田原城・伊良湖試験場跡
2015年10月10~13日の2泊3日、長篠設楽原の古戦場めぐりを主目的としたオフで三河を訪れました。
初日の10日は豊橋から渥美半島を南下して、いくつかの史跡をめぐります。
正午頃に豊橋で集合し、まずは名物の豊橋カレーうどんで腹拵え☆
うどんの下にはとろろ飯が埋まっていました(笑)
■田原城
まず初めに訪れたのは田原城跡
田原城は中世~戦国期には戸田氏の居城でした。
…そう、今川家へ人質に出されるはずだった竹千代(家康)を、織田方へ引き渡した“あの”戸田氏です。
これを機に今川家の逆鱗に触れた戸田氏は没落しますが、一族は後に徳川家に仕え、宇都宮藩主などとして明治を迎えています。
復元大手門
大手門の両脇には・・・
袖池(右)と・・・
桝池(左)
二ノ丸櫓
二ノ丸櫓は、こちらの写真を元に復元されたようです。
二ノ丸から本丸へと続く土橋から見下ろす空堀(左)
その堀底から
この空堀は幅といい深さといい、なかなかの規模です。
同じく土橋右側の空堀
本丸は現在、巴江神社の境内になっています。
標柱の文字は東郷平八郎の書。
かつては城の曲輪だったことを示すように、境内の周囲にはその痕跡が残されています。
千本鳥居の外側にも・・・
こうして土塁がしっかりと残っていました。
二ノ丸西南の角
僅かに堀の痕跡が見て取れます。古城絵図で見ると、この辺りは空堀だったようです。
城跡の西側を通るこちらの道路は水堀跡
ほんの立ち寄り程度の“軽い”城攻めでしたが、空堀など見所もあって楽しめました。
■陸軍技術本部伊良湖試験場跡
さて田原城の後は、田原街道(国道259号)を渥美半島先端方向へ向けて更に進みます。
目指すのは、旧日本陸軍が大砲の実験場として設けた伊良湖試験場跡です。
その途次、面白いものが残っているというので少し寄り道。
先に地形図で確認しますが、田原街道沿いに土堤のようなものが築かれているのが分かるかと思います。
※田原市石神町付近
実はこれ、軍部が物資輸送などのために線路を敷設しようと築いたものらしいのです。
その土提。交差点で分断されて断面も露わです。
写真は北東方向を見ていますが、土堤に沿って横を走る車道が徐々に上り坂になっているのが分かりますでしょうか?
線路を敷設するには当然、平らな場所でなければなりません。
そのため先ほどの地形図で見ると、南西側は自然地形の高みに合わせて繋げられ、反対の北東側は自然地形の緩やかな上昇に合わせて徐々に薄く(低く)なり、やがて消えていくように見えるのです。
一部、石垣で固められている箇所も…。
藪で分かり辛かったですが、枡形のような痕跡もありました。
人々の往来のためのトンネルも。
確かに線路が敷かれそうな雰囲気がありますね。
なかなか面白いものが見れました…改めて先へ進みます。
陸軍技術本部伊良湖試験場跡に到着…古い門柱が建っていました。
※田原市小中山町付近
小中山児童公園には立哨台や・・・
油脂庫跡の廃墟も残っていました。
しかし圧巻はこちら…気象観測兼展望塔跡(昭和5年頃の築)
左の小さな建物は無線電信所跡。間を通る道の脇には当時、線路が通っていて無線電信所へ引き込まれていたようです。
伊良湖試験場で実験された大砲の中には、戦艦大和や武蔵に搭載されたものと同型の砲もあったそうですが、それらから試験発射された砲弾の着弾地点を、この6階建ての塔から確認していました。
そして、試験発射で照準を合わせていた標的は渥美半島の先端、伊良湖岬近くの山(地図⇒)だったとのことです。
試験場からの距離、およそ7~8㎞か。ほぼ県道418号に沿って砲弾が飛来していたということになりますね。
その照準の山
今も砲弾の残骸が残っていたりするのでしょうか…。
気象観測兼展望塔1階部分
よ~く見ると雨樋の痕跡も。
無線電信所跡
個人的には普段あまり触れることのない、近代日本の戦争遺跡。
貴重な体験になりました。
さて、夜は宿を取っている豊橋駅前に戻って懇親会♪…からの、サイガさんの部屋で長篠・設楽原古戦場勉強会でした。
2日目へつづきます。
初日の10日は豊橋から渥美半島を南下して、いくつかの史跡をめぐります。
正午頃に豊橋で集合し、まずは名物の豊橋カレーうどんで腹拵え☆
うどんの下にはとろろ飯が埋まっていました(笑)
■田原城
まず初めに訪れたのは田原城跡
田原城は中世~戦国期には戸田氏の居城でした。
…そう、今川家へ人質に出されるはずだった竹千代(家康)を、織田方へ引き渡した“あの”戸田氏です。
これを機に今川家の逆鱗に触れた戸田氏は没落しますが、一族は後に徳川家に仕え、宇都宮藩主などとして明治を迎えています。
復元大手門
大手門の両脇には・・・
袖池(右)と・・・
桝池(左)
二ノ丸櫓
二ノ丸櫓は、こちらの写真を元に復元されたようです。
二ノ丸から本丸へと続く土橋から見下ろす空堀(左)
その堀底から
この空堀は幅といい深さといい、なかなかの規模です。
同じく土橋右側の空堀
本丸は現在、巴江神社の境内になっています。
標柱の文字は東郷平八郎の書。
かつては城の曲輪だったことを示すように、境内の周囲にはその痕跡が残されています。
千本鳥居の外側にも・・・
こうして土塁がしっかりと残っていました。
二ノ丸西南の角
僅かに堀の痕跡が見て取れます。古城絵図で見ると、この辺りは空堀だったようです。
城跡の西側を通るこちらの道路は水堀跡
ほんの立ち寄り程度の“軽い”城攻めでしたが、空堀など見所もあって楽しめました。
■陸軍技術本部伊良湖試験場跡
さて田原城の後は、田原街道(国道259号)を渥美半島先端方向へ向けて更に進みます。
目指すのは、旧日本陸軍が大砲の実験場として設けた伊良湖試験場跡です。
その途次、面白いものが残っているというので少し寄り道。
先に地形図で確認しますが、田原街道沿いに土堤のようなものが築かれているのが分かるかと思います。
※田原市石神町付近
実はこれ、軍部が物資輸送などのために線路を敷設しようと築いたものらしいのです。
その土提。交差点で分断されて断面も露わです。
写真は北東方向を見ていますが、土堤に沿って横を走る車道が徐々に上り坂になっているのが分かりますでしょうか?
線路を敷設するには当然、平らな場所でなければなりません。
そのため先ほどの地形図で見ると、南西側は自然地形の高みに合わせて繋げられ、反対の北東側は自然地形の緩やかな上昇に合わせて徐々に薄く(低く)なり、やがて消えていくように見えるのです。
一部、石垣で固められている箇所も…。
藪で分かり辛かったですが、枡形のような痕跡もありました。
人々の往来のためのトンネルも。
確かに線路が敷かれそうな雰囲気がありますね。
なかなか面白いものが見れました…改めて先へ進みます。
陸軍技術本部伊良湖試験場跡に到着…古い門柱が建っていました。
※田原市小中山町付近
小中山児童公園には立哨台や・・・
油脂庫跡の廃墟も残っていました。
しかし圧巻はこちら…気象観測兼展望塔跡(昭和5年頃の築)
左の小さな建物は無線電信所跡。間を通る道の脇には当時、線路が通っていて無線電信所へ引き込まれていたようです。
伊良湖試験場で実験された大砲の中には、戦艦大和や武蔵に搭載されたものと同型の砲もあったそうですが、それらから試験発射された砲弾の着弾地点を、この6階建ての塔から確認していました。
そして、試験発射で照準を合わせていた標的は渥美半島の先端、伊良湖岬近くの山(地図⇒)だったとのことです。
試験場からの距離、およそ7~8㎞か。ほぼ県道418号に沿って砲弾が飛来していたということになりますね。
その照準の山
今も砲弾の残骸が残っていたりするのでしょうか…。
気象観測兼展望塔1階部分
よ~く見ると雨樋の痕跡も。
無線電信所跡
個人的には普段あまり触れることのない、近代日本の戦争遺跡。
貴重な体験になりました。
さて、夜は宿を取っている豊橋駅前に戻って懇親会♪…からの、サイガさんの部屋で長篠・設楽原古戦場勉強会でした。
2日目へつづきます。
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