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2015年9月13日 (日)

円光院、清運寺、etc...

ちょっとドライブがてら甲府まで行ってきました。
まず最初に訪れたのは、こちら・・・

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瑞巖山円光院

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武田信玄の正室・三条夫人の菩提寺で、寺名は彼女の法号;
圓光院殿梅宗い大禅定尼
に由来します。

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円光院には伊那の駒場で没した信玄が、馬場美濃守に命じて寄贈した;
刀八毘沙門天
勝軍地蔵尊

などが残されています。

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三条夫人墓所
元亀元年(1570)に50歳で亡くなり、当院で営まれた葬儀には国師快川紹喜も列席して;
五十年間轉法輪 涅槃先菊紫全身
三條娘燭霊山涙 愁殺西方一美人

という法語を残しています。
西方一美人・・・生前の人柄が偲ばれますね。

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円光院の近くには、武田信玄火葬塚も。
元亀4年(1573)4月12日に世を去った信玄は、円光院門前のここ土屋右衛門尉昌続の邸内で密かに荼毘に付され、遺命に従ってその死は3年の間秘されました。
そして3年後の天正4年4月、恵林寺から快川紹喜を招き、躑躅ヶ崎館で盛大に葬儀が執り行われますが、それから203年後の安永8年(1779)、甲府代官・中井清太夫が円光院門前のこの地を発掘したところ、
法性院機山信玄大居士 天正元年癸四月十ニ日薨
と銘が彫られた石棺が発見されたそうです。
このことから、喪が秘されて恵林寺に埋葬されるまでの3年の間は当地に密かに葬られ、恵林寺へ改葬後も分骨された(むしろ恵林寺の方が分骨?)のではないかと考えられているようです。
※なお現地説明板には、信玄の死から3年後に当地で荼毘に付されて恵林寺に埋葬されたかのように書かれていましたが、これは誤りでしょう。

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墓石は安永8年の発掘調査後に建立されました。
碑文は当時の円光院住職の手によります。

※信玄の没年について、発掘された石棺の銘や墓石の碑文、説明板も悉く「天正元年」となっていましたが、天正への改元は織田信長が足利義昭を追放した後の1573年旧暦7月なので、正確には元亀4年になります。

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お次はあちらへ・・・

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河尻塚
まるで金網に閉じ込められるかのような佇まい・・・

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織田家臣・河尻秀隆の首塚とも、屋敷跡とも伝えられているそうです。
天正10年3月、甲斐武田家攻めに功のあった河尻秀隆は、織田信長から武田家滅亡後の甲斐国を拝領しますが、それから僅か数ヶ月後に勃発した本能寺の変後の混乱に乗じて蜂起した武田旧臣らによる一揆に攻められ、敢えない最期を遂げます。
恨みからか逆さまに埋葬されたため、さかさ塚とも呼ばれているそうです。。。

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碑銘には;
河尻肥後守之霊碑
とありますが、彼の受領名は正しくは肥前守です。

お土地柄、武田贔屓はまぁ当たり前としても、河尻もまた、歴史の激動の中で命を落した人物の一人。せめて今後も大切に保存され、祀られていくことを願って止みません。


さて、この後は車で少し移動して・・・
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同じ甲府市内に建つ日蓮宗寺院、妙清山清運寺

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法華経信者でもあった加藤清正を祀る清正公堂
猫さんが番をしています♪

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一時期、清運寺参道に面して建っていた寿館に下宿していた太宰治が、婚約者の元に通う際に通っていたと云う参道と、当時はその参道に敷き詰められていた石畳。

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そして墓地には、北辰一刀流・千葉定吉(周作弟)の息女で、坂本龍馬の許嫁だったとも伝わる千葉さな子のお墓があります。

さな子は後年、家伝の灸で生計を立てていますが、その患者であった自由民権家の小田切謙明夫妻と懇意になります。
さな子の死後、その亡骸は谷中に埋葬されますが、無縁になることを憐れみ、小田切夫人によって清運寺の小田切家墓所に分骨されました。

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明治廿九年十月十五日逝
坂本龍馬室


・・・龍馬を想い続けたさな子の心を知る、小田切家の人が彫らせたのでしょう。
様々な想いが交錯する碑銘です。

さて、目的は達したので今回はこの辺で。

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