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2015年7月10日 (金)

下街道(朝鮮人街道)

下街道とは
永禄11年(1568)の上洛以降、織田信長は岐阜~京都間の往来で、佐和山や山崎山、安土、永原などを経由していたことが『信長公記』に度々記録されています。
これは従来の主街道たる東山道(中山道)とは異なるルートで、織田家の南近江における主要な拠点を経由する軍用の道として、信長によって整備されたものと考えられます。

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その下街道を地図で示すとおおよそこのように。
青いラインは東山道(中山道)で、下街道です。

1600年の関ヶ原合戦で勝利した徳川家康は京への凱旋にこの下街道を通り、江戸に幕府を開いた後には家康・秀忠・家光三代の上洛用の道として使われ、沿道には伊庭・永原の御茶屋御殿も築かれました。

四代家綱以降は将軍の上洛も途絶えますが、引き続き朝鮮通信使の通行に利用されたため、「朝鮮人街道」という名で現在に伝わります。
現在に伝わる朝鮮人街道は時を経て、八幡山城主となった豊臣秀次によって八幡山城下に引き込まれたり、江戸期には朝鮮通信使一行の大行列を収容・警護する必要性などから、やはり彦根城下に引き込まれたりと改変の可能性が考えられるため、従来の織田信長によって整備された下街道の正確なルートは把握しきれません。
おそらくは、ほぼ県道2号線に沿っていたのではないかと思いますが。

従って今回は、朝鮮人街道に沿って辿ってみることにしました。

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スタートは野洲から。
野洲市の航空写真で朝鮮人街道()のルートを確認します。

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スタート地点の追分・・・惚れ惚れします(笑)

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右:中山道、左:朝鮮人街道

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燦然と輝くY字路の標識(笑)

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中山道と別れた朝鮮人街道は、しばらく祇王井川沿いに進みます。

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静かな住宅街を進むと・・・

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朝鮮人街道は徳川将軍三代の休息所、永原御殿の近くを通ります。
写真は永原御殿の堀跡(田圃)と石垣

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永原御殿堀跡
※永原御殿についてはコチラの記事を参照ください。

永原御殿の近くには、織田信長が重臣の佐久間信盛を入れた上永原城跡と伝わる場所(現祇王小学校付近。小字名「与六郎」と、信長公記に出てくる「永原の佐久間与六郎所*表記の一致から推定されている)もあり、そちらはより朝鮮人街道に近い位置を占めています。
おそらく下街道も、この辺りでは朝鮮人街道と同じ場所を通っていたのではないでしょうか。
*巻十 松永謀反並びに人質御成敗の事

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また、永原付近は平清盛の寵愛を受けた白拍子、妓王・妓女姉妹の故郷でもあります。
姉妹とその母の菩提を弔う妓王寺や・・・

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彼女らが晩年を過ごした屋敷跡もあります。
既出の祇(妓)王井川は妓王が故郷のため、清盛に頼んで野洲川から引いて貰った農業用の水路で、今なお周辺の水田を潤しています。

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永原を過ぎ、田園風景の中を貫く朝鮮人街道の並木道

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とても趣のある道です。

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しばらく進むと朝鮮人街道は日野川に至り、仁保橋を渡ります。
仁保橋の欄干には朝鮮通信使の行列の様子を描いた絵が展示されていました。
日野川は野洲市と近江八幡市との市境でもあります。

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往時の橋はもう少し西側に架かっていて、朝鮮人街道もそちらを通っていました。

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橋を渡った朝鮮人街道はあちら、角に小さな祠の建つ路地へと入っていきます。
ちょうど往時の橋の位置と直線で繋がります

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祠の中には背くらべ地蔵
幼子の死亡率が高かった時代、「我が子もこのお地蔵さんくらいになれば、あとはよく育つ」と背くらべさせるようになったのが由来とか。
周囲には鎌倉期のものと伝わる石仏も。

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日野川を渡った先の朝鮮人街道

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一旦、県道2号線と合流するポイント。
今では車両の通行を止め、一度右に折ってから合流させていますが、少し前までは一直線に繋がっていたのですね。

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小船木町を抜け、白鳥川を越えると・・・

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豊臣秀次が築いた八幡山城下に入ります。

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八幡山城下町、東の端には黒橋史蹟之碑

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この付近で水茎岡山城の九里氏・伊庭氏と、観音寺城の六角氏との間で争われた黒橋の戦いがありました。

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ここまで来ると、いよいよ安土城(写真左手前)が近くに迫ってきます。

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朝鮮人街道と八風街道の追分

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ここまで標識や道標も「朝鮮人街道」一色でしたが、安土城下で遂に「下街道」の標識を目にすることができました!

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安土城の大手前を通過する「下街道」←あえて(笑)

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朝鮮人街道は安土城前で一ヶ所、県道を離れる部分があります。(地図部分)
何故ここだけ県道を離れ、今では細い畦道のように取り残されたのだろう…と疑問でしたが、安土城考古博物館で古絵図を見て納得しました。
往時は北東へ鋭角に曲げられていた旧街道ですが、それでは現代の自動車の通行には不便なため、県道は緩やかなカーブを描くように敷設されたのでしょう。
そのため、鋭角なコーナー部分だけが取り残されたのではないかと。

織田信長によって築かれた安土城と、その城下町。
天正5年6月には、有名な「安土山下町中掟書」が触れ出されますが、その第二条には次のようにあります。

一 往還之商人、上海道相留之、上下共至当町可寄宿、但、於荷物以下之付下着、荷主次第事

上海(街)とはすなわち、東山道(中山道)のこと。
往来する商人や旅人の多くは東山道を通行していましたが、東山道は安土城下を通っていないため、上海(街)道に対する下街道を通って安土城下町に泊ることを義務付けているのです。

これは掟書の第一条;

一 当所中為楽市被仰付之上者、諸座諸役諸公事等、悉免許事
(いわゆる楽市楽座)

と共に、安土城下町の振興策の一環として触れ出された政策だと考えられます。
※ちなみに織田信長が楽市楽座令を出しているのは、判明している範囲では安土と加納(岐阜)、金森(守山)の三ヶ所のみです。

下街道が軍用としてだけではなく、上街道(東山道)に対するバイパス道として本格的に整備されたのはこの時期だったのかもしれません。

安土城の切通し(北腰越)を抜けた朝鮮人街道は、その先の交差点で右折して県道を離れ、JRの線路を跨ぎます。
(上地図参照)

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その道沿いで見かけた、災厲不起/交通安全守護の法華塔
文政5年(1822)から祀られています。

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法華塔の存在が、この道が当時の主要道であったことを物語るかのようです。

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この先も雰囲気のいい旧街道が続きます。

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伊庭御殿跡
永原御殿同様、徳川将軍上洛時の休憩所です。

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伊庭御殿の設計は、かの小堀遠州

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土塁や堀跡らしき遺構に・・・

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庭園の池らしき痕跡もありました。

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更に進むと山崎山城が見えてきます。
天正10年の甲州征伐の帰りには佐和山と、ここ山崎山に織田信長休息のための御茶屋が建てられました。
※参照記事はコチラ

江戸期の朝鮮人街道は、山崎山城の城山を西側(写真左)へ回り込むように迂回していたようです。

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ここまで来ると、彦根・佐和山もすぐそこです。

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彦根城下、夢京橋キャッスルロード。ここも朝鮮人街道です。
通り沿いの宗安寺は、朝鮮通信使の宿泊所でもありました。

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そして佐和山城に差し掛かる朝鮮人街道
現在はトンネルを潜って鳥居本側へ抜けますが、本来の朝鮮人街道はトンネルの左を佐和山城内に取り込まれる形で進んで行きました。

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太鼓丸の先、南側の堀切を堀底道として進む朝鮮人街道。

※2016年12月に佐和山城を訪れ、太鼓丸下を通る朝鮮人街道を観ることができました。
詳しくはコチラの記事後半をご参照ください。

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佐和山を越え、鳥居本の東山道(中山道):左と、朝鮮人街道:右の追分
野洲の追分からスタートして辿ってきた朝鮮人街道(下街道)の終点です。

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追分の道標

この追分に設置された説明板には;
彦根道(朝鮮人街道)は彦根藩二代藩主・井伊直孝の時代に、中山道と彦根城下を結ぶ脇街道として整備された。
とありましたが、佐和山城は元々、信長にとって重要な拠点。
岐阜方面との往来の度に佐和山城を経由していることからも分かるように、摺針峠から続く東山道(中山道)と佐和山城を直結させ、城内へ取り込む道を整備したのは間違いなく織田信長だと思います。
佐和山から先、信長の在世時には存在しなかった彦根城下(但し、まだ浅井方だった佐和山を包囲するための付城を築いたことはありますが)まで引き込む道は、井伊直孝の時代に延長・整備されたのかもしれませんが。

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追分から朝鮮人街道を振り返ると、佐和山が正面に聳えています。

織田信長が東山道の下街道として整備し、徳川将軍の上洛用の道として、そして朝鮮人街道として受け継がれていった旧街道。
その道筋には本当に風情のある、歴史を感じさせる町並みが残っています。
これが、この先の後世にも更に受け継がれていくことを願って止みません。

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