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2015年10月15日 (木)

源義朝 & 織田信孝 最期の地…野間

旅の2日目。
この日は本来、長篠・設楽原古戦場めぐりをする予定にしていましたが、朝からあいにくの雨。天気予報で雨雲の動きを確かめつつ、急遽3日目の予定と入れ替えることになりました。
という訳で、目指すは知多半島の先端…野間!

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野間の安養院
元々は野間大坊・大御堂寺の塔頭の一つで、明治になっていくつかの塔頭と合併して現在に至ります。
織田信長の三男・信孝最期の地としても知られています。

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天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が敗れると織田信孝も岐阜城を開城し、羽柴秀吉に降服します。
その身柄は野間大坊へと送られ、自害に追い込まれました。
安養院には今も、信孝自刃の間(但し説明板には「復元」とあり)と共に、切腹の際、信孝が自らの臓物をかき出して投げつけたと云う梅の掛け軸、切腹に用いた短刀(来国俊)も残されています。
※いずれも非公開

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こちらの蘇鉄は推定樹齢600年。多くの歴史を見て来たのですね…。

むかしより 主をうつみの 野間なれば 報いをまてや 羽柴ちくぜん

うつみは「討つ身」と共に「内海」(野間周辺の地名)にも掛けられています。
秀吉への憎しみ、恨みがこれでもか!と込められた辞世ですね・・・。

なおむかしよりとは、平治の乱(平治元年/1159)に敗れて関東へ逃れる途中、野間に潜伏していた源義朝が、この地を治める家臣の長田忠致・景致父子の裏切りに遭って討たれた故事になぞらえています。


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続いて隣接する野間大坊・大御堂寺へ。
大門は建久元年(1190)、源義朝の法要の際に頼朝によって創建されました。

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大御堂寺には源義朝の廟所があります。

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義朝は入浴中に長田父子の襲撃を受けて落命しますが、その最期に、
我れに木太刀の一本なりともあれば・・・
と、無念の思いを漏らしたと云われています。
この故事に倣い、いつの頃からか人々は、義朝の墓前に木太刀を供えて供養するようになりました。

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境内には、義朝の首を洗ったと伝わる…血の池も。
今でも国に変事があると赤く染まるとも…であれば、まさに今こそ赤く染まって然るべき?!

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そして、義朝の廟所には織田信孝も眠ります。

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更には池禅尼の供養塔も。
平清盛の継母で平治の乱の後、捕らわれた源頼朝(義朝嫡子)の命を助けるよう、清盛に嘆願したことでも知られます。
この時の恩を忘れなかった頼朝によって建てられました。

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こちらは鎌田政家(政清)夫妻のお墓
政家は義朝の郎党で共にこの地へ逃れてきましたが、義朝暗殺時に同じく長田父子の手にかかって最期を遂げました。
皮肉なことに政家の妻は長田忠致の娘でした。政家の死を知ると、彼女も自害して果てたと伝えられています。

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大御堂寺本堂
幾度かの火災を経て、宝暦4年(1754)に再建されました。

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鐘楼堂
こちらの梵鐘には建長2年(1250)の銘があり、尾張最古のものとして国の重要文化財に指定されています。

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平野康頼供養塔
尾張国司を務めた人物で、荒れていた義朝の廟所を整備したことで後の源氏子孫から感謝され、供養塔が建てられました。

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客殿
こちらは寛永年間に、桃山の伏見城から移築されたものとか…!

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大御堂寺から200mほど東に、義朝も滞在した長田屋敷跡があります。

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その長田屋敷跡の向かいには・・・

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磔の松
天下を掌中に収めた頼朝は上洛の途中に野間へ立ち寄り、「平家追討の恩賞に美濃・尾張を与える」と言って長田父子を呼び出し、父・義朝の仇をこの松に磔にしたと云われています。

ながらえし 命ばかりは 壹岐守 美濃尾張をば いまぞたまはり

長田(忠致?)の辞世です。言うまでもなく、実際に賜ったのは美濃尾張ではなく「身の終わり」でした・・・。

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自らの屋敷を見下ろしながら、身の終わりに何を思ったか。

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長田屋敷跡・磔の松から東へ1㎞…法山寺

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法山寺は、かの行基菩薩が薬師堂と浴室(湯殿)を建てたのが始まりとされます。

平治2年(1160)、長田屋敷に滞在していた義朝は、長田忠致に正月三ヶ日の初湯に誘われ、湯浴みしているところを襲われました。

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源義朝最期の地、湯殿跡

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義朝は、家臣の渋谷金王丸が離れた隙を襲われたと云います。

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法山寺山門前…乱橋
この付近で、義朝暗殺の急を聞いて駆けつけた渋谷金王丸ら義朝の郎党と、長田の家臣らとの間で乱戦になったため、乱橋の名がついたと云います。

ちなみに現在、東京の渋谷城跡に建っているのは金王八幡…きっと深い所縁があることでしょう。


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さて野間での史跡巡りを終え、お昼は豊浜魚ひろばで海鮮丼♪

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ところで豊浜漁港の近くには大石様なる、その名の通り大きな石が鎮座していました。
なんでも石質や矢穴の大きさなどから、名古屋城築城の際、石垣用の石材として運ばれたものではないかと考えられているようです。
運搬途中に落としてしまい、落ちた石は落城に繋がる、としてそのまま放置されたのでは…と。

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ドライブ移動の途中で…すっかり秋ですねぇ♪

この後は牛久保城跡や設楽原へ向かいましたが、それらは長篠・設楽原古戦場めぐりの記事にまとめさせていただきます。


夜はこの日も豊橋で懇親会☆
1次会の居酒屋の後はラーメンで〆…たはずが、宿へ戻る途中に美味しそうな蛤のお店を見つけて・・・

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まさかの3次会突入(笑)
いやぁ~よく飲んだ!

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