守山城と織田秀孝射殺事件
旅の2日目。この日は若き日の織田信長に関連する土地を訪れます。
という訳で京都を発ち、新幹線でビューンと・・・

岐阜羽島へ。実は初めて降り立ちました…(^_^;)
ここで流星☆さん・あんこさんと合流し、まずは愛知県名古屋市守山区の守山城跡へ。
守山城周辺地図

宝勝寺の建つ辺り一帯が守山城跡と推定されています。
徳川家康の祖父・松平清康が殺された守山崩れの舞台にもなったお城です。

宝勝寺

山門もなんだか雰囲気がありました。

宝勝寺の北東脇にある守山城跡の案内板
アパートの奥に見える小高い盛土は櫓台跡と考えられているようです。私有地のようでしたので立ち入るのは遠慮しましたが、あの上に城址碑が建っているそうです。

宝勝寺北側に残る空堀
上の地図でも地形がハッキリと確認できるくらいに深く掘られています。(地図※部分)
が、竹藪が凄くて…(;・∀・)

地図をご覧いただいても一目瞭然の通り、守山城は細く伸びた台地の先端付近に築かれていました。
従って周辺では、ハッキリそれと分かる地形を確認できます。

こちらも。
こうして見ると結構な高低差ですね。

白山神社は守山白山古墳という前方後円墳の上に鎮座しています。
ちょうど東の尾根伝いからの進攻を防ぐ土塁のように南北に伸びていて、後円部は櫓台になっていたのかも・・・と考えると、この辺りまでが城域だったのかもしれません。
一、六月廿六日、守山の城主織田孫十郎殿、龍泉寺の下、松川渡しにて、若侍ども川狩に打ち入りて居ますところを、勘十郎殿御舎弟喜六郎殿、馬一騎にて御通り侯ところを、馬鹿者乗り打ちを仕り侯と申し侯て、洲賀才蔵と申す者、弓を追つ取り、矢を射懸け侯へば、時刻到来して、其の矢にあたり、馬上より落ちさせ賜ふ。
信長公記 首巻「織田喜六郎殿御生害の事」より抜粋
弘治元年(1555)6月26日、その守山城主だった織田信次が家臣らを連れて龍泉寺の下、松川の渡しで川遊びをしているところへ、織田信長の同母弟・喜六郎秀孝が馬で通りかかりました。
傍目にそれが秀孝とは気付かない信次の家臣は「乗り打ちするとは無礼な」とばかり、弓で射かけます。すると矢は運悪く命中し、秀孝はあえない最期を遂げてしまいました。

龍泉寺の下、松川渡し
手前の橋(松川橋)が架かっている辺りが松川の渡し跡で、庄内川(当時は於多井川)の対岸、奥の小高い台地上には龍泉寺(台地左端寄り)があります。
まさしく織田喜六郎秀孝が射殺された現場。
遺体を改め、それが信長の弟・秀孝であったことを知った信次は慌てふためき、守山城へすら戻ることなく、その場から逃走して姿を消しました。
一、上総介信長も清洲より三里一騎がけに一時に懸けさせられ、守山入り口矢田川にて御馬の口を洗はせられ侯ところ、犬飼内蔵来たり侯て言上、孫十郎は直ちに何くとも知らず懸け落ち侯て、城には誰も御座なく侯。町は悉く勘十郎殿放火なされ侯と申し上げ侯。爰にて信長御諚には、我々の弟などといふ物が、人をもめしつれ候はで、一僕のものゝ如く、馬一騎にて懸けまはりし事、沙汰の限り比輿なる仕立なり。譬へ在生に候へ共、向後御許容なされ間敷と仰せられ、是れより清洲へ御帰り。
知らせを受け、清州から三里の距離を一目散に駆けつけた信長が、馬に水を飲ませていたという守山入り口の矢田川とは、果たしてどの辺りだったのでしょうか…?

宝勝寺の南東には「守山口」という交差点もありますが・・・
周辺を探索しているうちに、面白いものを見つけました。

矢田の渡し碑
守山城からは矢田川の対岸、木ヶ崎公園の脇にあります。(地図▲地点)
矢田川からは若干離れている気がしますが、実はこの矢田川、明和4年(1767)の洪水でこの付近の流路が変わっていて、地図にも描き込みましたが、それ以前は長母寺の西側を通っていたらしいのです。

渡し碑の目の前にはこのような高低差もあり、明和4年以前の矢田川はきっと、この下を流れていたのではないでしょうか。そう考えれば、渡し碑の建つ位置にも納得がいきます。
写真中央部分は人が登って来れる通路になっており、或いはこれが矢田川を渡しで越えて、河原から土手に上がるための通路だったか?
「守山口」に一番近い矢田川の渡し場…あくまでも想像でしかありませんが、信長が馬に水を与えていた場所、この付近だったのかもしれませんね。
信長が矢田川で馬に水を与えているところへ犬飼という家臣が来て、信次は既に蓄電したこと、町は悉く信勝(信行とも。信長の同母弟)によって焼き払われたことなどを告げます。
それを聞いた信長は;
という訳で京都を発ち、新幹線でビューンと・・・

岐阜羽島へ。実は初めて降り立ちました…(^_^;)
ここで流星☆さん・あんこさんと合流し、まずは愛知県名古屋市守山区の守山城跡へ。
守山城周辺地図

宝勝寺の建つ辺り一帯が守山城跡と推定されています。
徳川家康の祖父・松平清康が殺された守山崩れの舞台にもなったお城です。

宝勝寺

山門もなんだか雰囲気がありました。

宝勝寺の北東脇にある守山城跡の案内板
アパートの奥に見える小高い盛土は櫓台跡と考えられているようです。私有地のようでしたので立ち入るのは遠慮しましたが、あの上に城址碑が建っているそうです。

宝勝寺北側に残る空堀
上の地図でも地形がハッキリと確認できるくらいに深く掘られています。(地図※部分)
が、竹藪が凄くて…(;・∀・)

地図をご覧いただいても一目瞭然の通り、守山城は細く伸びた台地の先端付近に築かれていました。
従って周辺では、ハッキリそれと分かる地形を確認できます。

こちらも。
こうして見ると結構な高低差ですね。

白山神社は守山白山古墳という前方後円墳の上に鎮座しています。
ちょうど東の尾根伝いからの進攻を防ぐ土塁のように南北に伸びていて、後円部は櫓台になっていたのかも・・・と考えると、この辺りまでが城域だったのかもしれません。
一、六月廿六日、守山の城主織田孫十郎殿、龍泉寺の下、松川渡しにて、若侍ども川狩に打ち入りて居ますところを、勘十郎殿御舎弟喜六郎殿、馬一騎にて御通り侯ところを、馬鹿者乗り打ちを仕り侯と申し侯て、洲賀才蔵と申す者、弓を追つ取り、矢を射懸け侯へば、時刻到来して、其の矢にあたり、馬上より落ちさせ賜ふ。
信長公記 首巻「織田喜六郎殿御生害の事」より抜粋
弘治元年(1555)6月26日、その守山城主だった織田信次が家臣らを連れて龍泉寺の下、松川の渡しで川遊びをしているところへ、織田信長の同母弟・喜六郎秀孝が馬で通りかかりました。
傍目にそれが秀孝とは気付かない信次の家臣は「乗り打ちするとは無礼な」とばかり、弓で射かけます。すると矢は運悪く命中し、秀孝はあえない最期を遂げてしまいました。

龍泉寺の下、松川渡し
手前の橋(松川橋)が架かっている辺りが松川の渡し跡で、庄内川(当時は於多井川)の対岸、奥の小高い台地上には龍泉寺(台地左端寄り)があります。
まさしく織田喜六郎秀孝が射殺された現場。
遺体を改め、それが信長の弟・秀孝であったことを知った信次は慌てふためき、守山城へすら戻ることなく、その場から逃走して姿を消しました。
一、上総介信長も清洲より三里一騎がけに一時に懸けさせられ、守山入り口矢田川にて御馬の口を洗はせられ侯ところ、犬飼内蔵来たり侯て言上、孫十郎は直ちに何くとも知らず懸け落ち侯て、城には誰も御座なく侯。町は悉く勘十郎殿放火なされ侯と申し上げ侯。爰にて信長御諚には、我々の弟などといふ物が、人をもめしつれ候はで、一僕のものゝ如く、馬一騎にて懸けまはりし事、沙汰の限り比輿なる仕立なり。譬へ在生に候へ共、向後御許容なされ間敷と仰せられ、是れより清洲へ御帰り。
知らせを受け、清州から三里の距離を一目散に駆けつけた信長が、馬に水を飲ませていたという守山入り口の矢田川とは、果たしてどの辺りだったのでしょうか…?

宝勝寺の南東には「守山口」という交差点もありますが・・・
周辺を探索しているうちに、面白いものを見つけました。

矢田の渡し碑
守山城からは矢田川の対岸、木ヶ崎公園の脇にあります。(地図▲地点)
矢田川からは若干離れている気がしますが、実はこの矢田川、明和4年(1767)の洪水でこの付近の流路が変わっていて、地図にも描き込みましたが、それ以前は長母寺の西側を通っていたらしいのです。

渡し碑の目の前にはこのような高低差もあり、明和4年以前の矢田川はきっと、この下を流れていたのではないでしょうか。そう考えれば、渡し碑の建つ位置にも納得がいきます。
写真中央部分は人が登って来れる通路になっており、或いはこれが矢田川を渡しで越えて、河原から土手に上がるための通路だったか?
「守山口」に一番近い矢田川の渡し場…あくまでも想像でしかありませんが、信長が馬に水を与えていた場所、この付近だったのかもしれませんね。
信長が矢田川で馬に水を与えているところへ犬飼という家臣が来て、信次は既に蓄電したこと、町は悉く信勝(信行とも。信長の同母弟)によって焼き払われたことなどを告げます。
それを聞いた信長は;
「我々(信長・信勝)の弟ともあろう者が共も連れず、身分の低い者の如く一騎駆けするなど言語道断。例え存命していたとしても断じて許さぬ」
と言ったとか。
と言ったとか。
…自分の方こそ、清州から三里もの距離を一目散に一騎がけしてきたくせにね(笑)

こちらが長母寺
前述の洪水で矢田川の流路が変わったことにより、それまで守山村だった長母寺はいつの頃からか、矢田村に編入されました。

また、天正5年には織田信長から340石の寄進を受けています。

木ヶ崎公園からの守山城の眺め
信次が逃亡した後、信長に先んじて駆け付けた末森城の信勝勢によって守山城下は焼かれ、城には信次の家臣らが立て籠もったため、柴田勝家(当時は信勝の家臣)が木ヶ崎口に取り寄せて城を包囲しています。
…或いはこの時、勝家が見た光景か。

現在の矢田川を挟んで守山城(右)と木ヶ崎(左)
この後、信長の家臣・佐久間信盛の調略で守山城には信長の異母兄(弟?)・信時を城主に据えることで籠城側とも決着し、信勝の軍勢もやむなく?包囲を解きました。
信時、そして逃走した信次も、やがては数奇な運命を辿るのですが・・・それはまた別の機会に。

こちらが長母寺
前述の洪水で矢田川の流路が変わったことにより、それまで守山村だった長母寺はいつの頃からか、矢田村に編入されました。

また、天正5年には織田信長から340石の寄進を受けています。

木ヶ崎公園からの守山城の眺め
信次が逃亡した後、信長に先んじて駆け付けた末森城の信勝勢によって守山城下は焼かれ、城には信次の家臣らが立て籠もったため、柴田勝家(当時は信勝の家臣)が木ヶ崎口に取り寄せて城を包囲しています。
…或いはこの時、勝家が見た光景か。

現在の矢田川を挟んで守山城(右)と木ヶ崎(左)
この後、信長の家臣・佐久間信盛の調略で守山城には信長の異母兄(弟?)・信時を城主に据えることで籠城側とも決着し、信勝の軍勢もやむなく?包囲を解きました。
信時、そして逃走した信次も、やがては数奇な運命を辿るのですが・・・それはまた別の機会に。
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