吉乃の故郷

さて、守山城→稲生古戦場に続き、今度は江南市の史跡を巡ります。
この辺り(名鉄犬山線布袋駅周辺)の旧地名は尾張國丹羽郡小折。戦国期には織田信長の側室で、信忠・信雄・五徳の母としても知られる吉乃(類)の生家である生駒氏が治めていました。
※「吉乃」という名の出典は僅かに「武功夜話」(前野家文書)に見るのみで、その史料価値から否定的な見解も多く、むしろ生駒家では代々「類」と伝えられてきたようです。
しかし、通りの良さから本記事では「吉乃」に統一して進めます。

まずは久昌寺から。
生駒氏の菩提寺で吉乃が永禄9年に亡くなると、その戒名:久庵桂昌大禅定尼からとって寺名を久昌寺に改めています。

尾張名所図絵に見る久昌寺
信長は信雄に命じ、吉乃の香華料として660石を久昌寺に寄進しています。それだけに往時はかなりの規模を誇っていたようです。

久昌寺の墓地に建つ吉乃の墓所(右端)
墓石には當山中興開基 久庵桂昌大禅定尼とあります。
一緒に並ぶのは吉乃の父・生駒家宗をはじめとする生駒氏代々のお墓です。

吉乃は久昌寺の西方500mほどの場所で荼毘に付されており、その場所にも塚(経塚)が築かれ、観音像を彫り込んだ墓碑が建てられています。
この観音像、吉乃が亡くなった永禄9年当時の信長の居城・小牧山の方角を向いています。

背面には;
久庵桂昌大禅定尼葬地也
尾州丹羽郡小折村新野経塚
立派な彼岸桜が植えられています。

吉乃御殿跡
若き日の信長が、前夫・土田弥平次(信長生母の縁者か)の戦死に伴い生家に戻っていた吉乃を見初め、逢瀬を重ねた場所。

吉乃御殿跡の向かいには龍神社
出生地の守護神として、織田信雄の尊崇を受けたとの由緒が残ります。
現存する最古の棟札によれば五徳、並びに生駒利豊の再建(元和8年)とか。

龍神社境内には、吉乃の前夫・土田弥平次を祀ったと云われる源太夫社や、、、

元禄13年に生駒氏から寄進された石灯籠に、、、

八条流馬術の名手で信長に仕えた埴原加賀守の葬地(但し後世の土地改良事業で移設)である埴原塚などもありました。

生駒氏の邸址の碑

絵図で確認すると生駒屋敷は、吉乃御殿跡や龍神社などを含む広域に渡っていたようですね。

生駒屋敷の中門を移築した広間家の門
広間家は生駒家の典医でもありました。

最後に富士塚へ

尾張名所図会に描かれた富士塚
塚のすぐ脇を駕籠が通行していますので、、、

この道も少なくとも江戸期からは存在していたのですね。

この富士塚、天正12年の小牧・長久手の戦いの折、徳川家康と織田信雄が登って敵情を視察したと云われています。
我々も登ってみましたが、残念ながら敵(秀吉軍)側となる犬山城方面は木や民家に阻まれて見通すことができませんでした。

しかし、生駒氏六代・利勝によって天和2年(1682)に建てられた石塔には、小牧・長久手での顛末が細かく記されています。
さて、この後は岐阜市内へ戻って、岐阜城のパノラマ夜景を堪能します♪
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