)が架かっている辺りが当麻の渡し。
この付近でも武田軍の先方部隊が渡河しています。
更に写真奥、相模川を越えた先の山々へと続くのが三増への道です。

この八景の棚のすぐ近くには、武田信玄の手植えと伝わるさいかちの木の碑があります。
手植えの真偽はともかく、こうした伝承が残っていること自体、武田軍がこのルート(県道46号沿い)を実際に通過したことを物語っているのではないでしょうか。
座間周辺地図

武田軍が進んだと思われる県道46号は途中で県道42号となり、そのまま南下すると江戸期には宿場町として栄えた座間宿へと至ります。
ここで「ほしのや」に関してもう一つ疑問が・・・
前述の通り武田軍は小田原攻めへの道中(往路)で、相模川の東岸を新戸や座間辺りまで南下しており、既に「ほしのや」のすぐ近くを通っている筈なのです。
にも関わらず、距離の離れた金田から遠望した時に気に入ったと云う「ほしのや」
…金田から馬場美濃守を調査に向かわせようとして断念したとか。
それほどお気に召すような場所であれば、近くを通った際にも目を引きそうなものだし、現地調査も容易だったと思うのですが…往路では気にも留まらなかったということなのでしょうか・・・。
『甲陽軍鑑』が伝える武田信玄の国家構想と「新鎌倉=ほしのや」
現地を訪れてみた印象としては、まだまだ謎と違和感が拭い去れない、といったところでしょうか。
※あくまでも私個人の感想です。

折角なので当麻の渡し(昭和橋)で相模川を越えて・・・
写真提供:nikkoさん

最後に、三増へと向かう武田軍が通った信玄道を訪ねて今回の関連地巡りは終了です。ご一緒頂いた皆様、お疲れさまでした。
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