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2015年9月28日 (月)

武井大戦防~小山戦争(第2次)

市川国府台に集結し、宇都宮目指して北上を開始した大鳥圭介率いる旧幕府脱走陸軍(以下:大鳥軍)は、慶応4年(1868)4月15日、下野國小山(栃木県小山市)入りを前に結城街道の諸川宿へ入ります。

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諸川宿南の入口、諸川交差点

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諸川宿の佇まい

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今も大きな旧家が数軒建ち並び、往時の雰囲気を偲べます。

大鳥は自身の書き残した「南柯紀行」の中で、
黄昏に諸川駅に着き里長某の宅に宿せり、
と記しています。
現地を訪れた際、大鳥が泊った里長某の宅とは規模からしても、これら旧家の何れかだったのかなとも思いましたが、諸川宿の本陣や脇本陣だったお宅は、これらとは別にあったようです。それも、すぐ脇や裏手に・・・。
準備不足がたたり、すっかり見逃しました(>_<)

必ずしも里長=即ち本陣(脇本陣)とも限らないとは思いますが…いずれにしても、この付近に泊ったことだけは確かです。

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近くには歴史のありそうな醤油屋さんも。

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諸川宿北側からの南の方角。宿場町を抜ける結城街道・・・
現在の舗装路は写真右へ逸れていますが、本来の旧道は真っ直ぐ手前の砂利道へ続いていたものと思われます。

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同じ地点から反対の北を向いた様子。
右に用水路の名残もありますし、この砂利道部分はまず間違いなく旧道跡でしょう。
この先には・・・

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西仁連川の流れが横切っていました。
先ほどの旧道跡から続くこの辺りが渡し場だったのでしょう。それとも、幅は狭いので当時も橋が架かっていたのかな?

翌4月16日、小山へ向かうために早朝から出発準備をしているところへ、
小山の方から大小砲の音が聞こえる!
との注進が入ります。急ぎ斥候を出して確かめさせると、
小山の戦闘の様子は分からないけど、ここ(諸川)から一里余りも北に100人計りの敵兵がいて、諸川へ向けて押し寄せて来る
と言います。
軍議を開き開戦を決意した大鳥は、伝習隊を諸川の北一里の武井へ向かわせました。

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伝習隊が出撃した諸川の北、西仁連川を越えて武井へと続く結城街道。

この時、武井まで進駐していた新政府軍は須坂藩・館林藩兵などを中心とする約150名でした。(他に少数の別動隊有)
両軍は武井の大戦防付近で戦闘を繰り広げます。

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両軍が激突した大戦防交差点
交差点付近は住宅などが建ち並びますが・・・

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少し離れてみると、ご覧のように現在でもだだっ広く開けた地勢になっています。
こんな何も遮るものがないような場所で、両軍は砲撃戦を繰り広げたのですね。

新政府軍とは言っても、戦闘経験豊富な薩長もいない混成軍。数(約600)にも勝る旧幕府の精鋭・伝習隊の敵ではありませんでした。
大鳥軍優勢の報を受け、大鳥圭介も自ら援軍として戦地へ向かうと新政府軍は崩れ、元来た結城城を指して北へと敗走しました。

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この日の戦闘で新政府軍が陣を布いていた武井宿は、大戦防の北1km弱の場所に位置しています。

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武井宿に建つ泰平寺

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泰平寺門前の十九夜供養塔には、ここが武井宿であったことを証明するように、
下総國結城郡武井宿講中
と彫られていました。

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また、泰平寺には武井大戦防の戦いで戦死した館林藩半隊長・石川喜四郎と、同藩兵・山本富八が静かに眠っています。
※余談ですが石川の息子は後に、新考案されたバスケットボールを世界で初めてプレーしたメンバー18人に名を連ねているそうです。

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泰平寺の近くには、立派な長屋門を構える旧家もありました。

大戦防で勝利した大鳥軍も深追いはせず、この日は再び諸川へ引き上げています。
この武井での戦闘が、期せずして大鳥圭介の実戦デビューとなったのでした。

ちなみにこの日(16日)、小山では大鳥軍の別動隊である草風隊・貫義隊らが新政府軍と戦火を交え、こちらでも大鳥軍が勝利を収めています。(第1次小山戦争
小山で敗れた新政府軍も、武井の敗走兵同様、結城城へと逃れていきました。


さて、大鳥軍は深追いを控えて諸川へ引き上げていますが、我々は武井からそのまま北上し、結城城まで足を伸ばしてみることにします。

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結城城跡

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結城城跡図

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城跡公園の広い曲輪跡

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城跡公園の曲輪と西館と書かれた曲輪を隔てる堀跡。なかなか見応えのある遺構です。
右の舗装路は西館へ続く土橋。

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城跡公園から東方向の眺め
眼下の田園は堀跡です。正面には一部、堀の縁を示すように藪が残っていました。

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結城といえば何といっても、結城合戦が有名ですよね。
城跡には写真のような碑も建っていました。結城合戦540年の1981年に慰霊祭が挙行され、その記念に埋設されたのだそうです…何が埋められているのか、中身が気になりますね(笑)
掘り起こしは結城合戦600年の節目となる、2041年の予定だそうです。


さて、武井大戦防で新政府軍の撃退に成功した大鳥軍は翌4月17日、改めて小山へ向けて出発します。
結城街道から横道を経て西方の日光街道へ移り、小山宿の南一里ほどのところまで来たところで再び、
小山宿に新政府軍300人がいて、大鳥軍を待ち伏せしている!
との報告を受けます。

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小山宿を通る日光街道

開戦止む無しと判断した大鳥は、御料兵を先陣に立てて本隊を小山宿南から日光街道を北上させ、伝習隊の一部などを敵の側背を衝かせるために結城街道方面(東)へ迂回させます。
開戦当初、一旦は宿内まで攻め込んだ大鳥軍先鋒の御料兵でしたが、激しい抵抗に遭い、そのうちに押し戻されてしまいます。
そこで本隊の一部を割いて敵の側面に当たらせ、更に結城街道へ迂回していた部隊が攻撃を開始すると、押し戻されていた御料兵も力を得て奮戦し、宿内で激戦が展開されるようになります。

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現在の県道265号が当時の日光街道、264号が結城街道です。(右が北)
従って・・・

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両軍が南北で対峙する日光街道と、大鳥軍迂回部隊が攻め寄せた結城街道が交差するこの交差点付近が、最も激しい戦闘が繰り広げられた地点と考えられます。

当時の小山宿だった小山駅前には今も、この時の戦闘の痕跡がいくつか残されています。

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銃弾によって台座に孔の開いた阿弥陀如来像が安置されている常光寺

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しかし、阿弥陀如来像は2011年の東日本大震災の影響で損傷し、今はこちらの六角堂の中に安置されていて、その姿を拝むことはできません…。

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震災前まで如来像が鎮座していた台がこちら。
弾痕は如来像の右側にあった模様で、台の向きからして銃弾は東の方角から飛んで来たものと思われます。
現地説明板には「幕府軍による流弾」とありましたが、となると結城街道へ迂回していた部隊から発射されたもの、ということになりますでしょうか。
しかし、それにしては常光寺自体が少し南に寄り過ぎている気もしますが・・・若干謎です。
まぁ、どこか別の場所に当たって跳ね返った弾だった可能性も、考えられなくはないのかもしれませんが。
※そもそも、当時から安置されていた場所・向きが同じだったのか、私には確認できていません。

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こちらは日光街道を少し北へ進んだ場所に建つ興法寺

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興法寺境内

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興法寺墓地の片隅に建つお地蔵さんには・・・

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ハッキリそれと分かる銃弾の痕が2ヶ所残されています。
向きは南…こちらはまず間違いなく大鳥軍によるものでしょう。
しかも同行のサイガさんによると、下の弾痕の方は抉れ方からして少なくとも水平射撃、もしかすると下方から飛んで来た可能性もあり、かなりの至近距離から発射されたものと考えられるそうです。

小山宿内で展開された第2次小山戦争
形成は徐々に大鳥軍優勢に転じ、遂には新政府軍を敗走させるに至りました。

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小山宿脇本陣跡
戦闘終結後、大鳥は本陣某の宅に着いた、と記していますが、地元では大鳥がこの時入ったのは、こちらの脇本陣と伝えられているそうです。

小山宿の住人は大鳥軍の勝利を祝し、「4月17日は日光東照宮の祭日、その日にこの大勝利で徳川家再興も間違いなし」と言って酒を贈り、赤飯を振る舞いました。
諸士官も集まって一通り祝杯をあげた後、この日の宿営地と定めた飯塚(壬生街道)まで移動しようとしていたところへ、突如、新政府軍が結城街道から再び攻め寄せて来ました。
急ぎ迎撃態勢を整えようとする大鳥ですが・・・

兵士共多くは酩酊せるところへ卒然砲声を聞きしゆえ大に混乱せり、

・・・それでもどうにか立て直して再度の撃退に成功しますが、士卒共々この時点ではまだ実戦経験の浅い大鳥軍。戦地にありながら勝利に酔い、兵士に至るまで酩酊するなど、あってはならない規律の緩み、完全な油断でしたね…(^_^;)

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最後は中世~戦国期、この地に勢力を張った小山氏の菩提寺・天翁院へ。

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天翁院の参道

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参道が国道4号に行き当たり、これを越えると境内に入ります。

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境内に建つ彦根藩新組青木貞兵衛戦死之碑
青木は新政府軍の一員として彦根藩の半隊を率いて小山戦争に参戦し、4月17日の戦闘で戦死を遂げています。

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天翁院本堂

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小山氏累代の墓所にもお参りさせていただきました。

大鳥圭介の実戦デビューとなった武井大戦防~小山に至る古戦場めぐり。
日帰りでの駆け足とはなりましたが、書籍やネットにはない、現地を訪れて初めて気付くことのできた歴史もあり、とても充実した一日になりました。
同行していただいたサイガさんにも感謝です。

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コメント

はじめまして。大戦防在住のものです。私のところにもこんな歴史があったのですね。
大戦防郷土史にはこんなことは書いてなかったような?

諸川宿の北側の写真、右の道は間違いなく旧道です。

投稿: SAITO | 2018年9月12日 (水) 20時48分

>SAITO様
blogご訪問いただき、ありがとうございます(^^)/
大戦防での戦争…大鳥圭介をはじめ、この時の先頭に参加した複数人の残した記録が残っているのですが、郷土史では紹介されていないのですか…意外です。
旧道の確認もありがとうございます、確信が持ててよかったです。

投稿: しみず@管理人 | 2018年9月18日 (火) 18時10分

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