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2015年8月15日 (土)

円徳寺(岐阜)

旅の3日目、集合時間前に一人早朝散歩。

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岐阜駅近くに建つ円徳寺

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円徳寺といえば楽市楽座
織田信長による;
・織田信長楽市楽座制札 永禄10年10月
・織田信長楽市楽座制札 永禄11年9月
・織田信長百姓帰住制札 永禄10年9月
の他、
・池田元助楽市楽座制札 天正11年6月
・池田輝政楽市楽座制札 天正12年9月
も伝わっています。

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そして楽市楽座といえば、さも織田信長の代表的な政策のように語られがちですが、実際に記録として残っているのは、ここ円徳寺(加納)安土近江金森の僅かに三ヶ所のみです。
円徳寺に残る信長の制札(永禄10年)は、稲葉山城を攻略して美濃を制圧した直後に出されたものであり、ほぼ同時期に百姓帰住制札も出されていることから、稲葉山城(制圧後に岐阜城に改称)攻めで焼けて荒廃した城下に再び人々を集め、町の復興を期した政策の一環だったでしょう。

金森も南近江一向衆の拠点だったものを攻略し、宿駅・市場として再興するために出されたもので(→参考記事)、安土はいうまでもなく信長自らの居城。その城下町の整備・発展のために出されています。

こうして見ていくと信長は、特に領民の集住・往来を促したい時それを促したい場所で楽市楽座政策を打ち出していたようです。
それ以外の、既に町・市場として成立しているような場所では意外と既存権益を認め、座を保護していたりもします。

※円徳寺に残る信長の楽市楽座制札には永禄10年版と同11年版の2つがありますが、これらを比較すると;
・永禄10年版は長い間往来に掲げられていたことを示すように日に焼けているのに対し、永禄11年版は比較的きれいな状態で保存されている。
・永禄10年版には宛名がないのに対し、永禄11年版には「加納」の宛名が登場する。
という違いがあるそうです。
このことから、永禄10年に出された制札により順調に町(市場)が形成され、一年後には一つの成立した市場として「加納」という名が信長からも認識されるようになり、往来に掲げる必要性も薄れたことから大切に保管されたのではないか、と考えられるそうです。


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円徳寺には他にも織田秀信(信長嫡孫。慶長5年の岐阜落城の際、当寺で出家)所要と伝わる銀箔押烏帽子形兜(写真)や、
織田信長宛本願寺顕如消息(書状)、
天文16年の織田信秀(信長父)による稲葉山城攻め失敗の際の織田軍将兵戦死者を祀った織田塚(改装)、
更には、、、

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信長が寄進したことを示す銘が入っている梵鐘なども残っています。
訪れた時はまだ拝観時間ではなかったために境内に立ち入れず、近くで確認できなかったのがつくづく残念。

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門前にはご覧のものが・・・楽市楽座を表現しているのでしょうか(笑)

今回は時間の都合できちんと参拝できなかったので、是非とも再訪したいです。


※2016年7月、円徳寺を再訪する機会に恵まれました。

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念願叶い、織田信長寄進の梵鐘を拝観。

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永禄七年十一月(霜降月)十一日の日付に続けて、
大檀那上總介平信長公
と刻まれています。

・・・ここで疑問。
現在の定説では、信長が稲葉山城を落として美濃を制圧したのは永禄十年のこと。永禄七年の時点で岐阜はまだ、その勢力下にありません。
よくよく調べていくと、どうもこの梵鐘、寛永十七年頃に再鋳されているようなのです・・・。
そして江戸時代の頃は、「甫庵信長記」の影響もあって稲葉山落城=永禄七年が定説になっていた(その後、永禄九年段階に於いて未だ、信長と斎藤家が交戦状態にあることを示す文書が発見されている)ようで、そのために鋳造しなおされた梵鐘に改めて銘文を刻む際、年次を当時の定説に拠った、というのが真相ではないでしょうか。
従ってこの梵鐘の銘文は、「永禄七年説」の根拠にはなり得ません。

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織田塚にもお参り。

新たな疑問も生じた円徳寺再訪でしたが、念願叶って梵鐘を拝観でき、嬉しい時間でした。

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