小山城(祇園城)
栃木県小山市を訪れたのは幕末戊辰戦争めぐりが目的でしたが、折角なので小山城(祇園城)も探索することにしました。
小山城図
北の天翁院からアプローチします。
天翁院本堂の裏手にも気になる土塁が覗いていましたが、これ以上奥へは立入禁止だったので城の遺構か否かは判別できず・・・
しかし、墓地の裏手から覗くaの堀切は幅といい深さといい、更には複雑に折れ曲がった形状も圧巻の一言。
最初からグイッと魅せられてしまいました。
失礼ながら特別期待して訪れた訳でもないので、尚更驚きです・・・
その堀底から。
同行のサイガさんにスケールに入っていただきました。その深さがよく分かるかと思います。
切岸も素晴らしい・・・
bの堀
かなり埋められたのか深さはありませんが、幅は相当な規模です。
1の曲輪
1の曲輪に残る土塁(c)
北の方角に対する警戒が窺い知れます。
1と2の曲輪を隔てる堀切
ここも凄いね~
2の曲輪
かなりの広さです。
2の曲輪に残る土塁(d)
2の曲輪と、図で馬出しと書かれている小曲輪の間の堀
馬出しから2の曲輪を見た様子。
奥に先ほどのdの土塁も見えています。
馬出しの北東角(e部分)
馬出しと3の曲輪を繋ぐ祇園橋
…そういえば小山城って、土橋が見当たらないですね。図を見ても、せいぜい北端の馬出し状の小曲輪へ連なる部分くらいかな。
祇園橋から見下ろす堀切
この堀切は、小山城に取り込まれた結城道の旧道と考えられているようです。
とすると、この堀切の西側は思川へと続いていますので、かつては船着き場でもあったのでしょうか?
3の曲輪fの土塁
図では本丸と書かれているからか、特に規模の大きな遺構でした。
3の曲輪が本丸だとすると尚更、小山城は北を警戒するための城だったと思えてきます・・・。
日光街道と結城街道が交差する交通の要衝であったため、小山城は幾度にも渡る改変を加えられており、現在に残る遺構が果たしていつの時代に完成したものかは判断の難しいところではあります。
が、曲輪の広さ・堀切の規模からしても戦国末期以降のものであることは確かだと思います。
ところで小山といえば、関ヶ原の戦い直前に会津の上杉家討伐に向かっていた徳川家康が、上方での石田三成ら西軍の蜂起を知り、諸将を集めて反転を決めた小山評定でも有名ですよね。
この吉例に習い、江戸期には徳川将軍日光社参のための小山御殿が、小山城南側に築かれました。
小山御殿跡
このことから小山評定が行われたのも、後に御殿が築かれた場所だったのではないか、との説もあるようで、小山御殿跡に隣接する市役所の駐車場には小山評定跡の碑も建てられていました。
(他に、家康戦勝祈願の伝承が残る須賀神社境内とする説なども有り)
しかし、これはあくまでも私個人の印象ですが、評定を開くにあたってあえてこの場所であるべき必然性が見出せません。
家康は小山評定のため、三間四方の仮御殿を急造させたと云われています。
三間四方は今の単位に直せば、5.5m×5.5mほど。これまで見てきた小山城の1~3曲輪の広さであれば、いずれもその程度の御殿を建てることは可能です。
更には・・・
図で馬出しとされている例の小曲輪、2曲輪の中に取り込まれたかのような位置取りで、構造的にも果たして本当に「馬出し」の機能を備えていたのか、小山城を紹介した他サイトなどでも疑問が呈されています。
私も同様に、「不思議なスペースだな。何故ここだけ堀で仕切ったのだろう?」と感じていました。城内でも特に重要な、たとえば城主の居館などを置くには若干手狭だし、街道(旧結城道)に面してしまっているし・・・。
と、そこまで考えてふと、広さとしては「三間四方の仮御殿」がすっぽりと収まりそうなことに気付き、気になりだしました。
小山城図
北の天翁院からアプローチします。
天翁院本堂の裏手にも気になる土塁が覗いていましたが、これ以上奥へは立入禁止だったので城の遺構か否かは判別できず・・・
しかし、墓地の裏手から覗くaの堀切は幅といい深さといい、更には複雑に折れ曲がった形状も圧巻の一言。
最初からグイッと魅せられてしまいました。
失礼ながら特別期待して訪れた訳でもないので、尚更驚きです・・・
その堀底から。
同行のサイガさんにスケールに入っていただきました。その深さがよく分かるかと思います。
切岸も素晴らしい・・・
bの堀
かなり埋められたのか深さはありませんが、幅は相当な規模です。
1の曲輪
1の曲輪に残る土塁(c)
北の方角に対する警戒が窺い知れます。
1と2の曲輪を隔てる堀切
ここも凄いね~
2の曲輪
かなりの広さです。
2の曲輪に残る土塁(d)
2の曲輪と、図で馬出しと書かれている小曲輪の間の堀
馬出しから2の曲輪を見た様子。
奥に先ほどのdの土塁も見えています。
馬出しの北東角(e部分)
馬出しと3の曲輪を繋ぐ祇園橋
…そういえば小山城って、土橋が見当たらないですね。図を見ても、せいぜい北端の馬出し状の小曲輪へ連なる部分くらいかな。
祇園橋から見下ろす堀切
この堀切は、小山城に取り込まれた結城道の旧道と考えられているようです。
とすると、この堀切の西側は思川へと続いていますので、かつては船着き場でもあったのでしょうか?
3の曲輪fの土塁
図では本丸と書かれているからか、特に規模の大きな遺構でした。
3の曲輪が本丸だとすると尚更、小山城は北を警戒するための城だったと思えてきます・・・。
日光街道と結城街道が交差する交通の要衝であったため、小山城は幾度にも渡る改変を加えられており、現在に残る遺構が果たしていつの時代に完成したものかは判断の難しいところではあります。
が、曲輪の広さ・堀切の規模からしても戦国末期以降のものであることは確かだと思います。
ところで小山といえば、関ヶ原の戦い直前に会津の上杉家討伐に向かっていた徳川家康が、上方での石田三成ら西軍の蜂起を知り、諸将を集めて反転を決めた小山評定でも有名ですよね。
この吉例に習い、江戸期には徳川将軍日光社参のための小山御殿が、小山城南側に築かれました。
小山御殿跡
このことから小山評定が行われたのも、後に御殿が築かれた場所だったのではないか、との説もあるようで、小山御殿跡に隣接する市役所の駐車場には小山評定跡の碑も建てられていました。
(他に、家康戦勝祈願の伝承が残る須賀神社境内とする説なども有り)
しかし、これはあくまでも私個人の印象ですが、評定を開くにあたってあえてこの場所であるべき必然性が見出せません。
家康は小山評定のため、三間四方の仮御殿を急造させたと云われています。
三間四方は今の単位に直せば、5.5m×5.5mほど。これまで見てきた小山城の1~3曲輪の広さであれば、いずれもその程度の御殿を建てることは可能です。
更には・・・
図で馬出しとされている例の小曲輪、2曲輪の中に取り込まれたかのような位置取りで、構造的にも果たして本当に「馬出し」の機能を備えていたのか、小山城を紹介した他サイトなどでも疑問が呈されています。
私も同様に、「不思議なスペースだな。何故ここだけ堀で仕切ったのだろう?」と感じていました。城内でも特に重要な、たとえば城主の居館などを置くには若干手狭だし、街道(旧結城道)に面してしまっているし・・・。
と、そこまで考えてふと、広さとしては「三間四方の仮御殿」がすっぽりと収まりそうなことに気付き、気になりだしました。
≪広い2曲輪の片隅に評定のための仮御殿を建て、万が一にも間諜が兵に紛れて近づくことのないよう、周囲に堀を廻らせた・・・≫
もう一度上の写真で比較していただきたいのですが、eの堀だけ他に比べて明らかに浅いのです。堀の位置や性質、構造上の意義の違いもあるかもしれませんが、これなども急拵えだったことを物語っているようにさえ思えてきます。
もしかしたら2曲輪の片隅で堀に囲まれたこの馬出しは、このような事情から築かれ、そして残された空間だったのでないか・・・まぁ、これは完全に私の想像ですが…(^_^;)
時は未だ戦国末期の1600年。諸々の条件を考え合わせると、いずれにしても小山城内で行われたと考えた方が自然と思えるのですが…いかがでしょうか?
もう一度上の写真で比較していただきたいのですが、eの堀だけ他に比べて明らかに浅いのです。堀の位置や性質、構造上の意義の違いもあるかもしれませんが、これなども急拵えだったことを物語っているようにさえ思えてきます。
もしかしたら2曲輪の片隅で堀に囲まれたこの馬出しは、このような事情から築かれ、そして残された空間だったのでないか・・・まぁ、これは完全に私の想像ですが…(^_^;)
時は未だ戦国末期の1600年。諸々の条件を考え合わせると、いずれにしても小山城内で行われたと考えた方が自然と思えるのですが…いかがでしょうか?
ところで、小山御殿の裏には思川の河原へ下りる通路のような、折れを加えた堀切状の遺構が残っていました。
或いは御殿へ直接乗り入れるための船着き場が設けられていたのかもしれません。
小山駅からは徒歩10分程度ですし、なかなかお薦めの城跡です。
或いは御殿へ直接乗り入れるための船着き場が設けられていたのかもしれません。
小山駅からは徒歩10分程度ですし、なかなかお薦めの城跡です。