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2015年10月

2015年10月29日 (木)

白河口の戦いと福良宿

旅の3日目。
最終日は会津若松から白河街道(国道294号)を南下し、白河口の戦い関連地をめぐりながら帰路につきます。
※一つ前の記事で取り上げた母成峠~戸ノ口原の戦いと、実際の歴史では時系列が前後しますのでご注意ください。

白河口の戦いとは、慶応4年閏4月20日に会津藩が新政府軍の進攻に備えて白河城(小峰城)を占拠したことに始まり、同年7月14日の戦闘を最後に会津・奥羽越列藩同盟(この期間中の5月に成立)軍が白河口の戦線を放棄して撤退するまでの約4ヶ月間、主な戦闘だけでも都合8度に渡って繰り広げられた戊辰戦争の一つです。
会津藩の白河城占拠の際、新選組にも白河口への出動命令が下り、山口二郎こと斎藤一率いる約130名の隊士は前藩主・松平容保に拝謁した後、白河へ赴き、7月までの白河口戦線に加わっています。

まずは、白河口戦線に於ける会津軍の後方基地とされた、白河街道の福良宿へ。

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福良の千手院
千手院は当時、会津軍の野戦病院に充てられていました。

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千手院からの福良宿の眺め

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夫婦モミ越しに千手観音堂

此戦ニテ我輩手負ヒ福良村病院ニ行ク
(島田魁「日記」)

5月27日の白河口での戦闘で負傷した島田魁もここ、千手院で療養しています。

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本堂
三つ葉葵紋(会津松平家?)も見えています。

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千手院前の街道沿いには、福良一里塚跡の碑もありました。
しかし、現在の白河街道は千手院の手前で山を大きく切り通しており、当時の街道とは少し位置がずれているように思われます。

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きっと本来の白河街道はあちらの山を越えて・・・

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現在の国道の脇を通り・・・

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こうして、やはり宿場の方へ繋がっていくこちらの道だったのではないでしょうか。

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現在の福良宿の町並み
あの鉤折れの道なんか、いかにも宿場町の名残を思わせますね。

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そして、こちらの住宅の隙間をお邪魔して奥へ進むと・・・

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福良御本陣跡の碑があります。
6月3日には新選組の面々も、福良に出陣してきた会津藩主・松平喜徳に呼び出され、

直様当村(福良)ニ罷リ出、拝謁ス。公、賜ニ金若干ヲ以ス。
(中島登「覚書」)

すぐさま福良へと駆けつけ、喜徳に拝謁して金を拝領しています。
この時の様子を、白河城下から福良へ疎開していた「山城屋」の荒井治良右衛門(福良村本陣武藤家からの養子)は;

新選組、三代口より戻、福良泊。
一統御本陣に於、御目見懇命これ有。隊長山口次郎・中隊安富才助・大将土方歳三殿・中隊長近藤早尾是は歩兵頭、小原右衛門殿隊、御本陣前にて足並三兵之芸これ有。
石橋上え御出座御覧これ有拝見。
(慶応日記)

と伝えています。
怪我の療養をしていた土方歳三も、福良へ来ていたのですね。この本陣前では、藩主御前での閲兵も行われていました。
藩主に随行していた白虎隊と、土方ら新選組との出会いのエピソードなども伝わっています。

当村病院ニテ我輩若君ヨリ自カラ廿五両金ヲ賜ハル、
(島田魁「日記」)

なお、千手院で療養中だった島田魁は、藩主自らの見舞いを受けて金25両を拝領しています。

ところで…福良を訪れた際、私は新選組が滞在していたという御用場跡を別の場所と間違えていたため、写真を撮り損ねました…(>_<)
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正しくは上写真に写る茅葺き屋根のお宅の真向かいで、黒い車が停まっている手前のスペースになります。
twitterでも誤った場所の写真を上げていたので、訂正してお詫びいたします。

さ、それでは白河へ移動します。
福良から白河へは、そのまま白河街道伝いに勢至堂峠を越えるのが一般的でしょうし、会津軍や新選組もそうしたのでしょうが、我々は馬入峠越えのルートを選択し、峠に残る堡塁跡を見に行くことにします。

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峠に差し掛かる直前、馬入新田の口留め番所跡
さぁ、いよいよ峠越え!と思った矢先・・・

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なんと…馬入峠は工事で通行止め!?
まさか日曜日も工事をしているとは思えないけど、休工日については何も書かれていないし・・・行ってみて駄目でしたでは泣くに泣けないので、ここは涙を呑んで諦めました。(>_<)

で結局、勢至堂峠越えで白河へ…(^_^;)

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白河口の戦い、その攻防の舞台となった白河(小峰)城
未だ震災の爪痕を残し、石垣修復工事が続けられています。

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青空に映えますね~♪

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白河城から東に細く伸びる台地
今でこそ宅地化されていますが、往時は広大な三の丸の北辺を守る重要な防衛構造を担っていました。

続いて城下町散策へ。

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古絵図に残る白河の城下町
下が白河城で、古絵図は上が南になっています。

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古絵図の中央に大きく描かれたクランク状の街道(奥州道中)…の今。
この先に・・・

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脇本陣柳屋

(閏4月)晦日夕七ツ時仙藩ニ右関門渡シ当隊ハ夫ヨリ本町本陣柳屋ニテ休陣ス
(島田魁「日記」)

白河口戦線に加わった斎藤一(この時点では山口二郎)率いる新選組は、こちらの脇本陣柳屋に滞在していました。

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また、明治14年の東北巡幸の折には、明治天皇も柳屋の蔵座敷にお泊りになっています。
ちなみにこの石碑の文字は東郷平八郎の筆によります。

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今は老朽化が進み、見学することも叶いません。

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これが蔵座敷かな?

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確かに老朽化は凄いけど・・・

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実は現在、柳屋の建物群を修復する計画が進んでいるのだそうです。
現場には、その完成イメージ?らしきものが貼り出されていましたが・・・どう見ても、左上に書かれてあるような「復元」(元に復する)には思えないのですが…(・・;)

※心配だったので少し調べてみましたが、白河市が工事請負業者選定のために公示した指名競争入札の書類では、工事名が「旧脇本陣柳屋旅館建造物群修復工事」となっており、あくまでも「修復」工事になるようです。
また、指名競争にした理由として;
「工事にあたっては、木造の軸組や、土壁、建具など高い歴史的価値を維持する必要があり、高度な技術力を有する伝統建築に精通し施工実績に優れている業者と契約すべき」
と書かれていましたので、きっと歴史遺産を大切に活用していけるような修復になる、と信じたいと思います。

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脇本陣柳屋の向かいには本陣もありました。
こちらはもう、何も残ってはいません。

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白河戊辰見聞館では白河口の戦い展を見学しました。
新選組の白河口の戦いでの行動がよく分かる資料本もGET☆

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少し西へ移動・・・

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こちらのクランクも古絵図に描かれています。

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この通り、●現在地と書かれたすぐ右の部分です。

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関川寺館跡の土塁と堀
関川寺の境内地は中世の居館跡とされていますが、残っている土塁の高さからして戦国期以降の改修が加えられているものと考えられています。

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関川寺境内の内側から見る土塁
墓石やサイガさんの背丈から推し測っても、その高さが分かります。

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白河駅

さて、閏4月20日の白河城占拠後、続く25日の戦闘では新政府軍の攻撃を退けた会津軍でしたが、迎えた5月1日、新政府軍は本格的な白河城奪還に動きます。
奥州道中を南方から北上し、東西にも迂回部隊を回して三方から攻め寄せる新政府軍に対し、仙台藩や二本松藩などからの増援部隊を加えた会津藩総督・西郷頼母は白河城の南、奥州道中が稲荷山に当たって鉤型に折れる松並(稲荷山の丘陵上)に主力部隊を配して新政府軍を迎え撃ちます。

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同盟軍が布陣した稲荷山と奥州道中
写真は南から撮ったもので、まさに新政府軍の目線になります。

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同じ場所の古写真
街道が右に折れている様子など、今と全く同じですね。

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この5月1日の戦闘での会津藩戦死者を弔う戦死墓と、左は銷魂碑
写真では見えませんが、「銷魂碑」の三文字は松平容保によります。

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会津藩士・田邊軍次の墓
田邊は白河口での敗戦を、白坂宿の大平八郎が新政府軍の道案内をしたことが原因と思い込み、明治3年に大平を惨殺して自害しました。

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長州大垣藩戦死六名墓
こちらは閏4月25日の戦いで戦死した長州藩士3名、大垣藩士3名のお墓です。

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同盟軍が布陣した稲荷山へ登ります。

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稲荷山から北、白河城下町方面の眺め

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稲荷山の南側には、塹壕らしき痕跡も残っていました。

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稲荷山南方の眺め
この方角から、新政府軍の主力部隊は攻め込んできました。

兵力では同盟軍2,500に対して新政府軍は約700と同盟軍が圧倒していましたが、結果は新政府軍の圧勝に終わります。
会津藩副総督・横山主税も稲荷山で戦死し、白河城は新政府軍の手に落ちました。

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稲荷山に建つ戊辰之碑と戦死者名を刻んだ銅板
この日の新政府軍戦死者は13~せいぜい20名だったのに対し、同盟軍は324名(一説には700名以上とも)にも上りました。

この後、白河口の戦いは白河城の再奪取を目指して攻撃を繰り返す同盟軍 vs それを守る新政府軍とに図式が変わりますが、その中で今回は6月12日の攻防を取り上げます。

6月12日両軍布陣図(以下:布陣図)
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:同盟軍、:新政府軍
白河城の北方、阿武隈川北岸に展開する山々に防衛陣地を構築する新政府軍に対し、同盟軍はその更に北側に布陣して攻め寄せます。

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新政府軍の防衛ラインが展開された山々
写真中央の浅い切通しは、布陣図部分になります。

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新政府軍防衛ラインから北の方角
正面の山には同盟軍の仙台藩が布陣し、左手前には新政府軍の最前線陣地が置かれていました。

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この辺りは「女石」という地名で、奥州道中(右)と白河街道(左)の追分も残ります。(布陣図
なお、布陣図(古絵図)には「会津街道」とありますが、これは白河から見た場合に会津へ向かう道になるためで、会津からここまで辿ってきた白河街道のことです。つまり、ここが白河街道の起点。

写真左、奥羽越列藩同盟軍の旗印「五芒星」の幟が見えている場所には・・・
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仙台藩士戊辰戦歿之碑
同盟軍は左右両翼の部隊を撃破され、中央の最も高い山に布陣していた仙台藩部隊は戦場に取り残されてしまいます。
事態に気付いた時には新政府軍に包囲されつつあり、慌てて撤退を開始するものの殲滅されてしまいました。

この碑は明治23年、戊辰戦争に於ける仙台藩戦死者の慰霊のため、旧藩主・伊達宗基によって建てられました。

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こちらは明治2年建立の戦死供養塔
右側面には;
慶應四戊辰年戦死
と彫り込まれていました。

こうして6月12日の同盟軍による白河城奪還作戦は失敗に終わりました。
この後も幾度か、同盟軍による白河攻略作戦が決行されますが奪還には至らず、7月、大きな犠牲ばかりを残して遂に同盟軍は白河口の戦線を放棄することになります。

同盟軍の白河口放棄により、新政府軍は更に北上して仙台藩や二本松藩らの同盟軍が拠点を置く本宮を攻略します。
これに動揺した周辺の三春藩らは降伏し、新政府軍は二本松城へと迫っていきました。

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本宮市にある安達太良神社
小高い丘の上にあり、同盟軍の拠点が置かれていました。

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安達太良神社から阿武隈川を望む。
眼下を阿武隈川に沿って奥州道中が通っており、この街道を押さえるために新政府軍は阿武隈川を渡河し、本宮を攻略しました。
※ちなみに、下に停まっている青いトラックは除染作業車でした。こちらは歴史ではない、今起きている現実。

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安達太良神社本殿の柱に残る銃弾痕
私は初め、これらは戦闘による弾痕だと思い込んでいました。しかし・・・

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こうして見ると他の場所には一切なく、ある一点に集中しています。
高さはおよそ人の頭部くらい。それが意味するものとは・・・。

本宮を攻略し、二本松城をも陥落させた新政府軍はいよいよ会津攻撃へと舵を切り、母成峠へと迫っていくのでした。
※母成峠の戦い関連記事はコチラ


さて、これにて2泊3日に及んだ会津・白河の戊辰戦争めぐりの旅レポも終了です。
今回も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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2015年10月28日 (水)

母成峠~戸ノ口原古戦場

旅の2日目。
いよいよ、この旅最大の目的である母成峠を目指します。

朝7:30に会津若松の宿を出発し、まずは本宮市の安達太良神社を訪れたのですが、そちらはまた次の記事でご紹介します。

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南方、石莚口から見遥かす母成峠の山塊

慶応4年7月29日、二本松城を陥落させた新政府軍の攻撃目標はいよいよ会津へと移り、猪苗代湖北岸から会津城下へと迫る母成峠を、その主な進軍経路に定めます。
8月20日、母成峠を守備する同盟軍は二本松から迫る敵軍への先制攻撃を目論み、伝習隊を中央に、右翼に仙台・会津兵を、左翼に二本松兵を備えて進発しますが、いざ戦闘になると両翼の兵はろくに戦わず退却し、残された伝習隊は包囲される形となり、奮戦するも大きな損害を出してしまいます。

そして迎えた翌21日、ついに新政府軍が母成峠への攻撃を開始します。

母成峠周辺の地形図(以下:地形図)
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(大鳥)は大隊並びに二本松の兵を師いて勝岩の上に登り北方の敵に当たれり。(中略)我れに胸壁あり彼には無ければ甚だ防ぐに便なりければ、味方死傷も無く戦いを為したり、勝岩の下方には第一大隊新撰組合併の人員にて防ぎたりしが、余心元なく思い少し下りて之を見るに、
(大鳥圭介「南柯紀行」)

福良(三代口)から開戦直前に合流した新選組は、大鳥圭介率いる伝習隊と共に、東の間道からの敵(新政府軍右翼)に備えて石莚川の急崖上、銚子ヶ滝近くの勝岩付近に配備されていました。
その防衛ラインは地形図に紫のラインで示した部分になります。

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我々もまずは、この防衛ラインの踏査から開始します。

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銚子ヶ滝への山道入口
ここまでは舗装路で登って来れますが、この先は本格的な登山道になります。

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しかし周辺一帯は国有林になっており、整備も行き届いて比較的歩き易かったです。
熊の出没には勿論注意が必要ですが、シーズンであれば登山客も多く、それ程の不安は感じませんでした。

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しばらく歩くうちに…見えてきましたね。分かりますか?
※実はこの直後、私は目の前にチラついている遺構に気をとられ、坂を下り始めた途端、転がっていた細い丸太に足を乗せてしまい、仰向けにそっくり返ってしまいました。
しかも運の悪いことに背中をその丸太か岩のような硬いものに強打し、暫くは呼吸もできずに悶絶していました・・・。
いくら整備されているとはいえ、山はやはり危険。皆様も足元への注意は怠らないでください。

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これは凄い・・・!
地形図a地点に残る胸壁です。

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前週の長篠に引き続き、モデルはサイガさん(笑)
写真右手、胸壁の先は暫くはなだらかな下りですが、すぐに石莚川の急崖が落ち込んでいます。

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このような胸壁ラインが延々と1km以上も続いているのです。

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更に進むと、土塁状のものが垂直に接する不思議なポイントもありました。

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銚子ヶ滝の崖上付近には、大鳥圭介が築いた砲台堡塁も残っているはずだったのですが・・・いくら探し回っても発見に至らず、断念。(>_<)

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勝岩付近に続く胸壁
写真は地形図b地点から、崖下に銚子ヶ滝のある南西方向を向いています。緩やかな下りになっています。
新選組は勝岩の下方に配備されていたとのことですが、まさか本当に勝岩の下(崖下)で戦うはずもないので、或いはこうした傾斜の下の方にいた、ということなのかもしれません。
大鳥の記述によれば勝岩周辺での戦闘は当初、地勢や胸壁を活かして優勢に進めていたようですが、正面の守備隊が第一戦線を突破され、更に新政府軍の右翼部隊に大きく東方を迂回されるに至り、大鳥らも峠の本営(第三台場)まで後退せざるをえなくなります。
そもそも兵力を母成峠に集中させられなかった会津藩は、伝習隊や他藩兵などの応援部隊を含めても総勢800程度(新政府軍は2,200~3,000)と少なく、その程度の兵数で勝岩方面を含む、これほどの長大な防衛線を維持するのも難しかったものと思われます。

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峠に建つ母成峠古戦場の碑

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土方歳三の名もありますが・・・

福良宿本陣の武藤家から白河城下、蝋燭・油問屋「山城屋」へ養子に入っていた荒井治良右衛門は、白河口での戦火を逃れて福良に避難していた日々を綴った「慶応日記」8月19日条に;

内藤様、土方様、中地より本家へ御入り

と記しており、土方は母成峠の開戦直前の時点でもまだ、福良に滞在していたことが確認されています。
“新政府軍が石莚口(母成峠)から攻めてきそうだ”となった段階で、新選組は猪苗代へ移動して母成峠の守備隊に合流しますが、土方自身は福良に留まったようです。

ところが、母成峠での会津軍敗走直後には、

土方雉小屋脇胸壁出張、防戦す。(中略)須賀埜村に兵を集め、土方率して一戦。敗れて猪苗代に行く
(「谷口四郎兵衛日記」)

という行動が確認されていることから、福良で母成峠開戦の報を聞いた土方は急ぎ駆けつけ、母成峠後方の木地小屋で迫りくる新政府軍と戦い、峠から敗走してくる味方の兵を助けようとしていたのではないかと思われます。
彼はこの夜(21日)、猪苗代から会津藩首脳部へ兵の増強を求める手紙を認めています。

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母成峠からの眺め

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峠の駐車場近くに残る旧道…今は廃道となり、荒れ放題・・・。
この旧道の両脇に、第三台場の遺構が残されています。(地形図地点)

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まずは旧道東側から
山中の土の遺構は写真が難しいですよね…高い土塁(塁壁)の前にも並行して低い土塁(胸壁)が築かれ、銃兵陣地のようになっていました。(肉眼では明瞭)

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その塁壁の裏側

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銃兵用の塹壕

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続いて旧道西側へ
こちらの銃兵陣地は、写真でもある程度分かり易いかな?
正対すると高低2つの土塁が重なっている感じがお分かりいただけるかと…(^_^;)

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この銃兵陣地の土塁、旧道を登ってくる敵兵に正対する面(写真右手前方向)と、そこから90度に折って旧道に並行する面(写真奥)とがありました。

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その折れているコーナー部分

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旧道に並行する面はこうして、旧道を進んでくる(であろう)敵兵に横矢を掛けるための設計だったのではないでしょうか。
写真奥、土塁のようなもの(旧道を舗装する際に削られた土の盛土と思われる)が横切っている先に旧道が通っています。

さて、この第三台場まで退いた大鳥でしたが、激しい砲撃に踏み止まる兵も少なく、更には・・・

表面より敵攻め来り、防戦中、後ろ横の高き山より決死隊顕れ
(近藤芳助書簡)

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東方を迂回していた新政府軍右翼部隊に後方の山頂(勝軍山)を獲られて抗戦も叶わず、潰走するに至りました。
山上には会津藩が築いた砲台もあったはずなのですが・・・対応できなかったのでしょう。

なお、新政府軍左翼部隊は母成峠の本営後方に出て、会津軍を挟撃する作戦だったものと思われますが進軍が遅れ、到着した時には既に会津軍が敗走した後だったようです。

母成峠を突破した新政府軍は翌22日には会津藩が放棄した猪苗代城を収め、更に西へ進んで日橋川に架かる十六橋に迫ります。

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猪苗代まちのえき「まるしめ」
こちらに新政府軍の銃で撃ち抜かれた、猪苗代城の喚鐘があるとの情報で訪れました。
・・・が見当たらず、職員の女性に訊いても知らないとのこと。それでも親切にも方々に連絡を取ってくださり、ようやく現在の展示場所が判明しました。
「まるしめ」の女性職員の方、本当にありがとうございました。

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その喚鐘は現在、奇しくも猪苗代城跡下の猪苗代町図書歴史情報館「和みいな」にありました。

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銃弾痕が残る猪苗代城の喚鐘
反対側へ貫通している弾痕もありました。

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猪苗代では戦闘らしい戦闘はなかったかと思いますので、これは新政府軍兵士が戯れに発射したものと考えられます。

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母成峠から猪苗代、十六橋、戸ノ口、そして会津若松にかけての地形がよく分かる図面も展示されていました。
これ…欲しいなぁ

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戸ノ口原周辺地図(以下:地図)

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8月22日の夕刻、新政府軍が押し寄せた十六橋

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この時、会津藩の奇勝隊らが敵の進軍を阻むため、十六橋の破壊を試みていましたが、母成峠からの敗走兵の収容に手間取ったこともあって間に合わず、新政府軍の襲撃を受けて突破を許してしまいます。

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橋の脇に気になる痕跡が・・・

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こちらは…古い欄干?

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その裏。残念ながら不勉強のため、いつの時代のものかは分かりません。

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安積疏水の開削と、十六橋水門の建設に功績を残したオランダ人土木技師ファン・ドールンの銅像

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戸ノ口堰

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十六橋の架かる地点は戊辰戦争時に限らず、会津防衛の要所でした。
付近には旧二本松街道(上道)を遮るように、堀跡のような窪みと・・・

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それと並行する土塁もありました。
いつ築かれたものかは分かりませんが、戸ノ口堰とは垂直の角度(つまり違う目的で築かれた?)で、何らかの軍事的意図を以て築かれたのではないかとも思えます。

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十六橋、猪苗代方向を望む

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十六橋を越え、更に西へと続く二本松街道

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そのまましばらく西へ進むと・・・

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やがて現在の越後街道(国道49号)と交差しますが、

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旧道は更にその先へ伸びています。

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戸ノ口原へと続く二本松街道

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戸ノ口原古戦場碑
※実際に戦闘があった場所とは少し離れていると思います。

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古い絵も展示されていました。
白虎隊は塹壕に拠って戦っている(但し平地ですが)ものの、新政府軍兵士は何故か、遮るもののない原っぱに全身を晒して戦っていたかのように描かれています・・・。
これだと結果は違いましたよね?きっと…(^_^;)

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明治後期の古い道標も

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古戦場碑近くには、会津藩戦死者の墓群がありました。

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墓石側面には戦死した日付が刻まれています。

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会津藩兵(白虎隊含む)らが拠っていた陣地は、更に西へ進んだ先にあります。

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旧道好きには堪らない雰囲気・・・

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地図地点、旧道を挟んだ南北両側の小高い丘に塹壕陣地を築き、会津藩兵は布陣していました。
しかし藪がひどく、登り口も分からなかったのでここでは踏査を断念・・・。

ところが少し進んだ先の南側に、藪も少なく登り易そうな小丘があったので調べてみると・・・

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ありました、街道東方向に向いた塹壕跡と覚しき痕跡。

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構えているのは銃ではありませんが・・・こういうこと(笑)
サイガさんの腰が沈んでいるので、窪みになっていることをお分かりいただけるかと思います。

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もう一つ別の塹壕(らしき)跡の上から。写真では窪みも分からないので心の目で見てください(笑)
私の愛車が写っている辺りを旧道が通っています。完全に街道を狙っています。

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こちらは白虎隊(士中二番隊)が露営していたと云う菰土山
この後、飯盛山での悲劇へと繋がっていくのです・・・。

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会津藩二十二士の墓
戦後、辺りにうち捨てられていた遺体は近隣の人々によって集められ、6人・16人とに分けて手厚く葬られました。

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戸ノ口原を振り返って・・・
磐梯山は頭が雲に隠れてしまいました。

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更に進むと・・・

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強清水に至ります。
二本松街道はこの先、滝沢峠を経て会津城下へと続きますが、車では越えられないので今回はここまで。

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滝沢峠北側の山から会津の街を見渡す。

母成峠を突破され、城下への新政府軍本隊の侵攻を許した会津には、方々から続々と新政府軍の後続部隊が迫り、戦局は泥沼の籠城戦へと移っていくのでした・・・。


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夜はこちらのお店で慰労&反省会。
怪我というアクシデントがあり、また母成峠や戸ノ口原では回り切れなかった遺構、すっかり忘れてスルーしてしまった場所(母成峠の東軍戦死者埋葬地)もあり、個人的には収穫と同時に反省も多い一日となりました。
いずれ必ず再訪したいと思います!

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2015年10月27日 (火)

大内宿~会津西街道を辿る

10月16~18日の3日間、母成峠の遺構踏査を主な目的とした会津~白河への旅に出かけました。
初日は東北自動車道を白河ICで下り、まずは会津西街道(会津では「下野街道」「南山道」とも)の宿場町・大内宿へ向かいます。

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大内宿南側の駐車場に車を停めて歩き始めると、早速イザベラ・バードが通って来たという道が迎えてくれました。

■イザベラ・バード
イギリスの女性旅行家。明治11年(1878)に来日し、同年6月から9月までの3ヶ月をかけて日光から会津を抜け、東北各地~北海道を旅していますが、この旅の途中で大内宿にも泊まっています。

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早速、大内宿のメインストリートへ・・・

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大内宿の町並み
中央を通るのは勿論、会津西街道です。

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脇本陣富屋

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大内宿の本陣は幕末頃までには衰退して現存していませんが、跡地に同じ会津西街道沿いの川島宿や糸沢宿の本陣を参考に復元されました。
現在は「町並み展示館」として営業しています。

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そしてこちらが、イザベラ・バードが泊った名主・阿部家美濃屋
幕末期には衰退した本陣に代わり、こちらの美濃屋が通行する大名の休憩宿にもなっていたようです。

私は大内村の農家に泊まった。この家は蚕部屋と郵便局運送所大名の宿所を一緒にした屋敷であった。 村は山にかこまれた美しい谷間の中にあった。
(イザベラ・バード「日本奥地紀行」)

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今でもマークが♪
200円で屋内も見学できます。

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イザベラ・バードの泊ったお部屋
こちらのお部屋の片隅に、予想もしなかったものが展示されていました・・・

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戊辰戦争で使用された砲弾
(右の薬莢は上海事変でのものだそうです)
現在は大内ダムになっている辺りから回収されたのだとか・・・確かに大内峠でも戦闘がありました。宿場は幸いにも戦火を免れましたが。

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こちらは・・・弓矢!?

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イザベラ・バードが書いているように、運送所を営んでいた当時の棟札の数々

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囲炉裏

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山間の宿場での人々の営みが感じられ、とてもいい体験になりました。

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ちょうどお昼時だったので、美濃屋の分家でお蕎麦を・・・

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大内宿といったら、やはりこれでょう!ねぎそば☆
葱でも意外とちゃんとすくえますし、薬味代わりにかじる葱も優しい味でした。
何よりもお蕎麦が美味しい♪

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腹ごなしに見晴台へ登り、定番の一枚☆

慶応4年(1868)4月23日の宇都宮城攻防戦で足を負傷した土方歳三は、島田魁や中島登らに伴われ、今市を経て会津西街道を北上し、怪我の療養のため会津へ向かっています。

(4月)廿六日会ノ領内田島陣屋ニ至ル、(中略)大内通リヨリ廿九日会津城下七日町清水屋ヱ着ス、
(島田魁「日記」)

その道中、ここ大内宿も経由していました。
また、旧幕府脱走軍の総督・大鳥圭介も同年7月、やはり会津へ向かう道中、大内宿に泊ったことをその手記「南柯紀行」に記しています。

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大内宿を抜け、北へと続く会津西街道
間違いなく、土方歳三や大鳥圭介らも通った道

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街道沿いには櫻木姫のお墓もありました。
治承4年(1180)、全国の源氏に平家追討の令旨を発し、自らも源頼政と共に挙兵した以仁王。
しかし挙兵は失敗に終わって以仁王は討たれますが、大内には以仁王が密かに都を脱して大内に数日間滞在し、越後を目指して旅立っていったという伝説が残されているのだそうです。
櫻木姫はその以仁王を慕って大内まで辿り着きますが、長旅の疲れで力尽き、18歳の若さで世を去ったと伝えられています。

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更に北へと伸びる会津西街道
しかし現在では、写真右奥に見えているダム(大内ダム)に分断され、街道はその湖底に沈んでしまいました。

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宿場に戻って・・・

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この後は車でダムの北側まで移動し、会津西街道の旧道を辿ります。

地図
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大内宿を北へ抜けた会津西街道は、先ほども触れたように一旦大内ダムに分断されます(地図点線部分)が、ダム湖の先から再び続いて、その痕跡を留めているのです。

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ダム湖畔の駐車スペースに車を置き、あちらの紅白のポールが立っている場所へ行くと・・・

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こうして会津西街道の山道がしっかり残っていました。
まずは大内の一里塚を目指します。

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歩き始めてすぐの地点で後ろを振り返ると・・・
街道脇(写真左)に気になるスペースがありました。藪に覆われていますが、じっくり調べてみると土塁らしきものに囲まれています。
街道の見張り所のようなものかもしれませんが、今はダムの湖底に沈む鞍部から大内峠に差し掛かる戦略的要地でもあり、実際に先ほどの砲弾も見つかっていることから、或いは戊辰戦争時の遺構かも・・・などと思いを巡らせました。

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江戸期には、ここを多くの人々が行き交っていたのですねぇ・・・会津のお殿様も。

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振り返ると大内ダム。その向こう(左奥)に大内宿があります。

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切通し状の旧道
しばらく歩いているうち、旧道上に熊の落し物が置かれているのに気づいてしまいました。それも点々と三ヶ所も・・・完全に旧道が熊の通り道にもなっているようですね・・・。
これはさすがに引き返すべきかとも思いましたが、せめて一里塚だけでも見ておきたいと思い、慎重に歩を進めました。

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ダム湖畔の車道から4~500mも歩いたでしょうか・・・ようやく開けた場所が見えてきました。

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大内一里塚
全国的にも珍しく、街道を挟んで対で残っています。

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一里塚の先にも街道は続きます。

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その先には復元された峠の茶屋がある筈なのですが、熊の落し物に挫かれた我々は、安全を優先して引き返すことにしました。

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一旦車に戻り、更に移動して次のポイントへ。

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旧街道の丁寧な案内板がありました。
会津西街道は、会津側から見ると下野(今市)へ向かう道、になりますので「下野街道」と呼ばれます。

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会津西街道、氷玉峠に残る…三郡境の塚
現在でも会津若松市・会津美里町・下郷町の境界に当たるそうです。大内宿からは約一里の地点。

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この辺りの旧道もいい風情です。

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会津西街道に残る石畳

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この先も街道は、会津へ向けて続いていきます。
我々は車で移動しますが、その道中も地図と照らし合わせながら、会津西街道の旧道をなぞるようにして会津若松へと向かいました。
山から下りるとその殆どは舗装されていますが、しっかり残っていますよ♪

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会津若松のホテルに着いて、少し周辺を散策…大町四辻
白河・二本松・米沢・越後、そして会津西街道・・・これら会津五街道の起点です。

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古い道路元標も建っていました。

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会津西街道を運ばれてきた土方歳三が療養した七日町清水屋旅館
我々も途中からですが同じルートを辿って来ただけに、感慨も一入です。

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阿弥陀寺に残る、鶴ヶ城から移築された御三階

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当然、藤田五郎(斎藤一)さんにもご挨拶。

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同じく、阿弥陀寺に眠る黒河内伝五郎のお墓

勿論、東軍墓地にもお参りさせていただきました。

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阿弥陀寺から少し南へ進み…長命寺へ。
戊辰戦争時の銃弾が残る土塀・・・の復元。

こちらでも「戦死墓」の東軍墓地にお参りさせていただきました。

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道すがら、何かの発掘調査現場にも行きあいました。

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最後に…鶴ヶ城天守、紅葉のライトアップ♪

この後はホテル近くの居酒屋で一杯☆
翌日は母成峠~戸ノ口原の古戦場へ向かいます。

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2015年10月23日 (金)

長篠設楽原古戦場めぐり

五月十四日、岡崎に至りて御着陣。次の日、御逗留。十六日、牛窪の城に御泊り。
※信長公記 巻八「三州長篠御合戦の事」より抜粋。以下、特に注記ない場合は同様。

天正3年(1575)5月、長篠城を武田勝頼の軍勢に包囲された徳川家康は、同盟関係にある織田信長に援軍を要請しました。
家康の援軍要請を受けた信長は岐阜城を発し、岡崎城を経由して5月16日に伊那街道沿いの牛久保城へ入ります。

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牛久保城古絵図

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牛久保駅近くに建つ牛久保城址の碑
現在では宅地化も進み、殆ど城の痕跡を留めてはいませんが、駅の周辺一帯が本丸だったものと推定されています。
きっと信長も長篠へ向かう前、この付近に泊ったことでしょう。

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周辺には「城跡」や、

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「城下」といった地名が残されています。
また、電柱の奥を見ていただくと地形が上がっているのがお分かりになるかと思います。これも城が築かれていた段丘の名残、つまり、この坂の上が牛久保城域となります。

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牛久保駅の西に鎮座する熊野神社

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熊野神社前を横切る線路の向こう、森の中に気になる地形が見えています・・・

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これはどう見ても堀跡でしょう?

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位置関係や周辺の地勢から、古絵図部分の堀跡と思われます。

古絵図では熊野権現は完全に城域外となりますが、この神社前の森は先ほどの「城跡」交差点の角に位置していますし、これはフォロワーさんからご指摘いただいたのですが、同じく古絵図にある上善寺との位置関係からしても、古絵図に描かれた熊野権現はもっと南西の別の場所にあり、熊野神社前の森にあったものはやはり堀跡だと考えられます。

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ところで、こちらも古絵図に載っていますが、牛久保城跡には大聖寺というお寺があります。

永禄3年(1560)5月19日、桶狭間の戦いで織田信長に敗れて討死した今川義元。
当然その首は織田軍にとられますが、胴は家臣が背負って牛久保まで逃れ、こちらのお寺に葬ったと云われています。

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今川義元胴塚
義元嫡子の氏真は、実際に大聖寺で義元の三回忌法要を営んでいます。

桶狭間で明暗分かれた織田信長と今川義元。
奇しくもその15年後のほぼ同じ時期、この牛久保の地でニアミスしていたのですね・・・或いは信長は、義元の墓前に詣でたりしたのでしょうか。
※織田信長は長篠設楽原の戦い2ヶ月前の天正3年3月には、京の相国寺にて出仕してきた今川氏真と対面し、蹴鞠を披露させています。偶然は重なるものですね。

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同じく大聖寺に建つ一色刑部少輔時家のお墓
彼は足利一門で、この地に最初に城郭を築いた人物と云われています。

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古戦場周辺図(以下:周辺図)A
※織田・徳川連合軍が布陣した南北に連なる台地のうち、家康が布陣した南端部分のみを「弾正山」と呼ぶのかもしれませんが、本記事では便宜上、台地全体を「弾正山」として記載させていただきます。

十七日、野田原に野陣を懸けさせられ、十八日推し詰め、志多羅の郷、極楽寺山に御陣を据ゑられ、菅九郎、新御堂山に御陣取り。


牛久保城から伊那街道伝いに野田を経由した信長は5月18日、いよいよ武田軍が包囲する長篠城の南西5㎞地点にある極楽寺山に着陣します。(周辺図A、

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極楽寺山のすぐ南に建つ平井神社

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平井神社は極楽寺山に着陣した信長の旗本陣跡とされ、それを示す石碑も建っていました。

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そして平井神社背後の・・・極楽寺山
織田信長着陣地

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こちらは信長の嫡男・信忠が着陣した新御堂山
武田軍の包囲する長篠城に対し、信長本陣(極楽寺山)の前面に位置しています。(周辺図A、

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こちらにも石碑がありました。

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新御堂山、織田信忠本陣跡

代ゝをへん 松風さゆる 宮居哉
信忠はこの時、この句を社殿の羽目板に書き残しているそうですが…今はどこに保管されているのでしょう?是非拝見してみたいものです。

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新御堂山麓から北東~東方向の眺め。
左に信長が戦地本陣を置く茶臼山、右は織田・徳川連合軍が布陣する弾正山(断上山とも。信長公記では「高松山」)
※なお、信長本陣の極楽寺山から主戦場となる設楽原(信長公記では「あるみ原」)方面は、北より迫る山塊の影になって見通すことができませんでした…これも作戦のうちか。

極楽寺山~新御堂山を訪れたのは旅の2日目(10月11日)、前記事でご紹介した知多方面から戻った夕暮れ迫る時間帯。
本格的な古戦場踏査を翌日に控え、雨上がりの夕暮れが否が応にも決戦前夜の雰囲気を醸し出してくれました。


そして旅の最終日(10月12日)
この日はいよいよ長篠設楽原古戦場を、主に織田軍の視点でじっくりとめぐります。
まず最初に目指したのは、織田信長が決戦時の本陣を置いたとされる茶臼山!

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…のはずでしたが、通りすがりにこちらの看板が目に入り、ちょっと寄り道(笑)
徳川家康の嫡男・信康の本陣跡です。(周辺図A、

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どことなく雰囲気のある石段

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石段を登り切った先は綺麗に削平され、やはり小さな社殿がありましたが、決戦地を望む東面には土塁らしき土盛りや・・・

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切岸と、その下に犬走り状の細い削平地も見受けられました。

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更に、社殿の奥にも広い削平地が。
拝殿や本殿の裏にあたり、神社のためのスペースとも考えづらいし・・・或いはこの辺りが本陣だったのでしょうか。

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信康本陣跡から真東の方角には、父・家康が本陣を置いた弾正山の南端が見えています。

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織田信長戦地本陣…茶臼山(周辺図A、

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茶臼山の背後には新東名高速道路の長篠設楽原PAが建設され、すっかり様相が変わってしまっています・・・。
しかもこの日は、開通前記念の一環として高速道路ウォーキングイベントも開催されており、設楽原一帯に多くの人・車が集まっていました。

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さ、気を取り直して…我々はこちらから茶臼山へアタック開始!

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登山道を20分ほども登ったでしょうか…茶臼山頂上、織田信長戦地本陣跡に到着。

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織田信長歌碑
きつねなく 声もうれしく きこゆなり 松風清き 茶臼山かね

出典や根拠はよく分かりませんが…新御堂山の社殿に残されていた信忠の句にも「松風」が詠み込まれていました。
この辺りはやはり親子、といったところでしょうか。

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本陣虎口の土塁
数十年前から存在を確認されていた、れっきとした戦国遺構です。

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虎口から本陣内を覗き見ると・・・

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広めの削平地と、右手に櫓台があります。

今度間近く寄り合せ侯事、天の与ふる所に侯間、悉く討ち果たさるべきの旨、信長御案を廻らせられ、御身方一人も破損せず侯様に、御賢意を加へらる。

決戦前、織田信長はここから戦場を見渡し、作戦を立案して配下の将へ指示を下していたことでしょう。
或いは酒井忠次に、自らの馬廻鉄砲衆500を添えて南の山中を迂回させ、武田軍の長篠城包囲拠点の一つ・鳶の巣山砦へ向かわせる決定を下したのも、ここでのことか。

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反対に、虎口から外を見ると・・・
高速が開通すると、PAから簡単に本陣跡に来れるようになるみたいです。

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本陣虎口に繋がる古道も、PAから下る新しい階段に分断されていました・・・。
お願いだから、これ以上はもう壊さないでください。

茶臼山を下り、少し前線へ出てみます。

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織田・徳川連合軍が布陣した弾正山北端、その西麓に鎮座する石座神社(周辺図A、
相当に古い由緒のある神社で、決戦前には織田信長・徳川家康も戦勝祈願したことが伝えられています。

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石座神社の神馬
足元を見てみると・・・

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草鞋を履いていました。
現在では蹄鉄を打ちますが、当時はこうして馬の蹄を守っていたのですね。

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石座神社前から弾正山の尾根筋(南方向)を見る。

志多羅の郷は、一段地形くぼき所に侯。敵がたへ見えざる様に、段ゝに御人数三万ばかり立て置かる。

「信長公記」には信長が、武田軍から見えないように弾正山背後の窪地に兵を配置した様子が記録されています。大軍勢を隠し、武田軍の油断を狙ったか・・・
まさにここが、敵がたへ見えざる様に、段ゝに御人数三万ばかり立て置かれた場所でしょう。

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次は大宮前激戦地と呼ばれるポイントへ。
正面奥に見えているのは、真田信綱・昌輝兄弟が陣取った丸山(周辺図A、
手前は今でこそ道路に分断されていますが、織田軍の主力鉄砲隊らが布陣した弾正山です。戦場の北端付近に位置します。

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長篠合戦図屏風に見る丸山と大宮前激戦地の様子
丸山から攻め掛かる真田兄弟の対面には、前田・佐々・塙らの織田鉄砲隊が描かれています。

同行のサイガさんによると、彼ら織田鉄砲隊が布陣した辺りの弾正山中腹に「凄いものが残っている」というので、まずは藪を掻き分けてそちらを目指します。

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その「凄いもの」…弾正山中腹、丸山と対峙する位置に築かれた織田軍の胸壁ライン。
胸壁の前(武田側に面した東側)は切岸になっています。

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分かり易いよう、サイガさんに鉄砲(木の枝)を構えていただきました(笑)

関東衆、馬上の功者にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓を打ちて、懸かり来たる。人数を備へ侯。身がくしとして、鉄炮にて待ち請け、うたせられ侯

迫り来る武田軍(ここでは真田勢)に対し、織田軍は馬防柵(馬防ぎの為、柵を付けさせられ)に加え、こうした身がくしの陣地を構築して鉄砲で待ち受け、次々と討ち果たしていきました。

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胸壁下の切岸
切岸下にも土塁のようなものがありました。或いは二段構えの胸壁ラインが築かれていたのかもしれません。

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胸壁ラインが築かれていた弾正山北端付近
ここで鉄砲隊の指揮を執っていたのは・・・前田利家あたりか。

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連吾川を挟んで対峙するは、丸山に布陣した真田兄弟。
写真は織田軍陣地の麓から丸山を撮っています。いかに至近距離だったかがお分かりいただけるかと思います。

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弾正山北端。この部分には本来、谷戸が食い込んでおり、武田軍の進撃を食い止めるための土塁が築かれていたそうです。
今や見る影もなく・・・

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丸山の山頂にて
先 佐久間信盛、後 馬場信房 陣地
とあり、現地説明板にも初めに織田方の佐久間信盛が丸山に布陣したが、後に武田方の馬場信房が奪い取った、と書かれていました。が、「信長公記」に;

御敵入れ替へ侯へども、御人数一首も御出でなく、鉄炮ばかりを相加へ、足軽にて会釈、ねり倒され、人数をうたせ、引き入るなり。

と書かれている通り織田軍は、武田勢が向かってきているうちは馬防柵や胸壁で構築された陣地から出ることなく戦っています。
これは当然、信長の作戦・命令であり、そのような中で丸山のようなポツーンと前線に突出した場所に、織田方の将兵が布陣する理由もメリットもありません。
そもそも丸山に佐久間が布陣したら、後方の織田鉄砲隊が鉄砲を使いづらくなるじゃないww

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丸山から見る織田軍陣地
左に橋が写っていますが、その下を流れるのが連吾川です。

また、この付近からは上州沼田産矢立硯が発見されているそうです。
…真田兄弟に率いられた上州武者がこの地で戦い、力尽きていったことを物語っているかのようです。

やはり合戦図屏風に描かれた通り、丸山に布陣していたのは真田兄弟だったのでしょう。

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設楽原北方から眺める古戦場
左:武田軍(信玄台地)、右:織田・徳川連合軍(弾正山
連合軍は手前に織田、奥(南)に徳川が布陣していました。

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ところで、大宮前激戦地の近くには
高森恵光寺快川
なる人物のお墓がありました。
現地説明板に「武田方の謎の武将」と書かれていましたが、「信長公記」には討ち捕る頸の見知る分、として山県三郎兵衛、さなだ源太左衛門、馬場美濃守らと共に、恵光寺と挙げられていました。
太田牛一が見知ると書いているので、記録は乏しくとも当時は名の通った人物だったのでしょう。

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観光用?に復元された馬防柵

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実際はこんな感じで柵が築かれていたのではないか、という一つの説として。

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この馬防柵、兵が追撃に移る際の攻口の作り方を、織田と徳川でちゃんと変えてあります。
上写真は北側の織田軍のもので・・・

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こちらが南側の徳川軍のもの。
織田軍のは馬防柵を斜めにずらしながら立てているのに対し、徳川軍のは敵に対して平行に立てた馬防柵を、前後で喰い違いに組んでいます。

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これは、長篠合戦図屏風の描写を参考に復元されたそうです。
確かに違いますね。

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馬防柵の後ろ、弾正山の斜面には犬走りのような細い削平地が水平に通っていました。

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きっとここにも、織田の鉄砲隊が銃を構えていたのでしょう。

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そのまま弾正山を南に移動し、徳川家康が布陣した辺りを目指します。

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徳川家康物見塚(周辺図A、
家康が陣頭指揮を執った場所と伝わります。

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物見塚の碑は弾正山南端の中腹に置かれていましたが、家康が実際に立った場所は弾正山上に築かれた「断上山古墳」のピーク上だったと思われます。

信長は、家康陣所に高松山とて小高き山御座侯に取り上られ、敵の働きを御覧じ、

そして戦闘に入ると信長もまた、家康の陣所に来て共に観戦しました。

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家康物見塚からの眺め
眼下に広がるのは、徳川勢と山県昌景の軍勢が激突した竹広激戦地(周辺図A、)。対面の丘(信玄台地)の中腹に山県の陣所がありました。
家康ばかりか、織田信長もこの光景を見ていたのですね。

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物見塚の真裏、弾正山西麓へ降りると家康の本陣跡もあります。
戦場からは完全に死角となり、後方陣地といったところでしょう。

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ところで長篠合戦図屏風には、弾正山南端から更に南、豊川(のりもと川)の辺りまで馬防柵が築かれていた様子も描かれています。(部分)

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弾正山南麓から南の方向を見た様子
ほぼこの道路に沿うように、その防衛線は築かれていたものと思われます。

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竹広激戦地
この後は山県昌景の陣跡に向かいます。

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武田軍陣跡側から弾正山を見た様子
麓に田圃があって分かりづらいですが、弾正山に向かって緩やかな上りが続いています。
連吾川を底部とした窪地で、攻めづらい地形だったことでしょう。

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山県昌景陣地跡

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山県の陣跡近くには彼の墓所もあります。

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山県昌景墓所から見る弾正山、徳川家康物見塚方面
この距離…きっと家康の馬印も視界に捉えていたことでしょう。

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あちらは小幡信貞の墓所

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柳田前激戦地
(周辺図A、

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柳田前激戦地に架かる柳田橋
そういえば、これまで見てきた大宮前、竹広、そして柳田前、いずれの激戦地にも橋が架けられていました。
きっと当時も連吾川を渡河しやすい地点だったのでしょう。それが激戦に繋がった・・・

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柳田前激戦地から見る馬防柵

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真田兄弟のお墓(周辺図A、
真田源太左衛門尉信綱
真田兵部丞昌輝

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脇には真田家臣らのお墓も。

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真田兄弟墓所の東側に広がる田園一帯の地名(字名)は「甲田」
文字通り、田圃から兜がたくさん出てきたのがその名の由来だとか・・・鳳来寺山方面へ敗走する武田軍将兵が、次々と討たれていく様子が目に浮かぶようです。

敗走する武田軍の中で殿を務め、織田軍の追撃を必死に食い止めたのは馬場美濃守信房(信春)でした。
我々も最後に、馬場美濃守が奮戦した地へ向かいます。

(武田軍将兵は)何れものきなされ候、但し馬場美濃守殿は、のきはのき給へ共、長篠橋場にて少し跡へ返し、高き所にあがり馬場美濃にて有ぞ、討て、おぼへにせよと尋常にことはり、敵四五人にて鑓をもつてつきおとすに、刀に手をかけず此歳六十二歳にて生害なるは、(以下略)
(甲陽軍鑑より抜粋)

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この地で壮絶な殿(しんがり)戦が繰り広げられたことを示す…橋詰殿戦場
「橋詰」の橋は当然、甲陽軍鑑に出てくる長篠橋場、寒狭川(豊川)の渡河点に架かっていたであろう橋のことです。

周辺図B
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が碑のある地点です。
川沿いの断崖上、鳳来寺道と呼ばれる道路沿いに建っているのですが、周辺の地勢を見渡しても、いまいちイメージが湧いてきません。こんな場所でどのように戦ったのだろう・・・?

ところが案内板をよ~く見てみると・・・
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ん?…この上?!
別の案内板にも「ここから右へ行った所にある道から登った上に~云々」とありましたので、兎にも角にも道路沿いに右へ行ってみると・・・

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確かにありました…「上」への道。
半信半疑で登り始めたのですが・・・

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なんと、明らかに旧道を思わせるものが山中に残っているではないですか!?

やはり現在の鳳来寺道(寒狭川沿いの車道)は急峻な断崖上にあり、当時はとても道を通せるような地勢ではなく、武田軍が鳳来寺山方面へ撤退するには、この山道を通るしかなかったものと考えられます。
そのルートは周辺図Bに書き入れた赤のラインになります。

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武田軍が敗走し、それを織田軍が追撃した山道・・・
殿を務める馬場美濃守の一隊は写真左の高き所にあがり、追撃する織田軍を待ち受けて防戦に努めたものと思われます。
その高き所に登ってみると・・・

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馬場美濃守討死之地碑がひっそりと建っていました・・・。

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その碑から足元の山道を見下ろした様子。山道の先は切り立った崖です。

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展開された殿戦のイメージ図
写真だけでは伝わりづらいかと思い、サイガさんにイラストを作成していただきました。
①馬場美濃守 ②武田軍 ③織田軍 ④両軍の負傷者 ⑤撤退する武田勝頼 ⑥寒狭川(豊川)

一人でも多くの味方将兵を逃がすため、必死の防戦が展開されたことでしょう。
その奮戦ぶりは、織田方の太田牛一にも;

中にも、馬場美濃守手前の働き、比類なし。

と讃えられています。

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武田軍の撤退方向へ下って行くと、山道はやがて寒狭川沿いに出ます。

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その先に見えている、あちらの滝近くに渡河地点(長篠橋場)があったようです。
「甲陽軍鑑」にも出てくるように、馬場美濃守はあちらから山の方へ少し跡へ返し、高き所にあがって織田軍を迎え撃ち、そして散っていった・・・。

或ひはへ逃げ上りて飢死、或ひはより落され、へ入り、水に溺れ、際限なく侯。

武田軍の撤退は最後まで混乱を極めました。
山、橋、そして川、、、「信長公記」の記述もまた、撤退戦がこの地で展開されたことを証明しているかのようです。

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付近には馬場美濃守信房の墓所もありました。(周辺図B、
(左は馬場彦五郎勝行)

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とても古そうな墓石もひっそりと・・・


武田四郎秘蔵の馬、小口にて、乗り損じたる、一段乗り心ち比類なき駿馬の由侯て、信長御厩に立て置かれ、三州の儀、仰せ付けられ、
五月廿五日、濃州岐阜に御帰陣。


完。

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2015年10月15日 (木)

源義朝 & 織田信孝 最期の地…野間

旅の2日目。
この日は本来、長篠・設楽原古戦場めぐりをする予定にしていましたが、朝からあいにくの雨。天気予報で雨雲の動きを確かめつつ、急遽3日目の予定と入れ替えることになりました。
という訳で、目指すは知多半島の先端…野間!

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野間の安養院
元々は野間大坊・大御堂寺の塔頭の一つで、明治になっていくつかの塔頭と合併して現在に至ります。
織田信長の三男・信孝最期の地としても知られています。

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天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が敗れると織田信孝も岐阜城を開城し、羽柴秀吉に降服します。
その身柄は野間大坊へと送られ、自害に追い込まれました。
安養院には今も、信孝自刃の間(但し説明板には「復元」とあり)と共に、切腹の際、信孝が自らの臓物をかき出して投げつけたと云う梅の掛け軸、切腹に用いた短刀(来国俊)も残されています。
※いずれも非公開

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こちらの蘇鉄は推定樹齢600年。多くの歴史を見て来たのですね…。

むかしより 主をうつみの 野間なれば 報いをまてや 羽柴ちくぜん

うつみは「討つ身」と共に「内海」(野間周辺の地名)にも掛けられています。
秀吉への憎しみ、恨みがこれでもか!と込められた辞世ですね・・・。

なおむかしよりとは、平治の乱(平治元年/1159)に敗れて関東へ逃れる途中、野間に潜伏していた源義朝が、この地を治める家臣の長田忠致・景致父子の裏切りに遭って討たれた故事になぞらえています。


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続いて隣接する野間大坊・大御堂寺へ。
大門は建久元年(1190)、源義朝の法要の際に頼朝によって創建されました。

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大御堂寺には源義朝の廟所があります。

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義朝は入浴中に長田父子の襲撃を受けて落命しますが、その最期に、
我れに木太刀の一本なりともあれば・・・
と、無念の思いを漏らしたと云われています。
この故事に倣い、いつの頃からか人々は、義朝の墓前に木太刀を供えて供養するようになりました。

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境内には、義朝の首を洗ったと伝わる…血の池も。
今でも国に変事があると赤く染まるとも…であれば、まさに今こそ赤く染まって然るべき?!

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そして、義朝の廟所には織田信孝も眠ります。

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更には池禅尼の供養塔も。
平清盛の継母で平治の乱の後、捕らわれた源頼朝(義朝嫡子)の命を助けるよう、清盛に嘆願したことでも知られます。
この時の恩を忘れなかった頼朝によって建てられました。

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こちらは鎌田政家(政清)夫妻のお墓
政家は義朝の郎党で共にこの地へ逃れてきましたが、義朝暗殺時に同じく長田父子の手にかかって最期を遂げました。
皮肉なことに政家の妻は長田忠致の娘でした。政家の死を知ると、彼女も自害して果てたと伝えられています。

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大御堂寺本堂
幾度かの火災を経て、宝暦4年(1754)に再建されました。

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鐘楼堂
こちらの梵鐘には建長2年(1250)の銘があり、尾張最古のものとして国の重要文化財に指定されています。

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平野康頼供養塔
尾張国司を務めた人物で、荒れていた義朝の廟所を整備したことで後の源氏子孫から感謝され、供養塔が建てられました。

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客殿
こちらは寛永年間に、桃山の伏見城から移築されたものとか…!

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大御堂寺から200mほど東に、義朝も滞在した長田屋敷跡があります。

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その長田屋敷跡の向かいには・・・

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磔の松
天下を掌中に収めた頼朝は上洛の途中に野間へ立ち寄り、「平家追討の恩賞に美濃・尾張を与える」と言って長田父子を呼び出し、父・義朝の仇をこの松に磔にしたと云われています。

ながらえし 命ばかりは 壹岐守 美濃尾張をば いまぞたまはり

長田(忠致?)の辞世です。言うまでもなく、実際に賜ったのは美濃尾張ではなく「身の終わり」でした・・・。

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自らの屋敷を見下ろしながら、身の終わりに何を思ったか。

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長田屋敷跡・磔の松から東へ1㎞…法山寺

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法山寺は、かの行基菩薩が薬師堂と浴室(湯殿)を建てたのが始まりとされます。

平治2年(1160)、長田屋敷に滞在していた義朝は、長田忠致に正月三ヶ日の初湯に誘われ、湯浴みしているところを襲われました。

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源義朝最期の地、湯殿跡

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義朝は、家臣の渋谷金王丸が離れた隙を襲われたと云います。

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法山寺山門前…乱橋
この付近で、義朝暗殺の急を聞いて駆けつけた渋谷金王丸ら義朝の郎党と、長田の家臣らとの間で乱戦になったため、乱橋の名がついたと云います。

ちなみに現在、東京の渋谷城跡に建っているのは金王八幡…きっと深い所縁があることでしょう。


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さて野間での史跡巡りを終え、お昼は豊浜魚ひろばで海鮮丼♪

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ところで豊浜漁港の近くには大石様なる、その名の通り大きな石が鎮座していました。
なんでも石質や矢穴の大きさなどから、名古屋城築城の際、石垣用の石材として運ばれたものではないかと考えられているようです。
運搬途中に落としてしまい、落ちた石は落城に繋がる、としてそのまま放置されたのでは…と。

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ドライブ移動の途中で…すっかり秋ですねぇ♪

この後は牛久保城跡や設楽原へ向かいましたが、それらは長篠・設楽原古戦場めぐりの記事にまとめさせていただきます。


夜はこの日も豊橋で懇親会☆
1次会の居酒屋の後はラーメンで〆…たはずが、宿へ戻る途中に美味しそうな蛤のお店を見つけて・・・

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まさかの3次会突入(笑)
いやぁ~よく飲んだ!

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田原城・伊良湖試験場跡

2015年10月10~13日の2泊3日、長篠設楽原の古戦場めぐりを主目的としたオフで三河を訪れました。
初日の10日は豊橋から渥美半島を南下して、いくつかの史跡をめぐります。

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正午頃に豊橋で集合し、まずは名物の豊橋カレーうどんで腹拵え☆
うどんの下にはとろろ飯が埋まっていました(笑)


■田原城

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まず初めに訪れたのは田原城跡
田原城は中世~戦国期には戸田氏の居城でした。
…そう、今川家へ人質に出されるはずだった竹千代(家康)を、織田方へ引き渡した“あの”戸田氏です。
これを機に今川家の逆鱗に触れた戸田氏は没落しますが、一族は後に徳川家に仕え、宇都宮藩主などとして明治を迎えています。

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復元大手門
大手門の両脇には・・・

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袖池(右)と・・・

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桝池(左)

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二ノ丸櫓

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二ノ丸櫓は、こちらの写真を元に復元されたようです。

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二ノ丸から本丸へと続く土橋から見下ろす空堀(左)

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その堀底から
この空堀は幅といい深さといい、なかなかの規模です。

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同じく土橋右側の空堀

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本丸は現在、巴江神社の境内になっています。
標柱の文字は東郷平八郎の書。

かつては城の曲輪だったことを示すように、境内の周囲にはその痕跡が残されています。

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千本鳥居の外側にも・・・

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こうして土塁がしっかりと残っていました。

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二ノ丸西南の角
僅かに堀の痕跡が見て取れます。古城絵図で見ると、この辺りは空堀だったようです。

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城跡の西側を通るこちらの道路は水堀跡

ほんの立ち寄り程度の“軽い”城攻めでしたが、空堀など見所もあって楽しめました。


■陸軍技術本部伊良湖試験場跡

さて田原城の後は、田原街道(国道259号)を渥美半島先端方向へ向けて更に進みます。
目指すのは、旧日本陸軍が大砲の実験場として設けた伊良湖試験場跡です。

その途次、面白いものが残っているというので少し寄り道。

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先に地形図で確認しますが、田原街道沿いに土堤のようなものが築かれているのが分かるかと思います。
※田原市石神町付近

実はこれ、軍部が物資輸送などのために線路を敷設しようと築いたものらしいのです。

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その土提。交差点で分断されて断面も露わです。
写真は北東方向を見ていますが、土堤に沿って横を走る車道が徐々に上り坂になっているのが分かりますでしょうか?

線路を敷設するには当然、平らな場所でなければなりません。
そのため先ほどの地形図で見ると、南西側は自然地形の高みに合わせて繋げられ、反対の北東側は自然地形の緩やかな上昇に合わせて徐々に薄く(低く)なり、やがて消えていくように見えるのです。

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一部、石垣で固められている箇所も…。
藪で分かり辛かったですが、枡形のような痕跡もありました。

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人々の往来のためのトンネルも。

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確かに線路が敷かれそうな雰囲気がありますね。

なかなか面白いものが見れました…改めて先へ進みます。


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陸軍技術本部伊良湖試験場跡に到着…古い門柱が建っていました。
※田原市小中山町付近

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小中山児童公園には立哨台や・・・

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油脂庫跡の廃墟も残っていました。

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しかし圧巻はこちら…気象観測兼展望塔跡(昭和5年頃の築)
左の小さな建物は無線電信所跡。間を通る道の脇には当時、線路が通っていて無線電信所へ引き込まれていたようです。

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伊良湖試験場で実験された大砲の中には、戦艦大和や武蔵に搭載されたものと同型の砲もあったそうですが、それらから試験発射された砲弾の着弾地点を、この6階建ての塔から確認していました。

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そして、試験発射で照準を合わせていた標的は渥美半島の先端、伊良湖岬近くの山(地図)だったとのことです。
試験場からの距離、およそ7~8㎞か。ほぼ県道418号に沿って砲弾が飛来していたということになりますね。

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その照準の山
今も砲弾の残骸が残っていたりするのでしょうか…。

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気象観測兼展望塔1階部分

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よ~く見ると雨樋の痕跡も。

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無線電信所跡

個人的には普段あまり触れることのない、近代日本の戦争遺跡。
貴重な体験になりました。


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さて、夜は宿を取っている豊橋駅前に戻って懇親会♪…からの、サイガさんの部屋で長篠・設楽原古戦場勉強会でした。

2日目へつづきます。

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2015年10月 3日 (土)

浜川砲台跡、涙橋、etc…

京急立会川駅を東側へ出てすぐ、北浜川児童公園という小さな公園には・・・

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坂本龍馬の銅像が建っています。
立会川駅の西側一帯にはかつて、土佐藩の抱屋敷(鮫洲抱屋敷、品川下屋敷とも)がありました。現在の浜川中学校を含む一帯です。
※ちなみに「抱」とは幕府からの拝領ではなく、藩自らが買い入れ、または借用していた屋敷であることを指しています。

そして嘉永6年(1853)にペリー艦隊が来航すると、幕府は品川台場の築造に取り掛かりますが、土佐藩も幕府に砲台の築造を願い出て、翌嘉永7年に抱屋敷から旧東海道を挟んだ海岸に浜川砲台を築きます。
龍馬も一時期、浜川砲台での警備の任務に就いており、この銅像はそれを記念して建てられたそうです。
ちょうど龍馬が砲台警備に就いていた二十歳頃をイメージして作った、とのことですが、、、どうみても例の有名な肖像写真のポーズですよね、これ…。寄りかかっている台や履物は変えてあるけど(笑)
なおこちらの像には、高知桂浜の銅像を修復する際に出た金属片が溶かし込んであるそうです。

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旧東海道浜川橋(通称:涙橋)
1600年頃には既に橋が架けられていたと云います。(現在の橋は昭和9年の架け替え)
また、慶安4年(1651)には品川に鈴ヶ森刑場が設けられ、そこで処刑される罪人はこの橋を渡って江戸府内から護送されて行きました。
その時、罪人の親族らが見送りに来て、この橋で涙を流しながら別れを惜しんだことから、涙橋とも呼ばれるようになりました。

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立会川と涙橋
ここから立会川沿いに少し東へ進むと・・・

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件の浜川砲台跡に至ります。
砲台築造に使われていた石が展示されていました。

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浜川砲台跡
浜川砲台には8門の大砲が据えられていました。
警備にあたる藩士らは、抱屋敷に滞在して砲台へ通っていたと云いますので、立会川駅から龍馬像の建つ商店街の細い路地を抜け、立会川沿いに進む道が、坂本龍馬も歩いていた道ということになります。
今となっては埋め立てによって対岸にもビルが建ち並び、砲台を偲ばせるものは何も残っていませんが・・・。


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さて、次は少し足を伸ばして品川歴史館へ。

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品川宿のジオラマ展示などと共に、品川台場に関する展示もあります。

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こちらはなんと、発掘調査で明らかになった第五台場土塁断面標本です。

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今は埋め立てで埋没した第一、第五台場に関する資料

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歴史館前には、品川御殿山下台場跡から出土した築造石も展示されていました。

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最後に余談ですが…立会川駅へ戻る途中、駅南の諏訪神社がとても気になる地形をしていました・・・まるで砲台みたい。
まぁ、どの資料を見てもここが砲台だったという記録はありませんが…(^_^;)

※品川台場については、コチラ の記事もご参照ください。
※品川宿に関してはコチラ も。

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