吉見御所 (伝源範頼館跡)
本日は埼玉県比企郡吉見町へ。まず初めに向かった先は・・・
息障院(岩殿山息障院光明寺)
息障院は源頼朝の異母弟で、こちらも異母弟の義経と共に、木曽義仲や平氏追討などに功績のあった源範頼の館跡と考えられています。
周辺の字名は御所(埼玉県比企郡吉見町御所)
範頼がいつ頃から吉見庄を領するようになったのかは諸説あってハッキリしませんが、彼は「吉見御所」とも呼ばれ、その子孫は吉見氏を称しています。
息障院山門
寺としての歴史も古く、案内板によると天平年間(西暦730年頃)の行基による開創とも、大同年間(同806年頃)の坂上田村麻呂による開基とも伝えられているそうです。
・・・年代も去ることながら、出てくる名前が凄過ぎて実感が湧かない…(^_^;)
※息障院の号は、天慶の乱の折に平将門調伏の護摩祈願を行い、その功によって下賜されました。
無論、現在は後年の範頼館跡と伝わる場所に建っていますので、創建当初は別の場所に建てられていたことになります。
が、これについてはまた後ほど・・・。
館跡だったことを示すように、今も堀の跡がぐるりと息障院の周囲を取り巻いています。
上写真は山門の左脇に残る南面の堀。
西面も整備はされていませんが、しっかり痕跡を確認できます。
東面は水路に・・・
同じく東面、北東角付近。
北面
こちらも藪が凄くて分かり辛いですが、堀の形状は見て取れます。
四辺に残る堀跡から推し量るに、ざっと東西120m×南北150mといったところでしょうか。
栃木県足利市に残る足利氏の居館跡(鑁阿寺)に比べると若干小さめですが、方形に堀(おそらく当時は土塁も)を廻らせた、典型的な鎌倉武士の居館(武家造)跡と言えそうです。
息障院の北西1kmには、坂東十一番札所で「吉見観音」の名でも知られる岩殿山安楽寺があります。
こちらの開基も坂上田村麻呂で、大同元年(806)の創建と伝えられています。
但し、山門前の案内板には「行基菩薩が岩窟に観音像を安置したのがはじまり」とありました。
行基に坂上田村麻呂…まるで息障院の縁起とそっくりです。それに山号まで同じ「岩殿山」・・・
それもそのはず、元々息障院は安楽寺の本坊だったのだそうです。
そのため息障院も本来は安楽寺近くにありましたが、いつの頃か現在の範頼館跡に移っていきました。
山門前に建つ石碑には、蒲冠者 源 範頼旧蹟とあります。
「蒲冠者」とは、出生地の遠江国蒲御厨(静岡県浜松市)からとった範頼の呼称です。
吉見の地を領した範頼により、安楽寺に本堂と三重塔が建立されたと伝わりますが、松山城(東松山市)での合戦の兵火でそれらは焼失してしまいました。
それでも、現在の本堂も寛文元年(1661)の再建。
長い歴史を物語るかのように、本堂にはびっしりと隙間なく千社札が…(^_^;)
そして現在の三重塔は、更に古い寛永年間(1624~45)の建立です。
高さは約24mありますが、範頼が建てたものはその2倍、48m(16丈)もあったと云います。
源範頼といえば、今から800年以上も前の人物。
遠州で生まれ、長じて木曽義仲や平氏追討の軍事作戦に従事し、後に謀反の嫌疑をかけられて伊豆修善寺で無念の最期を迎えた彼が、果たして吉見の地といつの時期にどの程度の関わりを持っていたのか、記録も少なくて真実は分かりません。
しかし実際に訪れてみると何かを訴えかけてくる、確かに歴史を感じさせてくれる場所でした。
息障院(岩殿山息障院光明寺)
息障院は源頼朝の異母弟で、こちらも異母弟の義経と共に、木曽義仲や平氏追討などに功績のあった源範頼の館跡と考えられています。
周辺の字名は御所(埼玉県比企郡吉見町御所)
範頼がいつ頃から吉見庄を領するようになったのかは諸説あってハッキリしませんが、彼は「吉見御所」とも呼ばれ、その子孫は吉見氏を称しています。
息障院山門
寺としての歴史も古く、案内板によると天平年間(西暦730年頃)の行基による開創とも、大同年間(同806年頃)の坂上田村麻呂による開基とも伝えられているそうです。
・・・年代も去ることながら、出てくる名前が凄過ぎて実感が湧かない…(^_^;)
※息障院の号は、天慶の乱の折に平将門調伏の護摩祈願を行い、その功によって下賜されました。
無論、現在は後年の範頼館跡と伝わる場所に建っていますので、創建当初は別の場所に建てられていたことになります。
が、これについてはまた後ほど・・・。
館跡だったことを示すように、今も堀の跡がぐるりと息障院の周囲を取り巻いています。
上写真は山門の左脇に残る南面の堀。
西面も整備はされていませんが、しっかり痕跡を確認できます。
東面は水路に・・・
同じく東面、北東角付近。
北面
こちらも藪が凄くて分かり辛いですが、堀の形状は見て取れます。
四辺に残る堀跡から推し量るに、ざっと東西120m×南北150mといったところでしょうか。
栃木県足利市に残る足利氏の居館跡(鑁阿寺)に比べると若干小さめですが、方形に堀(おそらく当時は土塁も)を廻らせた、典型的な鎌倉武士の居館(武家造)跡と言えそうです。
息障院の北西1kmには、坂東十一番札所で「吉見観音」の名でも知られる岩殿山安楽寺があります。
こちらの開基も坂上田村麻呂で、大同元年(806)の創建と伝えられています。
但し、山門前の案内板には「行基菩薩が岩窟に観音像を安置したのがはじまり」とありました。
行基に坂上田村麻呂…まるで息障院の縁起とそっくりです。それに山号まで同じ「岩殿山」・・・
それもそのはず、元々息障院は安楽寺の本坊だったのだそうです。
そのため息障院も本来は安楽寺近くにありましたが、いつの頃か現在の範頼館跡に移っていきました。
山門前に建つ石碑には、蒲冠者 源 範頼旧蹟とあります。
「蒲冠者」とは、出生地の遠江国蒲御厨(静岡県浜松市)からとった範頼の呼称です。
吉見の地を領した範頼により、安楽寺に本堂と三重塔が建立されたと伝わりますが、松山城(東松山市)での合戦の兵火でそれらは焼失してしまいました。
それでも、現在の本堂も寛文元年(1661)の再建。
長い歴史を物語るかのように、本堂にはびっしりと隙間なく千社札が…(^_^;)
そして現在の三重塔は、更に古い寛永年間(1624~45)の建立です。
高さは約24mありますが、範頼が建てたものはその2倍、48m(16丈)もあったと云います。
源範頼といえば、今から800年以上も前の人物。
遠州で生まれ、長じて木曽義仲や平氏追討の軍事作戦に従事し、後に謀反の嫌疑をかけられて伊豆修善寺で無念の最期を迎えた彼が、果たして吉見の地といつの時期にどの程度の関わりを持っていたのか、記録も少なくて真実は分かりません。
しかし実際に訪れてみると何かを訴えかけてくる、確かに歴史を感じさせてくれる場所でした。
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