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2015年9月

2015年9月29日 (火)

小山城(祇園城)

栃木県小山市を訪れたのは幕末戊辰戦争めぐりが目的でしたが、折角なので小山城(祇園城)も探索することにしました。

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小山城図
北の天翁院からアプローチします。

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天翁院本堂の裏手にも気になる土塁が覗いていましたが、これ以上奥へは立入禁止だったので城の遺構か否かは判別できず・・・

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しかし、墓地の裏手から覗くaの堀切は幅といい深さといい、更には複雑に折れ曲がった形状も圧巻の一言。
最初からグイッと魅せられてしまいました。

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失礼ながら特別期待して訪れた訳でもないので、尚更驚きです・・・

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その堀底から。
同行のサイガさんにスケールに入っていただきました。その深さがよく分かるかと思います。

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切岸も素晴らしい・・・

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bの堀
かなり埋められたのか深さはありませんが、幅は相当な規模です。

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1の曲輪

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1の曲輪に残る土塁(c
北の方角に対する警戒が窺い知れます。

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12の曲輪を隔てる堀切
ここも凄いね~

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2の曲輪
かなりの広さです。

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2の曲輪に残る土塁(d

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2の曲輪と、図で馬出しと書かれている小曲輪の間の堀

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馬出しから2の曲輪を見た様子。
奥に先ほどのdの土塁も見えています。

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馬出しの北東角(e部分)

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馬出し3の曲輪を繋ぐ祇園橋
…そういえば小山城って、土橋が見当たらないですね。図を見ても、せいぜい北端の馬出し状の小曲輪へ連なる部分くらいかな。

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祇園橋から見下ろす堀切
この堀切は、小山城に取り込まれた結城道の旧道と考えられているようです。

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とすると、この堀切の西側は思川へと続いていますので、かつては船着き場でもあったのでしょうか?

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3の曲輪fの土塁
図では本丸と書かれているからか、特に規模の大きな遺構でした。
3の曲輪が本丸だとすると尚更、小山城は北を警戒するための城だったと思えてきます・・・。

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日光街道と結城街道が交差する交通の要衝であったため、小山城は幾度にも渡る改変を加えられており、現在に残る遺構が果たしていつの時代に完成したものかは判断の難しいところではあります。
が、曲輪の広さ・堀切の規模からしても戦国末期以降のものであることは確かだと思います。

ところで小山といえば、関ヶ原の戦い直前に会津の上杉家討伐に向かっていた徳川家康が、上方での石田三成ら西軍の蜂起を知り、諸将を集めて反転を決めた小山評定でも有名ですよね。

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この吉例に習い、江戸期には徳川将軍日光社参のための小山御殿が、小山城南側に築かれました。

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小山御殿跡

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このことから小山評定が行われたのも、後に御殿が築かれた場所だったのではないか、との説もあるようで、小山御殿跡に隣接する市役所の駐車場には小山評定跡の碑も建てられていました。
(他に、家康戦勝祈願の伝承が残る須賀神社境内とする説なども有り)

しかし、これはあくまでも私個人の印象ですが、評定を開くにあたってあえてこの場所であるべき必然性が見出せません。

家康は小山評定のため、三間四方の仮御殿を急造させたと云われています。
三間四方は今の単位に直せば、5.5m×5.5mほど。これまで見てきた小山城の13曲輪の広さであれば、いずれもその程度の御殿を建てることは可能です。

更には・・・
図で馬出しとされている例の小曲輪、2曲輪の中に取り込まれたかのような位置取りで、構造的にも果たして本当に「馬出し」の機能を備えていたのか、小山城を紹介した他サイトなどでも疑問が呈されています。
私も同様に、「不思議なスペースだな。何故ここだけ堀で仕切ったのだろう?」と感じていました。城内でも特に重要な、たとえば城主の居館などを置くには若干手狭だし、街道(旧結城道)に面してしまっているし・・・。
と、そこまで考えてふと、広さとしては「三間四方の仮御殿」がすっぽりと収まりそうなことに気付き、気になりだしました。
≪広い2曲輪の片隅に評定のための仮御殿を建て、万が一にも間諜が兵に紛れて近づくことのないよう、周囲に堀を廻らせた・・・≫
もう一度上の写真で比較していただきたいのですが、eの堀だけ他に比べて明らかに浅いのです。堀の位置や性質、構造上の意義の違いもあるかもしれませんが、これなども急拵えだったことを物語っているようにさえ思えてきます。

もしかしたら2曲輪の片隅で堀に囲まれたこの馬出しは、このような事情から築かれ、そして残された空間だったのでないか・・・まぁ、これは完全に私の想像ですが…(^_^;)

時は未だ戦国末期の1600年。諸々の条件を考え合わせると、いずれにしても小山城内で行われたと考えた方が自然と思えるのですが…いかがでしょうか?

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ところで、小山御殿の裏には思川の河原へ下りる通路のような、折れを加えた堀切状の遺構が残っていました。
或いは御殿へ直接乗り入れるための船着き場が設けられていたのかもしれません。

小山駅からは徒歩10分程度ですし、なかなかお薦めの城跡です。

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2015年9月28日 (月)

武井大戦防~小山戦争(第2次)

市川国府台に集結し、宇都宮目指して北上を開始した大鳥圭介率いる旧幕府脱走陸軍(以下:大鳥軍)は、慶応4年(1868)4月15日、下野國小山(栃木県小山市)入りを前に結城街道の諸川宿へ入ります。

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諸川宿南の入口、諸川交差点

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諸川宿の佇まい

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今も大きな旧家が数軒建ち並び、往時の雰囲気を偲べます。

大鳥は自身の書き残した「南柯紀行」の中で、
黄昏に諸川駅に着き里長某の宅に宿せり、
と記しています。
現地を訪れた際、大鳥が泊った里長某の宅とは規模からしても、これら旧家の何れかだったのかなとも思いましたが、諸川宿の本陣や脇本陣だったお宅は、これらとは別にあったようです。それも、すぐ脇や裏手に・・・。
準備不足がたたり、すっかり見逃しました(>_<)

必ずしも里長=即ち本陣(脇本陣)とも限らないとは思いますが…いずれにしても、この付近に泊ったことだけは確かです。

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近くには歴史のありそうな醤油屋さんも。

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諸川宿北側からの南の方角。宿場町を抜ける結城街道・・・
現在の舗装路は写真右へ逸れていますが、本来の旧道は真っ直ぐ手前の砂利道へ続いていたものと思われます。

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同じ地点から反対の北を向いた様子。
右に用水路の名残もありますし、この砂利道部分はまず間違いなく旧道跡でしょう。
この先には・・・

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西仁連川の流れが横切っていました。
先ほどの旧道跡から続くこの辺りが渡し場だったのでしょう。それとも、幅は狭いので当時も橋が架かっていたのかな?

翌4月16日、小山へ向かうために早朝から出発準備をしているところへ、
小山の方から大小砲の音が聞こえる!
との注進が入ります。急ぎ斥候を出して確かめさせると、
小山の戦闘の様子は分からないけど、ここ(諸川)から一里余りも北に100人計りの敵兵がいて、諸川へ向けて押し寄せて来る
と言います。
軍議を開き開戦を決意した大鳥は、伝習隊を諸川の北一里の武井へ向かわせました。

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伝習隊が出撃した諸川の北、西仁連川を越えて武井へと続く結城街道。

この時、武井まで進駐していた新政府軍は須坂藩・館林藩兵などを中心とする約150名でした。(他に少数の別動隊有)
両軍は武井の大戦防付近で戦闘を繰り広げます。

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両軍が激突した大戦防交差点
交差点付近は住宅などが建ち並びますが・・・

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少し離れてみると、ご覧のように現在でもだだっ広く開けた地勢になっています。
こんな何も遮るものがないような場所で、両軍は砲撃戦を繰り広げたのですね。

新政府軍とは言っても、戦闘経験豊富な薩長もいない混成軍。数(約600)にも勝る旧幕府の精鋭・伝習隊の敵ではありませんでした。
大鳥軍優勢の報を受け、大鳥圭介も自ら援軍として戦地へ向かうと新政府軍は崩れ、元来た結城城を指して北へと敗走しました。

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この日の戦闘で新政府軍が陣を布いていた武井宿は、大戦防の北1km弱の場所に位置しています。

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武井宿に建つ泰平寺

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泰平寺門前の十九夜供養塔には、ここが武井宿であったことを証明するように、
下総國結城郡武井宿講中
と彫られていました。

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また、泰平寺には武井大戦防の戦いで戦死した館林藩半隊長・石川喜四郎と、同藩兵・山本富八が静かに眠っています。
※余談ですが石川の息子は後に、新考案されたバスケットボールを世界で初めてプレーしたメンバー18人に名を連ねているそうです。

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泰平寺の近くには、立派な長屋門を構える旧家もありました。

大戦防で勝利した大鳥軍も深追いはせず、この日は再び諸川へ引き上げています。
この武井での戦闘が、期せずして大鳥圭介の実戦デビューとなったのでした。

ちなみにこの日(16日)、小山では大鳥軍の別動隊である草風隊・貫義隊らが新政府軍と戦火を交え、こちらでも大鳥軍が勝利を収めています。(第1次小山戦争
小山で敗れた新政府軍も、武井の敗走兵同様、結城城へと逃れていきました。


さて、大鳥軍は深追いを控えて諸川へ引き上げていますが、我々は武井からそのまま北上し、結城城まで足を伸ばしてみることにします。

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結城城跡

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結城城跡図

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城跡公園の広い曲輪跡

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城跡公園の曲輪と西館と書かれた曲輪を隔てる堀跡。なかなか見応えのある遺構です。
右の舗装路は西館へ続く土橋。

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城跡公園から東方向の眺め
眼下の田園は堀跡です。正面には一部、堀の縁を示すように藪が残っていました。

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結城といえば何といっても、結城合戦が有名ですよね。
城跡には写真のような碑も建っていました。結城合戦540年の1981年に慰霊祭が挙行され、その記念に埋設されたのだそうです…何が埋められているのか、中身が気になりますね(笑)
掘り起こしは結城合戦600年の節目となる、2041年の予定だそうです。


さて、武井大戦防で新政府軍の撃退に成功した大鳥軍は翌4月17日、改めて小山へ向けて出発します。
結城街道から横道を経て西方の日光街道へ移り、小山宿の南一里ほどのところまで来たところで再び、
小山宿に新政府軍300人がいて、大鳥軍を待ち伏せしている!
との報告を受けます。

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小山宿を通る日光街道

開戦止む無しと判断した大鳥は、御料兵を先陣に立てて本隊を小山宿南から日光街道を北上させ、伝習隊の一部などを敵の側背を衝かせるために結城街道方面(東)へ迂回させます。
開戦当初、一旦は宿内まで攻め込んだ大鳥軍先鋒の御料兵でしたが、激しい抵抗に遭い、そのうちに押し戻されてしまいます。
そこで本隊の一部を割いて敵の側面に当たらせ、更に結城街道へ迂回していた部隊が攻撃を開始すると、押し戻されていた御料兵も力を得て奮戦し、宿内で激戦が展開されるようになります。

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現在の県道265号が当時の日光街道、264号が結城街道です。(右が北)
従って・・・

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両軍が南北で対峙する日光街道と、大鳥軍迂回部隊が攻め寄せた結城街道が交差するこの交差点付近が、最も激しい戦闘が繰り広げられた地点と考えられます。

当時の小山宿だった小山駅前には今も、この時の戦闘の痕跡がいくつか残されています。

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銃弾によって台座に孔の開いた阿弥陀如来像が安置されている常光寺

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しかし、阿弥陀如来像は2011年の東日本大震災の影響で損傷し、今はこちらの六角堂の中に安置されていて、その姿を拝むことはできません…。

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震災前まで如来像が鎮座していた台がこちら。
弾痕は如来像の右側にあった模様で、台の向きからして銃弾は東の方角から飛んで来たものと思われます。
現地説明板には「幕府軍による流弾」とありましたが、となると結城街道へ迂回していた部隊から発射されたもの、ということになりますでしょうか。
しかし、それにしては常光寺自体が少し南に寄り過ぎている気もしますが・・・若干謎です。
まぁ、どこか別の場所に当たって跳ね返った弾だった可能性も、考えられなくはないのかもしれませんが。
※そもそも、当時から安置されていた場所・向きが同じだったのか、私には確認できていません。

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こちらは日光街道を少し北へ進んだ場所に建つ興法寺

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興法寺境内

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興法寺墓地の片隅に建つお地蔵さんには・・・

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ハッキリそれと分かる銃弾の痕が2ヶ所残されています。
向きは南…こちらはまず間違いなく大鳥軍によるものでしょう。
しかも同行のサイガさんによると、下の弾痕の方は抉れ方からして少なくとも水平射撃、もしかすると下方から飛んで来た可能性もあり、かなりの至近距離から発射されたものと考えられるそうです。

小山宿内で展開された第2次小山戦争
形成は徐々に大鳥軍優勢に転じ、遂には新政府軍を敗走させるに至りました。

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小山宿脇本陣跡
戦闘終結後、大鳥は本陣某の宅に着いた、と記していますが、地元では大鳥がこの時入ったのは、こちらの脇本陣と伝えられているそうです。

小山宿の住人は大鳥軍の勝利を祝し、「4月17日は日光東照宮の祭日、その日にこの大勝利で徳川家再興も間違いなし」と言って酒を贈り、赤飯を振る舞いました。
諸士官も集まって一通り祝杯をあげた後、この日の宿営地と定めた飯塚(壬生街道)まで移動しようとしていたところへ、突如、新政府軍が結城街道から再び攻め寄せて来ました。
急ぎ迎撃態勢を整えようとする大鳥ですが・・・

兵士共多くは酩酊せるところへ卒然砲声を聞きしゆえ大に混乱せり、

・・・それでもどうにか立て直して再度の撃退に成功しますが、士卒共々この時点ではまだ実戦経験の浅い大鳥軍。戦地にありながら勝利に酔い、兵士に至るまで酩酊するなど、あってはならない規律の緩み、完全な油断でしたね…(^_^;)

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最後は中世~戦国期、この地に勢力を張った小山氏の菩提寺・天翁院へ。

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天翁院の参道

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参道が国道4号に行き当たり、これを越えると境内に入ります。

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境内に建つ彦根藩新組青木貞兵衛戦死之碑
青木は新政府軍の一員として彦根藩の半隊を率いて小山戦争に参戦し、4月17日の戦闘で戦死を遂げています。

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天翁院本堂

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小山氏累代の墓所にもお参りさせていただきました。

大鳥圭介の実戦デビューとなった武井大戦防~小山に至る古戦場めぐり。
日帰りでの駆け足とはなりましたが、書籍やネットにはない、現地を訪れて初めて気付くことのできた歴史もあり、とても充実した一日になりました。
同行していただいたサイガさんにも感謝です。

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2015年9月22日 (火)

シンポジウム「新視点 日本の城」

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SW中日の2015年9月21日、駒澤大学アカデミーホールで開催されたシンポジウム、

視点 日本
~文献・考古・建築が語る日本城郭史~


に参加してきました。
まずは各先生方の講演から・・・

〈基調講演〉日本の城 ~その見方・考え方~
小和田哲男先生

日本の城最前線 ~城郭建築の視点から~
三浦正幸先生

蘇る戦国山城の実像 ~考古学の視点から~
中井均先生

安土城に挑む ~謎はすべて解けた?~
加藤理文先生

とてもまとめ切れませんので、詳しい内容については省略させていただきます…(^_^;)
それぞれ3~40分程度と短い持ち時間だったため、若干駆け足気味になっていた感は否めませんが、中でも姫路城大天守の高い戦闘性を備えた設計意図、梁などの構造やそれらに伴う外観の必然性を、建築工学の視点から分析された三浦先生のご講演は大変勉強になりました。

また、「信長公記」の記述を追いながら、安土城主郭部の構成・配置を分析された加藤先生のご講演も、信長好きとしては非常に興味深いものでした。
同じ「信長公記」の記述を元にしながらも、研究者によっては解釈が分かれるもので、これは是非とも自らも挑戦しなければと考えております。
※織田信長の事績を追いかけていると、必然的に「信長公記」に接する機会が多くなります。私などはその都度、「牛一さんも文章だけじゃなく、少しは図面とかも挿入してくれていたらよかったのに~」と考えてしまうこともあるのですが・・・
それじゃ浪漫がありませんかね?…(^_^;)

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最後は先生方勢揃いでのパネルディスカッション
ここでの話題は;

・国策として築かれた古代山城と中世・近世城郭の石垣(石積み)技術の違いや変遷
・寺院建築、寺院石垣技術の城郭への関わり
・小牧山から出土した石垣の年代確定や、その築造集団の地域性
・小牧山&岐阜城⇔安土城の石垣の違い
・畝状竪堀の意図や地域性の関連
・惣構の高い防御性
・近世城郭の中でも、関ヶ原~大坂の陣の間に完成したものが最も高い戦闘性を備えていた
→現存天守の中では、姫路と松江が最も戦闘を意識した構造

などなど、多岐に渡りました。

午前10:30~午後4:15に至る長丁場でしたが、普段は座学が苦手な私(笑)も最後まで集中を切らすことなく、とても有意義に過ごせた一日となりました♪

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2015年9月20日 (日)

初公開の「祇園社」扁額…八坂神社(日野)

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毎年9月の敬老の日を最終とする3日間は、日野の八坂神社の例大祭
5月の新選組まつりに比べると人出が少なく、ちょっと寂しい印象もありますが・・・

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例年この例大祭と新選組まつりの2回だけ、近藤勇や沖田総司、井上源三郎、佐藤彦五郎、井上松五郎(源三郎兄)、馬場兵助(新徴組)らが名を連ねる天然理心流奉納額が公開されます。

しかも今年は、佐藤彦五郎の願いにより有栖川宮熾仁親王からいただいた現在の「八坂社」扁額に掛け換えられる(明治7年)前までの、「祇園社」扁額も初公開されるとあって足を運んでみました。

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拝観者も少なく、奉納額は一人一人の名前を読み取れるくらいにじっくりと拝観できました。
また、「祇園社」扁額には萬延庚申の銘も彫られていましたので、万延元年(1860)の作と思われます。桜田門外の変が起きた年ですね。(但し、変の勃発は改元前)

土方歳三や沖田総司らを見守ってきた(であろう)扁額、真新しく見えるほど大切に保存されていて、なんだか嬉しくなりました。

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大悲願寺の白萩

今回は五日市(東京都あきる野市)方面へお出かけです。

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いつもですと地元周辺の史跡巡りは車で動くことが多いのですが、夏のうだるような暑さも去り、とても過ごしやすい季節になりましたので電車で移動し、五日市線武蔵増戸駅からはのんびりと散策を楽しむことにします。

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ゆったりとした時間が流れます。

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彼岸花が綺麗に咲いていました。

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道端にはお地蔵さんも。

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それなりに?古そうな道標が・・・

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朝顔も♪

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そうこうしながら15分も歩くと、今回の目的地が見えてきました・・・
大悲願寺です。

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朱雀門(中門)
安永9年(1780)の建立。

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仁王門(山門)
安政6年(1859)の再建。とても大きくて立派な造りです。

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仁王門の天井絵
狩野派に学んだ郷土の画家の筆によります。

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観音堂
こちらは寛政6年(1794)建立。

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寛文12年(1672)に鋳造された梵鐘
戦時中の供出も免れました。

どれもこれも歴史があって素晴らしい建築物ですが、大悲願寺といえば何と言っても・・・

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伊達政宗も愛でたと云う白萩で有名ですよね♪
秋口に可憐な花を咲かせてくれます。

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伊達政宗 白萩文書
元和9年(1623/推定)、伊奈(あきる野市)へ川狩り(鮎漁)に訪れた伊達政宗は大悲願寺に立ち寄った際、庭に咲き誇っていた白萩の見事さに目を奪われました。
案内板に読み下し文も載っていますが、簡単に現代語に直すと;

先日はそちらへ伺い、お会いできて嬉しく思います。
お庭の白萩が一段と見事でしたので、少し譲っていただきたく思います。先日は言い出しかねたまま辞してしまいました。使いの者に預けていただけると忝く存じます。


といった感じになりますでしょうか。

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その場では言い出しかねたまま辞去したのに、後で「やっぱり欲しいです」と手紙で無心してくるあたり、よほどこの白萩を気に入ったのでしょうね。

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私が訪れた2015年9月20日現在、満開まではもう一息といったところでした。

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朱雀門からの参道も、白萩で埋もれています。

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伊達政宗ゆかりの臥龍梅
白萩に埋もれるように頭だけちょこんと、枝葉を覗かせています…(^_^;)
昭和47年(1972)、旧五日市町で全国健康都市会議が開かれた際、政宗と白萩のエピソードにあやかり、五日市町から議長を務めた仙台市長に白萩が贈呈されました。
この臥龍梅はその返礼として、仙台市から贈られたものです。

ところで先程の白萩文書、宛先は彼岸寺御同宿中となっていましたが、常識的に判断すれば当時の13世住職・海誉上人宛と考えるべきなのかもしれません。
しかし、政宗が大悲願寺を訪れた当時、海誉上人の弟子に秀雄という人がいました。この秀雄、後に大悲願寺15世住職になるのですが、寺の記録ではその出自を伊達輝宗の子息、つまり政宗の弟とされているらしいのです。

ところが公式的な記録では、政宗が小田原にいる豊臣秀吉の元へ出頭する直前、政宗によって死に追いやられたと伝わる小次郎(政道)以外に政宗に弟はなく、或いはこの秀雄こそ、小田原へ向かう政宗の不在時に家督争いの元にならぬよう、死んだことにして密かに家中から出され、落ち延びていた小次郎その人ではないか?!という説まであるのだそうです。

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・・・まぁ事の真偽はともかく、そう考えると白萩文書での;
会面を遂げ本望に候。
という表現も、なんだか意味深に思えてきますよね。

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大悲願寺境内

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本堂

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好天にも恵まれ、とても有意義な時間になりました。

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2015年9月13日 (日)

円光院、清運寺、etc...

ちょっとドライブがてら甲府まで行ってきました。
まず最初に訪れたのは、こちら・・・

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瑞巖山円光院

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武田信玄の正室・三条夫人の菩提寺で、寺名は彼女の法号;
圓光院殿梅宗い大禅定尼
に由来します。

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円光院には伊那の駒場で没した信玄が、馬場美濃守に命じて寄贈した;
刀八毘沙門天
勝軍地蔵尊

などが残されています。

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三条夫人墓所
元亀元年(1570)に50歳で亡くなり、当院で営まれた葬儀には国師快川紹喜も列席して;
五十年間轉法輪 涅槃先菊紫全身
三條娘燭霊山涙 愁殺西方一美人

という法語を残しています。
西方一美人・・・生前の人柄が偲ばれますね。

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円光院の近くには、武田信玄火葬塚も。
元亀4年(1573)4月12日に世を去った信玄は、円光院門前のここ土屋右衛門尉昌続の邸内で密かに荼毘に付され、遺命に従ってその死は3年の間秘されました。
そして3年後の天正4年4月、恵林寺から快川紹喜を招き、躑躅ヶ崎館で盛大に葬儀が執り行われますが、それから203年後の安永8年(1779)、甲府代官・中井清太夫が円光院門前のこの地を発掘したところ、
法性院機山信玄大居士 天正元年癸四月十ニ日薨
と銘が彫られた石棺が発見されたそうです。
このことから、喪が秘されて恵林寺に埋葬されるまでの3年の間は当地に密かに葬られ、恵林寺へ改葬後も分骨された(むしろ恵林寺の方が分骨?)のではないかと考えられているようです。
※なお現地説明板には、信玄の死から3年後に当地で荼毘に付されて恵林寺に埋葬されたかのように書かれていましたが、これは誤りでしょう。

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墓石は安永8年の発掘調査後に建立されました。
碑文は当時の円光院住職の手によります。

※信玄の没年について、発掘された石棺の銘や墓石の碑文、説明板も悉く「天正元年」となっていましたが、天正への改元は織田信長が足利義昭を追放した後の1573年旧暦7月なので、正確には元亀4年になります。

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お次はあちらへ・・・

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河尻塚
まるで金網に閉じ込められるかのような佇まい・・・

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織田家臣・河尻秀隆の首塚とも、屋敷跡とも伝えられているそうです。
天正10年3月、甲斐武田家攻めに功のあった河尻秀隆は、織田信長から武田家滅亡後の甲斐国を拝領しますが、それから僅か数ヶ月後に勃発した本能寺の変後の混乱に乗じて蜂起した武田旧臣らによる一揆に攻められ、敢えない最期を遂げます。
恨みからか逆さまに埋葬されたため、さかさ塚とも呼ばれているそうです。。。

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碑銘には;
河尻肥後守之霊碑
とありますが、彼の受領名は正しくは肥前守です。

お土地柄、武田贔屓はまぁ当たり前としても、河尻もまた、歴史の激動の中で命を落した人物の一人。せめて今後も大切に保存され、祀られていくことを願って止みません。


さて、この後は車で少し移動して・・・
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同じ甲府市内に建つ日蓮宗寺院、妙清山清運寺

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法華経信者でもあった加藤清正を祀る清正公堂
猫さんが番をしています♪

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一時期、清運寺参道に面して建っていた寿館に下宿していた太宰治が、婚約者の元に通う際に通っていたと云う参道と、当時はその参道に敷き詰められていた石畳。

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そして墓地には、北辰一刀流・千葉定吉(周作弟)の息女で、坂本龍馬の許嫁だったとも伝わる千葉さな子のお墓があります。

さな子は後年、家伝の灸で生計を立てていますが、その患者であった自由民権家の小田切謙明夫妻と懇意になります。
さな子の死後、その亡骸は谷中に埋葬されますが、無縁になることを憐れみ、小田切夫人によって清運寺の小田切家墓所に分骨されました。

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明治廿九年十月十五日逝
坂本龍馬室


・・・龍馬を想い続けたさな子の心を知る、小田切家の人が彫らせたのでしょう。
様々な想いが交錯する碑銘です。

さて、目的は達したので今回はこの辺で。

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