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2015年8月14日 (金)

稲生の戦い

一、林兄弟が才覚にて、御兄弟の御仲不和となるなり。信長御台所入りの御知行、篠木三郷押領。定めて川際に取出を構へ、川東の御知行相押ヘ候ベきの間、其れ以前に此の方より御取出仰せ付けらるべきの由にて、
八月廿二日於多井川をこし、名塚と云ふ所に御取出仰せ付けられ、佐久間大学入れをかれ侯。

信長公記 首巻「勘十郎殿・林・柴田御敵の事」より抜粋

弘治2年(1556)、織田信長・信勝兄弟の仲が不和となり、信勝方は信長の直轄領である篠木三郷(春日井郡)を押領するに至ります。
これを受けて信長は「(信勝勢は)きっと川(於多井川=現在の庄内川)際に砦を築いて川東の信長領を更に狙ってくるに違いない。そうなる前にこちらが先に砦を作ってしまえ」とばかりに同年8月22日、名塚での砦構築を命じ、佐久間盛重を入れ置きます。

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名古屋市西区名塚町白山神社

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この白山神社が、信長が築かせた名塚砦跡とされています。
残念ながら、遺構らしきものは何も残ってはいません。

名塚の砦が完成する前に叩いておけと思ったのか、翌8月23日、信勝擁立を目論む柴田勝家の軍勢1,000、及び林美作守(通具)の700が攻め寄せてきます。

弘治二年丙辰八月廿四日、
信長も清洲より人数を出だされ、川をこし、先手あし軽に取り合ひ侯。柴田権六千計りにて、いなふの村はづれの海道を西向きにかゝり来たる。林美作守は南田方より人数七百計りにて、北向きに信長へ向つて掛り来たる。上総介殿は、村はづれより六、七段きり引きしざり、御人数備へられ、信長の御人数七百には過ぐべからずと申し侯。東の藪際に御居陣なり。
八月廿四日、午の剋、辰巳へ向つて、先づ柴田権六かたへ向つて、過半かゝり給ふ。


柴田勝家の1,000は稲生の村はずれの街道を西向きに攻め寄せ、林美作700は南の田園地帯南田方)から北向きに寄せてきます。
8月24日、清州を出陣した信長は700程の手勢を率いて稲生の村はずれから少し引いた東の藪際に本陣を据え、まずは南東辰巳)の柴田勢へ向かって攻めかかります。

信長が陣を布いた東の藪際、これが具体的にどこを指すのかは分かりませんが、地図を眺めているうちに、現在の稲生町の東端近くに気になる場所を見つけたので訪れてみました。

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その場所…伊奴(いぬ)神社

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伊奴神社本殿
周囲には生い茂る木々(藪?)…なんとなく雰囲気がありませんか?
しかも境内周囲は僅かながら微高地となっており、布陣にも適しているように感じました。

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かなり歴史の深い神社の様で、稲生の地名の由来になったとも考えられているようです。
中央には「稲」一文字(笑)

仮に伊奴神社を信長本陣とした場合、両軍の動きは下地図のようになるかと思います。

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稲生の戦い地図
※上部の青いラインは1930年の改変工事前の、本来の庄内川(於多井川)の流路です。

東から街道伝いに西へ向かってくる柴田勢に対し、伊奴神社からだとちょうど辰巳の方角へ攻めかかることになりそうですし、あながち間違ってはいないかな、と。

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柴田勝家の軍勢が進攻してきたと思われる村はづれの海道
一部、気になるクランクも。

武勇に優れ、人数にも勝る柴田勢との戦いは苦戦を強いられ、信長勢は次第に押されて本陣近くにまで迫られてしまいます。
その時・・・

爰にて上総介殿大音声を上げ、御怒りなされ候を、見申し、さすがに御内の者どもに侯間、御威光に恐れ、立ちとゞまり、終に逃げ崩れ侯ひき。

信長が大音声で怒声を発した瞬間、敵勢は威光に恐れて立ち止まり、遂には逃げ崩れて形勢は逆転したというのです。

「武功夜話」にも;
信長公、大音にて呼び返しなされ候。その声や雷の如し、やよ、権六汝いかなる面目あって余に見えんや、名を惜しむ武者なれば、早々余と鑓を合せよと、威高々に申されければ、柴田権六郎面を伏せ、そぼそぼと引き退り候由。
とあり、やはり信長の一喝を契機に形勢が逆転したというのは確かなようです。

後の桶狭間でも義元本陣を補足した信長は鎗をおっ取って、やはり大音声で「すは、かゝれかゝれ」と叫んで勝利を手繰り寄せています。

宣教師ルイス・フロイスは著書「日本史」の中で信長について;
『中くらいの背丈で華奢な体躯であり、髯は少なくはなはだ声は快調
と記していますし、信長の演じてきた奇跡的な勝利の数々を見る時、自ら先頭に立ってのこの「大音声」は見過ごすことのできない一つのファクターとなりそうですね。

柴田勢を撃退した信長は、返す刀で林美作の軍勢に向かい、なんと信長自ら敵将・林美作の首を討ち取ってしまいます。

林美作の軍勢は南田方より向かってきたとあり、信長が本陣を置いたと思われる伊奴神社の南方には現在も「又穂町」「貝田町」などの地名が見えます。

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こちらは伊奴神社の目の前を流れる庄内用水
開削されたのは元亀・天正年間とのことなので、稲生の戦い当時には存在していませんが、現在の名古屋市南西部に広がっていた肥沃な農地に水を引き入れるために整備されたとあり、やはり当時も広大な田園が広がっていたことは想像に難くありません。
ちなみに更に南方にはこの当時、林美作の兄・林秀貞(通勝)が城主を務めていた那古野城もありました。

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稲生原古戦場の案内板が建つ庚申塚
稲生の戦いでの戦死者を祀ったものとも伝わります。
(上地図地点)

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手前に建つ宝篋印塔は、林美作の十三代目のご子孫らが建立したものです。

合戦後、敗れた信勝方は末森・那古野両城に籠り、やがて信長に降伏します。
柴田勝家や林秀貞らは信長への忠誠を誓って恭順しますが、信勝は翌弘治3年(1557)、再度の謀反を企てて信長に粛清されました。

なお、林秀貞は稲生の戦いより24年後の天正8年(1580)に織田家を追放されますが、その理由として挙げられたのが稲生の戦いに於ける敵対行為でした。
しかし、同じく敵対した柴田勝家は引き続き重用されており、無用になった者に対する「こじつけ」の感は拭えませんが・・・。

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