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2015年8月

2015年8月30日 (日)

吉見御所 (伝源範頼館跡)

本日は埼玉県比企郡吉見町へ。まず初めに向かった先は・・・

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息障院(岩殿山息障院光明寺)

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息障院は源頼朝の異母弟で、こちらも異母弟の義経と共に、木曽義仲や平氏追討などに功績のあった源範頼の館跡と考えられています。
周辺の字名は御所(埼玉県比企郡吉見町御所)

範頼がいつ頃から吉見庄を領するようになったのかは諸説あってハッキリしませんが、彼は「吉見御所」とも呼ばれ、その子孫は吉見氏を称しています。

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息障院山門

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寺としての歴史も古く、案内板によると天平年間(西暦730年頃)の行基による開創とも、大同年間(同806年頃)の坂上田村麻呂による開基とも伝えられているそうです。
・・・年代も去ることながら、出てくる名前が凄過ぎて実感が湧かない…(^_^;)
※息障院の号は、天慶の乱の折に平将門調伏の護摩祈願を行い、その功によって下賜されました。

無論、現在は後年の範頼館跡と伝わる場所に建っていますので、創建当初は別の場所に建てられていたことになります。
が、これについてはまた後ほど・・・。

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館跡だったことを示すように、今も堀の跡がぐるりと息障院の周囲を取り巻いています。
上写真は山門の左脇に残る南面の堀。

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西面も整備はされていませんが、しっかり痕跡を確認できます。

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東面は水路に・・・

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同じく東面、北東角付近。

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北面
こちらも藪が凄くて分かり辛いですが、堀の形状は見て取れます。

四辺に残る堀跡から推し量るに、ざっと東西120m×南北150mといったところでしょうか。
栃木県足利市に残る足利氏の居館跡(鑁阿寺)に比べると若干小さめですが、方形に堀(おそらく当時は土塁も)を廻らせた、典型的な鎌倉武士の居館(武家造)跡と言えそうです。


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息障院の北西1kmには、坂東十一番札所で「吉見観音」の名でも知られる岩殿山安楽寺があります。
こちらの開基も坂上田村麻呂で、大同元年(806)の創建と伝えられています。
但し、山門前の案内板には「行基菩薩が岩窟に観音像を安置したのがはじまり」とありました。
行基に坂上田村麻呂…まるで息障院の縁起とそっくりです。それに山号まで同じ「岩殿山」・・・

それもそのはず、元々息障院は安楽寺の本坊だったのだそうです。
そのため息障院も本来は安楽寺近くにありましたが、いつの頃か現在の範頼館跡に移っていきました。

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山門前に建つ石碑には、蒲冠者 源 範頼旧蹟とあります。
「蒲冠者」とは、出生地の遠江国蒲御厨(静岡県浜松市)からとった範頼の呼称です。

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吉見の地を領した範頼により、安楽寺に本堂と三重塔が建立されたと伝わりますが、松山城(東松山市)での合戦の兵火でそれらは焼失してしまいました。
それでも、現在の本堂も寛文元年(1661)の再建。

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長い歴史を物語るかのように、本堂にはびっしりと隙間なく千社札が…(^_^;)

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そして現在の三重塔は、更に古い寛永年間(1624~45)の建立です。
高さは約24mありますが、範頼が建てたものはその2倍、48m(16丈)もあったと云います。

源範頼といえば、今から800年以上も前の人物。
遠州で生まれ、長じて木曽義仲や平氏追討の軍事作戦に従事し、後に謀反の嫌疑をかけられて伊豆修善寺で無念の最期を迎えた彼が、果たして吉見の地といつの時期どの程度の関わりを持っていたのか、記録も少なくて真実は分かりません。

しかし実際に訪れてみると何かを訴えかけてくる、確かに歴史を感じさせてくれる場所でした。

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2015年8月19日 (水)

「丸の内夏の陣 真田幸村と戦国武将たち」展

外回りの途中、たまたま通りかかったので・・・

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丸ビル1F、MARUCUBEで開催されている
丸の内夏の陣 真田幸村と戦国武将たち
に立ち寄ってみました。
(2015年8月13~29日/入場無料)

ズラリと甲冑が立ち並ぶ中、個人的に一番興味を惹かれたのは・・・

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この真田丸のジオラマ☆
※反射による写り込みが激しくてスミマセン…(^_^;)

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縮尺比率は明らかにおかしい(真田丸が大き過ぎww)とは思いますが、上町台地の雰囲気も出ているし、、、

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何よりも四天王寺の石鳥居まで再現されていたのが、私的にはツボ♪

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折角なので、甲冑コレクションも・・・

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逃げる家康、追う幸村♪
真田丸を冬の陣の象徴とするならば、夏の陣といえばやはりこの構図☆

ま、入場無料ですし、何かのついでに立ち寄る分には楽しめるかと思います。

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2015年8月15日 (土)

手力雄神社(各務原市)

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旅も終わりに近づき、白川郷からは真っ直ぐ解散場所の名古屋へ向かう予定でしたが、予想よりも早く岐阜近辺まで戻ってこれたので、急遽各務原市の手力雄神社にも立ち寄っていただきました。

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手力雄神社
織田信長は稲葉山城攻めの折、この手力雄神社に立ち寄って戦勝祈願をしたと伝えられています。
美濃制圧後、信長は当社に禁制を与え、1300町歩の社領も寄進しています。

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昭和9年4月の禁制?!…なんか洒落てるw

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信長との関わりなどを記した由緒が刻まれています。

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的場桜
信長参拝の折、ここに的場を築いて弓の稽古をしたと伝わります。
その的場跡に植えられた桜。

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こちらは信長公弓掛桜
この2本の桜の位置関係を見てみると・・・

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手前が弓掛桜で奥が的場桜
弓掛桜の辺りから弓を絞り、的場桜の辺りを目掛けて矢を射ていたのでしょうね。

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織田信長顕彰碑
肖像画がちょっと微妙…(;´・ω・)

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狛犬の台座に織田木瓜

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こちらにも♪
昭和33年まで続いた駈馬祭は、織田信長が駿馬買い上げのために駈馬をさせたのが起こりとされています。

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残念ながら拝殿は工事中でしたので・・・

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こちらの素敵な龍の彫刻は観れませんでした…(´・ω・`)

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本殿裏手には古墳も・・・

さて、これにて2泊3日の行程も終了。
最後は名古屋駅まで送り届けていただき、無事に旅を追えることができました。
毎度のことながらご一緒頂いた皆さん、本当にありがとうございました。

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白川郷

岐阜駅前でゆっきー・流星☆さん・あんこさんと合流した後は、東海北陸自動車道をひたすら北上します。およそ3時間弱で・・・

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白川郷に到着!
まずは展望スペースから・・・

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私自身にとっては6年ぶり2度目の再訪になります。

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ところで、白川郷のこの展望スペースにはその昔、荻町城というお城がありました。

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荻町城跡の堀
他にも削平された曲輪や櫓台、虎口のような痕跡も見受けられました。

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では、さっそく合掌造りの郷を散策します♪

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白川八幡神社

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まだ午前中だったからなのか、日曜日にも関わらず観光客の姿は意外と少なめでした。

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白川郷で最大の合掌造りとなる、明善寺の庫裏

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庫裏の窓から本堂を・・・

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花々と合掌造り…①

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花々と合掌造り…②

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花々と合掌造り…③

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国重要文化財の和田家

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背後の小高い尾根は、最初に訪れた荻町城跡です。

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であい橋…結構揺れます(笑)

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こちらのお店で、どぶろく味のアイスもなかをいただきました☆

前回訪れたのは秋でしたが、夏の白川郷もいいですね♪

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白川郷からの帰りに立ち寄ってもらった帰雲城址
天正13年の大地震(天正地震)が引き起こした山崩れで城ごと埋没し、城主・内ヶ島氏理をはじめ内ヶ島一族悉くが命を落としました。

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更には御母衣ダムにも。
岩を積み上げて築くロックフィルダム…とにかく物凄いスケール!

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湖面の青がとても綺麗ですが、湖底には水没した村が今も静かに眠ります。

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移植されて水没を免れた荘川桜(エドヒガン)の古木

この後は高速に乗り、名古屋方面へ向かって一気に南下します。

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円徳寺(岐阜)

旅の3日目、集合時間前に一人早朝散歩。

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岐阜駅近くに建つ円徳寺

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円徳寺といえば楽市楽座
織田信長による;
・織田信長楽市楽座制札 永禄10年10月
・織田信長楽市楽座制札 永禄11年9月
・織田信長百姓帰住制札 永禄10年9月
の他、
・池田元助楽市楽座制札 天正11年6月
・池田輝政楽市楽座制札 天正12年9月
も伝わっています。

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そして楽市楽座といえば、さも織田信長の代表的な政策のように語られがちですが、実際に記録として残っているのは、ここ円徳寺(加納)安土近江金森の僅かに三ヶ所のみです。
円徳寺に残る信長の制札(永禄10年)は、稲葉山城を攻略して美濃を制圧した直後に出されたものであり、ほぼ同時期に百姓帰住制札も出されていることから、稲葉山城(制圧後に岐阜城に改称)攻めで焼けて荒廃した城下に再び人々を集め、町の復興を期した政策の一環だったでしょう。

金森も南近江一向衆の拠点だったものを攻略し、宿駅・市場として再興するために出されたもので(→参考記事)、安土はいうまでもなく信長自らの居城。その城下町の整備・発展のために出されています。

こうして見ていくと信長は、特に領民の集住・往来を促したい時それを促したい場所で楽市楽座政策を打ち出していたようです。
それ以外の、既に町・市場として成立しているような場所では意外と既存権益を認め、座を保護していたりもします。

※円徳寺に残る信長の楽市楽座制札には永禄10年版と同11年版の2つがありますが、これらを比較すると;
・永禄10年版は長い間往来に掲げられていたことを示すように日に焼けているのに対し、永禄11年版は比較的きれいな状態で保存されている。
・永禄10年版には宛名がないのに対し、永禄11年版には「加納」の宛名が登場する。
という違いがあるそうです。
このことから、永禄10年に出された制札により順調に町(市場)が形成され、一年後には一つの成立した市場として「加納」という名が信長からも認識されるようになり、往来に掲げる必要性も薄れたことから大切に保管されたのではないか、と考えられるそうです。


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円徳寺には他にも織田秀信(信長嫡孫。慶長5年の岐阜落城の際、当寺で出家)所要と伝わる銀箔押烏帽子形兜(写真)や、
織田信長宛本願寺顕如消息(書状)、
天文16年の織田信秀(信長父)による稲葉山城攻め失敗の際の織田軍将兵戦死者を祀った織田塚(改装)、
更には、、、

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信長が寄進したことを示す銘が入っている梵鐘なども残っています。
訪れた時はまだ拝観時間ではなかったために境内に立ち入れず、近くで確認できなかったのがつくづく残念。

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門前にはご覧のものが・・・楽市楽座を表現しているのでしょうか(笑)

今回は時間の都合できちんと参拝できなかったので、是非とも再訪したいです。


※2016年7月、円徳寺を再訪する機会に恵まれました。

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念願叶い、織田信長寄進の梵鐘を拝観。

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永禄七年十一月(霜降月)十一日の日付に続けて、
大檀那上總介平信長公
と刻まれています。

・・・ここで疑問。
現在の定説では、信長が稲葉山城を落として美濃を制圧したのは永禄十年のこと。永禄七年の時点で岐阜はまだ、その勢力下にありません。
よくよく調べていくと、どうもこの梵鐘、寛永十七年頃に再鋳されているようなのです・・・。
そして江戸時代の頃は、「甫庵信長記」の影響もあって稲葉山落城=永禄七年が定説になっていた(その後、永禄九年段階に於いて未だ、信長と斎藤家が交戦状態にあることを示す文書が発見されている)ようで、そのために鋳造しなおされた梵鐘に改めて銘文を刻む際、年次を当時の定説に拠った、というのが真相ではないでしょうか。
従ってこの梵鐘の銘文は、「永禄七年説」の根拠にはなり得ません。

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織田塚にもお参り。

新たな疑問も生じた円徳寺再訪でしたが、念願叶って梵鐘を拝観でき、嬉しい時間でした。

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2015年8月14日 (金)

岐阜城からのパノラマ夜景

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夜の金華山ロープウェー乗り場
長年、いつかは観に行こうと思いつつ、なかなかチャンスに恵まれなかった岐阜城からのパノラマ夜景・・・
ついにそのチャンスが到来しました☆

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ライトアップされた岐阜城天守
そして・・・

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天守最上階からの夜景☆
夜でも長良川のラインがクッキリ♪
(鵜飼い船の灯りも見えていました)

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幸運なことに花火も!
花火を上から見下ろすなんて、初めての体験です。

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いいねぇ…♪

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金華山麓から斜めに伸びる2本の道は七曲百曲
斎藤道三の時代から既に城下町が形成されていた地区だそうです。
道三も信長も、きっとこうして城下町の夜景を眺めていたことでしょうね♪

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真夏の夜とはいえ、金華山山頂には涼しい風が吹き抜けて、なかなか快適な夜景観賞でした。

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さ、下山後はオフ会参加者たちとの楽しい懇親会ギフナイト☆
3次会まで楽しく盛り上がりましたとさ♪

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吉乃の故郷

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さて、守山城→稲生古戦場に続き、今度は江南市の史跡を巡ります。
この辺り(名鉄犬山線布袋駅周辺)の旧地名は尾張國丹羽郡小折。戦国期には織田信長の側室で、信忠・信雄・五徳の母としても知られる吉乃(類)の生家である生駒氏が治めていました。
※「吉乃」という名の出典は僅かに「武功夜話」(前野家文書)に見るのみで、その史料価値から否定的な見解も多く、むしろ生駒家では代々「類」と伝えられてきたようです。
しかし、通りの良さから本記事では「吉乃」に統一して進めます。

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まずは久昌寺から。
生駒氏の菩提寺で吉乃が永禄9年に亡くなると、その戒名:久庵桂昌大禅定尼からとって寺名を久昌寺に改めています。

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尾張名所図絵に見る久昌寺
信長は信雄に命じ、吉乃の香華料として660石を久昌寺に寄進しています。それだけに往時はかなりの規模を誇っていたようです。

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久昌寺の墓地に建つ吉乃の墓所(右端)
墓石には當山中興開基 久庵桂昌大禅定尼とあります。
一緒に並ぶのは吉乃の父・生駒家宗をはじめとする生駒氏代々のお墓です。

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吉乃は久昌寺の西方500mほどの場所で荼毘に付されており、その場所にも塚(経塚)が築かれ、観音像を彫り込んだ墓碑が建てられています。
この観音像、吉乃が亡くなった永禄9年当時の信長の居城・小牧山の方角を向いています

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背面には;
久庵桂昌大禅定尼葬地也
尾州丹羽郡小折村新野経塚


立派な彼岸桜が植えられています。

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吉乃御殿跡
若き日の信長が、前夫・土田弥平次(信長生母の縁者か)の戦死に伴い生家に戻っていた吉乃を見初め、逢瀬を重ねた場所。

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吉乃御殿跡の向かいには龍神社
出生地の守護神として、織田信雄の尊崇を受けたとの由緒が残ります。
現存する最古の棟札によれば五徳、並びに生駒利豊の再建(元和8年)とか。

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龍神社境内には、吉乃の前夫・土田弥平次を祀ったと云われる源太夫社や、、、

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元禄13年に生駒氏から寄進された石灯籠に、、、

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八条流馬術の名手で信長に仕えた埴原加賀守の葬地(但し後世の土地改良事業で移設)である埴原塚などもありました。

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生駒氏の邸址の碑

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絵図で確認すると生駒屋敷は、吉乃御殿跡や龍神社などを含む広域に渡っていたようですね。

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生駒屋敷の中門を移築した広間家の門
広間家は生駒家の典医でもありました。

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最後に富士塚

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尾張名所図会に描かれた富士塚
塚のすぐ脇を駕籠が通行していますので、、、

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この道も少なくとも江戸期からは存在していたのですね。

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この富士塚、天正12年の小牧・長久手の戦いの折、徳川家康と織田信雄が登って敵情を視察したと云われています。
我々も登ってみましたが、残念ながら敵(秀吉軍)側となる犬山城方面は木や民家に阻まれて見通すことができませんでした。

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しかし、生駒氏六代・利勝によって天和2年(1682)に建てられた石塔には、小牧・長久手での顛末が細かく記されています。

さて、この後は岐阜市内へ戻って、岐阜城のパノラマ夜景を堪能します♪

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稲生の戦い

一、林兄弟が才覚にて、御兄弟の御仲不和となるなり。信長御台所入りの御知行、篠木三郷押領。定めて川際に取出を構へ、川東の御知行相押ヘ候ベきの間、其れ以前に此の方より御取出仰せ付けらるべきの由にて、
八月廿二日於多井川をこし、名塚と云ふ所に御取出仰せ付けられ、佐久間大学入れをかれ侯。

信長公記 首巻「勘十郎殿・林・柴田御敵の事」より抜粋

弘治2年(1556)、織田信長・信勝兄弟の仲が不和となり、信勝方は信長の直轄領である篠木三郷(春日井郡)を押領するに至ります。
これを受けて信長は「(信勝勢は)きっと川(於多井川=現在の庄内川)際に砦を築いて川東の信長領を更に狙ってくるに違いない。そうなる前にこちらが先に砦を作ってしまえ」とばかりに同年8月22日、名塚での砦構築を命じ、佐久間盛重を入れ置きます。

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名古屋市西区名塚町白山神社

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この白山神社が、信長が築かせた名塚砦跡とされています。
残念ながら、遺構らしきものは何も残ってはいません。

名塚の砦が完成する前に叩いておけと思ったのか、翌8月23日、信勝擁立を目論む柴田勝家の軍勢1,000、及び林美作守(通具)の700が攻め寄せてきます。

弘治二年丙辰八月廿四日、
信長も清洲より人数を出だされ、川をこし、先手あし軽に取り合ひ侯。柴田権六千計りにて、いなふの村はづれの海道を西向きにかゝり来たる。林美作守は南田方より人数七百計りにて、北向きに信長へ向つて掛り来たる。上総介殿は、村はづれより六、七段きり引きしざり、御人数備へられ、信長の御人数七百には過ぐべからずと申し侯。東の藪際に御居陣なり。
八月廿四日、午の剋、辰巳へ向つて、先づ柴田権六かたへ向つて、過半かゝり給ふ。


柴田勝家の1,000は稲生の村はずれの街道を西向きに攻め寄せ、林美作700は南の田園地帯南田方)から北向きに寄せてきます。
8月24日、清州を出陣した信長は700程の手勢を率いて稲生の村はずれから少し引いた東の藪際に本陣を据え、まずは南東辰巳)の柴田勢へ向かって攻めかかります。

信長が陣を布いた東の藪際、これが具体的にどこを指すのかは分かりませんが、地図を眺めているうちに、現在の稲生町の東端近くに気になる場所を見つけたので訪れてみました。

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その場所…伊奴(いぬ)神社

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伊奴神社本殿
周囲には生い茂る木々(藪?)…なんとなく雰囲気がありませんか?
しかも境内周囲は僅かながら微高地となっており、布陣にも適しているように感じました。

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かなり歴史の深い神社の様で、稲生の地名の由来になったとも考えられているようです。
中央には「稲」一文字(笑)

仮に伊奴神社を信長本陣とした場合、両軍の動きは下地図のようになるかと思います。

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稲生の戦い地図
※上部の青いラインは1930年の改変工事前の、本来の庄内川(於多井川)の流路です。

東から街道伝いに西へ向かってくる柴田勢に対し、伊奴神社からだとちょうど辰巳の方角へ攻めかかることになりそうですし、あながち間違ってはいないかな、と。

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柴田勝家の軍勢が進攻してきたと思われる村はづれの海道
一部、気になるクランクも。

武勇に優れ、人数にも勝る柴田勢との戦いは苦戦を強いられ、信長勢は次第に押されて本陣近くにまで迫られてしまいます。
その時・・・

爰にて上総介殿大音声を上げ、御怒りなされ候を、見申し、さすがに御内の者どもに侯間、御威光に恐れ、立ちとゞまり、終に逃げ崩れ侯ひき。

信長が大音声で怒声を発した瞬間、敵勢は威光に恐れて立ち止まり、遂には逃げ崩れて形勢は逆転したというのです。

「武功夜話」にも;
信長公、大音にて呼び返しなされ候。その声や雷の如し、やよ、権六汝いかなる面目あって余に見えんや、名を惜しむ武者なれば、早々余と鑓を合せよと、威高々に申されければ、柴田権六郎面を伏せ、そぼそぼと引き退り候由。
とあり、やはり信長の一喝を契機に形勢が逆転したというのは確かなようです。

後の桶狭間でも義元本陣を補足した信長は鎗をおっ取って、やはり大音声で「すは、かゝれかゝれ」と叫んで勝利を手繰り寄せています。

宣教師ルイス・フロイスは著書「日本史」の中で信長について;
『中くらいの背丈で華奢な体躯であり、髯は少なくはなはだ声は快調
と記していますし、信長の演じてきた奇跡的な勝利の数々を見る時、自ら先頭に立ってのこの「大音声」は見過ごすことのできない一つのファクターとなりそうですね。

柴田勢を撃退した信長は、返す刀で林美作の軍勢に向かい、なんと信長自ら敵将・林美作の首を討ち取ってしまいます。

林美作の軍勢は南田方より向かってきたとあり、信長が本陣を置いたと思われる伊奴神社の南方には現在も「又穂町」「貝田町」などの地名が見えます。

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こちらは伊奴神社の目の前を流れる庄内用水
開削されたのは元亀・天正年間とのことなので、稲生の戦い当時には存在していませんが、現在の名古屋市南西部に広がっていた肥沃な農地に水を引き入れるために整備されたとあり、やはり当時も広大な田園が広がっていたことは想像に難くありません。
ちなみに更に南方にはこの当時、林美作の兄・林秀貞(通勝)が城主を務めていた那古野城もありました。

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稲生原古戦場の案内板が建つ庚申塚
稲生の戦いでの戦死者を祀ったものとも伝わります。
(上地図地点)

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手前に建つ宝篋印塔は、林美作の十三代目のご子孫らが建立したものです。

合戦後、敗れた信勝方は末森・那古野両城に籠り、やがて信長に降伏します。
柴田勝家や林秀貞らは信長への忠誠を誓って恭順しますが、信勝は翌弘治3年(1557)、再度の謀反を企てて信長に粛清されました。

なお、林秀貞は稲生の戦いより24年後の天正8年(1580)に織田家を追放されますが、その理由として挙げられたのが稲生の戦いに於ける敵対行為でした。
しかし、同じく敵対した柴田勝家は引き続き重用されており、無用になった者に対する「こじつけ」の感は拭えませんが・・・。

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2015年8月13日 (木)

守山城と織田秀孝射殺事件

旅の2日目。この日は若き日の織田信長に関連する土地を訪れます。
という訳で京都を発ち、新幹線でビューンと・・・

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岐阜羽島へ。実は初めて降り立ちました…(^_^;)
ここで流星☆さん・あんこさんと合流し、まずは愛知県名古屋市守山区の守山城跡へ。

守山城周辺地図
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宝勝寺の建つ辺り一帯が守山城跡と推定されています。
徳川家康の祖父・松平清康が殺された守山崩れの舞台にもなったお城です。

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宝勝寺

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山門もなんだか雰囲気がありました。

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宝勝寺の北東脇にある守山城跡の案内板
アパートの奥に見える小高い盛土は櫓台跡と考えられているようです。私有地のようでしたので立ち入るのは遠慮しましたが、あの上に城址碑が建っているそうです。

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宝勝寺北側に残る空堀
上の地図でも地形がハッキリと確認できるくらいに深く掘られています。(地図部分)
が、竹藪が凄くて…(;・∀・)

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地図をご覧いただいても一目瞭然の通り、守山城は細く伸びた台地の先端付近に築かれていました。
従って周辺では、ハッキリそれと分かる地形を確認できます。

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こちらも。
こうして見ると結構な高低差ですね。

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白山神社は守山白山古墳という前方後円墳の上に鎮座しています。
ちょうど東の尾根伝いからの進攻を防ぐ土塁のように南北に伸びていて、後円部は櫓台になっていたのかも・・・と考えると、この辺りまでが城域だったのかもしれません。

一、六月廿六日、守山の城主織田孫十郎殿、龍泉寺の下、松川渡しにて、若侍ども川狩に打ち入りて居ますところを、勘十郎殿御舎弟喜六郎殿、馬一騎にて御通り侯ところを、馬鹿者乗り打ちを仕り侯と申し侯て、洲賀才蔵と申す者、弓を追つ取り、矢を射懸け侯へば、時刻到来して、其の矢にあたり、馬上より落ちさせ賜ふ
信長公記 首巻「織田喜六郎殿御生害の事」より抜粋

弘治元年(1555)6月26日、その守山城主だった織田信次が家臣らを連れて龍泉寺の下、松川の渡しで川遊びをしているところへ、織田信長の同母弟・喜六郎秀孝が馬で通りかかりました。
傍目にそれが秀孝とは気付かない信次の家臣は「乗り打ちするとは無礼な」とばかり、弓で射かけます。すると矢は運悪く命中し、秀孝はあえない最期を遂げてしまいました

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龍泉寺の下、松川渡し
手前の橋(松川橋)が架かっている辺りが松川の渡し跡で、庄内川(当時は於多井川)の対岸、奥の小高い台地上には龍泉寺(台地左端寄り)があります。
まさしく織田喜六郎秀孝が射殺された現場

遺体を改め、それが信長の弟・秀孝であったことを知った信次は慌てふためき、守山城へすら戻ることなく、その場から逃走して姿を消しました。

一、上総介信長も清洲より三里一騎がけに一時に懸けさせられ、守山入り口矢田川にて御馬の口を洗はせられ侯ところ、犬飼内蔵来たり侯て言上、孫十郎は直ちに何くとも知らず懸け落ち侯て、城には誰も御座なく侯。町は悉く勘十郎殿放火なされ侯と申し上げ侯。爰にて信長御諚には、我々の弟などといふ物が、人をもめしつれ候はで、一僕のものゝ如く、馬一騎にて懸けまはりし事、沙汰の限り比輿なる仕立なり。譬へ在生に候へ共、向後御許容なされ間敷と仰せられ、是れより清洲へ御帰り。

知らせを受け、清州から三里の距離を一目散に駆けつけた信長が、馬に水を飲ませていたという守山入り口の矢田川とは、果たしてどの辺りだったのでしょうか…?

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宝勝寺の南東には「守山口」という交差点もありますが・・・
周辺を探索しているうちに、面白いものを見つけました。

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矢田の渡し碑
守山城からは矢田川の対岸、木ヶ崎公園の脇にあります。(地図地点)
矢田川からは若干離れている気がしますが、実はこの矢田川、明和4年(1767)の洪水でこの付近の流路が変わっていて、地図にも描き込みましたが、それ以前は長母寺の西側を通っていたらしいのです。

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渡し碑の目の前にはこのような高低差もあり、明和4年以前の矢田川はきっと、この下を流れていたのではないでしょうか。そう考えれば、渡し碑の建つ位置にも納得がいきます。
写真中央部分は人が登って来れる通路になっており、或いはこれが矢田川を渡しで越えて、河原から土手に上がるための通路だったか?

「守山口」に一番近い矢田川の渡し場…あくまでも想像でしかありませんが、信長が馬に水を与えていた場所、この付近だったのかもしれませんね。

信長が矢田川で馬に水を与えているところへ犬飼という家臣が来て、信次は既に蓄電したこと、町は悉く信勝(信行とも。信長の同母弟)によって焼き払われたことなどを告げます。
それを聞いた信長は;
「我々(信長・信勝)の弟ともあろう者が共も連れず、身分の低い者の如く一騎駆けするなど言語道断。例え存命していたとしても断じて許さぬ」
と言ったとか。
…自分の方こそ、清州から三里もの距離を一目散に一騎がけしてきたくせにね(笑)

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こちらが長母寺
前述の洪水で矢田川の流路が変わったことにより、それまで守山村だった長母寺はいつの頃からか、矢田村に編入されました。

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また、天正5年には織田信長から340石の寄進を受けています。

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木ヶ崎公園からの守山城の眺め
信次が逃亡した後、信長に先んじて駆け付けた末森城の信勝勢によって守山城下は焼かれ、城には信次の家臣らが立て籠もったため、柴田勝家(当時は信勝の家臣)が木ヶ崎口に取り寄せて城を包囲しています。
…或いはこの時、勝家が見た光景か。

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現在の矢田川を挟んで守山城(右)と木ヶ崎(左)

この後、信長の家臣・佐久間信盛の調略で守山城には信長の異母兄(弟?)・信時を城主に据えることで籠城側とも決着し、信勝の軍勢もやむなく?包囲を解きました。
信時、そして逃走した信次も、やがては数奇な運命を辿るのですが・・・それはまた別の機会に。

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2015年8月12日 (水)

特別展「池田屋事件と禁門の変」(霊山歴史館)

醍醐寺をあとにして再び地下鉄に乗り込み、お次は東山で下車。

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猛暑の中、粟田口の青蓮院門跡の前を過ぎ・・・

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知恩院門前では暑さ凌ぎに土産物店を冷やかし・・・

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翠紅館跡前の坂を登って・・・

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霊山歴史館へ。

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目的はこちらの特別展「池田屋事件と禁門の変」(第3期)です。
※というより、暑くてとても外を歩き回れないと判断したからでもありますが…(^_^;)

副題に「松陰をめぐる人びと」とあるように、松陰やその父・杉百合之助の書状など、長州藩関係の資料展示が多かったように思います。

新発見?の;
新家粂太郎(新見錦)金子借用覚(現在は複製展示)
などもありましたが、新選組関連は全体的に昨年の訪館時と比べても目新しいものはなく、企画名にもあまりマッチしていなかった印象です。

この後は早々にホテルへ逃げ込みました・・・。
暑いのなんのって…(^_^;)

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2015年8月11日 (火)

藤戸石

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地下鉄醍醐駅で下車、10分ほど歩きます。

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途中で見かけた気になる地形…なんでしょうね?

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世界遺産、醍醐寺に到着です。

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まずは三宝院
三宝院の庭園に置かれている藤戸石を拝観したくて訪れました。

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この先は撮影禁止なので写真はありませんが、その庭園の見事さといったらもう・・・筆舌にも尽くし難し。感動すら覚えます。

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売店で販売していた絵葉書で・・・
藤戸石は左奥、縦長に安置されている石です。

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藤戸石
説明書きにもありますが、その時々の権力者たちの手を経て、最終的には豊臣秀吉によって聚楽第から醍醐寺へと運び込まれました。
秀吉と醍醐寺といえば、何と言っても醍醐の花見が有名ですよね。

しかし、実はそれよりも前には織田信長も藤戸石に関わっていたのです。

永禄12年(1569)2月、この年の正月に将軍・足利義昭の滞在する本圀寺を三好三人衆らに襲撃された(六条合戦)のを受け、織田信長は新たに将軍の御座所となる二条城の建造を開始します。
その時の様子を描いた「信長公記」の中に、次の一節があります。

御殿の御家風尋常に金銀をちりばめ、庭前に泉水・遣水、築山を構へ、其の上、細川殿御屋敷に藤戸石とて、往古よりの大石侯。是れを御庭に立て置かるべきの由にて、信長御自身御越しなされ、彼の名石を綾錦を以てつゝませ、色々花を以てかざり、大綱余多付けさせられ、笛、大鼓、つゞみを以て囃し立て、信長御下知なされ、即時に庭上へ御引付け候。
※信長公記 巻二「公方御構へ御普請の事」より抜粋

細川邸にあった藤戸石を二条城の庭へ据えるにあたり信長は、この名石を綾錦の布で包ませ、色とりどりの花で飾らせて自ら音頭をとり、笛・太鼓・鼓などで囃し立てて運び込ませているのです。
権力の掌握を、その象徴ともいえる藤戸石を用いてアピールするデモンストレーションだったのでしょうか・・・これにはきっと京の町衆も驚いたことでしょうね。

訪れた日は平日とあって人も少なく、素晴らしい庭園共々ゆったりと拝観できて満足です。

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勅使専用の唐門

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引き続き下醍醐エリアへ向かいます。

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仁王門

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金堂
現在残る金堂、及び先ほどの仁王門は共に、豊臣秀頼によって慶長年間に再建されました。

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五重塔…なんと天暦5年(951)の創建!
京都府下最古の木造建築物なのだそうです。

本当は山上の上醍醐エリアまでお参りしたかったのですが・・・あまりの猛暑を前に断念しました。

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2015年8月 2日 (日)

永林寺(由木城)、広園寺

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本日は地元八王子の名刹、金峰山永林寺(八王子市下柚木)へ
「由木の赤門」とも呼ばれた総門

永林寺は武蔵國守護代で、北条氏照の養父でもあった大石定久の居館(由木城)だったものを、定久が滝山城へ移る際に叔父の一種長純和尚に譲り、天文元年に永鱗寺として創建されたのが始まりと伝わります。
その後は氏照の庇護も受けて七堂伽藍を備えた大寺院となり、天正15年には後陽成天皇より勅願寺の綸旨を受け、徳川家康からも朱印10石公卿格式10万石を授けられます(同19年)。この格式により赤門の建立を許されました。

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今も多くの伽藍が残り、往時の隆盛を今に偲ばせています。

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総門の先、参道脇を十六羅漢が固めていました。
奥に見えるのが三門。

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三門
両脇には・・・

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立派な仁王像が安置されています。

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中雀門
写真には写っていませんが、門扉には菊の御紋も。

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鐘楼

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三重塔

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本堂

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五三の桐三つ鱗
そういえば総門脇の丸瓦には三つ葉葵もありました。

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大石定久と家臣らの墓所
写真右の新しい墓石にも定久の戒名が刻まれていますが、従来の墓石はおそらく中央のものになるかと思います。

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戒名:久彰院殿英巖道俊大居士

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本堂の裏手、墓地の奥が由木城址になります。

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由木城址碑

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大石定久像

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背後の丘には人工の造成らしい痕跡も見受けられましたが、あまりの暑さに詳しい踏査は断念しました・・・いずれまた。

城跡としての遺構云々以前に、これほどの規模を誇る寺院がまだ八王子に残っていたことに少なからず感動を覚えました。


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折角なので車で少し移動し、同じく八王子市内(山田町)にある広園寺
一説には鎌倉幕府創設期の実力者、大江広元の居館跡とも伝わります…まぁ、豊臣秀吉による小田原攻めの際など、度重なる火災で文献の殆どが焼失しているために真偽のほどは定かではないようですが、開基として大江備中守師親(広元の後裔)という人物の名が伝えられているので、あながち有り得なくはないかな、と…(^_^;)
そういえば寺名と広元の名で「広」の一字が重なりますね。

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広園寺の門前には小さな川が流れています。
これも或いは居館の堀として利用されていたのかも・・・

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この日の八王子は37度を記録する猛暑日であったにもかかわらず、一歩境内に足を踏み入れると涼しい風が吹き抜け、汗もスーッとひいていきました。

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広園寺もまた、徳川家康から朱印15石を授けられています。

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猛暑に襲われた日曜の昼下がり。。。
そこだけ時が止まったかのような歴史の空間に触れて、とてもいい気分転換になりました。

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2015年8月 1日 (土)

曳橋工事現場の堰堤流失状況

八王子城跡オフィシャルガイドの会のHPで;
曳橋作業用の堰堤が流失
というニュースを目にし、状況が気になって仕方なかったので現場へ向かってみました。

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堰堤流失現場
本来は城山川対岸の石垣下まで水平に砂利が盛られていましたので、相当な量が流されたことになります。

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こちらは今年(2015)4月に御主殿跡から撮影した工事用堰堤の様子。
2枚の写真を見比べると、流失箇所・規模が一目瞭然です。。。

原因は先日の台風11号がもたらした大雨によるものらしいのですが…想定できないほどの雨量ではなかったはず。それがこれほどの流失を招くとは・・・。
川の流れを通すための暗渠の径が小さ過ぎたことが流失原因のようですが、雨が降れば川が増水するのは、子供でも分かること。
もしこの事故が作業中に起きていたらと思うと・・・まずは人的被害がなかったことが何よりです。しかし・・・

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城山川を下流に向かって歩くと、目を覆いたくなるような痛ましい姿に変わり果てていました。

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砂利、砂利、砂利、、、灰色に見えるのは全て堰堤から流されたものです。

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すっかり城山川を覆い尽くし、そのせせらぎを潰してしまっています。

ボランティアガイドの方々も「これは環境破壊だ」とご立腹でした。
今後どのような計画で曳橋復元工事を進めていくのかは知りませんが、川の環境を取り戻すためにも、まずは流れ出た砂利を取り除き、川を旧に復するのが先決です。

まさか、このまま放置するような無責任な真似はしないでしょうが、今後も事態の推移を見守りたいと思います。

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無量光寺と当麻の渡し

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愛車でふらりと神奈川県相模原市南区当麻、無量光寺
時宗の開祖としても知られる一遍上人が草庵を結び、金光院と名付けたのが始まりとされます。(弘長元年/1261)

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なぎの木
一遍上人が使っていた梛の杖を刺したところ、そこから根が生えて育ったとの伝承があり、「さかさナギの木」とも呼ばれています。
この背後には金光院跡と推定される場所があります。

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山門
扁額にある山号は「当麻山」

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山門脇の石仏
よく見ると足元に“見ざる・聞かざる・言わざる”の、いわゆる三猿が彫られています。

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“後北条氏を中心とする中世文書群”と言われると是非とも拝んでみたくなりますよね…無量光寺文書
歴代後北条氏の庇護を受け、北条氏滅亡後の天正19年(1591)には徳川家康から30石の寺領を寄進されています。

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境内を散策します。

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芭蕉の句碑
世にさかる花にも念仏まうしけり

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一遍上人像
明治26年の大火で焼失した本堂跡に建ちます

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(仮)本堂
安置される御本尊は木造一遍上人立像(御影の像)
なんと一遍上人自ら頭部を作られたのだとか・・・公開は年ニ回。

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仮本堂前に安置されていた梵鐘には・・・

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一遍上人の名が・・・
ざっと目を通したところ、無量光寺の縁起が書かれているようです。

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御影の池
木像製作のため、一遍上人が自らの姿を水面に映して描いたと云われています。

さて、本当はもう少しゆっくりしたかったのですが、猛烈な暑さに耐えきれず、早々に退散・・・

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暫し車の冷房に当たって体力が回復してきたところで、先日「ほしのや」の記事でも少し触れた当麻の渡し
無量光寺からは500mほど南に位置します。

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現在の県道508号線(写真左)が通る昭和橋の辺りが当麻の渡し跡となりますが、写真右の旧道沿いに石碑と共に馬頭観音なども建ち並びますので、実際はこの旧道の延長線上にあったのでしょう。

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当麻の渡し

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最後に当麻の渡しから、武田信玄が小田原へ向けて進軍したと思われる「さいかちの碑」がある段丘を仰ぎ見る。
※詳しくはコチラの記事を参照ください。

夏の暑さは史跡巡りの大敵ですね…(^_^;)

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